4.優しい人々

 荷台の中で私は蓋の隙間から入ってくる空気を必死に吸っていた。車が揺れるたびに頭を何度も打ってしまい、痛かった。


 座席側からは調査員たちの話し声が聞こえてくる。言っている内容はわからないが、たぶんお仕事の話だろう。


 耳を澄ましていると、おじさんの声がした。


「次、ノキ村だな。道、間違えんなよ」


 ノキ村はヤケ村の隣村で、徒歩だと約十五分くらいで着く。


 聞き取り調査をしている間、この荷台の中で空気を吸いながらじっと彼らが車に帰ってくるのを待つしかない。


 狭い荷台の中に身体を押し込めているせいか足腰が痛い。聞き取り調査が何時間かかるかわからないが、それまで痛みに耐える他ない。


 車が速度を徐々に緩め、止まった。ノキ村に着いたらしい。調査員たちが扉を開け、次々と降りていく音が外から聞こえた。私は荷台蓋の線のような細い隙間から外を眺めた。調査員たちが民家の中に入っていくのが見えた。


 待つこと一時間後、ようやく調査員たちが帰ってきて車が動き出す。また数十分くらい走って別の村々へ向かい、一時間かけて聞き取りをする。荷台の隙間から差し込んでいた日差しは徐々に弱まり、橙色の光に変色していた。


 時間が経つたびに不安は大きくなっていく。一体車はどこの村まで来たのか。徒歩で数日かかる場所まで来てしまったなら、明日までヤケ村に辿り着けそうにない。ヤケ村周辺に汽車は走っていないので、移動方法は徒歩になってしまう。私がご飯を作らないことに母が発狂して、自殺でもしたらどうしよう。私は間接的に人を殺したことになる。急に心細くなって私は頭を抱えた。


 最後の村の調査を終え、帰ってきた調査員たちが車の中に乗り込んできて、疲れた怠そうな声で口々に言う。


「よーやく終ったね」


「疲れたぁ」


 おじさんが言った。


「今日はもう遅い。皆、明日は休みだから今日は俺の家に泊まっていけ」


「ありがとうございます」


 どうやら調査員たちは今夜、おじさんの家に泊まるらしい。このまま私も彼らと共におじさんの家に行こう。調査隊から父の情報を聞き出すため、足腰の痛みに耐えてここまで来たのだ。怒られてつまみ出されても、必死に土下座してでも父に関わる情報を教えてくれと頼まなければ。緊張感に心臓が高鳴った。


 車が走り出してから二時間くらい経った。橙色の夕日は宵時の青色から紺色に変色して、濃い闇に変わっていた。


 蓋の隙間の闇を光の粒が走っていく。街明かりだ。外から街の宣伝音も響いてくる。村からかなりの距離がある街の方まで来てしまった、と私は焦った。明日までに帰るのはほぼ不可能だろう。


 車はくねくねと曲がり道をたどりながら徐々に速度を落としていき、やがて止まった。調査員たちが扉を開けて一斉に降りる音がする。荷台を開けられてつまみ出されて駅まで強制送還されたらという恐怖が胸を過る一方、ここから出て正直に謝り、父の情報を聞き出さなきゃという気持ちにも駆られた。


 迷っていると動物の足音が車のそばに近づいてきて、ワンワンッと犬の鳴き声が響いた。おじさんが犬に優しい声で言う。


「ただいま、リョギ。遅くなってすまなかったな」


 ハッハッと犬の息が続いた後、一旦ぴたりと止まって、四本足の足音がテチテチとこちらに近づいてきた。荷台の蓋の隙間越しからフンフンと鼻息が聞こえる。私の臭いに気づいて荷台を嗅いでいるのだ。

