狐狸裏参道

@raccoontanuki

第1話

 昔、この村がまだ小さな村里だった頃。とても仲の良い狐の八尋(やひろ)と狸の五十五(いそご)がおりました。

狐の八尋と狸の五十五はいつも一緒に過ごし、ご飯を食べる時も、寝る時も、遊ぶ時も一緒でした。

ある日、狐の八尋と狸の五十五は山の参道を歩く若い神主を見かけます。神主は里から持ち帰る荷物でいっぱいです。すると神主は、歩く途中に荷物を落としてしまいました。これを見かけた二匹は、助けてあげようと神主に駆け寄ります。近づく二匹に気づいた神主は、荷物を取られてしまうと警戒します。しかし、落とした荷物を集めてくれる狐と狸の姿を見て、感銘を受けました。狐の八尋と狸の五十五は、荷物を分けて持ち、神主を山の社まで運びました。社に着いた神主は、「私の名前は、雪村(ゆきむら)と申す。今日の事は助けになった。」と二匹に深く頭を下げ、感謝します。

 二匹は初めて人の役に立てた事に喜びました。二匹は神主と別れた後、今日の出来事で大はしゃぎでした。その日の夜、狐の八尋は狸の五十五にこう言いだしました。

「俺は今日のように、人を助ける事がしたい。色んな人の助けになれるように、あの社の神様になる!」

それを聞いた狸の五十五も、同じ思いで狐の八尋に答えます。

「僕も社の神様になりたい!八尋と一緒に、里のみんなの助けになりたい!」

その言葉を聞いた八尋は、じゃあ一緒になろう、と五十五と約束をしました。

こうして、狐と狸は社の神様になろうと、人助けに駆け出します。


 狐の八尋はまず、人を知らなければならないと思いました。しばらくの間、参道を行きかう人々をじっと眺め、どんな人がいるのだろうかと観察します。参道を歩く里の人達は、こちらをじっと見つめる八尋を見て警戒していました。警戒する里の人を見て、八尋は狐である自分を、あまり良い目で見られていない事にまず気づきます。人助けをするのにも、まず人間と信頼関係を持たなければならないと考えました。

 そこで八尋は、社に居る神主の雪村を見て学ぶ事にしました。雪村は、人と出会うと頭を下げ、話をすれば微笑み、申入れがあれば襟を正します。八尋は雪村から見たことを真似をすることにしました。参道で人と出会えば、姿勢を正し、頭を下げます。それを見た里の人達は「あんな礼儀正しい狐が悪い狐のはずがない」と八尋の事を良きものと話し始めました。この話は社にも届き、雪村は八尋を社に迎え入れる事にしました。社に迎えられた八尋は喜び、雪村から様々な事を学び始めます。人との礼儀や道徳といった考え方、読み書きといった知識も教わりました。

 知識を得た後は、ひたすら修行が始まります。筆を咥え祓詞(はらえうた)を清書し、何度も口に出し読みました。書き間違えれば雪村にきつく叱られます。厳しい教えが続き、八尋は何度も泣きそうになりました。もっとも、八尋にとって何より苦しい修行は、水に打たれる行でした。穢れを落とし、身を清める。頭にかかる水が首を伝い、背や腹を通り抜けることで、今まで穢れた山狐だった八尋自身を落とされていく感覚が何よりの苦痛でした。八尋が少しでも気をそらせば、雪村にはすぐ分かります。雪村は八尋のためにも、我が子のように八尋を厳しく指導しました。

 どんなに苦しい日々が続いても、八尋は諦めませんでした。くじけそうな事は何度もありました。そんな時、八尋はいつも、親友の五十五の事を思い出しました。二人で神様になる約束を八尋は必ず果たすと、心に決めていたからです。そして八尋を指導する雪村も、参拝に来る里の人達も、八尋の修行の実がなる事を願いました。

 夏が過ぎ、夕暮れが早くなった秋頃。ついに八尋に変化が訪れました。祓詞を読み終えた八尋は、自分の姿が変わっている事に気が付きます。手は人と同じ、身体も人の形に近く、人と同じ声が出せる事に気づきます。八尋は四つ足の山狐から、人に近い形を持った霊狐へと生まれ変わりました。霊狐となった八尋は神通力を持ち、雪村や里の人達に恩返しをするように里や山に豊穣をもたらしました。

 こうして、雪村は霊狐の八尋を祀り、社を『八尋神社』と改名しました。八尋が霊狐となってからは、神社には多くの霊狐が集まり、八尋と共に里と山を守りました。

 八尋は夢であった、神様となり、豊穣の神として人々から信仰される事となりました。


 一方、狸の五十五は人助けをするといっても、具体的に何をしたらいいのか良く分かっていませんでした。とにかく里へ行ってみようと思いついた五十五は、人通りの多い場所を目指しました。

 里についた五十五は驚きます。少し前まで田んぼや畑ばかりだった里に通り道ができ、商人が行きかう町屋ができていました。初めて見る景色に、五十五は好奇心で町屋を歩きます。たくさんの人達が色んな話をしているのは分かりますが、いったい何の話をして笑ったり怒ったりしているのか分かりませんでした。

 町を歩いていると、茶屋から出た男が五十五に気づきます。すると男は、「なぜ町屋に狸がうろついているのか。店主よ、説明をしろ」と怒鳴ります。慌てた茶屋の主は、棒で五十五を追い払います。突然の大きな声と、棒を振り回す店主に五十五は驚き、町屋から一目散に逃げて行きます。五十五はなぜ追い払われてしまったのか、考えても分かりませんでした。もうあの茶屋に近づくのはやめよう、そう決めた五十五は別の店を見て回りました。しかし、どこへ行っても追い回され、五十五はそのたびに慌てて逃げます。

 数日後には、妙な狸が町屋を歩いているという噂が広がり、五十五は人に見られる度に追い払われてしまいます。追い払う人の中には、石を投げたり刀を振り回す人もいました。五十五は逃げていくうちに、自分を守ろうと何かに化けたり、人を惑わす術を覚えてしまいました。町屋に入れなくなった五十五は、昔から住まう里の農民の助けをしようと田畑を見に行きます。しかし、五十五の噂は里にも届いており、「化け狸が何かしようとしている」と警戒して追い払われてしまいます。五十五は、化け狸と呼ばれ続けてしまい、ついに五十五は山狸から人の形をした狸、妖狸となってしまいます。

 行く当てが無くなってしまった五十五が落ち込んでいると、無精髭の侍が五十五に近づきます。侍は五十五に「お主が噂の妖狸であるか。頼む、お主の力を貸してほしい」と頼みます。初めて人に頼られ、役に立てると思った五十五は喜んで侍の頼み事を受けます。「もうすぐ、この通りに城主とその娘がいる一行が来る。その一行に鬼が襲ってくるような化け術を見せてやってほしい。どうやら、その娘は大変妖物に興味があり、喜ぶ事間違いない。」もしうまくいけば、五十五もその娘に気に入られて、この町の人達に認められるかもしれない。と侍は五十五に話しました。五十五は逃げるためだけに使っていた化け術が、人を喜ばせるために使えるかもしれないと思い、全力を尽くすことを決心します。

 その日の夜、五十五は一行が通る町屋に隠れます。そして、ついに一行の先頭が見えました。先頭には城主と、娘がいるであろう籠が見えました。五十五は勇気を出して、一行に負けない数の妖怪を化けて見せます。一行は大変驚き、娘は悲鳴を上げます。家臣たちは刀を抜き城主と娘を守ろうとしました。そこに先ほどの侍が飛び出し、幻の鬼たちを斬り倒していきました。侍は隠れている五十五の方に指をさし、「これはただの化け術だ、あそこにいる狸が城主と娘の命を狙おうとしているぞ」と叫びます。何が起きているか分からないまま、動けなくなった五十五を侍は引っ張りだします。「こいつは町で噂になっている悪逆非道の化け狸。この場で斬り捨ててしまおう」と刀を振り上げます。もう耐えられなくなった五十五は、持てる力全てを出して化け術を町屋中に見せて逃げました。この事件から、城下町の化け狸として五十五は知れ渡ってしまいます。

 その後、事件を聞きつけた別の妖狸が城へ集まり城主に話しました。二度とこんな事件が起きないように、狸の神通力で城と町を守ると約束します。町を守る代わりに、町には狸達が住み着くようになりました。

 五十五は山に戻って、ひっそりと暮らすことを決め、町には穏やかな日が戻りました。


 少し前までの気だるい暑さが嘘みたいに、心地の良い風が身体を撫でる。村里の稲も黄色く実り、重そうな首をさらさらと揺られていた。その景色の隣で、数人の人が何かを話していた。おそらく水田の主であろう村人と、神職のような装束の男と、狩衣と烏帽子をした少年がいた。神職の男は、いかにも神社から来たのであろうという成人の男性。だが、少年の方は違った。少年の姿は、実った稲のような黄金色をした身体にピンとした耳、まさしく狐の姿をしていた。

