第2話

 八尋が手紙を出してから、ひと月が経とうとしていた。残暑も過ぎ、八尋神社では水気のある秋風が、昼の火照る身体を心地よく通り抜けていた。村へ下りれば、刈られた田畑が次の季節を待っている頃であろう。村人たちは、家に籠って農具の手入れをしたり、枝のせん定をしたりと、それぞれ農閑期を過ごしていた。一方、八尋神社の霊狐たちの様子はそれほど変化はなかった。

 変わったことがあったとすれば、つい十日前に八尋神社で例大祭があったことだ。村の収穫後、作物の整理や保存も一通り終わるころ、村人たちの多くが八尋神社に集まり、一年間の感謝をこめた例大祭が行われる。町屋などで行われる、いわゆるお祭りといった雰囲気とは違っていた。御神体である八尋に対して、村人たちが集まる前で雪村による祝詞をあげたり。霊狐による龍笛や太鼓の演奏をしたり。村人による神楽の舞台が行われていた。

 練習のかいあってか、龍笛の演奏には永助も舞台に上がっていた。とはいえ、大勢の前で披露した経験のない永助は、本番の前からガタガタだった。その様子を見た八尋は不安を抱えながらも見守っていたが、舞台にあがってからの永助は落ち着いていた。おそらく、舞台から知り合いの姿が見えたのであろう。目立った失敗もなく、永助は演奏し終えることができていた。演奏が終わって、少し表情が緩んでしまった永助を、隣にいた永明が正している場面もあったが、永助にとって大きな成功体験になったことには間違いないだろう。

 例大祭が終わってほどなく、夜中に五十五も遊びに来た。例大祭で祀られる『いかにも』といった八尋を見て、羨望の眼をしていた。いつかは、あそこにふたりで並べる。と八尋が話すと、五十五は、これまた分かりやすく、やる気に満ち溢れた表情をしていた。

 近頃、五十五が化けて八尋神社に潜り込んでいる姿も少なくなってきた。おそらく、『狐』として人助けをする頻度が増えたのであろう。前回、五十五と話した時よりも、五十五の表情は明るくなっていた。八尋は、あえて談話の手紙を送ったことを伏せていた。狐として生きていきたいと願う五十五とは逆に、狸として生きてほしいといった八尋の願いを、本人に突きつけることはないと思ったからだ。狐と狸の隔たりが無くなった世界になってから、どちらとして生きたいか聞けばいいことだ。

 

 八尋はこの日、いつも通りの仕事をこなし、自室でお守りを作っていた。普段、お守りは雪村が作っているのだが、雪村自身の仕事も増えつつある。そこで、八尋は少しでも雪村の負担を減らそうと、直々にお守りを作ることもあった。

八尋が机に向かって、筆を滑らせている中、ふと八尋の耳が動いた。

 「雪村か。なんだろうな」

 独り言をつぶやき、筆を置いて立ち上がった。服装を正しながら、拝殿へ向かってゆく。

 自室と本殿を隔てる戸を開くと、床板に正座している雪村の姿があった。

 「待たせたな。どうしたんだ?」

 八尋はたずねながら、雪村のもとへ歩み寄る。よいぞ。と言うと、雪村は立ち上がった。

 「八尋さま、お忙しいなか申し訳ございません。八尋さまへ文が届いております」

 雪村はそう話しつつ、懐から封書を取り出し、八尋へ差し出した。

 ついに来たか。と確信し、八尋は封書を受け取り、中を開いた。最初に署名へ目を向けると、まさしく領主の名前と、隣に見慣れない名前も書いてあった。領主からの手紙であることを確認し、八尋は頭に戻って黙読する。

―――八尋神社の祭神、八尋さまへ

 このたび、この地にはじめて文をいただき、嬉しく思います。

 そのうえ、この地と談話をもうけたいという話は、こちらも喜ばしいかぎりです。

 わたしとしても、ぜひ談話を開きたいと思います。

 この地の妖狸たちも、霊狐たちとの話がしたいと答えました。

 そなた方らが、この地に来られた際には、こちらの手形を門の者へお見せくださいませ。

 ご到着を、こころよくお待ちしております。

 平穏な旅となるよう、私からもお祈りしております。

 領主 久松道長

 妖狸 九頭


 封書には、領主の印が押されている証書が同封されてあった。

 八尋への返答として、これ以上にない返答だった。八尋は読み終わると、これからへの期待が膨らみ、明るい表情を見せた。八尋の様子を見て、雪村も息をついた。

 「そのご様子ですと、大変よい知らせなのでしょうね。私も安心しました」

 「ああ。いつでも来い、と言ってるぞ!もっと文でのやり取りを覚悟してたからな。このような返事は嬉しくてたまらないな!」

 八尋は子供のような笑顔で雪村に答えた。とはいえ、これからうまくいくかもしれないという期待が膨らんでいく八尋にとっては、嬉しい、という感情しか湧かなかった。

 八尋は雪村に手紙を渡し、目を通してもらう。

 「確かに。あちらの反応としてはよいものですね。あちらも機会を伺っていたのでしょうか」

 「狸は町屋にしかおらず、狐も村里にしかいないというのを、領主も疑問に思ってくれていたのか…?」

 「考えうる話ではあります。こちらはともかく、村の者は町屋へ商いをすることもあります。その時の、町民と村民との間にも、何かしらの違和感を領主さまは感じられていたのでしょう」

 八尋は顎に親指を添えて、少し考えていた。

 「数日後には、あちらに向かおうと思う。急で申し訳ないが、永明と連れのふたりを連れてきてくれ」

 雪村は、わかりました、と答え、社務所へと向かっていった。

 八尋は拝殿の段を上がり、中央であぐらをかいて待っていた。そして、これからについて黙々と考えていた。

 下顎を撫でるようにかきながら思考しているうちに、まもなく雪村たちが戻ってくる。


 拝殿の戸が開くと、雪村、永明に続き、青緑色の袴を着たふたりの霊狐が入ってくる。雪村たちは深々と礼をした後、八尋の下に正座した。

 「八尋さま、お待たせしました」

 雪村が話すと、八尋は頷き、続ける。

 「突然呼び出してすまないな。雪村、永明には話してあるが、数日後、ここの者たちで町屋へ行こうと思う。目的は、領主と町屋の狸たちを交えた談話だ」

 八尋が話すと、連れの霊狐は顔を合わせて驚いている様子だった。

 「取引や利を求めた話ではない。近頃、狐だ狸だという話が人々の中でも聞くことが増えているであろう。私はそのような隔たりを求めておらん」

 「そこで、当人の狐と狸とが縁を結ぶ事が出来れば、おのずと人々の思いも変わるのではないかと思い、今回の談話に至ったわけだ」

 連れの霊狐は真剣な眼差しで八尋を見ていた。

 「ひと月前に領主へ文を送った。その返事がさきほど着き、談話の機をもうける旨を貰った。こちらからは、今この場にいる者で参ろうと思う。数日後にはたてるよう、これから準備してもらいたい」

 八尋の話を聞いていた四人は、かしこまりました、と答えて深く礼をした。

 「なにか、聞きたいことがある者はおるか?」

 八尋が四人に問うと、連れのひとりが答えた。

 「あの。談話というのは、どのような事をお話になられるのでしょうか?」

 「そうだな…」

 八尋は顎に指を置いて、少し間を置いてから説明する。

 「それほど難しい話をしようとは思っておらん。ただ、関わりを持てることを望んでいる、という意志を伝えることを主とするつもりだ。突然、町屋に社を建てるだの、村里に狸が居座るだの、そういった話は混乱を招くだけであろうしな」

 「ただ、そういった未来もあるのではないか、という私の願いも話すつもりだ」

 霊狐、永明も含めた三人が、八尋の想いを初めて聞く。そして、それが喜ばしいことなのか、疑うべきことなのか、こんがらかった気持ちが混じった表情を浮かべていた。

 八尋は三人の様子を見て、言葉にする。

 「みなの気持ちも分かる。だが、歩み寄らねば変わらぬのものもあるのではなかろうか」

 顔をあげた雪村が、八尋を止めるように差した。

 「八尋さま」

 八尋は、雪村の言葉で語ることを止めた。八尋も口には出さなかったが、ここにいる者に対して、すまないといった気持ちを浮かべていた。

 雪村はフォローをするように、話を進めた。

 「では、すぐに準備いたします。しばらくここを空けることについては、ゆうげの前に霊狐たちへ伝えようと思います」

 「ああ、よろしく頼む」

 雪村は永明たちの方を向き、説明する。

 「町屋まではそれほど遠くありませんが、着くまでに三日ほどはかかると思います。それに慣れない土地でもありますので、用心に越した事はないでしょう。各自、準備物は社務所に置いてください。不備がないか、私が確認しておきます」

