魅力的なコンテンツを見た後の言い知れぬ虚脱

脳幹 まこと

あるいは全然気にしなくてもいいこと


 神絵師達が人気キャラの神イラストをイラスト投稿サイトに上げていて、ちょっと早く仕事が終われたぼくはそれらを思う存分眺めていた。具体的に出すなら今をときめくお馬さんらのやつだ。

 可愛らしく、かっこよく、面白く、美しく、切なく、尊く、多くの情報が描かれている。ぼくは時間を忘れて眺め続けた。気付けば二時間ぐらい経っていて、いつもの仕事終わりみたいになっていた。

 はあ~……という長い溜息の後、自分でも怖ろしいほどに冷たいものにふとぶつかったような気がした。


 コンテンツ。


 コンテンツ。


 外野のぼくはきっと、これらを忘れるだろう。

 少し前、ぼくがお熱だったものを、もうすっかり見ないし、見ようとも思わなくなったのと同じように。

 でも、それは特段問題ないことだ。

 だって彼らだってぼくのことは何も知らない。忘れる忘れない以前で、そもそもぼくは彼らの認識ではいないのと同様だ。


 彼らとは、イラストに描かれたキャラクターであり、そのキャラクタ-をつくった原作者やキャストの皆様方であり、そのキャラクターを描いた神絵師達である……


 だから、ぼくはきっと忘れるだろう。

 コンテンツが生んだコンテンツを忘れるだろう。

 でもそれは何も影響を与えない。外野だから。


 今自分がこうして文章を書いている。コンテンツがコンテンツを書いている。

 でも、おそらくエビングハウスの忘却曲線が示す、1日の70%の雑多な情報のどれかに入って忘却されるに違いない。

 書いたことも、出したことも、読んだことも、読まれたことも、すべて忘れるに違いない。


 真面目だろうが、ふざけてようが、短篇だろうが、長篇だろうが、駄作だろうが、神作だろうが、すべてまとめて忘れ去られるのだ。


 ゲームをしてようが、身体を鍛えようが、勉強しようが、何をしようが、最後には忘れる。

 自分がしたことも相手がしたことも、すべて忘れる。


 優れたコンテンツに触れた際に感じた、あの熱意やときめきは。希望のような、期待のようなものは、嘘だったのか。

 嘘ではない。ただ、ずっとは続かないだけだ。


 じゃあ、好き勝手やれば良いんじゃないかと思う。

 何をしたって忘れてしまうんだったら、せめてその時は気分が良くなるようなことをやればと。

 少しするとそれもまた虚しいことに気付く。そんなの「何をしても無である」ことを自ら認めるようなものじゃないか。

 そもそもこんな辛気くさい状態の時に気分がよくなるもない。悪くもなっていないが。


 この「何をしても忘れ、忘れられてしまう……コンテンツとして生きる定めであること」を悟っている自分こそが本当の自分なんじゃなかろうかと思ってしまう。

 普段の自分は多忙のせいか、精神衛生のためか、この真理とまともに取り合わないようにしているとか。


 メタバースが発展して、自分の意識を電子世界に移送できるようになったら、この「考え過ぎ×」だけは何とか取り除いてもらえるようにしなくてはならない。

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