第7話 二コラの学問に対する回答
ミーシャを部屋のベッドで寝かすと私は椅子にだらんと座った。よほど疲れていたのかミーシャは泥のように眠り込んでいる。ほとんど眠る事が出来なかったのではないか。
寝息を立てているミーシャを見ながら私はワイン袋からワインを出して一気に飲み干した。いやらしいほど喉が渇く。しかしどれだけ飲んでもすっきりする事はなかった。のどに入っていったワインがすぐに乾いてぱりぱりになっていく感覚がある。
混乱していなかったと言えば嘘になる。このまま置いておくわけにもいかない。とはいえメッチェ橋に戻れとも言えない。春を迎える頃にはミーシャは誰かに売られているか、死んでいるかのどっちかだろう。かといって私が養うわけにもいかない。私だって人を憐れむ心くらいはあるが、そのために自らを犠牲にしたいとはこれっぽっちも思わない。ミーシャと私はせいぜい友人みたいなもの、が精一杯で親代わりにはなれないし、なるつもりもない。
申し訳ないがミーシャには自分で生きてもらうしかない。私だってそこまでお人好しではないのだ。
しかしどうすればいいのやら。すやすや眠るミーシャを見ながら頭を抱えるほかなかった。
人が人と向き合うためには多少なりの理由を必要とする。誰もが無神経に人を好むことはないし、特別嫌う事もない。その理由がなければ人は目の前にいても視線の中に入っている以上の意味を持たない。それは道行く人に一々特別な感情を持たない事に近しい。すれ違う人全てに関係を持っていけば人間の持ちうるキャパシティなんかすぐに詰まってしまうだろう。人は自分に関係ない人を物として見る事が出来て初めて人間関係の強弱を作る事が出来るのだ。
そういう意味では私に関わる全ての人というのは私と付き合うために多少の理由を持っている。ミレイユは私と同性の学友であったり、ダンテは異性との関係であったり。それはミーシャだってそうだ。袖振り合うのも、という奴だ。だから完全に無視するわけにもいかない。
立ち上がって薬品の入った瓶をおもむろに取って眺めた。
中の液体は何もいう事なく瓶の中で揺れていた。
「あんた。この寮に関係ない人入れてたでしょ」
翌日の朝、寮母に止められた。随分と煙たそうなしかめっ面で私を見てくる。
「え、ああ。ごめんなさい」
「あのね。うちはあくまで学生専用の寮なんだからなんの連絡もなしに人を入れられると困るのよね。まああアタシはあくまでこの寮を管理するだけだからあれこれいう気もないけれど。それでも住んでる人がね、やれ誰彼が誰かを入れた、とか言い始めたら面倒なのよ」
「すみません」
「まあ反省してるならいいけど」
寮母の話しぶりからするにミーシャを置いておくわけにもいかなくなった。少なくともあと数か月はこの寮にお世話になるのだから寮母の言葉には従わないといけない。
「そういえば寮母さん」
「なんだい」
「うちの寮って人手足りてます」
「足りてるって言えばうそになるけどどうしたんだい」
「いえ、その、私が入れた子がですね。仕事がなくて困ってましてね。どこか住み込みの仕事とかあればとか思ったんですよ」
「人は足りてないが住みこませる場所はないね。せめて働きに来てもらう事しか出来ないよ」
ふと思いついたのでミーシャを寮母に売り込んでみたがやはりだめであった。
大学まで歩いている間に様々な事を考えた。やはりミーシャはどこかに売り込まないといけない。どこかしら住み込みで働かせてもらえる場所の一つはあるだろう。とはいえ私の現在地というのはあくまで貴族などの特権階級だからミーシャに知識がなければ成り立ちもしないし、そもそも乞食を雇うような場所はない。あったとしてもどこかの農園で馬車馬のように働かされるだけであろう。今よりはよっぽどましと言われたらそうだが。
ただ私はある事を考えていた。それは最初に思いついた事ではあったがあえて見て見ぬふりをした結論であるのだが。
大学に行くとダンテとミレイユが立ち話をしていた。妙に仲良さそうにしている。私は心のどこかでこいつらが付き合えばよかったのではないか、と思わずにはいられなかった。
その時ふと気づいた。私にとってダンテという男の存在はどういうものなのか。
「おはよう」
「ああ、おはよう二コラ」
「ごきげんよう」
私は声を掛けると二人とも気持ちよく返してくれた。
「二人とも仲良さそうじゃない」
「そんなことありませんわ。二コラの事で話していただけですもの」
「へえ。私の事を、ね。何のことさ」
「貴女が頑固者って話ですわ」
「どういう事よ」
「いえ、せっかくこのような眉目秀麗な方からお誘いを受けているのだからご結婚なされては、と言っていただけよ」
「あらミレイユ。私は決めかねているだけで否定はしていないわよ。第一女性の学者進出だなんだって言っていたのはアンタじゃない」