 雪村に続いて、八尋も区切りをつけて話す。

 「私からはこれだけだ。雪村、みなの者、よろしく頼む」

 八尋の言葉に、四人は礼をして、立ち上がった。

 「私は、ここを空けている間の霊狐たちへの指示書を作ってまいります。永明たちは今日の仕事を終えたら、準備に取り掛かってください」

 雪村は永明たちに話した。永明たちは、分かりました、と答える。

 返答を聞いた雪村は八尋に礼をして、社務所へ向かうように拝殿から出ていく。それに続いて、永明たちも同じく、それぞれの仕事場へと戻っていった。

 八尋は四人を見送った後、息をついて立ち上がる。自分も準備しなければと思い、本殿への戸を開けて自室へと戻っていった。

 部屋に戻った八尋は、戸を閉めて息をついた。一番落ち着かなければならないのは自分だということも自覚する。八尋も旅の準備をしなくてはならない。とはいえ、八尋の用意する荷物はほとんど無かった。替えの着物と、それに護身用の霊符が数枚あればいい。あまり荷物が多くなってしまっては、旅の邪魔になってしまうだろう。携行食については、雪村が用意すると話していた。八尋はあらかじめ用意してあった荷物の確認だけを行い、部屋の出入口へ置いた。明後日には出発できるだろう。

 八尋は、いよいよといった気持ちを落ち着かせ、出発の日を待った。


 「行ってらっしゃいませ!道中、お気をつけください!」

 早朝、境内の霊狐たちが神社の入り口に十数人集まり、八尋たちの見送りをしていた。

 「では、行って参る。しばらくの間、社を頼むぞ」

 八尋は霊狐たちを見渡すようにして話した。八尋は、隣に控えている雪村たち四人へ視線を移す。

 永明と連れの霊狐は、全員の荷物を入れた大きな包み箱を背負っている。八尋と雪村は三人と比べると軽装だが、ふたりも丸く膨らんだ風呂敷包みを肩から下げていた。

 秋風も冷たくなる時期で、一行は厚い羽織りを纏っていた。八尋のいつも着ている狩衣姿が、羽織りを纏うことでより大きく見えた。

 その中で、いつもの八尋とは違う、異質な物が身に付けられていた。八尋の左腰には、大きな日本刀が上に弧を向けて帯刀していた。

 「では参ろうか。おぬしらも、暫く供を頼むぞ」

 「未熟者ではありますが、よろしくおねがいします」

 連れの霊狐のひとりが、緊張した様子で八尋に返答する。その様子を見た八尋は、やや苦笑いを浮かべていた。

 町屋までは、それほど長い旅ではない。とはいえ、馬を走らせても二日はかかる距離はあった。それに、乗馬の経験は雪村しかもっておらず、徒歩で行くしかなかった。

 歩き始めてしばらく経つが、やはり誰も話をする者はいなかった。雪村は八尋とともに行動することも多く、普段と変わらない様子を見せていた。しかし、永明とその連れのふたりは八尋の側で仕事をした経験もないため、何か失礼なことは無いか、気にかけなければならないことは無いかといった緊張感が見られた。

 八尋や雪村が話を出し始めると、永明や連れの霊狐たちも次第に話に交わってきた。出発の時には、寒く朝日で白く照らされた道を歩いていたが、すでに日が昇り、その日の温かさが訪れていた。八尋たちも羽織りを脱いで、黄金色の尾を揺らしていた。

 雪村は、ふっくらとした尾を揺らす四人の姿を見て、ふふ、と笑った。

 不思議に思った八尋は、雪村に尋ねた。

 「なにか、おかしなことでもあったか?」

 「いえ、申し訳ございません。八尋さまと、永明たちを見てると、冬が近いことを実感してしまいまして」

 「それはどういう…」

 「ほら、冬が近づくとふさふさするじゃないですか。八尋さまのお身体が」

 「本当に失礼なやつだな…!」

 突然なにを言い出すのかと思い、八尋は声をあげる。振る舞いを大事にしろと言っている雪村が、野狐に対するようなことを口にしたのだ。

 「我らは飼い犬とは違うのだぞ。霊狐に対して、かわいいと愛でるとは失礼な!」

 普段から落ち着いた八尋しか見たことが無い永明たちは、やや子どもらしい反応を見て驚いているようだった。

 「八尋さま。あまり声をあげられると、幼な子のように見られてしますよ」

 雪村の言葉に、永明たちは目を大きくして雪村を見た。さすがに失礼が過ぎないか、と思ったのだろう。

 「そのことについては、社務所の霊狐から話を受けたことがあるんだぞ。普段、うつつをぬかすことのないお前のぼうっとした姿を見て、知らぬうちに、なにか霊術や霊気を出してしまっているのではないかとな」

 その様子をしばらく見ていた永明たちは、これまでの緊張がほどけたように、楽しげに笑っていた。

 「なんだか、八尋さまの意外な面を見たような気がします。いつも真面目で落ち着いた雰囲気をされておりますので」

 「こやつが私に対する敬意がなっておらぬだけだ」

 八尋は呆れたように溜息をつき、周りの景色に視線を移した。

 「霊狐たちに厳しく指導する一方で、どこか可愛がる所があるのが雪村の悪い癖だ。永助にも、からかうような言葉をかけておるだろう」

 永助に対する話を聞き、永明は思い当たる節があるようだ。

 「確かに、永助が雪村さまと村里へ降りたり、祈祷へ同行した日の永助は、どこか遊びにいったような、楽しげな口ぶりで私に話してました」

 八尋は、永助が楽しそうに永明の元へ話に行く姿が簡単に思い浮かんだ。ひと月前、文を届ける際にも、村里で甘食を食べさせて貰ったと永助は八尋にだけ教えに来ていた。

 「まったく。食事の風景を見て、子屋のようだとぼやいていたのは雪村であろうに。とうの本人が、子屋のような振る舞いをしては、なんの道理もないであろう」

 雪村は、そういえばそうでしたね、と簡単に認めていた。

 「私も、八尋さまのお考えに納得しただけですよ。しかしご安心ください。そのような振る舞いをするのは、永助のような幼な子だけですから」

 雪村は永明へ視線を合わせた。

 「永明には、これまでと同じように厳しくさせて頂きますので。それで八尋さまも納得いただけるでしょう」

 「私に対しても、もっと敬意を払ってもらえぬか?」 

  やや不機嫌そうに、八尋が雪村に口だす。

 「敬意もなにも。今も変わらず、お慕いしておりますよ。しかし、八尋さまとの昔からのことが今でも大切な思い出でもありまして…」

 「私はおぬしの子になった覚えはないぞ。まあ、常日頃から頭を低くせよとは、私も望んではおらぬが…」

 「それにしても、おぬしの私に対する祈祷は、他の者とは違った気質があってむず痒いところがあるぞ」

 村人や霊狐たちの祈祷からは、本心から敬う心があることを八尋には感じられる。しかし、雪村からは、言うならば「こんなに立派になって」といった親心のような想いも込められていた。八尋のいうむず痒いというのはそのせいだろう。

