12.狂乱
三階屋上に上がり、柵の前に設置された日傘付きの食卓机に向かい合って座り、チャグと二人で花火を見た。
屋上の低い鉄柵の向こうには漆黒の海原が広がっている。夜空に七色の花火の球が次々瞬くと、海面にもぼんやりと色とりどりの光の輪が浮かび上がった。
浜辺には人だかりが出来ていて、きゃあきゃあと甲高い歓声が響いてくる。
お菓子を食べるのも忘れて、私は生まれて初めて見る花火に見惚(みと)れていた。海上からひゅるるると音を立てて光の尾を撓(しな)らせながら天に昇り、一泊置いて闇に花咲かせる花火の群れ。七色の光線を拡散させて消えたと思ったら、すぐさままた連続して光り輝く。
それはまさしく夜空に描かれる芸術だった。
花火はこの世で一番綺麗な爆発物だ、という感想をふと思い付いた。
どれくらいの時間、花火を見続けたことだろう。チャグが不意に訊いてきた。
「お姉さんの話、聞くの辛かった?」
父が良い人であるという話を聞くのが実に不快であるという気持ちが私の顔に現れていたのを、チャグは見ていたのだろう。私は花火から目を逸してチャグのほうに向き直った。
「気づいてた?」
「あの店員さんがお父さんとの思い出話をしている時、ユミンちゃんずっとしかめっ面してたからね」
バレていたか、と私は苦笑した。
「だって⋯⋯母さんを廃人になるまで虐げた鬼畜が心優しい思いやりのある人だなんて、そんなこと信じるの無理でしょう?」
「⋯⋯確かにね。僕個人の考察だけど、元々お父さんは心優しいどこにでもいる普通の人だったんだと思う」
またまた平和ボケ発言かと呆れながら、私は半ば反抗するように訊いた。
「元々心優しい普通の人? 何であなたにそんなことがわかるの?」
「突然こんなのことを聞くのはだけど、ユミンちゃんは苛々して物に八つ当たりしたことはあるかい?」
「は?」
何の脈絡もない質問をぶつけられて私は眉をひそめる。
「苛々すると、何かに八つ当たりしたくなるよね。ユミンちゃんもそんなことない? 苛っとした時に壁を叩いたり、物を投げつけたくなったり」
何でそんなことを聞くのかと疑問に思いながらも、とりあえず適当に頷いてみせた。
「あ⋯⋯まぁ、そうなることは時々あるわ」
「そうだよね。じゃあもしユミンちゃんが戦争に行かされて毎日戦わさせられたら、どれくらい苛々すると思う?」
「え⋯⋯そんなこと聞かれても」
戦争に行ったことなどないので、そんなのわかるわけがない。
「想像してごらん。銃弾と爆弾の飛び交う戦場を駆け抜けて、死に怯える毎日。仲の良かった友達や先輩、後輩は次々と死んでいく。補給を一切与えられず、農村で衣食住を得なければならない貧しい生活。農村だと物資に限りがあるから全員分に食事が当たらない。当たらなかった兵隊は雑草と土と排水口の汚水しか口にできない。そんな残酷な生活を数年も続けたら⋯⋯ユミンちゃん、どんな気持ちになると思う?」
「⋯⋯気が狂うと思うわ」
自分で言ってみて、ハッとする。チャグにどんな気持ちになる? と訊かれるまでそんなこと意識したこともなかった。
私が自分の立場を置き換えてみて気が狂うかもと気づいたのを察したように、チャグは頷いた。
「そう。お父さんは戦争で気が狂ってしまった。そして自分をこんな酷い目に合わせたのは共和国軍と彼らに協力している共和国民だと苛立ちの矛先を向けて、憎悪した。帝国は開戦時、共和国のせいで戦争するはめになった、共和国が悪い! と敵愾心(てきがいしん)を煽る宣撫工作を帝国民にしてたし、お父さんもその影響を受けていたかもね」
「憎悪⋯⋯」
自分も胸に抱く憎悪というその黒い感情が今、重い鉛のように心に乗っかって軋ませていくのを感じた。
