第3話 女と結婚
「おはよう二コラ。決めてくれたかい」
「もうちょっと答えは待ってほしいわ」
大学に入ろうとした時である。校門でダンテから声をかけられた。彼はつい先ほどまでスカッシュをしていたらしく脇にラケットを抱え、片手に持っていた手ぬぐいで汗を拭っていた。早朝に友人とスカッシュボールをするのは彼の日課であった。
ダンテはこの大学でも一、二位を争う美丈夫という奴だろう。精悍な顔つきにしっかり整った眉、筋骨隆々なその体はとても世間の想像する学者のそれではない。学者というのはもっと色白で細身がかったような奴という相場なのだ。
このダンテが私にとって選択の帰路に立たされている原因なのである。
「君は行くところを決めているのかい」
「いえ。今のところは」
「宛て自体がないというわけではないと」
「そう、ね。宛てがないわけではないのよ」
「一体どんな宛てなんだい。教えてもらえないか」
自分の顔を覗き込むように私へ近づけてくる。
「くどく聞いてしまって申し訳ないんだが、大学を出た後僕と結婚してくれる事は検討してくれているのかい」
私は返事が出来なかった。
「考えてくれているだけでもいいよ。しかし君ほどの才女が何を悩んでいるんだ。研究だって僕の家でやらせてあげると言っているのに」
ダンテと私の付き合いはかれこれ数年になる。同じ講義を受けていた後、彼から声をかけられたのが始まりだった。最初は私ではなくミレイユに掛け合うかと思っていた。私に比べてミレイユは整った顔立ちであったし、なにより華やかであったから私よりよっぽど男性が寄り付いていたからだ。
ダンテ自体も有名であったし、大学きっての美男美女が出会う、という事を想像する人間も少なくなかったのではなかろうか。神だのなんだの言わないこの大学だって他人の目線はあるので表立って交際するだのなんだのはないのだけれど、ここで見染めて結婚を、とは井戸端会議にはちょうどいい題材であった。両方ともそこそこ有名な家の出身なのだから尚更よしという奴だ。
しかしダンテは私に用があって話しかけた。ミレイユではなく、だ。
どんな内容だったかは記憶が曖昧だ。鉱物史かなにかの授業で分からないところがあったから教えた、というようなものだったはず。それを教えてからいつの間にか井戸端会議の題材に選ばれる方になってしまった。
正直ダンテに対しては恋慕うような存在ではないものの、かといって邪険にするような相手でもない。異性であるから友達という関係が成り立つかどうかは分からないが、少なくとも私はその要領で彼を捉えていた。
恋、というものを彼から覚えた事はないし、一方で彼が私の事をどう思っているのか興味は全くないと言ってしまえば角が立ってしまうが大切と言い切るには躊躇う。
そんな存在から結婚の話をされてしまえば悩まない事もないだろう。
「もしかしてミレイユのように一人で生きていく事を考えているのかい」
「そこまで理想主義者ではないわ」
彼の求婚に対して悩んでいるのはここであった。
私も女であるし、世の常識から逸脱するつもりはないから女性の幸せに結婚といった選択肢があるのは否定しない。特にダンテは何もかも条件が整いすぎている。人によっては全てを投げ売ってでも彼の懐に収まりたいと考えるだろう。実際私も頭の中ではそう思っている。
ミレイユが望むような、女性が誰かの元に仕え、学問を修めながら文壇に立ち続ける、と言ってもそれは限度があるだろう。なんだかんだ言って社会というのは男性を中心に回っている。それに対する抵抗がないとは言わないが、私たちの代でどうこう出来るようなものでもないだろう。歴史に名を残すマルティナ・アドレーナのような女性で一つの都市の首長とするような例はあるにせよ、それは例外というもので多くが男性を中心に回っている。
その例外がいきなり我々の世代から現れるとは思えないのだ。少なくとも私とミレイユくらいか、または田舎で働きながら実践的な学問をしている誰かがいるかもしれないが、社会が私たちのような年齢や性別を求めない時代がくるとして、それは年を取ってからであろう。革命みたいなものは多くの事象が歯車となって最後の動力によって動き始めるものであって、その歯車に私達はなる事は出来ても動力になりえる事はない。ミレイユはそうなると思い込んでいるだろうが、所詮今の社会に取り込まれている時点で私たちは歯車なのだ。
そうなると結婚という道を選ぶ事そのものは無難な道というのも理解できる。人間四十年と言われた時代。やっとこさ医学というものが真面目に考えられ始めた昨今で寿命は延びたものの二十歳も過ぎれば人生半ば。自分の人生が折り返しに来ているのだからそろそろどういう人生を歩むのか決着をつけねばならない。
結婚か。学問か。
それを選ぶ時に来ていたのは間違いなかった。
「とりあえず今答えをすぐに出す事は出来ない」
「分かった。結論が出てからいつでも来てくれ」
今回もお茶を濁すような回答をしてしまった。
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