第4話 乞食の少女、ミーシャ

「先生、これで間違っていませんか」

「そう。それで合ってるよ」

 とはいえなんだかんだ学生の身分。大学を卒業するまでは錬金術師として生きているわけではない。学者の前にまだ学生である以上、何かしらの食い扶持を持っておかなければならない。

 大体学生のアルバイトと言えば貴族や富豪の子供に対しての家庭教師がほとんどであった。特に女性の学生なんてほとんどいないから女子の教育をしたいという人から引く手あまただったりする。大学に行かせるかどうかはとかく貴族の娘として最低限の教養は持っておかなければならないと、習い事の一環として家庭教師をつける事がほとんどなのだ。

 勿論大半は男性の学生が女子に付けるのだが、どうしても年頃の男性が年齢はいかんにせよ女子と二人きりなものだから、教える女子の年齢次第では間違いも起きやすいから嫌がる人も多いのだ。

 ミレイユはこのつてなどから屋敷に仕える事になったわけだ。家庭教師だけでなく貴族に最新の知識を享受するのは学者として最もよくある就職先だ。大学に残れる人間なんかはほとんど一部なのだからほとんどがこういう家庭教師からつてを作り、そこから親に認められて貴族のお抱え学者になる。貴族は社会でのステイタスのために知識を欲しているだけでなく、純粋な知識的欲求を満たすために雇う事が多いから多くの学生はそこで学者として練磨を重ねていくのだ。ミレイユに関してはここに美しき才女というのもあるかもしれない。

「先生、ここなんですが」

「そうね。そこはあまり深く考えない方がいいわ。森羅万象は三原則によって成り立つところだけ意識しておけばいいわ」

 私も正直に言えばここの貴族からお抱えになるかどうかを伺われている。勿論選択肢には入っている。しかしここに雇われるための決定打は私の中にはない。

そこそこ給料は出してもらえるとは思うけれどあくまでそこそこであろうし、ここにはお抱えの学者は私だけでもない。それこそ暇を持て余した学者に家庭教師をさせたって問題は発生しない程度にはいるのだ。結局私が家庭教師として呼ばれたのは必要というよりは将来性を見込まれて、という方が正しいのだ。

 勿論ここでやっていけ、と言われたら学者としてそこそこやれる自信はある。負ける気はしない。ただ、自分の気持ちを死ぬまで持ち続けられるのか、という疑問は尽きないし、この家の人に仕え続けられるのかという疑問もある。

 なにより私の中には学問の優劣を競うといった考えが理解できないのだ。


 アルバイトが終わって大通りに出るとマフラーやマントを着た人でごった返していた。日が落ちるのも遠くない。今のうちに買い物や食事を済ませておこうという魂胆なのだろう。その一人に私も入る。

 今日は食事を作るのもめんどくさいから食事通りで何かしら買ってくることにした。仕事の後に作る飯とはなんであそこまで億劫なのか。こんなのが死ぬまで続くと思うと気が重くなりそうだった。

 食事通りもやはり往来が激しかった。多くの人があらゆる屋台で買ったものに舌鼓を打っている。少し歩いていつもバスケッタを買うパン屋へ急いだ。バスケッタとは片手サイズのバスケット状になったパンでその中に屋台で買ったものなどを入れてもらう。屋台などは皿などを出してくれないので自分で皿になるものを持っていかねばならないのだ。そこでバスケッタのように中に何かを入れられるパンは多くの人が買い求める。屋台で一番儲かるのが肉屋で、その次がバスケッタを売るパン屋だ、と言われるくらい買われるのだ。

 多くの人が買うという事は当然多くの店が出すのでみんなお気に入りのパン屋がある。人気店のバスケッタなどはすぐになくなってしまうため日暮れにはほとんど買う事が出来ないと言われるくらいだ。

 私はベチーフェのバスケッタをよく買う。世間的には塩気が効きすぎて不味い部類に入ると言われるのだが一方でそれを好む層がいるのは本当で、一部の熱狂的な人々によって買われている。いわば私もその熱狂的な層の一人なわけだ。

ベチーフェは少し通りから外れる。食事通りの裏通りを入ったところに小さなパンを書かれた木彫りの看板がその目印だ。だからベチーフェを知らない人も少なくはない。

 閉店も近いので急ぎ早にかけていく。

そこで普段とは違うものをみた。十歳になろうかという少女がバスケットを持って立っていた。手にはなんであろうか。石を持っている。それが乞食である事はすぐに分かった。恐らく火打石のつもりであろう。何度かこういう光景は見た。ヴィアンツではそこそこ見る光景でもあった。

こんな時間に年端もいかない少女が物売りなんかするわけない。それも火打石である。確かに夕方には何かと必要な火打石ではあるがきちんとした石屋でそれ相応の物を買うわけで、こんなところでわざわざどこの石かも分からないものを買うわけがない。そうでなくともここらに集まる大人連中はその火打石で料理を作るのが面倒だからここに来ているわけだ。そんな道理が分からないような年齢でもないだろう。

 だとしたらなぜ彼女は石を火打石として売っているのか。そこには火打石を売らなければならない事情があるからやっているのである。売れるかどうかも分からない石ころを。それがどういう事か想像に難くなかった。