「国による宣撫工作、戦争での飢えと死の恐怖と友達を失う悲しみ。それらによって帝国兵の憎しみの矛先は、共和国の軍民に向けられた。共和国兵のみならず、国民も遠回りながら自分たちを戦争に巻き込んで苦しめる敵だ。だから奴らも殺すなり焼くなり斬り刻むなり、徹底的にいじめてしまえってね。自分が不幸だから、憎い相手も不幸にすることで心の傷を埋めようとする。自分ばかりが一方的に不幸なのは耐えられないから。⋯⋯お父さんも自分の不幸を癒やすために、共和国民たちを殺し犯したのかもね」
三年前、学校で私をいじめていた子供たちを思い出す。彼らも戦争で祖父母や家族を失って不幸だから、相手を不幸にすることで心の傷を埋めようとしていたのだろうか。
帝国兵たちの罪業と、学校のいじめ。残虐性に差はあれど、何か共通するものを感じた。
最後の珈琲を飲み干して空になった茶碗を置き、チャグは結論を言うように呟く。
「憎悪はどんなに心優しい人間も悪魔に変えてしまう恐ろしい感情だよ。きっと優しかったお父さんも憎悪によって鬼畜のようになってしまったんだね」
チャグは私を見た。憂いを湛えたような彼の眼差しが「お父さんは憎悪に駆られて変わってしまったんだ。だからわかってあげて」というお花畑思考を押し付けているような気がした。苛立ちが突き上げてきて、私は吐き捨てるように言った。
「でも、たとえ父が元々心優しい人間だったとしても、犯した罪は消えないっ! 父の鬼畜の所業で母は狂って、私は村人たちの心の傷を何年もえぐるはめになったんだもの。だから私は元々普通だった父が不幸な目にあって鬼畜に変わったのだもしても、決して許さないっ」
つい口調が荒くなってしまったことを後悔し、私は唇を固く結んで俯いた。チャグは頷き、一言⋯⋯。
「そうだね。当然だと思う」
なだめるようなその声に、あんたの気持ちはわかるけど、『お父さんもね』⋯⋯という父に対する哀れみの念が含まれているような気がした。被害妄想からくる思い込みかもしれないが、そうさせるのはこれまでの彼の平和ボケ発言のせいだ。
居心地の悪さを感じ、しかし勝手にこの場から去れないもどかしさに身を焦がす。苛々が胸内で膨張し爆発しそうになった。私は立ち上がり、茶菓子の皿と茶碗を手に持った。
「とりあえず明日、セントベルク市役所に駄目元で電話してみるわ」
私の怒りを感じ取ったのか、気まずそうな顔でチャグは頷いた。
一人で食器を持って階段を降りようとしたその時、建物下の道路から悲鳴のような叫び声が轟いた。
「速報! 速報! 戦後賠償破棄決定! 戦後賠償破棄決定ーっ!」
えぇっ!? という人々の動揺するような声が続いて響く。
戦後賠償破棄という言葉で、全身の体温が一気に下がるのを感じた。私は慌てて引き返して食器を机の上に置き、鉄柵越しから道路を見下ろす。
一人の男性が木箱のような形のラジオを掲げて、群がる人々に音声を聞かせている。
背後からチャグの混乱したような独り言が聞こえた。
「戦後賠償破棄? そんな、戦争被害者たちは帝国の賠償の支払いを十年以上も待っていたのに。何で⋯⋯」
やがて道路の右手遠くで、拡声器でがなり立てる声が轟いた。
『補償してくれると思ったらまさかの破棄! 私達、賠償支払い決定の速報を聞いたら盛大に祝おうと夜中まで待機していたんですけど、共和党代表よ、破棄ですかーっ? ふざけんなよっ!』
乱暴な口調で平然と演説するそいつらは、街でよく騒いでいる左翼団体だろう。ひたすら共和党への悪口を言い騒ぎ立てながら、彼らは街宣車に乗って段々とこちらへ近寄ってきた。
『戦争被害者への補償もろくできないくせに勝手に賠償破棄決定してんじゃねーぞぼけっ! 共和制撤廃! 共和党はいらん! 皆さん、この国を民主主義に変えましょう!』
おー! という呼応する声と拍手が下からいくつか湧き上がった。
左翼団体の街宣車がロジャース珈琲のそばを通りかかると、彼らは車を止めて店前に降りた。道路に立つ野次馬が背後から見守る中、団体長らしき男が拡声器を口に当てる。ふと嫌な予感がして、全身の毛穴がぞわっと開く。