 「度のお力添え、本当にありがとうございました。今年も稲の出来が良いと、皆喜んでおります」

 村人は狐の少年に拝むように礼をし、狐の少年は頷く。風とともに水田は黄色く波打ち、その景色に狐は笑みを浮かべ。

 「里の者達も、心を込めて作をしておったであろう。お主達の祈りとその姿を見て、私は力を添えたまでだ」

 「本当にありがとうございました。今年は、領主様への納めに苦しむこともありません。ワシ等はこれからも、八尋様の御尽力のまま営んでいくつもりです」

 八尋様、と呼ばれた狐の少年は首を傾げ、指で顎下を掻く。八尋の思いとは違った方を進もうとする村人に、少々困っている様子を見せる。村人たちの願いを突き放す理由も無い、しかし八尋自身には違った思いもあった。

 「私は霊狐であり、お主達の領主ではない。人と人が世を変え、私達神霊は側で支えるべきものと考えている。私が人を導けば、私の為にお主達は働くであろう。だがそれでは、お主達の願いの主とするものが無いのだ。私の言葉に働く者も居れば、疑う者も居る。それは次第に派閥が分かれ、争いにもなる。私はそのような事、何一つ望んでおらぬのだ」

 自身を信じてもらえるのは、八尋としても、とてもありがたいことだった。信仰無しには社の主神となることはできない。信じ、願ってもらえる者が居なくなってしまえば、薄々と消えていってしまう。それがこの地の神々である。人のいなくなった地で、うっすらと忘れられた地神は少なくない。

 一方、自らが主となってその地に名を置くことも八尋の本意でもない。派閥による争い、というもの。八尋のいるこの時期、神道のほかに、仏を敬う仏教も広がりつつある。似た性質のものもあり、今のところなじみ合っている。また、霊狐の中でも、八尋のように社の主神となることもあれば、主神の眷属として仕えている者もいる。

 この地では神道が主流、といった風潮が出来てしまえば、どこかでわだかまりができてしまうかもしれない。八尋はそうなりたくなかった。

 村人は目線を落とし、言葉を失ってしまった。八尋は続ける。

 「それに、領内は妖狸が守っているであろう。妖狸たちのおかげで領内は他国から攻められる事も無く、他の妖の類からも町人を守っていると聞く。領主殿も妖狸を良く思っていらっしゃる。霊狐だけでなく、彼らとも友好を築いてみてはどうであろう?」

 村人の一人が渋そうに口を開き前置く。

 「八尋様も耳にしたことがあるやも存じませぬが…」

 八尋は、ふむ、と漏らし顎下を指で撫でる。

 「確かに妖狸たちは領内を守っております、その力は領主さまも認められるようにワシ等も頼りにしております。しかし、妖狸達には自分勝手な者も多く、統率が取れていないのです」

 話を聞くに、妖狸は領内を守るという約束はしているものの、食物や衣服、酒などを遠回しに求めるようになっているという。そして要求に従わなければ町に盗人が現れると聞いた。町内では、盗人は妖狸が化けているのでは無いかという話も広まっていた。この事から領主は、できるだけ妖狸の要求に従うようにしている。それにより近年から年貢の種類や量が増え、農民や町民の生活にも負担となりつつあるようだ。一方で、町屋にも妖狸たちが出入りすることも増え、人と妖狸が入り交じり賑やかになった面もある。人と妖狸が領内で生活している話は隣国にも届き、様々な人たちが興味を持って町屋に来る事も増えた。妖狸たちのおかげで、町屋が栄えていっているのも事実だった。 妖狸たちは、自分たちのおかげでこの国が栄えている事に誇りを持っていた。町人の中には、狸を崇拝し、納め物をしている者も少なくない。故に、狸に疑心を持つ者は言いふらされ、ある日突然、狸に化かされるという話も耳にする。賑やかになっていく一方で、どこか息苦しさを感じさせられるらしい。町屋を見た農民達は、霊狐達が集う八尋神社を拠り所にしていると村人は語った。

 八尋は村人の話を傾聴していた。村人の話は、少なからず八尋の耳にも入っていた。そして、こうして直接話を聞くことで、村人が自分自身を頼る理由も体感した。確かに狸達に問題があると分かっていた。だが、八尋は狸たちの悪い話を聞く度、気持ちを曇らせていた。八尋は隣に連れていたの神主を見上げる。目を合わせた神主は八尋の表情を伺う。しかし、目を伏せ首を振った。言いたい事は分かるが、言うべきではない。そう告げられたかのように八尋は気持ちを抑え、村人に話す。

 「分かった。お主達の状況が良くなるよう、私も願っておる。力になれる事があれば、また話すと良い」

 村人は深く礼をする。村人の一人が神主に納め物を渡した。八尋と神主は軽く礼をし、神社へ戻る道へと歩いていった。



 八尋神社は山麓にある村より、少し上った山の中にあたる。参道へ入ると、八尋の身体をひやりとした山風が迎えてくれる。参道は木漏れ日を瞬くように映し、青い草木はさらさらと音を立て、川の清らかな匂いがくすぐる。八尋はこの生まれ育った山が大好きだった。幼い時に何も感じなかったこの山が、今では愛おしく思える。

 「何はともあれ。今年は田が実って安心したよ。村も、温かく冬を越せるだろうね。雪村の助けのおかげで、俺の霊術も上手くいったし」

 雪村と呼ぶ神主の男に、八尋は友人のような口調で話す。

 「とんでもございません、八尋様のお力による結果ですよ。村のためにと、朝まで霊術をされている日も何度あったことでしょうか」

 雪村は見えない所で子供らしくなる八尋を見て、微笑んだ。「その口調も、我慢できましたね。」と八尋を茶化した。八尋は固い口調が、あまり得意では無いらしい。

 「ああもう、まだ慣れないんだよね。確かに礼儀が大事なのは分かるんだけど、やっぱり俺はこういう喋り方の方が気持ちが伝えられて好きかな」

 めんどくさがる様子を見せる八尋に、雪村はやや困った表情を見せていた。

 「ですが、八尋様…」

 「分かってるって、俺の他にも霊狐達が多くいるんだ。俺がしっかり学んで、他の霊狐達の手本にもならなきゃいけないんだって」

 「そうですね、それを忘れなければ私も安心です」

 雪村は葉包みを取り出し、紐を解いた。

 「それと八尋様。村からの納め物ですが、面白い品を頂きましたよ」

 八尋は葉包みを覗き込み、疑問を浮かべる。

 「油揚げ?確かに町屋で人気になっていると聞くけど」

 「町屋の人から聞いたことがあります。他国では狐の神様や眷属様への捧げものに油揚げが流行っているそうで。なにやら、油揚げと狐様の色が似ているそうで」

 それに狐は油揚げが好き。という話もされているようだ。「八尋様はいかがでしょうか」と、雪村に訊ねられ、八尋は笑ってしまう。

 「なるほどね、確かに油揚げは好きだよ。雪村が初めて出してくれた時に、すごくうまかった記憶があるぞ」

 「では、今日にもお出し致します。きっと、お気に召していただけるでしょう」

 「今日の楽しみが出来たな」


 まるで親と子のような言葉を交わし、参道を歩いていく。八尋は幼い頃から親元を離れて生きていた。八尋にとって、面倒を見てくれている雪村は父親のような存在に思えていた。しかし、今の八尋には足りない存在がいた。幼い頃から八尋と共に暮らしていた、狸の五十五(いそご)だ。八尋には、五十五との思い出が沢山ある。春は蛇や兎を追い回し、夏は川辺で跳ねまわり、秋は落ち葉に潜ってかくれんぼ。寒い冬も、身を寄せて乗り越えていた。犬に囲まれれば、八尋が狐火で追い払う。熊に襲われれば、五十五が化け術で脅かした。どんな四季でも一緒に楽しみ、どんな危機でも一緒に乗り越えてきた。八尋と五十五は、家族以上の存在であった。

 八尋と五十五が別れたのは、二匹で神様になると約束した日からである。八尋は修行の日々の中でも、五十五のことを思っていた。五十五が町屋に行くことを知った八尋は、町屋の話になると耳を立てて聴いていた。しかし、町屋の化け狸の話が社に来た時から、雲行きが怪しくなった。人を化かして近づこうとする狸と聞き、八尋は五十五の事だと直感した。八尋は修行の合間にも、五十五に良い縁があることを願い続けた。しかし、それも叶うことはなかった。八尋が霊狐となった時には、五十五は妖狸と呼ばれてしまっていた。行き場を失い、泣きながら八尋の元へ戻った五十五から全ての話を聞いた。自分がやろうとしたこと、うまくいかなかったこと、やってしまったこと。自分の命を守るための化け術が次第に強大になって、町人を脅かしてしまったこと。八尋は雪村を呼び、化け狸と呼ばれる五十五の弁明をした。雪村からは、「化け騙し、成した事が、どのように人の為になりますか。」と言い渡され、八尋は何も言い返すことができなくなった。それでも八尋は、今も五十五のことを想い続け、二人で神様になることを諦めていなかった。