 「そういえば、八尋さまと雪村さまとのご縁はどのようなものだったのでしょうか?私も、少し気になっておりまして」

 後ろを歩く永明が、前を歩く八尋と雪村に話しかける。

 「そうだな、どこから話せばよいだろうか」

 その質問に対して、八尋は顎に指を置いて唸っていた。

 「私でよろしければ、お話いたしますが。いかがなさいましょうか」

 雪村が八尋に提案する。今までの流れから、八尋はやや警戒していた。さすがにこれ以上イメージを崩すような事は言わないだろうと思い、八尋は雪村に任せることにする。

 「八尋さまが社に来られたのは、まだ八尋さまが山の野狐だった頃でした。その頃は、八尋さまも私も言葉を交わすことができず、身振りや声色でやり取りをしていました」

 「野狐の頃から社にいらしたのですか!?私は霊狐となった八尋さまが、社に降りられたのかと思っておりました」

 永明は目を大きくしていた。確かに今まででも、野狐が社へ行き、信仰を集めて霊狐となるといった話はあまり聞いたことはない。

 「そうですね。人々の祈りとともに社をたて、祭神をお迎えすることが多くあります」

 「ですが、その地に生きる獣を祭神として祀ることも他でもあります。隣国では、美しく、力強い蛇を御神体として祀り、お迎えされたと聞いております」

 永明は、なるほど、と頷きながら雪村の話を聞いていた。連れの二人も、雪村の話を真面目に聞いているようだった。

 「八尋さまは毎日、厳しい修行に取り組まれておりました。そのようなお姿を見て、この地の村人たちも、八尋さまへの祈りを行う者が増えていきました」

 「八尋さまが霊狐となり、社の祭神となられるまで、私は常に八尋さまのお側へ居させていただいてました」

 雪村が当たりさわりのないよう説明すると、永明は八尋と雪村のふたりを見て話す。

 「私たちよりも、もっと以前からの縁をお持ちだったんですね」

 「なに。おぬしらも、これから長い縁となることであろう。雪村だけではなく、おぬしたちとも」

 八尋の言葉に永明は、はい、と強く答えた。

 「私はいつか終える命ですが、その時には永明たちに任せられるようになっていることでしょう。とはいえ、私もヒトの神職との縁も見つけなければなりませんが…」

 雪村がやや困ったように呟いた。八尋はやや呆れ気味に返答する。

 「まあ、ひとりのヒトと霊狐しかおらぬ社へ来よう者はなかなかおらぬだろう…。しかし、村人たちは変わらず来ておる。時が経てば、雪村のような者も必ず来る、安心せい」

 お互いに会話が弾むようになってきた。永明たちも、目に見える景色や、すれ違う旅人に対する話題をしていた。

 西日になり、風も冷たくなってきたころ。八尋たち一行は宿のある駅家へとたどり着いた。領内の城下へと続く、横幅の広い道を挟むように建物があった。休憩をとるための食事場と宿屋が並び、その対面の建物には、馬や馬具を置くための小屋がいくつもあった。

 八尋と雪村は宿泊の話をしようと、ふたりで宿屋に入っていく。のれんをくぐると、土床にやや段の高い木床が敷いてある、広めの玄関のような造りになっていた。あがった先には、宿帳を書きながら受け付けをしている主人であろう男性と、ひとりの女中が案内をしている姿があった。

 雪村は女中に話しかける。

 「すみません。八尋神社の神主をしております、雪村と申します。部屋をお借りしたいのですが、よろしいでしょうか」

 女中と主人は驚き、慌てて八尋と雪村の前へひれ伏す。

 「これは雪村さま、この度はお越しいただきありがとうございます!すぐお部屋をご用意いたしますので、こちらでお待ちくださいませ!」

 八尋はふたりの様子を見て、雪村に話しかける。

 「ずいぶんと慌ただしい者たちだな、旅籠はどこもこうなのであろうか…」

 雪村に話しかける八尋を見て、宿屋の主人は雪村に聞いた。

 「雪村さま、お連れ様はどのようなお方で…?」

 「はい。こちらにいらせられるお方は、八尋神社の御神体であられる、八尋さまにございます」

 宿屋の主人は、目を大きくして八尋を見て、申し訳ないといった様子でひれ伏した。

 「も、申し訳ございません!豊穣のおかたに対してなんて御無礼を!」

 「いや、気にすることでもない。それよりも、部屋の準備をしていただけぬか?まだ外に、三人ほど控えさせておってな。皆、長旅で疲れておるかもしれぬ」

 この調子では、部屋に腰を下ろす頃には日が暮れてしまうのではないか。そう感じた八尋は、主人に部屋の準備を促すことにした。


 八尋たちは玄関で一度腰を下ろし、出された茶をすすって待っていた。まもなく、宿屋の主人が急ぎ足で戻ってきた。

 「八尋さま、大変お待たせ致しました!二階の一番良い部屋をご用意させていただきました」

 ささ、こちらへ。と八尋たちを案内する。八尋は茶碗を置き、帯刀した刀を支えながら立ち上がる。刀特有の、あまり聞きなれない音がたった。

 案内された部屋の襖を開くと、旅宿にしてはやや広めの部屋が見えた。預けた旅籠が隅に並べられ、三度笠が立てかけてあった。八尋は見慣れない地で一夜を明かす部屋ということもあり、心の中でどこか好奇心をわかせていた。部屋に何があるのかと、ゆっくり視線を移しながら部屋を見渡した。

 ふと、布団がふたつ並んでいることに雪村は気づく。雪村は宿屋の主人に聞いた。

 「あの。私の部屋はどちらに?」

 宿屋の主人と女中は自分たちの過ちに気づき、はっと顔を合わせる。慌ててふたりは、八尋たちの前で、まるで命乞いをするかのように床に額をつけて謝罪する。

 「も、申し訳ございませんでした!すぐさま、ご用意させていただきますゆえ!」

 「で、でもあんた。今日はどこもいっぱいじゃ…」

 女中は主人の肩に手をかけながら話した。主人は目を泳がせながら考えるも、「なんとか致しますので、どうかしばしお待ちくださいませ!」と、とにかく拒否はできないといった様子で、雪村に返答する。

 さすがの雪村も、そこまでの待遇は求めていない様子だった。

 「ああ、そんなに謝らなくとも大丈夫ですよ。私は旅部屋でなくとも、ご主人の部屋の隅でも構いませんので」

 「し、しかし。八尋神社の神主さまであろうおかたを、そのような扱いをされては私共も…」

 主人の言うことも確かであった。八尋神社の氏子である村や旅宿の繁栄を担った、あの八尋の神主を務めている人を、旅部屋でもない他人の家に泊めようとするのだ。他言することは無いとはいえ、主人の申し訳ないといった気持ちは筆舌に尽くしがたいだろう。

 ふたりのやり取りを見て、八尋が横から入る。

 「私は、雪村と同じ部屋でもよいぞ。雪村、今日だけは同じ部屋で寝る事を許そう」

 雪村は驚いて八尋の方を向いた。「八尋さま、いけません」と困っている様子だった。

 「おぬしが嫌だと言うのなら別に良い。それならば永明たちの部屋に移るまでだ」

 「本当によろしいのですか…?御神体である八尋さまと、私のような者が一緒というのは…」

 八尋は部屋の隅に置かれている屏風に目を向けた。

 「あの屏風で仕切りを作ってもらえるだけでよい。それで私は構わぬ」

 宿屋の主人と女中は、情けを貰ったかのように八尋にひれ伏した。

 この夜、八尋と雪村、永明と連れのふたりの二部屋を並べて借りる事となった。雪村は部屋を三つ借り、八尋と雪村にはひとりずつ部屋を割り当てるつもりだった。御神体である八尋と同じ部屋で寝ることは、本殿の考え方からあってはならない事だからである。永明たちと四人で一緒というのも考えにくい。雪村にとって、永明たち霊狐は敬うべき存在である。そうなると、霊狐たちとも同じ部屋で眠るというのも無礼ではないかと考えていた。八尋神社の神主という肩書きをもった雪村であるが、自分の待遇よりも霊狐に対する敬意を優先したいといった想いゆえの提案だったのであろう。

その想いとは真逆の状況が、今の雪村には起こっていた。最も敬うべきである八尋と同じ宿部屋の中で、対面で夕食をとっているのだ。普段の食事では全く気にすることも無かったが、食事が終わってしばらくした後の就寝の事を考えると未だに悩んでいる様子だった。

 「まだ、うじうじしておるのか雪村。気にするなと言ったであろうに」

 「そうは申されましても…やはり無礼が過ぎるのではないかと思いまして…」

 街道を歩く時の雪村の態度は無礼ではないのか、と八尋も疑問を浮かべていた。おそらく雪村の話していた、礼儀正しくすべき時は正しくあるべき、と言っていた場面というのはまさにこれからの事なのだろう。小袖に着物を羽織って、落ち着いた姿をしている八尋とは逆に、雪村は今日着ていた単(ひとえ)どころか、烏帽子すら未だに脱げていない状態であった。休息の時間ではなく、まだ仕事の時間であるかのような雰囲気があった。

 八尋は大きな溜息をついて自分の食事に視線を落とす。しかし、ここにも対応の差が表れている。八尋の食器の周りには、まるで祀ってありますといわんばかりの供え物と酒が置かれてあった。食事の内容も米や魚に加えて、芋や豆なども豪勢に飾られてあった。ご丁寧に揚げ出し豆腐までついてきている。宿屋の主人と女中も仕事が細かい。

