第5話 女が学問をやり続ける意味
大学に行くのも少しずつ億劫に思うようになっていったがだからと言って行かなくていいなんて法則はない。重い体を引きずって大学への道を歩いた。体が重いというのは少し語弊がある。体は至って良好だ。しかしその体を動かすための心が全くついてこないのだ。頭が重いから体がなんとなく重く感じてしまう、という方が正しい。
それでも行かねばならないのだ。少なくとも私は学生であるのだから。学問を志した人間が遊び惚けていいわけがない。怠け者の学生が生き残っていけるほど大学というものは甘い場所ではないのだ。
「やあ二コラ。元気かい」
またダンテに会った。今日も汗を拭いながらであった。
「お元気してたのかしら。ダンテ」
「ああ。すこぶる。そういえば聞きたいんだが」
これで私の機嫌は一気に悪くなった。
「まだ」
「そろそろ出してもらいたい。僕にも一応時間の使い方というものがあってね」
「まだったらまだ」
「そうか」
そこで引き下がると私は勝手に思い込んでいた。彼をおいていこうとしたが彼は止める事なく続けた。
「もしかして大学研究を続けたいのかい」
胸が鳴った。営利で冷たいものを背中に押し付けられたような感覚が体を襲う。彼はつづけた。
「二コラ。もしそうなら辞めた方がいい。世間は女性が学問を成す事なんて求めちゃいない。才女である事は確かに素晴らしい事なんだが、それを武器として表舞台に出る事を好んでいる人なんて一人もいないんだ」
「どういう事よ。じゃあミレイユなんかはどうなるのよ」
「彼女はどこかで学者としてやるのかもしれないがそんなに長くやる事はないだろう。どこかで誰かと結婚して家庭に入るのが関の山さ。彼女は学問を続けたいかもしれないよ。しかし世の中は建前だけで回っているわけじゃない事くらい君だって知っているだろう」
確かに彼のいう事は尤もだった。恐らく体調が悪くなければ納得しているかどうかは別として理解はしていただろう。しかし今日に限ってそれは出来なかった。
「じゃあなに。女は大学なんて来る必要ないからおとなしく家庭に入れって事かしら」
「別にそういう事を言っているわけじゃない。だが世間が女性に結婚や家庭を求める事くらい君だって承知だろう」
「そういう事は聞いてないのよ。女の幸せは結婚にしかないのか、って聞いているの。だとしたら何かしら。私の存在は完全否定って事かしら。いえ、私だけではないわね。ミレイユだってそうだわ。女だてらに学問をするなんてのは男への体裁を整えるための最低限ってことを言いたいのかしら。女にとって学問ってのは男が着飾る妻という衣装のアクセサリーって事なの」
「そこまでは言っていないだろう」
「そうにしか聞こえないのよ」
私とダンテの語気が荒くなっていく。これが同性であれば取っ組み合いのけんかになっていてもおかしくないかもしれない。
「女だてらに学問なんてやるのは間抜けって言いたいわけ。そういう男だとは思っていなかったわ。今貴方は私を完全否定したってこと理解出来ているかしら。別段納得してもらおうとなんてこれっぽっちも思っていないけれどさ」
「そういう君はこのまま学問に埋没し続ける気かい。学生のままならまだしも学者となると話は変わってくるんだぞ。男だけの世界に乗り込んで戦う事になる。それそのものは止めやしない。止めやしないさ。だがいばらの道なんだぞ。君がわざわざ歩く必要のある道なのかと聞いているんだ」
「いばらの道を歩くことが女性の足には無理って事かしら。男というのは随分たくましく作られているらしいわね。ご立派ですこと」
「じゃあなんだい。君は学者の道を進むというんだね」
そこで私は言葉に詰まった。ここで勢いのまま言ってしまうのは簡単であった。それをするだけの材料も整っていた。
しかしここできっちりと、感情に任せて出していい結論でもなかった。感情に任せて決められるようなものであったからこそ一瞬ためらったのだ。
それを見抜けぬダンテでもなかった。
「ほら見ろ。君も心のどこかでは家庭に入った方がいいと思っている。それが君の中で完璧な結論ではないにしても、だ。そして女性が学問の世界を渡っていくには決して楽な道でない事に気付いている。それなのに君は感情のままに自分が信じ切れていないことを肯定するような文言で僕に食って掛かった。君はどうしたいんだ。僕だっていつまでも待っていられないんだよ。こういうことを言いたくはないが、僕でいいという女性はいないわけじゃない。ただ僕は君を選びたいと思っているし、男としての権利や社会的地位を行使して君を得たいとも思っていない。君の決定で僕は花道を用意したいと思っているんだ。だからこそ、君には間違った結論を出してもらいたいと思わない。そう思うのはいささか傲慢かな」
私は何も言えないまま返せなかった。するとダンテは少し勝ち誇ったような顔になって一度頷いた。口論での優劣が決まったと感じたのだろう。それは間違いではなかった。
なんせ私の口内は敗北感でざらざらになっているのだから。
「君の返事、待っているよ。二コラ」
彼は私を抜いて大学の中に行ってしまった。
私は一人取り残されたまま、ぐっと唇を噛むほかなかった。
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