 五十五の事となると八尋は思いつめてしまう。八尋は右手で顎下をかりかりと掻く。何か、五十五に縁が持てるきっかけは作れないだろうか。両手を袖に入れるように組み、思考する。確かに五十五は、化け術で町を混乱させたこともある。しかし、それは自分の命を守るためだったことも間違いはない。そして、他の狸達の行いから狸は自分勝手の厄介者というレッテルが張られている。町屋や村、そして八尋神社に至っても厄介者のレッテルが定着してしまっている。

 一方で、狸の妖力が人々を守るということも間違いはない。そして狸を信仰することで、出世ができるという『狸信仰』なるものが町屋で話になっていることもあった。この領内ではいわゆる、『狐派』『狸派』といった派閥に近い図となってしまっている。二つに派閥ができると争いが起こる可能性がある。八尋は村人に言ったように、対立する何かが生まれる事を嫌っていた。幼き頃の出来事が原因であるが、今はまだ語るところではない。とにかく、以前から八尋は狐と狸同士に縁を持つことができないかと悩み続けていた。

 「八尋様。やはり、狸たちの動きが気になりますか」

 八尋の考えを当てるように、雪村は話す。あえて目線を合わせないように、景色を眺めながら答えた。

 「言わずとも分かってるだろうに。俺は、狸たちとも縁を結びたいと今でも願ってる」

 「あの妖狸のことでしょうか。ですが、あの狸は…」

 「俺の何よりも大切な者だ。お前も分かっているだろう」

 きつい声色で八尋は話す。

 「あいつが泣きながら俺に元に来た時の、お前の行動は今でも覚えている。お前の間違ったことは何一つない。けど、俺には許せられないことだったけどな」

 八尋が霊狐になってからしばらくして、妖狸の五十五が八尋神社に訪ねに来た時だ。社の霊狐達は、社を脅かす妖が来たと騒いでいた。雪村も霊狐も臨戦態勢になっている中、矛先を向けられているのは狐たちに怯える五十五の姿だった。八尋は急いで霊狐達を引かせ、五十五の元へ駆け寄った。しかし、霊狐になった八尋だからこそ、五十五がどれだけ穢れた存在になっていたかも分かってしまった。五十五に触れようと、八尋は手を伸ばした瞬間、「八尋様、触れてはなりません!その妖は穢れに満ちています!」と静止させた。その言葉は、八尋、五十五、二人の心に刺さった。家族以上の存在である者が、泣きながら自分の元へ来て、なぜ触れることすら許されないのか。その時、八尋は初めて雪村に敵意を覚えた。

 八尋にはあまり思い出したくない記憶のひとつだった。昔から、これからもずっと世話になるであろう神主の雪村に友人を拒絶されたのだ。しかし、それでも夢を諦めないと決心したきっかけの一つでもある。どんな状況になっても、五十五を必ず社に迎え入れてあげたいと。 

 「あの時の非礼は、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。ですが、私とて八尋様のことを何よりも大切なお方と思っております」

 この話を続けても良い雰囲気にはならないと考え、八尋は話を続ける。

 「…兎に角。俺はなんとしてでも、狸達との縁を結びたい。狐と狸って、なんで別れなきゃいけないんだよ」

 「町の妖狸たちの実力は、領主様が認めておられます。あまり事を荒立てたくないのでしょう。狸たちの言いなりになってるのも、民の安全の為なのでしょう」

 「村人たちだけの話じゃ、分からないことが多すぎる。俺は、この地から離れたことが無いからな…」

 そうですね、と雪村は顎に親指を添えた。

 「一度、領主を交えて狸たちとの談話の会を持つのはいかがでしょうか」

 狸たちと縁を結ぶことにあまり乗る気ではなかったと思い込んでいた八尋には、その提案に驚いていた。

 「私の方から、領主様へ文を送っておきます。話が決まり次第、八尋様にお伝えします」

 「本当か、よろしく頼むぞ」

 やはり、雪村は頼りになる男だ。八尋に対して申し訳ないと話していた雪村に対して、自身もまた、自分勝手な願いにも付いてきてくれることに申し訳なさを抱いた。

 八尋は山の匂いを嗅ぐ。透き通った空気が八尋を落ち着かせた。

 しかしそれでも、八尋の心を満たすものが足りなかった。


 二人が話している間に、八尋神社の鳥居と石段が見えてきた。五十五段ある石段の中腹辺りで、松葉色の装束を来た霊狐の少年がいた。顔つきや身振りから、八尋よりもっと年下の幼子のようだ。八尋たちに気づくと、手を振って迎えてくれる。「八尋さま!お帰りなさい!」と、手には竹ほうきを持っており、石段の掃除をしていたことが分かる。八尋が傍まで上がると、懐くように一緒に登っていった。

 「掃除してくれていたのだな、偉いぞ」

 「ありがとうございます!祝詞も終わったので、八尋さまがお帰りになる前に境内をきれいにしておこうと思いまして」

 「その心遣い、大変嬉しく思うぞ。掃除が終わったら社殿へ戻りなさい。村の方からの頂き物をお持ちしましょう」

 「とんでもございません!その役目なら僕が致します!八尋さまこそ本殿でお休みになられた方が…」

 霊狐の子は、慌てるような身振りを見せる。

 「いや良い。私はおぬしの行いに感謝しておる。その行為に、お礼せねばな」

 「あ、ありがとうございます…。では、お掃除の続きに行ってまいります!」

 霊狐の子は箒を持ち直し、八尋に深く礼をする。そして慌ただしく石段へと向かっていった。

 様子を見ていた雪村は微笑み、八尋に話す。

 「あの子の言う通りですよ。掃除が終わるまで一刻はあるでしょう。それまで本殿でお休みになられた方がよろしいですよ」

 後のことはやっておきます。と付け足し、雪村は社殿へと向かっていった。

 二人に言われた通り、八尋は本殿で身体を休めることにする。八尋は拝殿の周りを歩き、遠回りするように本殿へ向かう。先ほどの霊狐の子が掃除をしてくれたおかげか、拝殿から本殿に向かうまで葉ひとつも落ちていなかった。境内のあちこちで霊狐の姿が見えるに、八尋神社には狐たちが集まっているのが分かる。

 霊狐たちは八尋の姿が見えると、「八尋さま、おかえりなさい」と声をかけていた。声をかけられれば「ただいま」「ええ、帰りました」と返事をする。霊狐たちに迎えられながら、八尋は本殿へあがっていった。

 ふと息を整えてから、八尋は本殿の大きな戸を開く。ちり一つない木床に、奥は数段高くなった造りとなっている。御神体、ここでは八尋自身を祀る。両側には、榊(さかき)や御幣(ごへい)といった神具が置かれている。八尋自身の見た目はどうであれ、この場を見ると、畏怖を感じさせられる参拝者も多い。参拝者の想い、願いを聞き入れる大切な場所である。ここでは気を抜くことは許されない、そう八尋は認識している。

 八尋が休む場所は、この本殿のさらに奥の部屋である。本殿の戸を閉め、段を上った右端に扉がある。そこをくぐり、中庭の見える縁側へ出た。縁側の途中、障子を開くと8畳ほどの簡素な和室があった。この部屋が、八尋の自室である。机の下には書道具が、傍には燈台が置かれてある。読みかけていたであろう本が、傾いて積まれていた。

 先ほどの本殿、神域とは落差を感じさせられる。まるで、名の無い貴族と変わりのない生活空間であった。八尋は烏帽子を取り、狩衣を緩めて脱ぎ捨てた。小袖だけになり、だらしなく腕を伸ばし、寝転がった。昼下がりの中庭をぼんやりと見つめ、はあ、とため息をつく。

 八尋は気づけば眠ってしまっていた。八尋は小袖のまま縁側に出て、風を嗅いだ。半刻ほど寝てしまったと気付き、狩衣の着付けをしようと自室に戻ろうとする。ふと、懐かしい匂いが八尋の鼻をかすめた。振り返ると、中庭に手紙が落ちていた。八尋は縁側から降り、砂利の音を立てながら手紙を拾う。簡単な三つ折りにされた手紙を開き、中を読む。

―――今夜、八尋の元に訪ねに参ります。

 手紙の終わりには、『五十五』と書かれていた。名前を見て、八尋は様々な感情が入り交じり、言葉を発せられなかった。ただ一つ。八尋に安心した表情が伺えたことは確かだった。気づけば、八尋の手から手紙が消えていた。そのことに、何も不思議だと感じる様子も見せず、八尋は着付けに取り掛かった。

 今夜、五十五が自室にくる。何を話し、何をしてあげられるだろうか。いや、まだ気を抜くことはできない。日が暮れるまでやるべきことが、八尋にはまだ残っている。一先ず、霊狐の子に菓子でも用意してやろう。八尋は村からの頂き物を霊狐たちに出す準備をしようと、社殿に向かうことにした。