『鬼畜帝国人が何偉そうに喫茶店なんかやってんだよ。さっさと国に帰れ! てめーらが謝罪も賠償もしないせいでまだ戦争に苦しめられている被害者がいるんだぞ!』
お姉さんが危ない! 私は慌てて屋上の階段を降りて一階へ向かい、調理場の隅にうずくまり頭を抱え怯えているお姉さんに駆け寄った。お姉さんは息を荒らげて身を震わせている。
どうしよう。左翼団体に店に乗り込まれ暴れられては敵わない。
背後からチャグの階段を駆け降りてくる音が聞こえてきた。私は後ろを振り返り、彼に助けを求める。
「チャグ⋯⋯どうしよう!」
チャグはお姉さんに訊いた。
「お姉さん、裏口はある?」
お姉さんは恐怖に呻きながら首を横に振った。
「じゃあ店の窓から逃げよう!」
チャグがお姉さんの肩を持ち上げたその時、玄関の窓ガラスの割れる音がした。
お姉さんが悲鳴を上げる。
「お姉さん、早く!」
チャグは恐慌して叫び狂うお姉さんを引きずるようにして、客間にある窓まで連れて行った。窓を開けると、彼は私とお姉さんに外へ出るよう促す。
「早く外へ!」
私は窓の外から路地裏へ降り立ち、お姉さんが窓枠を乗り越えるのを手伝った。
店の中に左翼団体員たちの怒声と物を破壊する音が轟く。
「ぶち壊せっ! 全て燃やせ!」
燃やす? 腹に冷たいものが広がる。その時、店内で耳をつんさぐ爆音と共に白熱の閃光が瞬いた。光の発生源からごぉっと炎の柱が噴き上がり、床と天井を舐めるように一気に燃え広がってゆく。
衝撃のあまり思考が吹っ飛んで、私は呆然としてしまう。
「なんて⋯⋯ことを⋯⋯」
お姉さんが両手で顔を覆って絶叫した。
「店がっ! いやぁっ! 店がぁーっ!」
あっという間に店内は激しい炎に包まれ、長机も椅子も調理場も全て焼け焦げていった。開いた窓からも炎が噴き出し、私の頬に強烈な熱気が当たる。
「お姉さん! 逃げよう!」
お姉さんは店を焼かれたことに唖然とし、腰が抜けて立てない様子だった。チャグはお姉さんを無理矢理背負い、狭い路地を駆け抜けていった。私もチャグの後に続く。
背後の海岸線沿い道路から左翼団体の「ざまぁみろ!」という愉快げな笑い声が響いた。
彼らの嘲笑を聞いていると、激しい怒りが全身に満ちた。私は歯をぎりっと食いしばる。
お姉さんは何も悪くないのに、どうしてこんな理不尽な目に合わなきゃいけないんだ。
帝国を憎んでいながら、左翼団体(あんたたち)も村を焼き討ちした帝国兵たちとやっていることが一緒じゃないか。
路地の遠くにある縦長の切れ目から祭り明かりが見える。表通りだ。そこからも人々の怒声や騒ぎ声、左翼団体のものらしき演説が轟いてくる。
楽しいお祭りは、今や戦後賠償破棄の速報と共に地獄と化してしまった。
チャグが吐き捨てるように呟く。
「畜生、どこもかしこも暴動騒ぎだ。戦後賠償破棄がきっかけで国民の共和党に対する怒りが爆発したんだ」
路地の前後を暴徒に挟まれてしまっている。彼らは帝国人のお姉さんと似非(えせ)帝国人の私を襲ってくるかもれない。
「チャグ、どこに逃げよう?」
「とりあえず、君たちの身を隠そう」
「どうやって?」
「そうだな⋯⋯あっ」
チャグは路地の脇に置かれたごみ箱に駆け寄り、中に捨てられていたお面二つと布を手に取り、私とお姉さんに配った。なるほど、顔と髪の毛を隠せば襲われることもないというわけか。私は頭を布で覆ってお面を被り、お姉さんにも同じようにしてやった。
路地を抜けると、お面の穴越しから暴動の光景が目に飛び込んできた。
道路の真ん中で帝国の国旗に火を付けて燃やし、見物の人々が歓声を上げている。街宣車の屋根に設置された演説台に乗り、左翼団体が共和党や帝国人への暴言を吐き、取り巻きが拍手を送っていた。
