第9話 アントニウス・ニコラウスの火

 春だというのにロギコルクスには雪が多く残っていた。

 私は雪をかき分けて岸壁の裂け目に手を突っ込む。あからさまに普通の石と違うつるつるとした感触のものがある。これは新しい鉱石だ。手袋越しに掴むと一気に引き抜いた。手の中には青く透き通った鉱石がある。

「ブルライトだ」

 それを肩掛け鞄に放り込む。ちょうどブルライトは足りなくなりつつあったからいいタイミングであった。これを黄金水に漬けて溶けるのかの確認をせねばならない。ゼティールでは神の石と名付けられた時期があったそうだがこれが一体なんなのか私は検証せねばならない。神の石から理を得る。これが私達錬金術師の仕事なのだ。

 岸壁の上を眺めるとすっきりとした青空が伸びる。長くいすぎてはいけない。雪の残るロギコルクスに長居し続けると肌が焼かれてしまう。太陽の光が雪に反射するのだ。帰ってやるべきこともあるしそろそろいい頃合いだ。雪を踏みしめゆっくりとフィミーシャへ歩いていった。

 日が落ちようとしている頃にフィミーシャに戻ると多くの村人が往来している。学校も終わったのだろう。子供が多く感じられた。

 その時私のお尻を誰かが思い切り叩いてきた。

「いった!」

「やーいやーい! でか乳でか尻の二コラおばさん!」

 近所の悪ガキ坊主のジョーイが私の後ろにいつの間にか隠れていたらしい。

「待ちなさい! 今日こそ今までの分お返ししてやる!」

「捕まえられるものなら捕まえてみろー!」

 年甲斐もなく私はかけだしていた。フィミーシャに来てから走る寮がかなり増えた。そして食べる量も増えたから妙にくっきりした体型になっている。少し太り気味なのはご愛敬であるものの。

 こういう環境だから悪ガキ連中も足が速い。いかに体が動くようになったとはいえ運動が得意というわけではないからいつも彼らを見失う。

 今日も逃げられそうと息も絶え絶えになりながら走っていると、目の前で悪ガキがすっ転んだ。いや、正確に言えばすっ転ばされた。

「ジョーイ。あなたいつまでそういう事やっているのよ。姉さんに失礼よ」

 ジョーイの前には細身の女の子が立っていた。

「けっ、隙を晒す方が悪いんだよ」

「そんなこと言って。ジョーイが姉さんの事好きなのクラスのみんなにばらすわよ」

「す、好きじゃねーし」

「ジョーイ。告白は嬉しいけど私の乳や尻を無断で触るような奴を好きになれないな」

 ちょうどジョーイが私への好意をばらされたところで私は追いついた。ジョーイの顔がどんどん赤くなっていく。

 少女はジョーイの事など目もくれず私に会釈した

「あら姉さん。おかえりなさい。今日の首尾は」

「ブルライトと薬草が数種類ってところかな」

「じゃあ家に帰ったらお湯の用意しておくわね」

「助かるねえ。私はミーシャのような娘を持って幸せだよ」

 ミーシャはにこりと笑った。

 それを引き裂くかのようにジョーイが大声を出した。

「お、おれは二コラおばさんの事好きじゃねーし! でか乳でか尻おばさんなんか嫌いだし! じゃーなバーカ!」

 足をもつれさせながらジョーイは走っていった。ついこの前までメデイラおばさんの影に隠れていた事のに。大きくなると変わるものだ。なによりあのジョーイが私を女性として見てくれているのに少しこそばゆさと時間の流れを感じさせた。ジョーイも子供から男の子、そして大人になっていくのだろうな。

「さあ帰りましょう姉さん。ご飯を食べた後研究の続きをするんでしょう」

 ミーシャに言われて私はゆっくりと歩きだした。


 私はミーシャを弟子筋として扱った。普通こういった派遣で全く知識のない子を助けとして呼ぶことはない。だが私たっての希望で彼女をねじ込んだ。寮母にも関係者と言い張り無理やり私の部屋に泊まりこませた。それがもう五年以上前の話か。大学にいたのがついこの前のように思える。

 ミーシャは私の研究を手伝わせながら大学へ行くための勉強をさせている。学校にも行かせているがやはりヴィアンツより学べるものは少ない。なので私の知識を総動員して必要なものを教えている。天体の見方から物質変化法則まで。大体の事は教えてきているはずだ。ミーシャももう十六になる。あと数年もしたら教授に手紙を出して彼女を大学に推薦する。彼女がまた学ぶことを辞めなければ新たな道を開ける事になるだろう。もっとも、彼女がその道を選ぶというなら、ではあるが。

 今夜もまた食後に研究と実験を開始した。勿論ミーシャにも手伝わせている。大分手馴れた手つきになってきた。簡単な基礎錬金術なら私無しでも出来るだろう。近々それもさせるつもりだ。

 私の研究も社会の役に立つ足掛かりにはなりそうで、この地で算出されるブルライトは強い酸性の液体と混ぜると燃料になる事が分かりつつある。今まで装飾品的な価値しか持たなかったブルライトが人々の生活を救うきっかけになる可能性が秘められているのだ。今まで獣の脂を使わないと火をつけられなかった時代を終息させる可能性を持っているのだ。あとはそれが実用化出来るかどうかの臨床を続けなければならない。しかしそれが完成すれば既存の燃料の価格が変わるだろうから少しでも貧困を救うたしになる。私の学問も多少は役に立つという事だ。

ミーシャが出ていく頃にはある程度の研究結果を出せそうだ。推薦状を出し、承認された時にミーシャと共に研究結果を持っていかせようと思う。

 もう新しい時代の扉が開くのは遠くないのだ。

 私が学問に求めた答えはやはりここにあったのだと思う。


「ミーシャ」

「どうしたの姉さん」

 私はブルライトを黄金水の中に入れながら聞いた。

「貴女は学問の世界をどう考えているかしら」

「そうね」

 私の問いにミーシャはためらった。

「今の段階でいいわ。今学問に対してどう思っているのかを聞かせてちょうだい」

 私は少しせっついてみた。聞きたいのは忖度のない彼女の言葉であったからだ。最後に必要なのは火をつけることなのだから。

 ミーシャは軽く息を吐くと答えた。

「すぐに答えは出せないわ。無責任に返すと後悔してしまうし、かといって私があの時姉さんに救われた事が今求められている答えの一つであることも重々理解している。だけれど、恐らく姉さんはそういうのを求めていないのでしょう。だからこそ今すぐは出せないわ。姉さんの行動を恩着せがましいものには出来ないわ」

 相変わらず理屈っぽい。乞食だった頃からは考えられないほど喋り、そして思慮深くなった。だからこそ、今はその答えだけで十分であった。

「そう。分かったわ」

「ただ、学問や錬金術は憎からず思っているわ。恐らくこれらを捨てるほどの物に巡りあわない以上は続けると思うわ」

「そう」

「だって、貴女の研究が誰かの役に立つためのもの、という事は理解しているもの。そういうものなら継ぐのもいいと思っているわ。」

 ブルライトを入れた壺を見ながら、ふと頬を緩ませていた。今の私にはそれで十分すぎたのだ。

 アントニウス・ニコラウスの火はまた誰かに継がれようとしていた。

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アントニウス・ニコラウスの火 ~女錬金術学生、二コラ・ヨセニアの生き方における一文献~ ぬかてぃ、 @nukaty

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