 社殿の者たちと夕飯を済ませた後、比較的自由な時間となる。自室へと戻った八尋は、火打ち石で燈篭に火をつけた。装束を脱ぎ、小袖になった。脱いだ服を畳んだ後は、出たままだった本が目に入り、隅へおいやる。

 ふと八尋は縁側に出て、外を眺めた。すでに辺りは暗くなりはじめ、上空には星がきらめいていた。八尋神社は周辺に結界を貼っており、妖の類が襲ってくる心配は無いと言ってもよい。闇の向こうは、何も見えず、気配も感じない。

 八尋は背を伸ばし、風を嗅いだ。葉のすれる音に耳を立て、八尋の意識に入っていく。まだ来ないか。八尋は自室へ戻り、足を組んで座る。障子を開けたまま、友の訪ねを待った。中庭から入る風で、燈篭の灯りが揺らめく。

 待ち続ける間、八尋は目をつむり、気を落ち着かせていた。全身の力を抜き、耳を寝かせ、なお草の音ひとつ聞き逃さず、ただ五十五を待った。

 ふいに八尋は、耳をぴん、と立てる。中庭の砂利を踏みしめる音が聞こえ、八尋は中庭を見る。月明かりに照らされた中庭に、神職の装束を着た一人の霊狐の少年がいた。霊狐の少年は八尋の元へゆっくり歩く。八尋は立ち上がり、縁側を降りて霊狐を迎える。お互いが触れ合える距離まで近づいた。

 「待ってたよ。ほら、おいで。誰も来ないから大丈夫」

 八尋は霊狐の少年に目線を合わせ、穏やかな表情で話す。霊狐の少年は、こくりと頷く。八尋は霊狐の少年の手を引き、二人は部屋に入った。

 八尋は霊狐の少年を座らせた後、自室の障子を閉める。懐からお札を出し、何かを唱えてから戸口に張った。八尋は振り返り、霊狐の少年の傍に座る。そして、霊狐の少年を強く抱きしめた。霊狐の少年は、驚いた様子を見せた。それも間もなく、霊狐の少年も八尋を抱き返した。この瞬間、八尋は何ものにも代えがたい気持ちを湧き上がらせていた。友情なのか、家族としての大切さなのか。とにかく、絶対に手放したくない存在と思えた。

 しばらくして、八尋は霊狐の少年に話しかける。

 「五十五。今はいいんだよ。狐のままでいなくても」

 五十五。と呼ばれた霊狐の少年は、八尋の手の中で首を振った。

 「でも僕、狐がいい。このままでいたい」

 弱々しい声で、五十五は答えた。その答えに、八尋は「大丈夫」と語りかけ、五十五の頭を撫でた。八尋の抱擁に五十五の目から涙がこぼれる。すると、姿がゆっくりと変化していく。八尋と同じ黄金色の身体は次第に茶色くなり、顔つきも、耳も丸くなっていく。気づけば、五十五は、狸の姿となっていた。

 八尋は五十五の全容を見る。五十五の身体は跳ね毛などは見えず、整えてきたのであろう雰囲気が感じ取れる。だが、村衣服のところどころに汚れが見える。八尋の鼻に、どこか獣の臭いをかすめた。川で身体を洗っているつもりなのだろうが、あまり綺麗なものとはいえなかった。しかし、八尋はそのようなことで五十五を拒む気持ちは持たない。

 「来てくれてありがとな。俺も、五十五のことが心配だったんだ」

 「八尋…僕ね、ずっと一人でね、でも諦められなくてね、だから…」

 五十五は伝えたい事がごちゃごちゃになってしまい、とにかく湧き出た感情から口に出していた。五十五は言葉にするたび、抑えていた感情が湧き上がっていった。八尋は五十五の言葉に、うんうんと頷き、五十五を幼い子供を落ち着かせるように背中をさすった。その間、五十五はしばらく泣き続けていた。

 吐き出すものを吐き、五十五も落ち着いていった。五十五は鼻をすすり、目元を袖でぬぐった。五十五は八尋と正面で顔を合わせ、はにかむように笑った。五十五が泣きじゃくっている間、八尋は見ないようにしていた。八尋は五十五の目元と鼻は赤みを見て、昔の五十五との日常を思い出した。八尋は、くしゃくしゃになった五十五の顔の体毛を、親指で整えてあげた。

 「お前は本当に、昔から泣いてばっかりだな」

 八尋の言葉に、五十五は目を逸らしながら目元を指で掻いた。

 「つらいことがいっぱいあって、ずっと我慢してたんだ…。ただ、八尋に打ち明けていくうちに、色々いっぱいになっちゃって、それで…」

 きまりが悪そうな五十五を見て、八尋は微笑んだ。それとともに、八尋の中で曇った気持ちが晴れていく感覚を覚えた。ああ、いつもの五十五が戻ってきたと安堵する。「どうかした?」と五十五がたずねるが、八尋は「いや」と、軽くはぐらかした。八尋は立ち上がり、五十五に話す。

 「茶でも出すよ、ちょっと待ってて」

 八尋は座布団を五十五に出し、座らせて待たせることにした。八尋は襖を開け、奥の部屋へと消えていく。五十五は足を組んで座り、八尋を見送った。

 襖を開けると、八尋の自室に隣接して土間があった。部屋の中央には囲炉裏があり、段を降りると台所がある。寒い冬になると、八尋は囲炉裏を使って暖を取る事が多い。都合上、一人で使う機会しか無い。八尋は、いつか五十五と二人で暖を取りたいといったささやかな思いがあった。囲炉裏を過ぎ、段を降りて台所へ向かう。かまどの近くには、八尋の背丈の半分くらいある大きな瓶があり、中には澄んだきれいな水が入っていた。

 八尋は柄杓で水をすくい、釜へと注ぐ。しゃがんで火炉に指を入れ、集中する。すると、八尋の指先から小さな狐火が現れ、緩やかに火炉に広がっていった。火が付いたのを確認した八尋は、茶道具をそろえて湯が沸くのを待った。土間に入る風も冷たくなり、八尋は両手を袖に入れ腕をさすった。もう肌寒くなる時期だ。村や町はまだ暖かさが残っているが、山中にある八尋神社では一足先に秋風が知らされている。

 湯を待っている間に、八尋はふと気づいた。これまで寒い時期は何度もあった。八尋は寒さをしのげる神社にいるし、先ほどの囲炉裏で暖も取ることができる。しかし五十五はどうだろうか。五十五の家は見たことは無いが、五十五の恰好を見れば余裕のある生活とも思えない。それに一緒にいたころと違って、一人で冬を越さなければならない。五十五に居てほしいと願う中、今の五十五は一人で厳しい世界を生きるしかない現実に気づく。考えるほど残酷ではないかと、八尋の表情は曇っていく。

 よそ見をしている間に、釜が音を立てていることに気づく。しまった、沸かせすぎた。八尋は急いで火を消すが、茶を飲むのには熱すぎる湯になってしまった。もうしばらくだけ時間をおいてから、茶をいれることにしよう。八尋はうかがうように湯気を手に当て、頃合いを待った。


 茶をいれるには少し遅くなってしまった。八尋は茶と頂き物の餅を盆に用意し、自室へと戻った。襖の前に盆を一度置いて、八尋は声をかけた。

 燈篭の灯りの中、ふたりは向き合うように座りなおした。最初に切り出したのは五十五だった。

 「僕ね、最近はずっとこの山で暮らしてるんだ。やっぱり、八尋と同じところが良くて…。妖狸って呼ばれちゃってるから、妖気が出ないようにしなきゃいけないんだけど…」

 八尋神社が名を持ち、神霊たちが集まり始めてからは、この山にとって妖の存在は異質なものだった。妖気とは文字通り妖が身に纏う穢れを指す。この世に存在する全てのものには、俗にいう『嫌な感じ』とも呼ばれる気配を察知する力を持つ。妖のいなくなった山では、外部から妖が入れば神霊たちに気づかれ、すぐに追い出されてしまう。故に妖は神霊の集まる場所には近寄らず、妖は妖の集まる場所にとどまる気質がある。詳しく語ると間違いもあるが、現在の狐と狸に分けられているのも、この性質に似たところがあるともいえる。

 「この山で妖気を隠しながら住むなんて、五十五はすごいな。もうこの山は神霊たちしかいないから、妖が入ればすぐ分かってしまうというのに」

 八尋は五十五の住処が自分の山にある話を聞き、驚いた表情を見せる。五十五は妖気を隠すと簡単に話したが、実際には山の神霊や神社の霊狐、それどころか神主の雪村や八尋本人にも気づかれないほどの化け術を持っているということとなる。五十五が町屋の化け狸、大妖狸と呼ばれてもおかしくない力を持っている。八尋は、五十五の化け術に少し誇りを思っていた。