左翼団体のみならず、一般の共和国人までもが暴動騒ぎに乗って一緒に騒いでいた。祭りの警備をしていた警察官たちが暴徒たちを警棒で叩いて鎮めるも、逆に彼らの怒りと興奮を駆り立てたらしく騒ぎは大きくなるばかりだ。
表現するならば、『狂乱』という言葉が相応しい光景であった。
周囲の騒ぎ声に混じって、「この国はもしかすると民主制になるかもな」というチャグの呟きが聞こえたような気がした。
騒然とする街路を走りに走り続けて三時間ほど、やっとのことでチサ駅までたどり着いた。暴動から逃れてきたらしい人々の群れが次々と広場から駅に入ってきて、券も買わずに改札口を通ってゆく。
駅前に着いた私達は人々に流され、客車にお仕込まれてしまう。無賃で乗ってしまったことに罪悪感が募るものの、もう遅かった。汽車は隙間なくぎゅうぎゅうに詰め込まれた膨大な人数の人間を乗せて動き出す。
人々に四方から圧迫され、呼吸が苦しかった。このままでは呼吸困難で死ぬか圧殺されてしまう。酸素不足で苦しくて、天を仰いで私は空気を吸った。
息苦しさに悶絶しながら乗り続けること三時間、やっとヨト駅辺りのど田舎まで来た。
人々が次々と降りて客車は空になり、私達はようやく椅子に腰掛けることができた。三時間も四方から人々に挟まれかつずっと立ったままだったので、さすがに疲労困憊だった。
私の隣に座るお姉さんは、ずっと俯いたままうわ言を喋っていた。
「お父さんの⋯⋯大事な店が⋯⋯店が⋯⋯」
亡き父から受け継いだ大切な店を奪われたお姉さんの絶望は、想像するに余りある。かける言葉も見つからず、背中を擦るのも気安い慰めのように思えてできない。絶望の底に突き落とされたお姉さんをただ眺めることしかできない自分が憎たらしかった。
車掌が「次はアサ駅に留まります」と言った。無一文のお姉さんをどうすればよいか迷い、私はチャグに訊いた。
「チャグ、お姉さんはどうすれば⋯⋯」
「そうだな⋯⋯。避難民収容施設に預けよう。僕が連れて行くよ」
避難民収容施設は、火事や家庭の事情で家に住めなくなった人々を保護する法人団体が経営する場所だ。ユゴ市内に幾つかある。
チャグはお姉さんを連れてアサ駅で降り、私は独りヨト駅へ向かった。
ヨト駅に着くと、改札窓口で払いそびれた運賃を支払って私はヤケ村へ向かった。
自宅付近まで来た時、ふと謎の刺激臭が鼻を突いて私は眉をひそめた。
「何、この臭い」
漂白剤のような鼻につんとくる匂いだ。歩きながら私は漂ってくる臭いを嗅ぎ、発生源を探る。
臭いは自宅の畑辺りから漂ってくる。母がよからぬ何かを畑に撒き散らしたのだろうか。嫌な予感がして私は走り出し、自宅の畑へ駆け寄る。近寄るたびに刺激臭は段々と強烈になっていった。
自宅の畑沿いを伸びる畦道に立ち、土手下を見下ろす。明かりの少ない村で暮らす農民の目は夜闇に慣れているため、畑にばらまかれたそれがすぐさま目に飛び込んできた。
畝の土台全体に散布された白い粉。
「あっ⋯⋯」
白い見た目と刺激臭で粉の正体がわかった私は、愕然として凍りつく。
あの白いのは――除草剤だ。
春になってようやく出たばかりの芽たちに、残酷にもぶちまけられていた。
「あぁぁーっ!」
断末魔のような悲鳴を轟かせ、私は土手を駆け降りて畝の上に振りかけられた除草剤を無我夢中で払い除けた。
「誰がこんなっ⋯⋯こんな⋯⋯ひ、酷いっ⋯⋯うわぁぁっ!」
この時、戦後賠償破棄の波紋がヤケ村の人々の抑圧されてきた憎悪を解き放ち、ナリメ母子にこれまでになかった苛烈な排除を行っていたことを私は知らなかった。
◆ ◆ ◆
私は絶望のあまり放心したまま、朝までずっと自宅の畑の土手に座っていた。