 リョギのガリガリと車の壁を引っ掻く音が響いてきた。もし荷台を開けられたらかじられるかもという恐怖で身体が震えた。


「リョギ、どうした? 荷台には何もないぞ」


 リョギは引っ掻くのを止めない。おじさんはリョギを叱った。


「やめろ、リョギ! 塗装が剥がれる! 全く、どれ、何もないぞ、ほら!」


 と言っておじさんが荷台の蓋を開け、中にいた私を見下ろす。


 あ⋯⋯と私とおじさんが同時に小さな声をもらした。 

 おじさんが驚愕したように顔を引きつらせ、声を震わせる。


「え⋯⋯?」


 怒られる、と私は身構えつつ苦笑する。おじさんは目を丸くし、口元の皮膚をぴくぴくと引きつらせて叫んだ。


「お、お⋯⋯お前ーっ!」


 謝るしなかった。


「ごめんなさいおじさん、勝手について来ちゃって」



 ◆ ◆ ◆



「ったく、何で付いてきやがった!」


 自宅の居間に案内されて食卓机前に座った私を、おじさんはきつく叱った。私は項垂れてひたすら「ごめんなさい」と謝ることしかできなかった。


 居間は白い壁と綺麗に磨かれた白木床の綺麗な空間で、見たことのない家具や飾りがたくさんある。これが平民階級の民家なのか、と羨ましく思った。


 居間に隣接する台所から、四十代ぐらいの女性が湯呑み茶碗を乗せた盆を持ってこちらへやって来た。少女のようなあどけさなさを残した顔立ちの可愛らしい印象のおばさんだった。チャグと同じ茶色の長い髪を後で結っていて、前髪は内側に巻いている。服装は赤茶色の着物の上に白い割烹着という女将みたいな格好だ。怒りを抑えられない様子のおじさんをおばさんはなだめるように言った。


「まぁ、あなた。子供なんですから」

 

 おじさんのことをあなたと呼んだことから、たぶんおばさんはおじさんの奥さんなんだろう。


「それにしても、かわいー子ねぇ」


 おばさんは私のほうを見て、目を丸くした。瞼が大きく開かれているせいで、黒い瞳が照明に反射し光って見える。好奇心に満ちた眼差しだが、その目にはチャグの見せたような優しくて柔らかな雰囲気が漂っていて、私は恐怖と気味悪さに身構えてしまう。おばさんは私の顔をまじまじと見つめながら訊いた。


「あなた、お名前は?」


「ユミン・ナリメです」


「ユミンちゃん、か。あなた、とっても綺麗な顔をしているのね。さっき玄関で見たとき、お人形さんが歩いているのかと思ってびっくりしたわ。顔があまりにも整い過ぎているんだもの。ねぇチャグ、こんな子見たことある?」


 おばさんは食卓机の隣にある客間のソファに腰掛けたチャグを見て訊いた。チャグはちらっとおばさんのほうを見ながら照れくさそうにはにかんで、「うん⋯⋯」と答える。


 おばさんの発した綺麗という発言にも、私は気味悪さを感じた。私が、綺麗? この人、目が悪いのか、或いはチャグのように気持ち悪いものを綺麗と感じる変わり者なのだろうか。おばさんのにこにこ顔を見ていると、チャグに笑顔を向けられた時に感じたような悪寒が背筋を駆け上ってきて、ぞくっと上半身が震えた。


「あなた、まさか子役?」


 おばさんの笑顔を見ていられなくなった私は彼女から目を背け、慌てて首を横に振った。


「わ、私はただの農民ですよ」


 するとおばさんは素っ頓狂な声で叫ぶように言った。


「うっそぉ! 農民? 冗談でしょ?」


 私からすれば、おばさんの言っていることのほうが一番ふさげた冗談にしか聞こえなかった。それか大人の対応という上っ面だけのお世辞をしているのか。おばさんの本心がわからないから余計に気持ち悪い。