 「隠れたり、ごまかしたりするのは得意だから…。それに八尋だって、僕が化けてるのにすぐ分かっちゃうじゃない」

 五十五は、珍しく自身の力を褒められて、照れくさそうに指で目元をかいた。

 「あはは、お前といつから一緒に居たと思ってるんだ。お前、しょっちゅう神社の中に隠れて入ってるだろ。見かけない霊狐がいると思えば、気を凝らしてみると五十五だったりしてな」

 八尋にも気づかれずに、神霊たちの領域に侵入する。とはいえ、八尋も五十五の気配を全く感じれないわけではない。長年の付き合いだろうか、五十五の存在を感じるといった八尋の勘ともいえるものがあった。どんなに精巧に化けた五十五であっても、八尋がふと近くにいくとばれてしまうのだ。

 「八尋と目があう時は、いつもビクッとしちゃうんだよ。なんで分かるのって」

 あはは、と八尋は笑いながら親指で顎下をかいた。燈台の灯りが、ふたりの影を楽し気に揺らす。

 「神社の結界すらごまかして入るどころか。境内の狐や、あの雪村ですら分からない。五十五の化け術にかなう奴は見たことないぞ」

 八尋は五十五に隣に座布団を移し、足を組んで座る。片手で後ろから、五十五の頭をわしゃわしゃと撫でた。五十五は撫でられることが嬉しい表情を見せる。しかし、直後に複雑な表情を浮かべて八尋に話す。

 「八尋は…もう僕と触っても大丈夫なの?今も、僕から妖気がいっぱい出てるみたいだし…」

 五十五は心配になり、自分の胸元を触る。五十五は分からないのだろうが、八尋にははっきりと分かる。大妖狸と呼ばれてもおかしくない、強大な気が立ち込めていた。五十五の曇った表情を見た八尋は、五十五を落ち着かせようと、撫でていた手で五十五を抱き寄せた。

 「俺だって霊狐になったばかりの頃とは違うさ。ちゃんと修行して、お前に触っても問題ないくらいにまではなった。それに、触れられるようになったのも、こないだが初めてだしな」

 抱き寄せられたことに少し驚いた五十五だったが、八尋の言葉と温もりを受け、安心した様子を見せた。五十五は「ありがとう」と、本当に小さな言葉で呟き、八尋に頭を預けた。

 八尋が障子に札を張ったのは、何かがあっても誰も入ってこれないようにするためである。雪村には、何者かに襲われないように眠る時には結界を張る。と都合のいい話をしたが、雪村は何も疑問を浮かべなかった。主神自らが身を守る姿は、何も不自然なことでもない。そして、五十五と出会う時には、かならず自室から妖気が漏れ出さないように結界を張っていた。さらに、五十五と二人で会うことが出来るようにと、八尋は必死に霊法を編み出した。そのかいあって、八尋と五十五は深夜にこっそり出会うことが出来るようになった。最初は中庭で霊狐に化けた五十五と話をするだけであったが、次第に部屋に招くことができるようになった。そしてひと月前に、八尋と五十五はようやく触れ合えるようになった。五十五と出会った後は、本殿と八尋自身を清めなければならない。妖気がつけば、霊狐たちにも気づかれる。何より、雪村に気づかれてしまえば八尋と五十五の関係は今度こそ終わってしまうと二人は考えているからだ。そのため、八尋と五十五は早くともひと月以上の間隔を空けなければ会うことができなかった。

 「この姿に戻るのも、僕も久しぶりかな。もう、狐の姿で過ごす時間の方が多くなってきたよ…」

 五十五は、ぼそりと打ち明けた。八尋は、その言葉に言い表せない寂しさに似た感情を覚えた。

 「どうしても、狸が嫌なのか?」

 八尋はたずねた。五十五は目線を落とし、ゆっくりと頷く。

 「だってね。狐の姿だと色んなことができるんだ。この前も迷子の人の子を家まで届けてあげられたし。野犬に襲われた人を助けようと、野犬に狐火を『見せて』追い払えたし…。狐の姿なら、僕が今までやりたかったことが出来るんだ」

 五十五は、狐に化けてできたことを嬉しそうに話す。小さなことから積み重ねて、八尋との約束を今でも果たそうとする五十五の姿がそこにあった。だが、八尋は狐としての五十五ではなく、狸としての五十五に傍にいてほしい願いがあった。狐としてのやったことを話した五十五は、言葉の最後に「八尋と同じ、狐に生まれたかったな」と呟いた。八尋の中で、狸の五十五が今にも消えてしまうのではないかと思った。

 「…五十五」

 八尋は、話を切り出した。真面目な声色で呼ばれ、五十五は目を据えて八尋と視線を合わせる。

 「近いうちに、領主と町屋の狸達を交えて談話を開くつもりなんだ。俺は狐だの、狸だのという隔たりを無くしたい。そうすれば、五十五も不自由なく俺の元に…」

 五十五は八尋の話を聞くも、あまり良い表情を見せなかった。八尋は、狐としての五十五の活動を否定してしまったのではないかと、はっと気づき言い直す。

 「ただ俺は、狸だからどうとかと言われるのが嫌なんだ。それなのに、みんな狸の話を持ち出して、五十五が巻き込まれてるのが納得いかないんだよ。それに…」

 八尋は息を置いて、続ける。

 「俺は狸の五十五と、一緒に神様になりたいんだ…」

 八尋の話を聞いている間、五十五は何か考え入った表情をしていた。八尋は五十五に向き合って、五十五の両肩に手を置いて話す。

 「俺、絶対諦めてないから。五十五と一緒に、神様になるって」

 八尋の最後の言葉は、はっきりと五十五の心に伝わったようだ。五十五は八尋に「うん」と笑って頷いた。五十五は八尋に抱き着き、八尋の胸元に顔をうずめた。

 自分に身を委ねる五十五の姿を見た八尋は、そっと両腕で包み込んだ。


 まだ赤みかかった空が見え始める中、山の動物たちは目を覚ましていた。野鳥の声が聞こえる。八尋は着物ひとつまとわぬ姿で中庭に正座していた。八尋の両隣には小さなかがり火があり、正面には穢れを吸って色あせた霊符が乱雑に積まれている。目を閉じ、両手を合わせてなにかを唱えている。八尋は頭から水を滴らせており、周辺の地面も濡れていた。清めのため、頭から水をかぶったのであろう。小さなかがり火が、どこか畏ろしく尾を長くしていた。

 唱え終えた八尋は、そっと立ち上がる。目をゆっくりとあけ、正面の霊符に視線を降ろす。八尋が右手を胸元に当て、集中する。かがり火の尾が、先ほどより強く、尾の先は大きな玉のようになっていく。八尋の身体は炎で赤みがかり、風で鼻先や身体に落ちる影が揺らめいていた。八尋は右手の指先をすばやく霊符に向けた。大きな火玉は弧を描くように、尾をなびかせながら霊符に飛びかかる。霊符は激しく燃え上がり、灰すら残さず消え失せた。八尋は手を合わせて一礼をして、自室へと消えて行った。八尋が自室の障子を閉めると、かがり火は役割を終えたかのように火が消えていた。

 八尋がやっていたことは、五十五と過ごした際にたまった穢れを落としていたのだった。五十五が触れていた場所はもちろん、過ごしていた八尋自身の穢れを落とす必要があった。神霊、霊狐は妖気といった穢れを特に嫌い、穢れがついたままであれば霊術にも影響を与えてしまう。もし、神社にいる霊狐が穢れを帯びてしまうと、他の霊狐たちが数人がかりで穢れを落とす作業をする必要がある。だが、八尋ほどの霊力があれば、いつも通り術を使うことができる。五十五と触れ合えるようになるまでに時間がかかった、というのは、八尋一人で穢れを落とすことができるようになる必要があったためだ。夜が明けて、穢れがついているのを霊狐や雪村に気づかれてしまうと、五十五との密会がばれてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。八尋にとって、五十五はなによりの宝物であった。五十五と会うたびに、その想いは大きくなっている。

 自室に戻った八尋は、衣装をまとっていく。本来、霊体である八尋は、わざわざ衣装を着るといった工程は必要ない。自身の思った姿を念じれば、自然と衣服も身につくのである。八尋が衣装を身にまとうという行為には、気持ちの切り替えのといった意味が大きくあった。自分は何のためにこの衣装を着るのか。そういった気持ちを、一つひとつ踏みしめていた。五十五のことだけを考える訳にはいかない。自分を必要とする人や、自分についてきてくれる霊狐たちや雪村もいる。そのためにも、八尋神社のご神体として振舞わなければならないのだ。八尋は狩衣をまとい、烏帽子をつけた。よし、と息づいた八尋は、障子を開けて縁側へ出る。ふと、中庭に出したままの、炭となったかがり火の跡に気づく。