畝から顔を出す全ての芽が除草剤の粉を被り、頭を垂れて枯れている。母と私で手塩をかけて育てた畑の作物は、一日足らずで全て駄目になってしまった。これでは今年の農業賃金は零だ。戦争調査隊の月三万の金だけで来年まで生きていくなんてとてもできそうにない。三年前以上の極貧生活に成り下がり、飢えて痩せこけて死ぬだろう。
背後にある自宅の玄関引き戸の開く音がして、私は後ろを振り返る。母が家の前に立ち、壁に殴り書きされた無数の赤い文字を呆と見つめていた。
『出ていけ』
『失せろ』
『鬼畜』
『早く死ね』
朝になってから家の壁に落書きされていたことに気付いたが、正直拭き落とす気力もなくただ見つめることしかできなかった。
畑沿いの畦道のほうから子供たちの嘲笑う声が聞こえてきた。
「あそこの橙色の髪の女、俺のばあちゃん殺した鬼畜の子供なんだぜ」
「ほんと? こえー」
「畑に除草剤まかれて家に落書きされてやがる。あはは、いい気味ー」
一方、悲しそうな口調で喋る子もいた。
「まぁ、仕方ないよね。村のみんな、虐殺で負った身体障害の補償をずっと欲しがっていたのに、賠償破棄になって激怒してるもん。戦後賠償を求める社会運動行進に何度も参加してたくらいなのに⋯⋯こんなのあんまりだよ。鬼畜どもの家族に八つ当たりしたくなるのもわかるよ」
「おいらの母ちゃん、虐殺から十年経ってもまだ鬱病が治ってねぇ⋯⋯あぁ、賠償が出れば治療費もらえたかもしれねーのに。何で、こんな」
子供たちの話を聞いて、なんとなく私達の身に降りかかった凶事の正体がわかった。戦後賠償破棄により戦争被害の補償を与えられず、村人たちはやり場のない怒りを鬼畜の家族たる私達にぶつけてきたのだろう。
村人たちの憎悪の的になるのは慣れていたが、生活の唯一の糧である畑を荒らされたことにはさすがに堪えた。彼らもとうとう我慢の限界に達し、私達を餓死させることを考え始めたのかもしれない。
母が歩き出して私から少し離れたところの土手に座り、相変わらずの呆けた顔で畑を見つめていた。畑を荒らされたことに悲しんでいるのか、そうでないのか。母の能面のような表情なき顔からは内面を察することはできなかった。
私も母と同じほうを見た。除草剤の白い粉が風に舞って煙を上げている。
畑の土と種を新しいものに変えて無事芽が出たとしても、夏がくれば暑さにやられて枯れてしまう。
宿生活をする金もない。あと思いつく行く宛は⋯⋯。
「避難民収容施設に行くしかないか⋯⋯」
しかし、施設で泊まれるのは申請が通ればの話だ。自宅と職のある私達は難しいかもしれない。もし泊まれなければ野宿するはめになる。
どちらにしろこのままではいずれ資金が尽きて飢え死ぬのみだ。村を出て避難するしかない。私は母のところへ行き、この村から出ようと誘うことにした。
「母さん、畑の作物全部枯れちゃった。今年はこの村で生活できないよ⋯⋯だからこの村を出よう」
すると母は横顔を引きつらせ、愕然としたような表情を浮かべた。意識散漫の状態ながら、これから浮浪者同然の極貧生活が始まることを悟って絶望したのだろうか。
私は母に手を差し伸べ、再度言った。
「お母さん、ほら、行こう⋯⋯」
母は嫌そうに顔をしかめて首を横に振った。母の見せた予想外の態度に私は困惑する。畑と家にいたずらされたのを見て母も嘆いていたのではないのか? 出ていくことに一体何の不満があるのかわからないが、もうこの村にいても生きていけないので出ていかないわけにはいかない。私は母に詰め寄り、説得した。
「何で? ここにいても飢え死ぬだけだよ?」
そう諭(さと)しても母は無言で首を横に振るだけだった。
「母さん! もうこの村にはいられないんだよ!」
何度説得しても母は頑なに首を横に振り、唇をぎゅっと噛んで言葉を絞り出すように「嫌だ」と繰り返す。母の反抗的な態度にさすがの私も苛々してきて、返す声に怒りがこもった。
「飢え死にたいの、母さん?」
そう訊くと母はゆっくりと立ち上がり、俯いたまま私の方を向いてぼやく。