 おばさんはお茶を私の前に置いた。筒のような茶碗の中に透明な茶色い液体が入っている。お茶という飲み物のことは知っているが、見るのは初めてだった。

 湯気と共に立ち上る香ばしい香りを嗅いだ時、湿気が鼻を伝って喉を潤す感覚を覚え、喉がカラカラに乾いていることに気付く。


「ありがとうございます、頂きます」


 茶碗を両手で持って茶を啜った。木を燻ったような香りとほのかな甘味が口いっぱいに広がる。ほの甘くて、香ばして、とても美味しい。胃へお茶を押し流す喉の動きが自然と早くなっていく。これが、お茶。飲み物を美味しいと感じてがぶがぶ飲みたくなるこの感覚は、今まで感じたことがなかった。つい先程まで感じていたおばさんに対する気持ち悪さを忘れて、私は夢中になって一気にお茶を飲み干し呟く。


「お、美味しい⋯⋯こんな美味しいもの飲むのはじめて」


 おばさんは困惑したように眉をひそめた。


「え? ただのお茶なんだけど?」


「お茶、飲んだことないので」


 おばさんは驚いたように目を見開いて「えっ?」と小さく声を弾ませた。


 食卓の脇に突っ立ち無言を貫いていたおじさんが歩き出し、私の向かいに座って険しい顔でこちらを睨んだ。鋭くて怖い目を向けられ、私は縮こまってしまう。おじさんは怒りを押し殺したような低い声で訊いた。


「それにしてもお前、なぜ勝手に付いてきた」


 緊張に固唾を呑み、私は答える。


「アッちゃん⋯⋯じゃなくて父さんのこと、聞きたくて」


 おじさんは困ったように頭を掻いて、続ける。


「そのために、わざと?」


 私は頷くとおじさんはまた質問してきた。


「どうして父さんを探しているんだ?」


 私はこれ以上話すのが辛くなった。正直に話せば、この人たちも手のひらを返したように鬼畜の子と罵って私をすぐ家からほっぽり出すのでは、と怖くなり口ごもってしまう。重い沈黙の理由を察したようにチャグが立ち上がって、私の隣の席に座り、片手で背中を擦ってきた。誰もが穢らわしいと言って触ることのなかった身体を堂々と触られ、驚いた私は肩を跳ね上げて彼を見た。

 チャグは真剣な眼差しで私を見下ろしながら、言ってはいけないことを言葉にするのを躊躇うような口調で言った。


「僕、あのおばさんの『鬼畜の子供』っていう言葉で薄々気づいたんだ。君のお父さんのこと⋯⋯」


 そう言われてはもう隠しようがないなと諦めて、私は渋々答える。


「はい。父は帝国兵です」


 チャグが呟く。


「分遣隊の、帝国兵ね」


 おばさんの「えっ?」という凍りついたような震えた声が聞こえた。おじさんも嫌な空気を感じ取ったのか、黙り込んでいる。『分遣隊の帝国兵』という言葉が周りの空気を凍てつかせていくのを感じて、申し訳なさと気不味さにますます私は身を縮こませる。


 おばさんが恐る恐るといった感じで訊いた。


「分遣隊って⋯⋯まさか」


 私は頷き、答えるしかなかった。


「はい⋯⋯私の父は十三年前にヤケ村を焼き討ちした分遣隊の兵隊さんです」


 おばさんは戸惑ったように呟く。


「でも、どうして」


 でも、どうして。それは、なぜ加害者と被害者の間に子供が生まれたのかという問いだというのは容易に察しが付いた。この場ではとても言えないようなえげつない話なので、曖昧に言葉を濁すしかなかった。