 「雪村、私は酒が飲めぬ。おぬしがいただくとよいだろう」

 「そのようなお言葉、私にはもったいのうございます」

 「ならば、芋はどうだ。私にもこの量の食事は食べきれぬぞ」

 「ですが八尋さま、私に芋のような貴重なものは身にあわぬものと…」

 八尋が考えていた通りの返答をされ、やや荒い様子で八尋は持っていた椀を置いた。

 「ええい、硬いぞおぬしは!街道をゆく永明たちも最初は硬いと思っておったが、今度はおぬしがそのような様子では、私の息もつかぬではないか!」

 つい大声をあげてしまった。先程まで隣部屋から話し声が聞こえていた永明たちも静まり返る。

 吹っ切れたように、八尋は部屋を隔てる襖を思い切り開いた。すると小袖姿で食事をとっている永明たちが、椀を持ったまま硬直してこちらを見ていた。

 慌てて永明たちは椀を置いて姿勢を正す。

 「八尋さま、いかがなさいましたでしょうか」

 「ほら、見てみろ雪村。永明たちは、ちゃんと休む準備をしておるではないか」

 そんなもの脱げと、八尋は雪村に対して指振りで示していた。

 溜息をひとつ。八尋は永明たちに話した。

 「おぬしらも近う寄れ。このままでは私の息もつかぬ。普段通りのゆうげにしようではないか」

 八尋の提案で、食事は永明たちも混ぜ、五人で普段通りの食事の雰囲気を作ることとなった。永明たちは、礼をしてから食器を持って八尋の部屋へと入り、席を作った。

 「まったく。おぬしらは今回の旅をなんだと思っておるのだ。私の信仰参りと間違っておらぬか?」

 文句を垂れながら、八尋は箸で芋を刺して口に放り込んだ。

 苦笑いをしながら、永明も落ち着いた様子で話す。

 「私どもも、このような旅は初めてでして…それに八尋さまと、ここまでお話ししたのも初めてのことでして…」

 「たしかに、普段のそなたらは修行に勤しむことが多いであろう。そうだな、これを機に社の者とも話をする時間を作るべきか…」

 「街道でも申しましたが、八尋さまは、もっとお硬いかただと思っておりましたので…」

 「堅苦しいのは祭事や祈祷の時だけでよい。それより、おぬしたちからも言うてくれ。こやつがこの調子では、眠る時にも緊張が伝わって眠れぬ」

 八尋は目を細くして、雪村を見た。雪村は観念した様子で烏帽子を置き、羽織をとった。まだ装束が多いが、先程よりは幾分かマシに見える。

 「烏帽子をつけた者を見てゆっくりできる者などおらぬだろう」

 雪村は苦笑いをしつつ、永明たちに目線を泳がせた。

 「城下まで、あとどれくらいかかるのでしょうか?」

 永明が雪村に聞いた。雪村は「そうですね」と一言おいて答える。

 「この調子でいけば、三日後には城下につくと思いますよ」

 「やはり、そこそこ時間がかかってしまうものなのですね」

 雪村は、ふふ、と笑った。永明は雪村を不思議そうに見ている。

 「着くまで三日もかかる、という意味ですよ。旅に慣れている者なら、明日には城下についている頃だと思います」

 「そんなに早く着くものなのですか?」

 「そうですよ。私たちはとてものんびり歩いております。雨風も無く、天気が良かったのにですよ」

 「私は一日でここまで歩いたのは初めてですよ。旅とは思った以上に過酷なものなのですね…」

 永明は自分の足をさすっていた。

 「はい。命を受けたお武家さまなども、何日もかけて都や城へ行くこともあります。旅の途中に様々な困難もあります。野党に襲われて命を落とすこともあるでしょう」

 「戦う術を持っていない者などは、旅の安全をどう守るのでしょうか」

 「私など、人間の神職の場合、やはりお武家さまにお供になってもらっております。刀を下げた者がふたりもおれば、野党に襲われる事もほとんどありません」

 永明は「なるほど」と顎に親指を置いて聞いていた。ふと、永明は八尋の荷物と一緒にかけてあった刀が目に映った。

 「では、八尋さまの刀も、そのような意味が込められていたのでしょうか?」

 魚を齧ったまま、八尋が目線だけを合わせた。魚を飲み込んで、口を拭い、八尋はその質問に答える。

 「まあ、思いはそのようなものだ。今回の旅で、何事も起きないようにと祈りも込めて、帯刀してきたわけだ」

 「私も、このような刀を見たのは初めてですよ」

 その言葉を発したのは雪村だった。

 「そうだな。この刀は、今まで本殿から出したことは無い」

 八尋は刀を手に取り、雪村たちに見せる。漆のような黒い鞘に、稲穂のような黄金色をした柄が特徴的だった。

 「元々、なにか思いつめた時や、集中する時に本殿でこれをふるっていたのだ。次第に私の霊力が宿り、今では私の一部とも呼べる霊刀になったわけだ」

 「八尋さまのお力の宿った業物というわけでございますね。刀はどこでお手になられたのですか?」

 永明が刀を眺めながら聞いた。

 それを聞かれた八尋は少し困った。何を隠そう、八尋が祭神となったお祝いとして、五十五が贈ってくれたものなのである。五十五が刀鍛冶をしてこしらえたと話し、五十五の願いと妖力を込められて作られたものであった。

 妖力が込められている、と言えば誤解を生むが、全ての妖力に穢れが込められているわけではない。もちろん、使い方を誤れば穢れた妖刀となってしまうだろう。しかし、八尋に対する純粋な想いと、八尋自身の信念と霊力が調和し、見事な霊刀となったわけだ。

 「私のことを想ってくれる大切な者から頂いたもの、とだけ言っておこう」

 五十五のことを漏らしてしまうかもしれないと警戒した八尋は、刀の出所について伏せることにした。おそらく雪村には五十五の事だろうとバレてしまったかもしれないが。

 八尋は霊刀を元の荷物へ戻した。席に戻る際に、八尋以外の四人が全員食事を終えていることに気がついた。一方、八尋の席にはまだおかずがいくつか残っている。

 「おぬしら、ちょっとよいか」

 永明と連れの霊狐は、何だろうかと八尋の言葉を待った。

 「…食いきれぬから、おぬしら手伝ってくれ」

 霊刀のくだりのあたりから、八尋の腹はすでにいっぱいだった。明らかに、いつもの食事量よりも多く、食べきれるものではないことは分かっていたが。

 手伝ってもらうことに説得するまでの間に、二度も追加の料理が運ばれてきた。食えぬ食えぬと言い続けて、八尋はようやく食事を終える。

 永明たちと別れて、布団につく頃、これこそ子どもの駄々のようではないかと八尋は羞恥心を膨らませていた。


 歩き続けて三日が経った。町屋に近づくにつれ、すれ違う人々が多くなってきた。飛脚や篭屋を目にすることも増え、街道は賑やかになっていた。街道は今まで歩いてきた野道とは変わって、石垣で整備された道が町屋に続いていた。

 それに加え、町屋の狸もあちこちで見かけるようになる。やはり土地柄、狐がいるということに物珍しさがあるのか、あちこちから視線や、ひそひそと話す人がいることに気づかされる。

 「さ、さすがに我らしか狐がいないとなると、やはり緊張しますね」

 霊狐のひとりが不安そうに見回しながら話した。

 「見知らぬ土地に加えて、私たちとは違った者たちが多くおりますからね。無理もないですよ」

 八尋は落ち着いた口調で返答した。とはいえ、永明たちは狐の中でしか生活していなかったこともあり、噂されている狸の姿を実際に見ると、無意識に警戒心を覚えていた。

 人目が気になりつつも歩いていると、雪村が八尋たちに話す。

 「八尋さま。関所が見えて参りましたよ」

 雪村の言葉に、八尋は奥に見える建物に目を向けた。

 近くまで歩くと、大きな木造の門に、それを守るように関所が備え付けられていることが分かった。町屋の出入り口ということもあり、数組の町民が順番を待っていた。

 「我らも後ろで並んで待つのであろうか?」

 八尋が雪村に聞くと、雪村は首を振った。

 「いえ。私たちは領主様の証書がありますので、このまま関所へ参りましょう。それに、八尋さまが並んでいるのに町人たちが気づくと、譲ろうと列を崩してしまうやもしれません」