「⋯⋯嫌」
「何が?」
母は両手で着物の裾をぎゅっと掴みながら言った。
「私は⋯⋯この村から出ていかない。⋯⋯絶対、絶対、出ていかない」
いつもぼそぼそとしか喋らない母が、初めて真剣味を帯びた重みのある声色で訴えてきた。こんなにもむきになった態度を見せる母は今まで見たことがなく、私は少し怯んで後退る。
「な、何でよ?」
母は両手で頭を覆い、くすっと笑った。
「そうじゃないと⋯⋯私、壊れることができんからなぁ⋯⋯」
言葉の意味が理解できず苛立ちがますます昂り、自然と自分の顔が歪んでいくのを感じた。
「壊れる? 何意味分かんないこと言ってるの?」
「私⋯⋯もっと壊れなきゃいかん。壊れなきゃいかんの。じゃないと⋯⋯ふふ、ふふ⋯⋯」
村から出て行きたくないがため、わざと変なことを言って私を煩わさせているのだろうか。全身の毛穴から怒りが熱を伴って噴き出して来るのを感じた。
「だから、意味がわかんないよ」
「壊れたいの。じゃなきゃ、私はね⋯⋯」
溜まりに溜まった苛立ちと怒りが破裂して一気に噴き出し、私は母に向かって今まで浴びせたことのない怒声を上げた。
「いい加減にしてよっ‼」
すると突然母は断末魔を上げるように絶叫し、地に身体を伏せて喚き散らした。
「嫌だぁっ! ここから出て行きたくないっ! 外で暮らしたくない! もっと壊れなきゃ! 私はもっと壊れなきゃいけないんだぁっ! 壊れなきゃ、壊れなきゃ⋯⋯アッちゃんが⋯⋯私を⋯⋯っ」
いつも呆然としてばかりの母らしかぬ激しい狂いっぷりに、私は一瞬怒りを忘れて唖然とするほかなかった。
母は地面を片拳で何度も叩きながら叫んだ。
「私をいじめにくるんだ⋯⋯夢で、耳元で、頭の中で⋯⋯私をいじめに来るんだよぉっ!」
私が呆としている隙に母が不意に立ち上がって駆け出し、土手を降りる。そして畑に突き刺さっている烏避け具の付いた鉄杭を引き抜き、鋭く尖った先端を首に当てて叫んだ。
「この村の外で暮らすなら、私死んでやるからっ!」
自殺する気か! 恐慌した私は慌てて土手を飛び降り、母の掴む鉄杭を取り上げて制止させる。
「母さん! やめて! 母さんっ!」
母は強張らせていた表情を緩めて大人しくなり、項垂れてぶつぶつと独り言を呟き出す。
「壊れなきゃ、私辛い⋯⋯辛いんだよ⋯⋯死ぬほど辛いんだ⋯⋯だから村から出ていくもんか⋯⋯私が壊れるまで、ずっとここにいるんだ⋯⋯」
母は泣きそうな顔になって唇を震わせながら、涙声でそう言った。
「母さん⋯⋯?」
母の目から涙が伝い落ちる。虚ろだった母の瞳に悲しみの色が浮かんでいるのを目にし、私は息を呑んだ。
「壊れなきゃ、アッちゃんが⋯⋯アッちゃんが私をいじめてくるから⋯⋯怖いんだよぉ⋯⋯っ」
母は両手で顔を覆い、幼い子供のようにわんわんと泣きじゃくった。生まれて初めて感情を爆発させる母を前に混乱したが、暫ししてとりあえず慰めてやらねばという思いに駆られた。
「母さん⋯⋯」
私は母を抱きしめた。
「母さん⋯⋯私がいるよ。だから大丈夫よ」
母は私の制服の裾を掴んでずっとずっと泣き続けた。私のことを散々無視してきた母が今、私に感情をぶつけて泣きすがっていることが信じられなかった。嘘だ、こんなことがあるか。そう驚く一方で、人生で初めて母から必要とされたような気持ちになった。
幼い頃、母にかまってほしくてたまらなかった。その欲求が今になって叶えられたような気がして、喜びが込み上げて涙腺が緩んできた。
「私もアッちゃんに何もかも壊されたんだ。私も母さんと一緒よ」
私は母の頭を撫でてやった。母は私の腕の中で泣き続けた。幼子のような母を見ていて、ふと気づく。
今までずっと無視されて、家事も私に全部任せっきりにして母にうんざりすることが多々あった。それでも母を嫌いになれなかったのは、私達がアッちゃんに虐げられた被害者同士だからなのかもしれない。