 しまった、と八尋は顎下をかく。

 「折角だし、永明(えいめい)に霊術でも教えてやるか」

 八尋は炭を片付けるのが面倒と思い、手を借りる理由をいいように作った。


 八尋神社は、朝早くから霊狐たちが境内を清掃している。八尋は身支度を済ませた後は、霊狐たちの朝の挨拶に回っていた。八尋神社は一度改装をしてから一回り大きな神社となっている。

 神社の門をくぐると、見晴らしの良い境内に、それぞれ役割があるのだろう建物がいくつか見える。拝殿へと続く石造りのまっすぐの参道が中央にあり、道なりに手水舎が置かれている。中央右手、拝殿近くには参拝者の休憩所がある。その対角に霊狐たちの社殿が見えた。社殿からやや離れた位置に、鼓楼がある。鼓楼は、太鼓を叩いて時間を知らせるものに使われている。もちろん、火事などの警報としての役割もあり、太鼓の傍には鐘も設置されている。

 拝殿へと目を戻す。拝殿は石造りの平地に造られ、中央に賽銭箱がある。拝殿の扉をあけると、百人ほど収容できる広間が広がっていた。雨の日や、長時間の祈祷をする参拝者は拝殿の中に入ることができる。拝殿の裏には、塀で囲われた本殿がある。本殿には八尋が施した結界は張られており、八尋が招き入れない限りは入ることが許されていない場所である。八尋は時折、霊狐を招き入れ霊術を教えることもある。霊狐たちにとって、本殿に入ることは、何よりの誉れであると話もあった。

 八尋は境内を歩き、霊狐たちに「おはよう」と挨拶に回る。霊狐たちは八尋に気づくと、「おはようございます」と礼儀正しく頭を下げる。八尋は、ある霊狐がいないか見回していた。炭を片付けるついでに、霊術を教えてやろうと思いたときに名前が出た、霊狐の永明を探していた。どこにいるものか、と八尋は首元をかいていると、離れたほうから八尋の名前を呼ぶ大きな声が聞こえる。

 八尋が声のするほうへ顔を向けると、竹箒を両手に持ってこちらに駆け寄る霊狐の子どもが見えた。昨日、帰ってきた八尋に真っ先に挨拶をしていたやや幼い子だ。竹箒の子は八尋の側まで近づくと、大きな声で「おはようございます!」と深々と頭を下げた。下げた頭が戻り、八尋は竹箒の子と目を合わせて笑顔を見せ、「永助、おはようございます」と挨拶を返した。

 永助(えいすけ)と呼ばれた子は懐くように嬉しそうな笑顔を八尋に見せる。永明、永助と似た名前の通り、八尋が探している霊狐と、竹箒の子は兄弟である。

 「永助。永明をどこかで見なかったか?お前の兄さんに話があるのだが」

 「はい!えっと。確か休憩所を掃除した後、本殿回りの塀の掃除をすると言ってました!」

 どうやら挨拶回りをしている間にすれ違っていたようだ。なるほど、と八尋は本殿のほうを一瞬向き、顎に親指を置いた。八尋は、永助と目線を合わせるようにやや屈みこむ。

 「そうであったか、礼を言う。今日も早くから掃除ができて偉いぞ」

 八尋は永助の頭を撫で、微笑んだ。永助は嬉しそうに尾を泳がせていた。

 「では私はもう行きます。永助も、鼓の音が聞こえるまで頑張るんだよ」

 永助の頭から手を離し、八尋は袖に隠すように手を組んで話す。永助は、「はい!」と元気よく返事をして、深々と頭を下げた。八尋は本殿へ歩いていき、永助は手を振って見送った。

 

 八尋が拝殿の方まで戻ってくると、松葉色の袴を着た霊狐たちの中に、紫色の袴を着た永明がいた。落ち葉を掃いている永明に、八尋は近寄り声をかけた。永明は八尋に軽く礼をして、挨拶をする。

 「こちらにおったか。永明を探していたのだが、すれ違ってしまっていたようだ」

 「私を、ですか?手間をかけさせてしまって申し訳ございません。私が掃除してるところに、永助が張り切ってしまって。それで、こちらに来たんですよ」

 簡単に想像がつく永助の様子を浮かべ、八尋は笑う。

 「永明がここにいることは永助から聞いたよ。朝早くから清掃に励んでいるのを見ました。褒めてあげると、無邪気に喜んでおったな」

 その言葉に耳が動き、思わず竹箒を止めてしまう。

 「あいつったら調子いいんだから…。昨日の夜だって、一人で寝るのが怖いからと俺の布団に潜り込んできたんですよ」

 恥ずかしさとも、呆れとも言えぬ感情に思わず耳裏をかき、ぼやくように落ち葉を動かす。

 「それほど、永明を頼っているということでしょう。私も、永明には頼りにしておるからな」

 八尋神社の霊狐たちの中では、永明は少し位の高い位置にいる。他の霊狐よりも霊術が得意であり、知識も豊富であった。どちらかと言えば、物事に対する吸収力が高く、教わったことを身につけることが秀でているようだった。

 「そんな、買い被りすぎですよ。もっと知識も霊術も身に付けないといけないと、雪村さんや八尋様のようにはとてもなれません」

 「そうですね。確かに、永明のそういうところはいただけません。私や雪村は、おぬしを贔屓しているわけではありません。あなたの実力を認めて、その色をつけているのですよ」

 八尋は真面目な声色で、永明と目を合わせて話す。八尋は続ける。

 「未熟であるという自覚は、自分の中だけに留めておきなさい。永明以上に努力しても、永明の位に立てない者もいます。その者が、永明の言葉を聞けばどう思いますか?」

 永明は目線を落とし、自身の袴の色を見る。しばらく言葉を失い、永明は八尋と目を合わせる。

 「申し訳ございません、慢心しておりました。この位は、自分だけのものではないことを忘れていました」

 八尋は、永明にやや呆れ笑いを見せた。そんなに落ち込むことはないと諭すと、永明の表情からも緊張が和らいでいく。

 「そうだ。私は永明の説教に来たわけではない」

 八尋の言葉を待った。八尋は袖に隠すように手を組む。

 「今日のゆうげの後、本殿へ来てもらえぬだろうか。永明に霊術を教えてやろうと思ってな」

 「本当ですか、ありがとうございます。ぜひお願いします」

 その言葉を聞き、永明は無邪気な子供のように明るい表情を見せる。やはり兄弟だ。

 ふと、太鼓の音が聞こえてくる。清掃の時間が終わった合図のようだ。霊狐たちはきりの良いところで清掃を終え、談笑しながら社殿へと向かっていく。太鼓の音に気づいた八尋と永明も顔を合わせる。

 「あさげのようだな。永明も片づけて社殿へ向かいなさい。残りは後で良いだろう。私もすぐに向かおう」

 「分かりました。では、失礼します。夕方、また本殿にお伺いいたします」

 永明は深く礼をし、社殿へと歩いていった。八尋は永明の後ろ姿を見送り、ふと考えた。

 「偉そうなこと言ったけど、俺も永明と同じなんだよな」

 八尋が永明に話したことは、過去に八尋自身が五十五から言われたものだった。神体になったことに対して五十五から褒められた八尋は、「俺もまだまだだ」と謙虚ぶっていた。その態度を見た五十五は、「そんなこと言わないでよ。僕なんて八尋の足元にすら及ばないのに…」とぼやいた後、「八尋はみんなが信じてる神様でしょ?」と言われた。その時八尋は、謙虚と自己卑下をはき違えてしまった事に気づき、何も言い返せなかった。

 八尋は永明との話の中で、永明にどこか慢心が見えた。それは誰かに気づかされなければ、治すことが難しいものだ。精進しなければならないといった気持ちは大切だ。しかし、口に出すことは心の迷いがあることになる。もっと頑張ります、まだ力不足です、という言葉は永明ほどの者が出すことはない。もちろん八尋自身も、五十五から言われなければ、永明の言葉に気づくことはできなかっただろう。今の自分は、自分ひとりの力だけで上がってきたことではない事を忘れてはならない。

 八尋も霊狐たちが朝食の準備をしているであろう社殿へと入っていく。回廊を進むと、数十人が集まれるほどの広さのある畳の部屋が二つ並んであった。二つの部屋を区切るように大襖があり、大襖を開ければひとつの大部屋になる造りになっていた。

 奥の部屋から、和歌が聞こえた。八尋は静かに回廊から戸を開けた。数十人の装束を着た霊狐達が、長机に配膳された食事の前に二人ずつ正座し、両手を合わせて和歌を唱えていた。霊狐たちの正面には雪村が、先導するように和歌を唱えていた。

 唱え終わった後、霊狐たちは「いただきます」と言葉にして、食事を始めた。真面目な表情から一変して、霊狐達は穏やかな表情で朝食をとっていた。幼い子は隣にいる霊狐と喋りながら食事をとったりと、やや礼儀に欠いた場面も見られたが、雪村は注意することはなかった。八尋は、雪村の隣に配膳された席に正座した。