 なるほど。と、八尋は関所に並ぶ列を見た。みな町屋へ物を売ろうと、大荷物を持った人々が並んでいるのに気づいた。

 八尋たちは、列を横切るようにして関所へと近づいた。そこには、町屋に入ろうとする数人の町人と、役人であろう狸の男が騒いでいる様子だった。

 「いくらなんでも高すぎる!これじゃ商売ができても儲けになんないよ!」

 「悪いが決まりなんでね、払えないんならとっとと帰んな。あんたの後ろが詰まってんだよ」

 騒いでいる町人は、通行料に納得がいかない様子だった。しかし、役人の狸はあきれたように首を振っていた。

 八尋たちは、どうしたのだろうと思いつつ関所の門の所までついた。役人の妖狸も八尋たちに気づき、霊狐の一行という珍しい来客に眉をあげた。

 「これはこれは。八尋神社の八尋さまではございませんか。領主より話は聞いております」

 まだ名乗りをあげていない八尋は、不思議に思い役人に聞いた。

 「私を知っておるのか?」

 「もちろんご存じであります。この地の霊狐といえば八尋さま、という話は町屋にも伝わっておりますので」

 役人の狸は大柄だった。しっかりした体格に、直垂をまとい、腰には大きな日本刀が二本帯刀しており、門番といった風格があった。 

 「左様であったか。それより、何か問題でもあったのか?」

 八尋が役人に聞くと、役人の妖狸は町人の荷物に一度視線を置いてから答える。

 「通行料が高いと言っておりましてね、困ったものですよ」

 「なぜ高いのだ?他の者の荷と、あまり量は変わらぬように見えるが」

 役人は八尋の話を聞きつつ、腕を組んだ。

 「あやつの荷は作物でしてね、作物は通行料を高くしておるのです。よって、作物は決まった時期に農民たちが大勢ひきつれて運んでくるわけです。そうすれば、一度の通行料で済みますから」

 「つまりですね。この時期に運ばれる作物にろくなものはないってことですよ。作物に紛れて何かを隠しているか…」

 役人の言葉に、町人は黙ってしまった。役人の言う通り、作物に何か都合が悪いのだろうか。

 「どうするお前さん。今ならそのまま帰れるが、高い金を払ってお目付け役をつけられたいか?」

 町人たちは何も答えず、お互い目だけで語った。それから荷物をまとめて、その場を離れていった。

 帰っていく町人を見て、役人は大きなため息をついた。

 「関所には、ああいった面倒なやつらを追い返すのがしょっちゅうでね。だいたい顔を見りゃわかんだってのに」

 役人は八尋に向き直した。

 「さて、お待たせしましたね。領主からの証書をお願いします」

 雪村は懐から封書を取り出し、挟んでいた証書を役人に手渡した。役人は受け取った証書を簡単に確認して、雪村に返した。

 「荷物などの確認は良いのだろうか?他の者たちとは違って…」

 思いのほか簡単に通して貰ったことを不思議に思い、八尋は役人に聞いた。

 「この地で八尋さまに化けようと思う者など、恐ろしくていやしませんよ。八尋さまに、お連れの方々を見ただけでご本人さまだと分かります」

 役人は部下に対して、「後は任せたぞ」と一言告げ、八尋に話す。

 「紹介が遅れました。私は四辻(よつじ)と申します。今日のご案内は、私が務めさせていただきます」

 四辻が名乗り、深く礼をする。八尋たちも続くように軽く礼をした。

 四辻が案内を始める前に、八尋にひとつだけお願いをする。

 「八尋さま。大変申し上げにくいのですが、帯刀されておられる刀を、お連れの者に預けていただけませんか」

 八尋は自身の刀に目を向けた。確かに、今の町屋で自分が刀を下げていれば何事かと思われてもおかしくなかった。

 「そうか、すまない。初めて旅をする者ばかりであったので、道中のお守りにと思ってな」

 「もちろん心得ております。ですが、町人などはそのような知識を持つものは少ないと思いまして」

 八尋は刀を帯から外す。永明が一歩近づき刀を受け取り、頭を下げて大事に布袋にしまった。

 「では、こちらへ。町屋いちの宿をご用意させていただいております」

 八尋たちは四辻に案内されながら、町屋へと入っていった。


 八尋たちは町屋へ入ると、まず町屋の活気に圧倒された。人の賑わう声が混ざり、まるで今日が祭りの日と勘違いしてしまう程の人込みがあった。そんな中でも、露店たちの客引きの声があちこちから響く中、どれもはっきりと聞き取れる力強さを感じさせられる。 

 そこを歩く狐たちは初めて体験する町屋に興味をひかれていた。社や村山では見たことのない物ばかりが立ち並び、誘う声に反応して、あちらこちらへと目線を移す。とはいえ、ここは狸と人が大勢暮らしている。狐という物珍しさから、八尋一行は通りがかる多くの人々からの視線を浴びていた。数人と視線があい、狐たちはあらためて自分が注目される存在だということを思い出す。いつもの仕事を思い出すように、気を引き締めて前だけを見て歩く。

一方で、八尋は変わらず辺りを見回しながら歩いていた。少しでも町屋のことが知りたい様子だった。

 「いかがでしょうか八尋さま。この町屋の人々を見て」

四辻が問いかける。興味深くあちこち目を移す八尋に気づいたようだ。

 「このような活気のある人々は、こちらでは祭りの時くらいしか見ることは無い。ここでは、いつもこのように賑やかなのか?」

 「はい。ここでは毎日大勢の商人が来ますゆえ。食事処も呉服屋も毎日大勢の客でいっぱいの様子です。最近では、稲荷屋が人気だそうで」

稲荷が流行っている、というのは八尋にも聞き覚えがあった。社付近に稲荷屋があれば、八尋も足を運んでしまうかもしれない。他にも町屋には興味をそそられるものが多くあった。ここまで人が集まる理由を知った八尋は、なるほど、と答えた。

 しばらく商店街を歩いているうちに、華やかないろどりのされた宿屋へ着いた。

 「こちらの宿を七日ほど貸し切りにさせていただきました。宿の者にも奉仕させるよう命じております」

 四辻が中へと案内すると、八尋たちは驚かされた。朱を基調とした壁に、黒の障子、香りのよいヒノキ造りの広間があった。そこには顔立ちのいいヒトの奉公人が、男女きれいに並び一礼、八尋たちを迎えた。八尋と同い年くらいの子どもまで、よく習わされたように並んでいる。三味線と篠笛を鳴らし、雰囲気を作る者もいた。町屋に来るまでに泊まっていた宿とは、比べ物にならない程の高級感を漂わせていた。

 「では、私はこちらで失礼します。私の連れの者を近くに置かせておりますので、何かご用事があれば申しつけください」

 四辻は一礼をして、その場を去ろうとする。見たことのない町屋の景色を見続けて、本来の目的を忘れかけていた八尋が、はっと四辻を呼び止めた。

 「領主とは明日にでも会おうと思っておるのだが、領主にもそう伝えておいてくれぬか」

 「お急ぎのご様子でしょうか、分かりました。八尋さまのお気持ちも、領主さまにお伝えしておきます。領主さまからの返答は、文を通して連れの者に運ばせますので、こちらでゆっくりお待ちください」

 よろしく頼む。と八尋が声をかけると、四辻は宿屋から出ていった。

 このような場所に七日も過ごせるのは八尋としても悪い気はしなかった。これほどのお金をかけた待遇は八尋も受けたことがない。町屋の雰囲気、待遇の良さで気分が浮かれてしまいそうになった八尋は、自身を正すように思い直した。

 八尋たちは一人ひとり、豪華な個室へと案内される。 

 ようやくひとりになれた八尋は、大きく息をついて腰を下ろした。奉公人は、八尋たちひとりに対して三人ついた。あまりの待遇の良さに八尋たちはかえって居心地が悪かった。個室につき、荷物をまとめられ、いつの間に奉公人は後を控えていた。

 「邪魔にならぬように振る舞ってるのはいいが、まるで忍びだな…」


 茶でも飲んで、一息入れてから雪村たちを探そう。そう考えて、八尋は小棚を開ける。中には袋に包まれた乾燥した薬草のような物や、化粧品、線香が数本束ねてあるだけだった。

 「嗜好品などしか無いか。部屋を香り付けするものまで置いてあるとは、本当に洒落た宿屋だな」

 茶がないこと、そもそも湯を貰うには奉公人に頼まなければならない事が分かると、八尋は廊下に出て雪村たちを探すこととする。すぐ隣の部屋を開けるも、空き部屋だった。隣同士の部屋割りではないのかと、さらに隣の部屋を開けるも誰も居ない。どうなっているんだ、と空き部屋を後にした八尋を、先程見た八尋と同い年くらいの少年の奉公人が気づく。