母に対して今まで感じたことのない愛しさを感じて、私も彼女をぎゅっと抱きしめて共に泣いた。
◆ ◆ ◆
村の外で暮らすことになれば、母が本当に自殺してしまうかもしれない。最悪なことに、結局またヤケ村で暮らすはめになってしまった。
安全のため、母はチャグ宅で仕事が終わるまで預かってもらうことにした。私が『仕事から帰ってくるまでの半日だけだから。仕事終わったらちゃんとヤケ村に帰るから』と母に説得したところ、彼女は渋々納得したように頷いてくれた。暴れたり叫んだりして迷惑をかけなければいいが⋯⋯と、チャグ宅を去るとき気が気でなかった。
畑を無惨な姿にされて、家に落書きをされて心を根こそぎえぐられ、頭が回らない。それでも今日も仕事に行かなければならない。社会にとっては一個人の身に起きた事件でありどうでもいい他人事なのだ。だからどれだけ気が滅入っていようが、公私を別けて仕事に行かなければならない。
ヨト駅からユゴ市へ向かい、市役所に出勤した。持ち場へ行くと他の職員から顔色が悪い、どうしたのと訊かれた。私は何でもない、大丈夫ですと虚勢を張ってあしらい、印字機を打つなり書類を整理するなりいつも通り仕事を続けた。
午後四時。仕事が終わった後、私は生きた屍のようにおぼつかない足取りで市役所内の廊下を歩いていた。思考が散漫としていて何も考えられない。廊下を行き交う職員たちとたまにぶつかり、睨まれてしまった。
ふらふらと歩き続けて階段から二階へ降りた時、目の前にある扉の上部に『国際通信課』という札があるのを目にして私は足を止めた。他国との通信を担う部署だ。一般人でも、必要があれば国際電話局に繋いでもらって他国と電話をすることができる。
そういえば私、セントベルクにいる叔父に連絡をしようとしていたんだっけ⋯⋯。
憂鬱のあまりすっかり忘却していた目的を思い出し、私は咄嗟に国際通信課の入口に入った。
入ったはいいが、セントベルク市役所に叔父の住所だの電話番号を教えてと頼んでも、他人の情報を勝手に教えられませんと言われるだけじゃないのか。
そんな躊躇いが込み上げてきたが、今は一刻を争う事態だ。叔父がセントベルクのどこで暮らしているかわからない以上、がむしゃらにでもなんとか自分のお願いを聞き入れてもらうしかない。
なんとも無謀な挑戦だが、こちらも背水の陣だ。やる以外の選択肢はない。
受け付け窓口の人に『電話を貸して頂けませんか』と頼み、通信料金を支払って電話を貸してもらった。
電話交換手と繋がると、『セントベルク市役所の住民課に繋いでください』と頼んで市役所の電話番号を教えた。接続されて雑音が続いた後、帝国語で『はい、セントベルク市役所住民課でございます』という女性の声がした。私は帝国語で訊く。
「あの⋯⋯すみません。セントベルク市に住むロト・ネメントさんの住所、または電話番号を教えて頂きたいのですが。私、ロト・ネメントさんの⋯⋯姪なんです。共和国に住んでいますけど」
『では、お住まいの地域の市役所から家系図や戸籍表などをこちらへお送り頂けますか?』
愕然として私は受話器を落としそうになった。姪だと証明できる書類が無ければ駄目なのか。自分の戸籍は一応あるがそこに父の名も叔父の名もあるわけがない。
証明のしようがないなら、ここでおしまいだ。
『どうなさいました?』
「私がロトさんの姪であると証明できる資料がないと、どうしても駄目ですか?」
『はい。詐欺や犯罪を防止するため、第三者に情報をお伝えするわけにはいきませんので』
目の前が暗転するような感覚に襲われた。ここで終わりだという心の声が私を諦めさせようとするも、駄目だと制止して私は首を横に振った。ここで諦めたら全て終わりだ。そう自分に言い聞かせて口を開く。