 「ああ雪村、おはようございます」

 「八尋さま、おはようございます。あさげにいたしましょう」

 雪村は微笑んで迎えてくれた。八尋も一拝一拍、和歌を唱えて食事を始めた。八尋は楽しそうに食事をする幼い子や、隣同士で会話をする霊狐たちを見て心が和らいだ。八尋は雪村に話しかける。

 「やはり、食事は楽しいほうが良いな。私もあやつらを見ると安心するよ」

 雪村は気の抜けた笑いを見せた。

 「本来は、食事も修行なのですが…。これでは子屋と変わらないですよ」

 「みな家族のようなものじゃないか。緊張した場の中よりも、私自身も和やかな場で食事をとりたいものだ」

 既に食べ終わった霊狐が数人、席を離れて友達の元へと寄っていく姿が見られた。

 「ああいった無礼なものがあっても、ですか?」

 雪村は苦い表情で八尋に問うた。確かに、とても神社の神職見習いたちの食事風景とはとても思えない光景だった。八尋は、ふふと笑った。

 「そうだよ。無邪気な面が見れて良いではないか。それに、始まりと終わりは雪村の願い通り、きちんと作法を守っているではないか」

 八尋は手に取った椀を置いた。

 「先ほどの霊狐たちの歌を聞いてもわかるよ。みな、修行の際は真剣に取り組んでくれておる。だから焦らなくとも大丈夫だって」

 八尋は雪村を見上げて話した。雪村はその言葉を聞いて、「そうですね」と霊狐たちの様子を見て答えた。

 「それに、雪村は子屋にも見えるこの場が、それほど嫌いでもないだろう」その言葉に、雪村は「八尋さま」と一言叱るような目で見つめた。これ以上、茶化さない方がいいかもしれない。そうして、八尋は食事を進める。

 しばらく食事の時間が続き、殆どの者が食べ終えていた。八尋は食べ終わるのが遅い霊狐を見計らって、タイミングを合わせて食事を終えた。食事の終わりが近づくと、霊狐たちはもとの席へ戻って正座していた。八尋が最後に箸を置くと、雪村は一呼吸置いて言葉にする。

 「端座、一拝一拍手」

 八尋と雪村を合わせた、霊狐たち全員が一拝し、音が鳴るように両手を合わせる。雪村は続ける。

 「朝よいに」

 それを合図に、全員が唱える。

 「朝よいに、物くふごとに、豊受の、神のめぐみを、思え世の人」

 詠い終わると一斉に、「ごちそうさまでした」と言い、食器を片付けはじめた。詰まることなく、ひとりずつ順番に食器を持って運んでいく。

 普段の食事の際には、必ずしも毎回この歌を声に出して唱えることは無い。社殿の者たちと集まって食事をとったり、村人達による祭りごとの際には必ずこの作法を行うことになっている。また、八尋神社には永助のような幼子も少なくないため、修行の一環としても行われていた。

 まもなく、部屋には永明と雪村と八尋のみとなった。永明は永助がちゃんと運べているかを部屋の出入り口で見守っていた。永助が見えなくなったところで永明は席へ戻り、安心した表情を見せた。

 「ちゃんと運べているようでした。過保護でしょうが、やはり心配なのですよね」

 永明は永助のことを話し、作り笑いをする。それを聞いた八尋と雪村も釣られて微笑む。

 永助のことを話してまもなく、三人の見習いの出仕が部屋の出入り口で礼をする。八尋たちの食事を下げに来たようだ。出仕が礼をし、部屋から出るのを見送ると、雪村はふたりに今日の予定を話し始めた。

 「私はこのあと、お供え物の準備をします。それを終えると、領主様への文をお書きします。したがって、今日の稽古は永明にお任せします」

 雪村は永明と目を合わせて話す。永明は、「分かりました」と礼をした。

 「稽古は龍笛と書き物を考えておりますが、よろしいでしょうか」

 「いえ、今日は龍笛の稽古のみでお願いします。書き物は、また日を改めてからでよいでしょう」

 「左様でございますか。では、その通りに」

 ふたりのやり取りに、八尋が入る。

 「霊狐に龍笛は困難なものだからな、みな時間をかけて身に付けねばならんだろう」

 八尋からの言葉に、永明は真剣に聞き入っていた。八尋は続けて話す。

 「今日は祓いものや、落としものといったお願いも受けておりません。貴重な稽古の時間だ。永明、頼んだぞ」

 「分かりました。お言葉、ありがとうございます」

 永明は八尋に深く礼をする。「では、私からだが」と、八尋も話し始める。

 「近いうちに領主と町屋の領主と、妖狸たちを交えた談話を開こうと考えておる。雪村へ任せた文というのは、こういった理由だ」

 「妖狸たちと…ですか?」

 永明は真剣なまなざしで聞き返す。今まで、そういった素振りが無かっただけあって、驚いている様子だった。

 「そうだ。永明も、町屋の妖狸たちの話は聞いているだろう。だが神霊も妖も、元より同じものだ。彼らとも良い縁が持てるであろうと考え、試みようとするところだ」

 永明は否定することなく聞いていた。しかし、永明にどこか疑心があることを八尋は感じ取る。それでも八尋は、永明を責める気持ちは無かった。今の霊狐と妖狸との関係から、永明の反応が当たり前なのだ。

 「談話の際には、永明にも同行いただけるだろうか。町屋と狸たちの状態がどうなっているかを、おぬしの目にも見ていただきたいのだ」

 永明は目を大きくして八尋を見ていた。

 「もったいなきお言葉、ありがとうございます。ぜひ、お供させていただきます」

 永明は明るい表情を見せたあと、背中が見えるほどの深い礼をする。

 「私はこの後、談話についての内容などを本殿へ戻ってまとめております。終わり次第、雪村の元へ参ろう。急ぎの用では無いが、今日には文を出したいと思っておる」

 雪村は八尋に軽く頭を下げた。

 「私からも、こんなところだろうか」

 「承知いたしました。では、永明。今日の事は、よろしくお願いします」

 雪村が永明に話した後、八尋は立ち上がって部屋を出る。それに続くように、雪村、永明を部屋を出ていく。

 三人が出ていったのを見計らったように、掃除当番の霊狐たちが現れ、朝食後の部屋を掃除の準備に取り掛かる。

 今日もまた、八尋神社の一日が始まった。


 八尋は、自室で両腕をあげて背中を伸ばしていた。中庭に目を向けると、日差しで地面が黄色く染まっていた。朝食後に自室に戻ってから、昼食の時間が過ぎてしまうほど集中していたようだ。手首あたりから先の毛が黒茶色をいいことに、手についた墨を手の甲で拭った跡が見られた。

 八尋は談話の内容をまとめた文章を見返した。これはあくまで、どんな事を話すかといったことを雪村や永明、それに同行させる霊狐に伝えるものなので厳格に決めてあるわけではない。町屋の様子や、狸たちの様子を実際に見れば、話したくなることは自然と増えてくるだろうと八尋は考えていた。八尋は野狐の頃から今に至って、町屋へ実際に行ったことは無かった。見たことがないからこそ、妖狸たちの肩を持つ思考をしているかもしれない。事実、五十五が妖狸ということもあり、妖狸に対して寛容になっているのではないかと、八尋自身にも少なからず自覚があった。井の中の蛙。となれば、霊狐も向こう側の世界を見るべきだと雪村に話したこともあった。

 自分の仕事も一区切りつき、八尋は文書を畳んで懐にしまった。縁側に出て、両手を広げて大きく深呼吸する。夏の残り香を八尋の鼻をかすめた。ふと、笛の音が八尋の耳を動かす。霊狐たちが、午後からの稽古を始めたようだ。

 ついでに稽古の様子も見ておこう。八尋は本殿から離れて、稽古場へと向かっていった。

 稽古場へ向かう途中、境内に参拝者が数名見えた。社務所で御朱印を受けていた参拝者が八尋の存在に気づき、深々と礼をする。八尋は参拝者に軽い礼をして、社殿へと入っていった。朝食をとっていた回廊と反対側へ進むと、次第に笛の音が大きくなっていく。稽古場に着くと、神職霊狐たちの半数ほどが集まって龍笛の稽古をしていた。

 指導をしていた永明が八尋の姿に気づくと、永明は八尋の側へと近づいた。

 「八尋様、こちらへいらしたのですね。どうかされましたか?」

 稽古をしていた霊狐たちは笛を止め、ふたりの方へ身体を向き直した。

 「いや、こちらの用事が終わって、雪村の方へ参ろうと思ったところだ。その前に、笛の音が聞こえたので、こちらの様子を伺おうと」

 加えて八尋は、霊狐たちに、「向き直して稽古を続けてください」と話した。霊狐たちは深く礼をし、正面に向かいなおして稽古を再開した。

 永明は稽古をする霊狐たちを眺めて、八尋に話しかける。

 「まだ難しそうに吹くものも多いですが、数名は吹けるようになっています」

 八尋は稽古に向かう霊狐たちに目を移した。

 「狐の口には、龍笛は難しいからな。私も吹けるようになるまで、長い時間がかかったものだ」

 狐が笛を吹くことは難しい、というのも、そもそも狐の口の構造と笛の形があっていないという問題が大きくあった。龍笛は吹き口に下唇を当てて、下へ息を吹きかけて鳴らす。上手く吹き込むには、口を横に広げて、吹き込める形を作らなければならない。また、柔らかい音、力強い音を鳴らすにも、口使いが重要となる。