 「八尋さま、いかがなさいましたでしょうか」

 八尋よりも少しだけ高い声をした少年が尋ねた。

 「ああ、連れの者と話をしようと思ってな。だが、私の部屋とは離れた所へ案内されているようだ。よければ雪村の部屋まで案内して貰えぬだろうか」

 「雪村さまのお部屋ですね、かしこまりました。こちらへどうぞ」

 少年は一礼をして、案内をする。やや長い廊下を渡り、玄関が見える吹き抜けまで戻ってくる。それから八尋の部屋とは真反対の方向へ案内される。

 「私の部屋とは全く逆の部屋なのか。永明たちの部屋は分かるか?私と同じ霊狐の者たちだが」

 八尋は不思議に思い、少年に尋ねた。

 「霊狐さまは下の階のお部屋に案内させていただいております。八尋さま御一行の、お遊びの邪魔にならぬようにと思いまして」

 「お遊び?いや、我らにそのような気遣いはしなくとも良いぞ。そなたらの気持ちは、とても伝わっておる」

 八尋の返答に、少年はふと疑問を浮かべた。ひとつ間をおいてから、くすりと笑ったような気がした。

 「少しでも気を変えようと思われましたら、すぐにお申し付けください。町家ならではの楽しみも、ぜひ味わっていただきたく存じ上げます」

 「まあ…気分を変えたい時にはな…。棚の中にも、香草や線香があっただろう」

 「はい、いつでもお申し付けください。八尋さまがよければ、私がすぐにお呼ばれいたします」

 よくできた少年だ、と八尋は思った。社での霊狐たちの礼儀正しさとは違った、厳格すぎず、かつ親しみやすさの感じられる雰囲気があった。これまで多くの客人の世話をしてきた経験があるのだろう。八尋も、先程案内した奉公人よりも、こちらの少年に対応された方が気が楽に感じた。

 「そうだな、その時はそなたにお願いしよう。ところで、名は何という?」

 「彦三郎(ひこさぶろう)と申します。名をお聞きくださり、ありがたき幸せにございます」

 彦三郎、と八尋は口にする。

 「ここでは名乗ることはあまり無いのか」

 こちらでは奉公人は多くおりますゆえ、と彦三郎は申し訳なさそうな表情を見せる。

 「私どもは、お相手をさせていただく際に名乗らせて貰っております」

 確かに、あの数の奉公人ひとりひとりの名前を覚えてはいられないな、と八尋は納得する。今まで泊まってきた宿には、宿を営んでいる者自体が少人数の家族ということを思い出す。

 「そなたらのような奉公人のいる宿屋も初めてであってな。まだここの雰囲気に慣れておらぬところもある」

 「こちらも、安らかなひと時を過ごしていただけれるよう奉仕させていただきます」

 笑顔が素敵な少年だと、八尋は思った。純粋な笑顔を見せられると、八尋の気分も良かった。廊下を歩いていると、彦三郎が足を止める。雪村がいるであろう部屋から、少し離れていた。

 「八尋さま、少々こちらでお待ちいただけますか?雪村さまをお伺いにいって参ります」

 「そうか、よろしく頼む」

 彦三郎は一例をして、雪村の部屋へ近づき、障子の前で丁寧な口調で雪村に問いかけた。すると間もなく中から雪村が出て、八尋の存在に気づいた。雪村はやや早足で八尋のもとへと歩み寄る。

 「八尋さま、ご足労をおかけしまい申し訳ございません。書き物をしようと思って、机を部屋に入れさせておりまして…」

 八尋の部屋にも、机はあれど文机が無いのを思い出す。仕事もできるよう考えられた部屋では無いのだろう。それにしても、部屋の豪華さにも怯むことなく、これからのことを考えてくれている雪村は頼りになった。

 「私はこの宿に驚いてばかりだ。雪村とこれからのことについて話して落ち着こうと思って呼ばせてもらった」

 「左様でございますか。それでは、永明たちもすぐに呼びましょう」

 「いや、我らふたりだけで良いだろう。少し休ませてやりたい」

 八尋は長旅と町家で緊張していた永明たちを思い出した。これまで宿には日が沈むギリギリでつくこともあり、疲れもたまっているだろうと考えた。

 「それもそうですね。ここについてから、表情ひとつ変えてない様子でしたし」

 八尋は控えていた彦三郎に声をかける。

 「彦三郎、霊狐たちに言伝を頼めぬだろうか。ゆうげまで、部屋で休んでおれと」

 雪村と仕事をするので、湯だけ持ってきてくれとついでに頼む。彦三郎は、かしこまりましたと一礼し、その場を離れる。

 「八尋さま、あの子を部屋に呼んだのですか?」

 彦三郎、と八尋が名前を呼んだことに雪村は驚いていた。

 「いや、おぬしの部屋を探しているときに彦三郎に呼び止められてな。歩く途中に、名を聞いただけだ。名前が分からぬと呼びづらいからな」

 雪村はやや安心した様子で息をついた。よく分からない様子に、八尋は不思議に思ったが、話を戻すことにする。

 「それより、領主との談話について最後に確認をしておきたかった。おぬしの部屋にあがらせてもらうぞ」

 「なんだか、いつもと変わりませんね。私も安心しました」

 雪村は自室に八尋をあげた。雪村の仕事場とあまり配置が変わらないように文机が置かれていた。

 「おぬしも浮かれず、変わらぬ様子で安心した。永明たちは堅物になっていたからな」

 「八尋さまは、もう少し堅くされてもよろしいのですよ。町家を歩いてる時など、首が振り子のようになられておりましたし」

 いつもの調子を取り戻させてしまったことに八尋は後悔した。ともあれ仕事だ、と雪村を席に座らせ、話を流すことにした。


 黒の襖障子に朱や花で飾られた部屋で、八尋たちは朝食をとっていた。部屋の隅では、心地の良く琴を奏でる者もいた。昨夜の夕食では、舞台に上がって舞を披露されたりと、この宿に来てから接待が続いていた。八尋は、このような待遇が七日も続くと、社に戻った時に修行にすぐ戻れるのだろうかと不安もあった。その証拠に、永明の連れふたりの霊狐から、朝からどこか気の抜けた雰囲気を感じ取った。

 「おい、大丈夫か?今日は大事な日であるぞ、はよう目を覚ませ」

 八尋は心配になり、霊狐に声をかける。霊狐は、はっとして八尋と目を合わせた。

 「申し訳ございません。気を緩めておりました」

 「ゆっくり休めたのは良いことだ。しかし、朝から気を張ることを忘れてはならぬぞ。社での一日を、ここでも忘れるな」

 八尋神社での生活では、もっと早い時間に起きて祈祷し、今の時間は社の掃除をしている頃だ。雪村、永明の表情を見る限り、ふたりはいつも通りの朝の流れをこなしている様子だった。

 「永明。すまぬが、あさげの後、こやつらの面倒を見てやってくれぬか。この後、約束の時間までしばらくある」

 霊狐は申し訳なさそうに深々と頭を下げていた。八尋は、やや呆れたため息をつき、永明に話した。

 「分かりました。ひとまず、祈祷と書き物をさせておきます。少しは落ち着くと良いのですが」

 頼むぞ。と八尋は返し、食事に戻った。

 昨夜、夕食の前に領主からの手紙が届けられていた。談話は、八尋の希望通り明日行えるように準備しておくと書かれていた。八尋はその手紙に、明日の昼に伺うことをすぐに手紙に書き、領主へと送りかえした。大事な談話が今日、ようやく開くことができる。ここまで付いてきてくれた霊狐たちには悪いが、気を緩めて談話に挑むことは許されなかった。是非とも領主から良い流れを掴み取りたいと、昨晩から八尋は気を引き締めていた。

 食事中、永明は霊狐たちを厳しい目で見ていた。霊狐たちは、どこか反省した様子を見せながら食事をとっていた。永明も、自分の部下が注意を受けたことに責任を感じているのだろう。この調子なら、永明に任せてしまっても大丈夫だろうと八尋は安心した。

 朝食を終えて、準備も済ませた八尋は、部屋の窓辺から町屋を見渡していた。昨日と変わらない賑やかな声の中、人と狸が並んで歩いたり、同じ仕事をしている様子が見えた。町屋では、人と狸の距離が近いのだ。八尋神社のある村里では、人と狐が同じ地に暮らしているが、生活の中まではお互いが入り込んでいなかった。人は人の暮らし、狐は狐の暮らしを続けている。雪村という、同じ生活をしている人間がいるせいか、八尋は今まで気づくことができなかった。