「私、ロトさんの兄のアトさんを探しているんです。彼は私の父です。ユゴ市の戦犯管理所から出所して帰国してから、ずっと行方不明でして。
父は結婚せずに妻子を成したきり、私達を置いて国に帰ってしまったんです。私、父にどうしても会いたくて、今まで色々足取りを調べてきました」
諦めるな、諦めるなと自分を鼓舞する気持ちが溢れて、言葉が止まらなくなる。
「父の現住所を知っているのは叔父だけなんです。だから⋯⋯叔父の住所か電話番号さえわかれば、もしかすると父に会うという長年の夢が叶うかもしれないんです⋯⋯だから、だから⋯⋯」
受話器越しの相手は無言だった。
「父と会える機会を逃してしまうのは絶対嫌なんです。お願いします⋯⋯どうか、どうか、叔父さんの情報を開示して頂けませんか?」
数秒の間を置いて、溜め息混じりに『⋯⋯困りましたね』という呆れたような声がした。気持ちはわかるが素性のわからぬ他人にはどうしても教えられないんだ、と言いたそうな気配が受話器越しから伝わってくる。
一体どうすれば⋯⋯と悩んでいると、私はふとお姉さんの言っていたことを思い出す。父は中卒で製鉄工場に就職し、二十歳になるまでそこに務めていた。市役所になら職歴の情報はあるはずだ。
「もし市役所にアト・ネメントさんの⋯⋯父の資料が残っていましたら、これから言うことを調べてください。父は中卒で社会に出て、二十歳になるまで製鉄工場に務めていました。資料には職歴も含まれていますよね? もしあれば、父の情報を見てください。私の言ったことは当たっているはずです」
『⋯⋯わ、わかりました。これからお父様の資料があるかどうかお調べ致します。結構時間がかかるかもしれませんが、そのままでお待ちくださいませ』
それから十数分ほどして、先程の女性職員が電話に出た。
『ありました。九年前の資料になりますが、残っておりました』
衝撃が全身を貫いて、反射的に軽く飛び上がってしまう。
「ほ、本当ですか!?」
『ええ、職歴の欄に中卒で製鉄所に就職、二十歳で初年兵教育のため休職と書かれております。あなたの仰ったことは確かですね』
お姉さんから聞いた話は一致していた。嬉しいとかよかったという感情を超越した深い昂奮を覚え、激しく身震いしてしまう。
『必死そうな声からしても、私はあなたがアト・ネメント様と無関係ではないのかなと思います。しかし関係を証明できる物がない以上、お教えすることはできません』
まだ開示はできないという言葉で感情の昂りは急激に醒め、不安に駆られた。しかし負けじと堪え、私は咄嗟に思い付いた案を言った。
「で、では、私の写真をそちらへ送ってもよろしいでしょうか。父と私の顔はよく似ていると周りから言われますので、きっと親子だと一目でわかるはずです」
『了解いたしました。本日市役所は午後五時で終わりですので、後日あなたの顔写真を国際郵便で住民課に送ってくださいませんか?』
私がロトの姪であることはまだ半信半疑らしいが、一応少しは信用してもらえたようだ。
「は、はい! ぜひ!」
『最後にお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?』
「ユミン・ナリメです」
『ユミン・ナリメ様ですね。顔写真を送って頂き、それをロト様にも開示してもよろしいでしょうか?』
本人に見せたほうが、私達親子が似ているかどうか一番わかりやすいということだろうか。
「はい」
それから顔写真を送った後の連絡を受け取る時間を調整し、話は終わった。
『では、失礼いたします』
電話が切られた後、私はその場に呆然と突っ立った。
写真を送って父と顔が似ていると判明すれば、叔父のロトと繋がれる可能性が高まる。
かつてない喜びが身体に満ち、心臓が高鳴った。
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