第8話 二コラの答え合わせ

 私はサインを書いた羊皮紙を片手に教授の元へ足を運んだ。

「ついに決めてくれたか」

 胸をなでおろす教授を見ながら私は頷いた。

「色々悩みましたが、このお誘いをお受けしようと」

「いや、私としては一安心だよ。もうほとんど学生は行先が決まっていてな。それ以外の者だとそもそも力不足であったり、なまじっか力があるからこそ田舎暮らしを嫌がったり、という状態でね。君が応えてくれて助かる。錬金術とは道を歩き、山を登り、森の奥へ進む。そこで得たものと今あるものを組み合わせて森羅万象の方程式を見つけていくものなのだ。それこそ多くの法則を見つけてきた古代の錬金術師の営みなのだ。無知無学では何も為せないが頭でっかちでは机の上以上の事は出来ない。だからこそ君のように探求心溢れるような人間でないと任せられないのだ」

「それはどうも」

 教授は機嫌上々であった。なんかうまい事言いくるめられたような気持ちになってむず痒い気持ちになっている。この教授を喜ばせるためにこの世界に入ったわけではないのだが。

「しかしあれほど躊躇っていた君がなぜ決めたのかね」

 教授は溢れ出る笑みを抑えられないまま尋ねてきた。

 私は、正直なところを言えば気持ちを言語化できるほど考えがまとまっていたというわけではなかった。半ば勢いみたいなところがあったのは否定しない。感情的に決めた、と第三者が指摘してしまえばそうだろう。その通りだと思う。

 しかしこの悩んだ間で決めた事は私の奥底にあるなにかに触れたのだ。

「そう、ですね。錬金術をもっと奥まで学びたいって気持ちがあるのは確かなんですが、それ以上に、なんというんですかね。私達の学んでいる学問って、言葉にするには語弊が置きそうで言いにくいのですが、役に立てているのかな、という疑問を得たんです」

「それはどういうことだね」

 教授は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見つめてくる。

「その、なんていうんですかね。今までは私は自分が学べていたらそれでよかった、と思っていたんですよ。だから別段どこに行ってもいいというか、研究さえ出来ていればなんでもいい、ってところがあったのは否定しないんです。ですが、ちょっとした出会いがありましてね。私の学んできた事ってなんだったんだろうな、って思う事があったんです。私がいかに叡智を学び得たとしても、そうですね、メッチェ橋に住むような人を助ける事って出来ないんだよな、って思ったのです」

 教授は私の言葉を真剣なまなざしで聞いていた。それは今まで見てきた教授でも驚くほど鋭い目つきだった。

 それに気圧されそうになったが私はつづけた。

「だから本当ならば諦めることも出来たんです。どこぞやの家庭に入ることも出来たし、故郷に戻って農業をやるでもいい。でもそれをする事で私が得てきた叡智はなんのためにあったのか。自分の持ちうる知性をあやすためのものだったのか、と思うようになったのです。そんなことのために私はこの世界に飛び込んだのか、と思うと実に空虚な気持ちを覚えたのです。私はたまたま学を修める事が出来た。しかし世界には多くの人間が学ぶことも出来ずにその日の飢えをしのごうとしていると思うと、いよいよもって学問とは何か、と思うようになったのです。私の中で日に日に学問はそのようなものであってはならない、と思うようになったのです。しかし現実では学問は社交界での話題にするものの一つにしかなっていない現状があります。それでは私は、なんというか、いけないと思ったのです」

「なるほど。自分の学んだことを何かに活かせないかと思ったのかね」

「その通りです。私の学びに足りないものを見つけました。それは使命でした。なぜ私は学んできたのか、という答えの仮設を見つけるに至ったのです。それは結婚でもなければどこかのお抱え学者になる事でもなく、大学の中に閉じこもる事でもない。それは社会の波にのまれながら見つける事であると思ったのです」

「なるほど」

 教授は髭を搔きながら私を見つめると、二度相槌を打った。しばし無言の後、教授は重い口を開いた。

「うむ。君を選んで正解だったようだ。君に何があったかは知らないが、君が学問に対して何をなすべきなのか、という気持ちは重々に伝わった」

 そして笑顔に切り替わった。

 受け入れられたのだ、と知ると体からどっと力が抜けた。

「君はかのアントニウス・ニコラウスを知っているかね」

「存じております」

「アントニウス・ニコラウスは実践的錬金術師であった。彼もまた野を分け、山に登り、河の中に飛び込んで多くの理を見つけた。人は神の産物であるそれらに飛び込むことを決して好まなかった。それでも多くの実や鉱物が交わる事で新たな答えを生んでいった」

「はい」

「その彼は文明の起こりたちをいつも火に例えていた。それは知っているだろう」

 私は頷いた。

「ええ。火が多くの理を結び付けるきっかけを生み、そして混ざるための基礎を作った、と」

 すると教授はまた深く頷いた。

「そうだ。しかし正しくは違う。多くの学者が間違っている事だ。彼は死去する直前、その弟子のヨハネス・アヌセウスにこう残している。『人が新しい理を見つける時には必ず火を必要とする。それは物質的な事だけではない。人の中にある魂でさえそうだ。ある理を見つけようとする時、知を薪とし発想の火をつける事で初めて人は動き出す。その火によって万物の理を導き出してきたのだ。だからこそ今日まで人間が営みの中で多くの理を見つけ、文明を生み出す事になった。火こそが人を動かし、物質の姿を変えてきたのだ。だからこそ人は火より理を見つける。その理からこそ人は文明を育んできたのだ。即ち文明とは火なのだ』と残している。私はこれが好きでね。今でも一字一句全て言えてしまう。火があったから文明や理が生まれたのではない。火を起こそうとしたから文明が生まれ、多くの理が見つかったのだ。ただ学び、声たかだかにするだけでは理も文明も生まれない。目の前に置いてあるものに喜ぶだけの者は学問を成せん。火を起こせるか考え、気付き、火を起こそうとすることこそが錬金術師、いや、学問なのだ」

 そして教授は私の肩に手をやった。

「そんな君の言葉を聞いて改めて選んでよかったと思ったよ。君は根っからの錬金術師だ」


 部屋に戻って荷物をまとめ始めた。すぐに出ていくわけではないが大量に膨れ上がった多くのものを取捨選択せねばならない。

 ミーシャはすでに起きており、私が普段使っている椅子に座らせていた。何かさせるにしても邪魔だ。今はお人形のように座っているだけでいい。

「ミーシャ、お腹すいてない」

 私が聞くとミーシャは首を横に振った。もう少し片づけを終わらせたら夕食でも作ろう。今日から少しだけ出費がかさむだろうから外で食べるのは中止だ。

 私は手を止め、ミーシャの方に振り向いた。

「ミーシャ」

「なあに」

「聞きたい事があるのだけれど、どうして火打石を売ろうとしたの」

「それはお金がないと食べられないから」

「いいえ。そうじゃないの。なんであえて花とかじゃなくて火打石なのかな、と」

 そういうと彼女は少し首を傾げた。そして少し考えると一度相槌を打って答えた。

「あの時、私は寒くて火が欲しかったから。多分他の人も欲しいと思ったから」

 その言葉を聞いて私は決心を決めた。

「ねえ、ミーシャ。貴女……」

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