 とはいえ、八尋は村里との関係を悪いものとは全く感じてはいない。八尋が目指しているのは、狐と狸の隔たりを少しでも解消したいと思っているだけなのだ。狐が町屋で商人をするのも、狸が社で神職をするのもおかしくない環境へ変わるきっかけを作りたい。町屋を見ているうちに、八尋の思いは一層強まっていく。

 通りを見下ろしていると、親子連れの小さなヒトの子どもが、窓辺の八尋に気づいて指をさした。八尋が親子連れと目が合うと、父親は慌てて子どもの手を降ろさせ、頭を下げている。八尋は笑顔で手を振り返すと、子も大きく手を振っていた。やはり、ここでは狐は珍しいのだ。

 そんなやり取りをしている中、八尋は耳をぴくりと動かし、部屋の障子に目を移す。直後、部屋の外から彦三郎の声がした。

 「八尋さま、失礼いたします。雪村さまから、準備ができたとのことで、お見えになられました」

 言葉を返さないまま、自室の障子をあけた。廊下には、伏せた彦三郎と礼をする雪村たちがいた。

 「参ろうか」

 八尋は一言だけ告げ、領主の元へと向かう。宿を出てすぐ、四辻が案内役として待っていた。

 八尋も雪村たちも、荷物も何も持っていない。談話に必要なのは、ここに来た八尋たちと、その言葉だけだった。


 八尋たちは、談話のために用意された広間へと通された。八尋たちの席は五人が横に並ぶように座り、その対面に十数人の帯刀した狸たちがあぐらを組んで座っている。武器を一切持たない霊狐たちとは違い、あちらは立派な侍なのだ。圧倒的な武力の差を見せつけられたような雰囲気があった。永明と霊狐から、緊張した気配が見ずとも伝わってくる。

 八尋は、上座に座っている薄灰色の毛並みをした男の狸が気になった。あの男だけ、八尋に対する目つきが鋭くみえた。四辻にも負けない筋肉質の体格に、堂々とした態度。彼が狸たちを統べる長、ということだろうか。

 居心地の悪い沈黙が続く。まだか、と八尋が思った矢先に襖から初老の男が入って、狐と狸の並ぶ間の席に座った。

 「八尋さま。この度は、我が城内へお越しいただき、まことにありがとうございます。領主、久松道長と申します」

 八尋たちへ名乗り、深く礼をする。久松は続けた。

 「我が領内の社のひとつ、狐神である、八尋さまのからお声をいただいたこと、心から感謝しております」

 久松の言葉に、八尋は軽く礼をした。

 「もう一人、紹介させます。彼は、町屋の狸たちを束ねる、守護妖狸の九頭(くがしら)です」

 先ほどの薄灰色の狸が表情を変えず礼をする。やはりな、と八尋は心に浮かべた。

 「八尋神社の主神、八尋と申す。こちらも、突然の申し出に承諾していただき、礼を申し上げたい」

 「こちらは八尋神社の神主、雪村。彼は町屋の近くまで祓いをさせることもあるので、町屋にも雪村を知る者もいるやもしれぬ」

 八尋の紹介に、雪村は深く礼をする。挨拶はこれくらいでいいだろうと、八尋は本題に入った。

 では私が失礼します。と、雪村はひとつ置いた。八尋と決めた八尋神社や里の、これまでの成り立ちについて語った。久松は時折相槌をうったり、気になったことをその場で聞いたりと、感触は良い。領内の民について、町屋などの隔たり無く知ろうとする姿勢が見えた。

 八尋が気になったのは、狸たちだ。九頭は眉一つ動かさず、興味すら持っていない雰囲気が伝わる。手紙と、実際に目にした領主の様子から、関係を築くことはそれほど難しくないと八尋は考えていた。だが、この狸たちの様子から、領主がこの場で返事を出すとは到底思えない。

 雪村が語り終わると、久松は顎髭を触りながら、なるほどと答える。

 「この久松、八尋さまの地を何も存じておりませんでした。どうか、お許しいただきたい」

 「いや。我らも、町屋について知らぬことが多い。先日到着した時から、私もよく身に染みていた。よければ、久松どのからも、町屋について教えていただけぬか?」

 八尋は、頭を下げる久松にうながした。お互いを知る、といった関わりを大事にしたかった。

 「分かりました。では、私がお話いたしましょう」

 久松はひとつ咳を入れて、話し始めた。

 「その昔、この町屋はただの駅屋でございました。とはいえ、周りの駅とは少々大きく、商いも盛んだったことが自慢でした。その地を治めていたのが、我が久松家であります」

 「ただ、大きな駅屋ということもあり、治安が良いとも誇れず、獣害の声も多くあがっておりました。私はいくつもの策を打ち出しましたが、そこにおるのは農民や商人がほとんどでして。上手いようには進みませんでした」

 「そこで、本家へと相談へ参ったその帰りで、ひとつの事件が起こりました。ご存じの方も多いと思われます、町屋の化け狸の話です」

 五十五の事か、と八尋は目を細めた。

 「化け狸は私と、連れていた娘を化け術で襲いました。付きの者たちもうろたえる中、ひとりの侍が化け狸を追い払います。化け狸は、町屋にこの世のものとは思えぬ術を見せながら退散していきました」

 「化け狸まで町屋に出てきてしまい、私は打つ手が無くなりました。そんな中、同じ化け術を持つ妖狸が、この町屋を守ろうとやってきたのです」

 「彼らの力は素晴らしく、町屋は領内で一番安全で豊かな町とされ、今もなお繁栄を続けられるようになりました」

 八尋は五十五の話は知っていたが、その後の狸たちがなぜ町屋へと来たのかを初めて知る。

 「なるほど。町屋で妖狸たちと町人たちがともに生きていくうえで、そのようなことがあったんだな」

 「左様でございます。無論、はじめは町人達も反対しておりました。妖狸に襲われた町を、妖狸に守ってもらうというのは、あまりにもおかしな話です。そのような疑心の中、妖狸たちは私たちへあらゆる手を貸していただきました。町を守るだけではなく、商売にも知恵をくださりました。町人たちが狸たちを信頼しておるのは、そういったこともあります」

 村里で聞いていた話より、妖狸は悪いようには聞こえなかった。八尋は雪村の様子を伺う。雪村は八尋と目を合わせ、ひとつ頷いた。

 そして、八尋は久松に話す。

 「我らからの話はひとつ。町屋と八尋神社、ともに関係を作っていただけぬだろうか。もちろん、利害を求めるものではない。無論、町屋に分社を建てるなど大きな事ではない。互いの祭り時を共に過ごしたり、町屋への商いに霊狐も同じくするなど、小さなところから何か出来ぬだろうか」

 久松は口をつぐんだまま、やや俯く。八尋は久松の答えを待った。

 「なんでわざわざ、今になってそんな話を持ちかけるんだ?」

 それまで一言も口にしなかった九頭が、声を上げるように叫ぶ。沈黙を破った。

 「領主さまもお話になられただろう。町屋は、我ら妖狸が守ってきてんだ。それに、霊狐を守ってやるほど、我らも暇じゃねえんだ」

 「九頭、無礼な真似をするな」

 九頭は鼻で笑い、言葉を止めずに続ける。

 「お前ぇらの本当の目的はなんだ。なんで妖狸霊狐がともに過ごす必要がある?今まで通り、狸と狐で生きていきゃあいいじゃねえか」

 八尋に対する態度に、雪村は黙って聞いていた。八尋は九頭に返答する。

 「村里や八尋神社の霊狐からの話を長い間聞いておる。町屋の狸に対して、あまりよい感触を持っていない者たちがいると。現に、狐は狐、狸は狸といった隔たりを私は感じておった」

 「私も、初めて町屋へ入った時、それを実感した。狐が何をしに来たのだろうという町人たちからの視線を」

 八尋は、できるだけ本心を語った。否定的な心情を語るのは、印象としても悪くなると思っていた。とはいえ、ここは九頭を納得させる理由を語るべきだと考える。

 「だからこそ、霊狐妖狸が関係を持つことで、お互いがともにできる道が作れぬだろうかと思い、ここで談話を開かせてもらったのだ」

 九頭は流すような相槌を打って、八尋に返す。

 「そもそも、妖狸と霊狐、お互いが相反するものなんじゃねえの。お前ぇらだって、俺らの妖気を毛嫌いしてんだろ。お前らの霊気が苦手だっつう妖狸もいるわけよ」

 確かに九頭の話すことは、霊狐の中でも常識になっている。一般的に、お互いが傍にいることが出来ないと考えられていた。

 「霊狐が妖気を纏い続ければ、穢れをため込み妖狐となる。妖気に対する警戒を強めれば強めるほど、大きく影響すると考えておる。だが、霊狐が妖狐になる、となれば妖狐が霊狐になる可能性もある。妖気、霊気はともに親しいものだとお互いが分かれば、ともにする道はあるはずなのだ」