 これが狐の口には難しく、縦長の形状をした狐の口では人間のように吹くことができない。狐の場合、噛みつくように吹き口を大きく咥え、舌使いで吹くようになる。

 噛みつく形をとり、人間と同じように正面を向いて龍笛を吹く姿はお世辞にも上品とは呼べない。そのため、狐が龍笛を吹く時は下を向いて吹くようになっている。そうすると、イヌ科特有のマズルラインが強調され、かえって美しく見えると評判になっている。

 とはいえ、どうしても歯と笛の間から空気が抜けてしまい、綺麗な音を鳴らすことが難しい。舌でうまく調節できるようになれるかが、上達の鍵になっている。長い時間をかけると、次第に身に付き綺麗な音が出せるようになる。もっとも、その頃には笛の咥え口が、使用者の歯によって削られて、『本人の使いやすい形』になっている。ほとんどの霊狐が吹けるようになる理由でもある。八尋の場合も、後者の理由で吹けるようになっていた。

 永明は、稽古中の霊狐のひとりが手をあげたことに気づく。永明は手をあげている霊狐に近づき、どうしたかと訪ねた。

 「ここの吹き方が分からないのですが…」

 困った様子で霊狐は永明に質問した。永明は口頭で説明した後、袖から自身の龍笛を出して、実際に演奏してみせる。永明の奏でる笛は、透き通るような心地の良い音色だった。混じり気のない、一つひとつが丁寧で、なお流れるような旋律をみせてくれる。このように吹くのだ、と永明は霊狐と目を合わせて話せた。霊狐は「もう一度やってみます」と再び稽古に向かった。

 永明の笛の技術は、八尋も羨ましく思っていた。霊祭の儀での笛吹きができるようになるまでに、八尋は何年もかけて稽古をしたほどだ。一方で永明は、社へ神職に就いてから、僅か数か月で霊祭にあがることができるほどの実力を身に着けていた。これが才能というものなのか。こういった永明の吸収力の高さから、永明は八尋神社の中でも期待されている人物であった。

 永明がひとりの霊狐に稽古を教えている間に、ひとり、またひとりと永明から教授を得ようと霊狐たちが挙手していた。永明は一人ひとり丁寧に話を聞き、笛を教えていた。八尋は永明のその姿を見て、心配なく稽古を任せられると安心する。稽古風景を見るに、やはり霊狐に笛は難しいのであろう。稽古場の音色は心地よいものではなく、笛を始めたばかりの子屋に似た雰囲気を八尋は覚える。笛に苦戦している霊狐の中に、永助の姿も見えた。吹いては首を傾げ、吹いては笛を眺め、と手の取り方が分からない姿が目に見えて分かった。

 そろそろ頃合いと思った八尋は、永明に別れを告げる。

 「では、永明。私はそろそろ雪村のもとへ参る。午後からも、霊狐たちを頼んだぞ」

 永明はその言葉に深く礼をした。

 八尋は永助を含め、ここにいる霊狐たちの稽古に実がなることを願う。八尋は出入口から一歩下がり、両手を合わせて礼をする。顔をあげて、再び軽く礼をして、回廊を歩いて行った。


 雪村の事務仕事は、社務所に入って奥の部屋にあたる。社務所では、参拝者の案内や祈祷、お祓いといったお願い事の受け付けの役割を持っている。五穀豊穣の祈祷が年に数回あり、お祓いは町屋から来る者がひと月に数回ある。

 八尋は社務所に入り、書きもの仕事をしている霊狐に挨拶をする。雪村さまなら、まだ奥にいらっしゃいます。と霊狐が話してくれる。八尋は「ありがとうございます」と、お礼を述べて、奥に進んだ。

 雪村のいる部屋の戸を前に、八尋はひとつ声かける。

 「雪村、入るぞ」

 八尋は、板戸を開けて中へと入る。窓際の机に向かっていた雪村が八尋の方を見た。雪村は筆をおいて立ち上がり、姿勢を正した。

 「八尋さま、いらしたのですね。申し訳ございません、少々遅れてしまいまして…」

 「いや、よい。社務所の霊狐の手も見てやっていたのであろう?仕事を掛け持ちさせてすまないな」

 八尋は顎下を掻きながら雪村に返答した。

 「そのようなことはありません。私も、ここの霊狐たちとの仕事は好きなので」

 八尋は苦笑いをして、雪村に相槌を打った。

 「ところで。私の方は、談話の内容をまとめてきた。それを雪村にも見てもらおうと思ってな」

 懐から封書を取り出し、雪村に手渡した。雪村は封書を広げ、しばらく黙読する。八尋は、雪村が封書を見ている間、まるで宿題を見せる子供のような緊張した表情をしていた。

 八尋の考えた談話の内容は、簡単な内容だった。

 最初に、八尋神社の由緒が書かれていた。八尋神社となる前の、まだ名前のない社の話から、霊狐たちの集まる現在の八尋神社にいたる歴史が書かれていた。

 次に、町屋から離れた八尋神社ゆえに、現在の町屋のことが詳しくないこと。よければ、町屋や妖狸たちの話を聞かせてもらえないかといったことが書かれていた。

 最後に、今回の談話を持ち出した、八尋の思いが素直に書かれてあった。縁をとる機会を持ちたい、といった内容であった。こちらの意思を伝えるだけのもので、これからも談話を通して関係を作っていけないか、と書かれていた。

 「良いと思います」

 雪村は封書をもとに戻し、八尋に手渡した。八尋はほっとした表情を見せ、渡された封書を懐に戻した。

 「それは良かった。最初の談話だからな、深い話を持ち出すのはよそうと。あくまで、こちらの意思を伝えるだけにしようと思ってな」

 「そうですね。こういった話は、時間をかけてゆっくり行わなければなりません。それに、同じ地を生きる者同士の話ですし、あちらとしても悪い話ではないでしょう」

 隣国同士でのやり取りとなると、また難しい話になってしまう。同じ領内の者同士の話なら、それほど悪い話ではないはずだ。とはいえ、思想の違いがあれば難しい話となってくる。考え方が違えば争いが生まれることを、八尋は知っていた。下手に踏み込むのではなく、触れにいくといった距離感を間違えてはならない。

 「雪村の方はどうだ?途中でも良ければ、見せてもらいたいのだが」

 「分かりました、こちらにございます。お納めください」

 雪村は机の上にあった、書きかけの文書を八尋に手渡した。書きかけとは言ったものの、手紙は最後まで書かれており、八尋と雪村の名前も書かれていた。内容も指摘する箇所もなく、完成しているものに見えた。

 「ちゃんと書けてるではないか。私はこれでよいと思うのだが…」

 「申し訳ございません。三通りほど文を書いて、一番美しいものを八尋さまに選んでいただこうと思いまして」

 雪村がそう話すと、八尋は驚いた表情で雪村を見た。よく見れば、同じ手紙が机の上に置いてあるのが見えた。これは二回目に書いた手紙といったことだろうか。

 「いや、これで良い!お主はとやかく言うほどの、字の汚さではないであろう!すぐに朱印を押すぞ!」

 一回目に書いた手紙と見比べるも、八尋には何の違いがあるのかさっぱり分からなかった。どちらかといえば、達筆すぎて、紙を重ねて書いて剥がしたのではないかと思わされる。

 八尋は、自分と雪村の名前が書いてある箇所の左下に、自分の指で朱印を書いた。狐の尾に、稲穂を添えたような模様だった。

 「左様でございますか。では、これから永助と共に馬屋へ参りますね」

 よろしく頼む、と一言添えて、八尋は封をした手紙を雪村に渡した。雪村は受け取った手紙を、現在でいう郵便へ届けにいく準備をする。部屋の出入り口の傍にかけてある羽織りをとって、上から着込んだ。

 「おそらく、ゆうげには遅れると思います。永明たちと、先に済ませても構いません」

 「分かった、遅くまで働かせて申し訳ないな。道中、何事もないよう願っておる」

 その言葉をうけた雪村は、八尋に深く礼をする。

 「ありがとうございます。では、行ってまいります」

 「永助の羽織りは、永明から借りるといいだろう。多少大きいかもしれぬが」

 雪村は、分かりました。と返事をした。出入口でもういちど礼をして、仕事部屋から出て行った。

 今日に手紙を持ち込めば、明日には飛脚が立つ。そうすれば数日後には領主には届くであろう。八尋は一区切りついたことに安心し、しばらくは祈祷や霊術にはげむことにした。

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