第6話 学問の本質的な意味とは

 部屋に戻った後、あの羊皮紙を手に取った。

 女がわざわざ学問の世界でやる必要あるのか。男に言われる事で改めて考えざるを得ない気がした。自分がなんとなく思っていた事ではなく男性にきちんと言われるのでは意味が違う。少なくとも社会は私の想像と一致とまではいかないにせよかなり近しいところにあった事が判明したに等しいからだ。

 ダンテは気のいい男だからあれでも優しく言った方だろう。逆説的に言えば社会に出ればあれの何倍もの言葉が飛んでくるという事だ。ダンテの放ったあれらが生易しく感じるほどのものが来る。

 とすればここで一旦やめるのもありなのではないだろうか。やはりダンテのいうようにここで手を引いて、家を守るがてらちょっとした趣味の延長でやり続ける方がよいのではないだろうか。

 だとしたらなぜ教授はこのような依頼を私にしたというのだろうか。社会構造を考えれば私に依頼をかけるよりは少し成績が劣ってでも真面目な男を一人派遣すればいいだけの話だ。それをなぜあえて私にしたというのか。それが不思議でならなかった。

 私はミレイユのように何が何でも学問で立身出世をしたいとは思っていない。学問の追求さえ出来ていればそれでいいと思うような女だ。恐らくそれは私が死ぬまでの命題となるだろう。この基本線は崩れることない。

 あとは程度の問題なのだ。社会に合わせて自分の気持ちを鞘に納めるか。それとも柄をしっかりと握りしめ光の指す方を歩くのか。どちらにも利点があり、一方で弱点を持つ。だからこそ苦しんでいるのだ。

 ベッドに倒れ込みながら私は頭を掻いた。どうしたらいいのか全く思いつかなかった。


 アルバイトも終わると北風が私の頬を打った。本格的に冬が来ている。

 大通りを出ると歩く人も少しずつ増えてきている。年末も近い。それまでに仕事を終わらせようと多くの人が練る間を惜しんで働いているのだろう。この時期最も売れるのが蝋燭とランプ油、火打石と言われるからどういう時期なのか想像しやすい。そうでなくとも日が落ちるのが速くなるのだ。その売上たるや私の想像をはるかに上回るのだろう。

 火打石というとミーシャの事を思い出した。

 寒さも厳しくなり始めた。何もせずに立っているだけでは相当しんどいだろう。私のような大人の体でさえ辛いと思うのだ。ミーシャのような子供では心身共に耐え難いものになるだろう。

 いつも通りベチーフェに足を進めてみると普段だったら立っているはずのミーシャがいない。流石にこの寒さだから親が行かせないようにしたのだろうか。しばし待ってみるがミーシャが来るような気配はなかった。なんだか裏切られたような気になって口をへの字に曲げて自分の部屋に足を進めた。

 それが一日であれば安心したであろう。

しかし数日も同じような事が続くとさすがに不安を覚えずにはいられなかった。ミーシャは年齢が年齢だけに様々な事が想像される。勿論母親が復調して仕事を始める事が出来ていたり、親戚などのつてを使って宿を見つけられたとかならそれに越したことはない。

 そんな事が出来ているのならただの石を売り歩いたりしないのだ。これほど寒くなる前にやっているはずだ。それをやれていない現実がある。という事はミーシャに何かあったとみるほかない。

 このご時世だ。世間は乞食に優しくない。

ミーシャほどの年齢の子ですら春を売る事を覚えさせるという話を聞く。世の中は相変わらず金持ちに優しく貧乏人に冷たい。落ちぶれていけばいくほど碌な事をさせてもらえないし、金を持っている人間はほとんど民に金を回す事をしない。陰に隠れてやっているのかもしれないがそれが表に出てくる事はほとんどない。それどころかレモンの種から音が出るまで絞り出せと言わんばかりに貧乏人に税を求めてくる。そうやってにっちもさっちもいかなくなった人間がどうしようもない方法で金を作ろうとしていくのだ。

 その流れにミーシャも組み込まれたのかと思うとやるせなくなる。貧乏という言葉に救える力の限界があり、それを超えると次は自分がその世界に巻き込まれてしまう。それは許されないからやはり貧乏人を見殺しにしなければならないのだ。残念ながら学問はそういった人々を救っていない。所詮は貴族のものだ。

 ミレイユはあれほど女性の社会というが、それは貴族とかそういった富豪がいる場所の事を指している。ダンテだってそうだ。そして私の口にする社会も、どこかしらそういった血が通っている。

 ただ、私はそれだけが社会ではないことも知っていた。それは私が田舎の豪農ではあったとはいえ農家の生まれであったし、食うや食わずの人を多く見てきた。別に彼らを救いたいとは思わなかったにせよ、どこかしらで私の生き方には彼ら食うのに必死な農家の姿があった。私が学問の道を目指そうとした時、少なくとも私の見てきた世界に役に立とうとしたいという気持ちがあったのだ。

 しかし、大学ではそれを観る事がない。誰もが社交界を目指した。

社交界に行くために学問を志したわけではないのだ。

私が目指すところは、学問を探求し、社会に還元する事なのだ。自分の愛したもので社会に関わりたいと思ったからこそ、今があるのだ。

学問を踏み台にしたくて、今日まで生きてきたわけではない。


 不安を覚えてから数日ほどベチーフェ周辺を歩いたがやはりミーシャは来ない。

 だが一週間を過ぎたあたりであろうか。私はミーシャと会う事が出来た。

 いつものようにベチーフェ前ではなかった。大通りの中腹付近にある金物屋の近くで靴も履かずに丸まっているミーシャを偶然見かけてしまったのだ。

 前には小さな陶器のお椀があった。それには何かで生計を立てようとしていた彼女の姿はなく、精神的にすら乞食と化した少女がそこにあった。あの立派だった彼女の姿はない。

「ミーシャ」

 アルバイト帰りだった私は思わずミーシャの元に駆け寄った。ぐったりと頭を上げると力ない瞳で私を見るなり笑った。私を見て安心したのだろうか。

「どうしたのあなた」

「お母さんが死んだ」

 ミーシャの口からは想像以上に厳しい現実が飛び出してきた。そうかこの気温で。

「ミーシャはどうしているのよ」

「ミーシャ、今おうちないからメッチェ橋の下で寝てる」

 弱弱しい声で出てきたメッチェ橋という言葉を聞いて青ざめた。

ヴィアンツの下水道と繋がっているメッチェ橋は腐敗した臭いが出ていると同時にそこから発生する熱から多くの浮浪者が集まるところであった。そこに住まねばならないほど厳しい状況に置かれているのだ。

 そうでなくても大分衰弱した様子を見せている。

「ミーシャ。アナタうちに来なさいな」

 ベチーフェの旦那の言葉が脳裏を横切る。


 私はついにやってはならないことをしてしまっていた。

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