「そうね。わたくしは学問の道を志すから恐らく求婚をされていても拒否していたと思いますわ。ですが二コラ。別に貴女はその道に進もうとは口では言いこそすれども何もなさっていないじゃない。そうしたらダンテのような方がご求婚なされているのだから家庭に収まってしまうのも悪いお話ではないと思いますのよ」
ミレイユの言葉には若干の侮蔑が入っていた。手元にあるわかりやすい幸せに手を伸ばさない愚か者、とでも見たのだろう。それそのものは否定しない。
「そうでなくても学問をよく存じているダンテ。貴女がしたいと思った学問の追求を真っ向否定する事はありませんわ。私のように社会のために役立つことを意識していないのだったら別にそれでもいいと思うの」
社会のため。
その言葉で私は目がはっきりと醒めてしまった。
今社会にはミーシャのような子が何も出来ないまま死にかけている一方でこいつらの見ていた社会とはなんだ。温かい部屋で旨いものを食べ、自分たちの贅について今まで学んできた教養を交えて話す事が社会とでもいうのか。それは社交界というだけで社会そのものを全く見ていない愚か者の考え方じゃないか。それが良き生き方というのか。
今多くの人間がメッチェ橋の下で眠っている。そして安い金を得るために乞食をし、はした金で春を売っている現実があるのに、それがなかったことにされていいのか。それを変える事で初めて学問が社会に貢献するのではないのか。
温かい部屋の中にしか学問がないというなら、そんな学問は否定して構わない。
私の進むべき道は決まったも同然だった。
「そう、ね。それは分かるわ」
「つまり」
「ただ、ね。私も学問を行う以上社会になにかしら還元したいと思っているのよ。家庭に入ったらそれは不可能でしょ。だとするならダンテと結婚するなら私はもう学問を捨てる事と同然でもあるのよ。それは私の死を意味するわ。体は生きているけど私の中にある哲学の死。それは学問を志した人間には何者にも代えがたいものなのよ」
その言葉を聞いたダンテの顔は青ざめ、ミレイユは驚きの表情を見せていた。
「じゃあ君は僕の求婚を断るという事かい」
「その通り。気づいたのよ。貴方の申し出を受ける事は恐らく今の社会では正しいのだけれど私の答えではないと。その答えに飛びつくのは簡単なのだけれど、それは本質ではないのよ。私が大学に来てまでなぜ学んだか。その答えは結婚にないわ」
「そんな滅茶苦茶な。じゃあ君は学問を社会に活かせるというのか」
ダンテの顔が烈火のごとく真っ赤になり、強い語気で私に言ってきた。自分がフラれた事に我慢ならなかったのだろう。
「そう、ね。滅茶苦茶だと思うわ。でも結婚に答えがないとどこかで思っていたからこそ今まで返答を出し渋っていたし、なによりそこに気付けたからこそ結論として出せたという事かしらね」
「じゃあ君はどうするつもりなんだ。仕事の一つも見つかっていないのだろう」
「そ、そうよ二コラ。貴女考え直しなさいな」
ダンテと打って変わってミレイユの顔面は蒼白になっていた。自分が私とダンテの関係を破壊したと思って焦っているのだろう。
申し訳ないがミレイユには咎人になってもらうしかない。別段彼女が悪いわけではなく私個人の決定みたいなところはあるけれど、彼女の言葉で私の決心がはっきりついた。
良くも悪くも、いい学友を持ったものだ。それをしっかり支払ってもらおう。
「いや、そこに答えがないと思った以上答えを求めないわ。私は今まで学んできた事を金持ちの道楽にするつもりはないし、社交界進出の道具にするつもりもない。私は私なりに答えを出さないといけないと思ったのよ」
「じゃあ、どうするつもりだい」
「そうよ。貴女の口ぶりだとどこかに雇われるつもりもなさそうじゃない。それとも農家にでもなるつもりかしら」
「そう、ね。私は学問で人を救う道、社会のためになる道を選ぶわ。錬金術は言葉通り金錬成する学問。金を持てぬ誰かのためにならなければ意味はないわ。それとも私の学んできたものは貴方達のいう錬金術ではない、という事かしら」
私がそういうと二人はあからさまに軽蔑の目で私を見てきた。
「意味が分からない。僕たちを馬鹿にしているのか」
「どういう事かしら。私の選ぶ道が人を救えないとでも」
二人を背にしてゆっくりと歩き始めた。
「そうね。ミレイユ。貴女は今メッチェ橋に住まざるを得ない乞食を学問で救う事が出来るかしら。ダンテ。結婚でそれが叶うかしら」
「それが何の関係があるんだい」
「私達には関係ないでしょう」
想像通りの返事が返ってきた。
「それが答えね。貴方達の中に私の学んできた錬金術の答えはない。そういう事よ」
憤慨する二人を置いて私は歩き去った。どこかしら私は笑いがこみ上げていた。
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