 八尋の説明に、久松だけでなく、その場にいる霊狐たちも驚いた様子で八尋を見た。こんな話は、聞いたことが無かったからだ。

 九頭は、八尋の言葉を一度受け入れる。そして、八尋に問うた。

 「じゃあ聞くが、狐は町屋で何の役に立ってくれる?ただお祈りをするだけじゃ、人も町も守れねえが」

 「具体的な返答はまだできぬ。我らの話は、関係を持つことから始められぬだろうかということだ。関係を持つことが出来れば、おのずと霊狐ができることが見えてくるだろう。もちろん、妖狸たちが村里や社でできることも見つかると思っておる」

 話が八尋と九頭との間で荒れてきた。八尋も何とかして話を戻せないかを考えているが、食い下がる九頭から離れる方法が思いつかない。

 「今日の談話は、一度ここで終わりにしませんか?お互い、顔を合わせて話をしただけでも収穫があったと思います。それに、私たちはもうしばらく、町屋に滞在しております。いかがでしょうか」

 ふたりの会話を斬るように、雪村が話した。助けられた、と八尋は安心する。

 「そうだな。久松どのがよろしければ、また後日に談話を開いていただけぬだろうか」

 久松は頷いて返答する。

 「では、明日を置いて、明後日に談話を開こう。九頭、そなたもよろしいだろうか」

 九頭は、分かりましたとだけ答え、あぐらを組みなおした。

 八尋は久松と狸たちに軽く礼をして、雪村たちを連れて部屋から出る。綺麗に整えられた、松と水辺のある庭園を見て、少し開放された気がした。

 庭園を歩いて出るところで、門で待っていた四辻が宿まで案内をしてくれる。

 次の談話で、もっと良い流れにならないだろうか。八尋は周りを見る余裕もなく、宿へ戻っていった。

 それから、談話は日を跨いで三度行われた。二度目も話は変わらず、九頭は霊狐を受け入れる事は無かった。何を話しても聞いてくれず、八尋たちにも疲れが見えていた。

 そして、三度目の談話の中で、霊狐たちにとって決定的な事が起こった。


 三度目の談話も良くない流れが続いた。三度目の談話では、久松の身体の調子が悪いとのことで、霊狐妖狸だけで行われていた。

 八尋は焦燥感を覚えていた。利害関係を含む関係や、取引の類の話ではなく、あくまで談話ということから、八尋の意志を通すことは出来ない。

 八尋神社をひと月も自分が居ないというのも、村里や社の霊狐たちにも迷惑がかかる。

 これ以上は無理か、と八尋が諦めて談話を終えようとした時、九頭は八尋たちへの態度を明らかにする。

 「ここ数日の話で、こっちのやつらとも相談させてもらった。結論から言えば、お前ら霊狐は必要ない」

 今までとは全く違った、明らかな敵意を八尋は感じ取る。八尋は気配に眉をひそめた。

 「必要ない。と侮辱するのはよさぬか。敵意を晒すのは、久松どのの本意でもあるまい」

 九頭が笑みを浮かべると、部屋の外から不快で床が軋むような音が八尋たちに纏わりついてくる。

 まずい。と、八尋は直感した。

 「八尋さま、まさかこの男…!」

 雪村がすぐに立ち上がり、霊符を振って身構えた。永明が続くように、目を閉じて自身を落ち着かせようとする。

 九頭は、自身の化け術で八尋たちに幻覚を見せようとしたのだった。真正面から、それもここまで分かりやすい化け術では、八尋や雪村たちに効き目は殆ど無い。これが、妖狸たちの本意であるといった表しだろう。

 舐められたものだと八尋が思った矢先に、ふたりの霊狐の様子がおかしい。

 「や、やめろ!俺が悪かった!そのことは八尋さまには!ひ、ひいいぃっ!!」

 「そのようなことは、ああぁっ!お願いだ!助けて!」

 ふたりの霊狐は大声で叫びながら狼狽えていた。なぜふたりだけが、と八尋が驚き目を向けると、ふと覚えのある匂いをかすめた。

 「お、おい!どうした、しっかりしろ!」

 永明が霊狐の肩を持って目を見る。霊狐は永明が見えていない様子で、振り払うように暴れた。ひい、ひいと情けない声を上げながら、恐怖に怯えるように漏らし始める。

 「はっはっは!何が霊狐だ!まるで話にもなりゃしねえ。見ろよお前ら、しょんべん漏らして泣いてるガキがふたりもいるぞ!」

 九頭は妖狸たちと共に笑い声をあげた。調子に乗せられた妖狸たちが九頭に続くように化け術を重ねて見せてくる。

 八尋は霊狐を集中して見た。すると、胸のあたりから妖気を感じ取る。このまま穢れに晒されては、ふたりが妖狐へと落ちてしまう。

 「永明!ふたりを連れて部屋から出ろ!雪村も手を貸してやれ!」

 「で、ですが八尋さまは!?」

 「私は平気だ、早く行け!」

 雪村は霊符で部屋の一部の妖術を破り、出入り口の障子を大きく開いた。

 「永明、はやく二人を!」

 雪村が声を上げて指示すると、雪村と永明は暴れるふたりを引きずりながらも部屋の外へと脱出した。

 残った八尋は、あざ笑う九頭を睨みつけた。

 「ほらな、霊狐なんてこんなもんさ。ここには狐はいらねえのさ」

 「…おぬしらの意思、はっきりと心しておく。だが、我が霊狐を穢れ落ちさせようとしたこと、許しはせんぞ」

 八尋が捨てるように告げ、部屋の外へと向かおうとした時、九頭が呼び止めた。

 「ちょっと待てよ。俺ぁどうも気になることがあんだよ」

 八尋は足を止め、九頭と目を合わせた。九頭は頭をかきながら、だるそうに話す。

 「俺らと関係を持ちたい。そんな道を作りたい。んな綺麗事だけで、俺らと話をしにきたわけじゃねえだろ」

 「お前の本当の狙いはなんだ?俺はどうもそこが読めねえんだよ」

 言葉を選ぶように間を置いて返答する。

 「おぬしには、到底分かりえぬことだ」

 「…ふん」

 九頭の言葉を待たず、八尋は部屋の外へと出る。部屋を出た先を歩くと、雪村と永明が霊狐を介抱していた。

 「ふたりの様子はいかがだろうか」

 「妖狐へと落ちる事はありませんでしたが、社へ戻って元の生活ができるかどうか…」

 ふたりの霊狐は、唸るように気を失っていた。そして、何かを植え付けられたような妖気を湧き上がらせている。

 「く…ッ!」

 八尋は、雪村と永明にかける言葉が無かった。思いもよらぬ仕打ちを受け、さらには霊狐ふたりを失ってしまった。ただ歯を食いしばることしかできなかった。九頭に言われた、綺麗事だけで話をしに来たという言葉。危険を予測せず、自身が世間知らずの子どもだったことを、この現状をもって思い知らされる。

 「八尋さま。二手に分かれて、すぐに町屋を出ましょう。私は馬を借りて、荷物と霊狐たちを連れて帰ります。八尋さまには無礼をおかけしますが、永明と共に戻られていただけませんでしょうか」

 八尋の心境を察し、雪村が声をかける。先に霊狐を連れて、村里へ戻るように提案した。今の八尋と永明に、ふたりの霊狐の姿を見せるのも不安にさせるだけだと考えたのだろうか。

 八尋は雪村の提案に甘えた。雪村は深く礼をして、庭園の出入り口で待つ四辻の元へと走った。

 八尋と永明は、ふたりの霊狐を背負って、雪村を追うように歩いた。

 甘く見すぎていた。狐と狸の隔たりは、そう簡単に崩すことなどできないと痛感する。

 八尋は自分の無力さ、悔しさ、申し訳なさで、歯を食いしばりながら涙を流す。その様子を見た永明は、かける言葉が見つから無い。ただ、八尋の名だけを呟いた。

 その言葉すら、今の八尋に届くことは無かった。

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