「あ、お姉さん。火打石買いませんか」

 少女はか細い声で私に声をかけてきた。細いが透き通った声であった。一滴の墨であっという間に汚れてしまいそうな。

 私は無視を決め込んでいた。当たり前だ。石なんざ必要ない。ベチーフェのバスケッタが必要なのであって、なんなら今後も火打石を使う予定すらない。どこで拾ってきたか分からないような、どのような石かも分からないものをなぜ私が買わなければならないのか。

「お姉さん」

 黙ったまま私はベチーフェの窓を強く二度叩いた。するとすぐにベチーフェの旦那が顔を出した。

「バスケッタちょうだい」

「あいよ」

 注文をすると旦那はすぐ奥に引き下がった。

 ちらりと後ろを見ると先ほどの少女は伏し目がちに私を見ている。まだあきらめていないようだ。

 そうしているうちに旦那がバスケッタを一つ持ってきた。

「はいよ。十五ペネね」

「はい」

 そして支払った時であった。魔が刺したというほかない。私は窓を閉めようとする旦那に思わず声をかけていた。

「旦那。あのさ。一番安いやつでいいのでなんかパン、売ってくれない」

「どうしたよ。お前さん普段はそれしか買わねえじゃないの」

 窓を閉めかけた旦那が物珍しそうな顔で見てきた。

「いや、ね。ほら。後ろ」

「あ、ああ。なるほどね」

 私が首を軽く動かすと旦那はやせ細った少女を見て二、三度頷いた。

「やめとけよ。変に懐かれるとめんどうくさいぞ」

「いや、旦那の言いたいことは分かっちゃいるんだけどさ」

 旦那は肩をすくめて奥に入っていき、片手大のパンを持ってくると渡してくれた。そして私がまた財布を開けようとすると何にも言わずに窓を閉めた。ただで持っていっていい、という事なのだろう。

 私は振り返るとその少女にパンを渡した。

 驚く表情をした少女を背中にしてまた食事通りへ戻っていった。


 よせばいいのにその後も乞食の少女にパンを買っている。最早パンを買う事が当たり前になりつつあった。自分の生活費だってあるというのに。

 最初こそただでくれたベチーフェの旦那も二度目からはきちんと金をとり始めた。勿論しっかりとしたパンではあったが。とはいえパン一つ焼いてもらうのは大して金はとられないが買うとなるとそこそこ取られる。パン一本で十ベネ。食事通りでちょっとした肉の切れ端くらいは買える値段だ。一回だけなら傷も浅いがそこを何度もえぐると段々と傷口は広がっていく。財布は段々と細くなっていった。

 少女、ミーシャは段々とやせ細った姿から少しずつ生気を取り戻すかのようになり始めた。元々何も食べてなさ過ぎたのだ。

 ミーシャはあまり喋る事を好む子ではなかった。数少ない言葉から分かる事は父親がすでに蒸発している事。母親も懸命に仕事をしていたが無理がたたって病床にあるという事。そして何をどうしたらいいか分からないからその辺りの石を拾ってきて火打石として売っていたという事だ。

 いかにも子供らしい発想であったし、そんな発想でもなんとかしないといけないところまで来ている困窮した状況にあったのは間違いなかった。

 助けてあげたいところではあったが私だって学生だ。ミーシャにパンを与えるだけでも懐が厳しい状態なのにその上母親まで、とはとてもじゃないが無理だ。二人を食わせるなんて口が裂けても言えない。

 ある意味私がミーシャにパンを与えるのは何もできない事への贖罪なのかもしれない。いや、贖罪というほど崇高なものではない。目の前に映る可哀想なものへの同情でしかなかったし、それを贖罪という言葉で丁寧に洗って見栄えよくしただけの事であった。

 裏通りでパンを貪るミーシャを見ながらあれこれ思案していた。ベチーフェの旦那がミーシャにパンを与えようとした時に最初に言っていた言葉や、私のやっている事。そして私の置かれている境遇。様々な事が頭を横切っては消えていった。

 ただミーシャと私には大きな違いがあった。

彼女はやらざるを得ないから一つの事に、ただの石を火打石と言って売り歩かなければならない。少なくとも今できる事を意識して無我夢中になっているだけだ。彼女に選択肢があれば間違いなくこのような事を行動に起こさなかっただろう。

それに対し、私は多くの選択がある中で迷って動くことすらままならない。選択がない事が行動を選び、選択がある事で行動に二の足を踏んでしまう。その一点は大きな隔たりがあった。

 一見すると私の方がよっぽど恵まれているだろう。それ自体を否定するつもりはない。

しかしその選択が私の人生を狂わせまいと必死になるあまり、何も身動きが取れない状態になりつつある。それは多くの街道がある中でどこに行けばいいか分からないために道の入口で立ち尽くしている事に等しい。

ミーシャは私よりはるかに立派だったのだ。

 ある意味羨ましかった。私は社会と自分の中で激しく揺れ動かされている。

「お姉ちゃん。ありがと」

 私が行こうとするとミーシャは必ず礼を返してくる。

 それを黙ったまま頷くほかなかった。

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