「それは⋯⋯すみません、言えません。でも確かに父は分遣隊にいました。それだけは本当です」


 おじさんが重い口を開くように訊いてきた。


「事情はあまりよくわからんが、その分遣隊にいた父をお前さんは探しているってことだな?」


「はい」


「なぜお父さんを探しているんだ?」


 皆からいじめられない人生を歩むために殺すのだ、と言いたかったが口が動かなかった。

 おじさんは困ったというように頭を掻いて、ため息を付く。


「まぁ、言いたくないのなら仕方ない。今日はもう夜遅いしタクシーも終業だ。ここに泊まっていきなさい」


 おじさんが話題を変えたことに私は少し救われた気持ちになった。これ以上私の父のことを訊くのは気が引けると思って話を回避してくれたのかもしれない。

 泊まっていきなさいというおじさんの言葉に罪悪感を覚え、私は謝った。


「ごめんなさい⋯⋯」


 呆れたような顔を浮かべていたおじさんだったが、すぐ顔をしかめて怒りの表情に変わる。


「この馬鹿ガキがっ! 面倒かけさせやがって」


 おじさんは私の頭を軽く小突き吐き捨て、苛ついたように足を踏み鳴らしながら、居間に隣接する部屋に向かって中に入り、ぴしゃりと戸をしめた。部屋の戸の向こうから漂ってくるおじさんの怒気が私の肌を突き刺す。


 父の話を訊いても私に対し何らの嫌悪感も感じなかったのか、おばさんは普通に心配するような声で私に訊いてきた。


「それより、ご家族に電話しておいたほうがいいんじゃない? お泊りするならお家に連絡くらい入れておかなきゃ」


「いいえ。家に電話無いんです」


「そう。仕方ないわね」


 おばさんは諦めたように肩をすくめて、苦笑いしながら続けた。


「今日はゆっくりして行きなさい、ユミンちゃん。明日駅まで送っていってあげるからね」


「は、はい」


 と返して頷きつつ、私はおじさんたちの話を聞いていて彼らが父のいた分遣隊基地について何も知らない様子だったことに焦り、握り拳を震わせた。ゆっくりしている場合なんかではない。このままでは明日にはヤケ村に強制送還されてしまう。今日中に何が何でも父のいた分遣隊の場所が記された資料を探さなければならない。だが、どうやって? チャグが言っていたように分遣隊基地は複数あり、おじさんたちも父のいた場所を特定できていないようだった。


 戦争の資料を探そう⋯⋯と思ったが、その資料はどこにあるのか? 町の図書館や公文館はとっくに閉まっているだろう。


 ならば、戦争を調査する人々の集うこの家から手がかりになるものを探し出せなくてはならない。見つからなければ完全に無駄足だ。


 突如行き止まりにぶち当たり、私は頭を抱えた。戦争調査隊だから父のことを知っているだろう、と安易に信じ込んでしまった自分が馬鹿だった。私は自分の安直さを嘆き、頭を両手で掻き乱す。


 それから混乱し、泣き、焦りながら私は風呂に入り、歯磨きをし、寝間着の白い着物に着替えた。


 寝間着なんていうものを着るのは生まれて初めてだった。しかもシミひとつない清潔な着物だ。平民の皆は普段こんな綺麗な服を着ているのか。


 寝間着を着た後、おばさんに二階の屋根裏部屋へ案内された。今日は調査員の人たちで寝室がいっぱいなので、屋根裏部屋で寝ろというおじさんの命令でそうすることになった。このまま一日が徒労に終わってしまうのかと思うと、絶望感で一睡もできなさそうだ。


 おばさんが天井の穴から垂れ下がった梯子の手摺を掴んで、上へ上がっていく。穴の薄闇の向こうに橙色の明かりが灯っており、光の中で影が蠢いていた。誰かいる。


 おばさんに続いて梯子を上がると、部屋の両端を本棚に囲まれた狭い部屋が現れた。天井には橙色の明かりを灯す豆電球がぶら下がっていている。部屋の突き当りにある木の平机前では、白い襦袢じゅはん姿のチャグが座って分厚い書物を読んでいた。


「チャグ、今日ここでユミンちゃん寝るから、きりのいいところでやめてちょうだい」


 チャグは振り返らずに「わかったよ、母さん」と返して手にしている本を閉じる。


 おばさんは平机の反対側にある押し入れから敷布団と掛け布団を取り出して、両本棚の隙間に敷いてくれた。


「おやすみユミンちゃん」


 と言っておばさんは手摺を掴んで二階に降りていった。おやすみ、なんて言葉を誰かからかけられるのも生まれて初めてだった。

 おばさんの言葉にびっくりして、一瞬全身の血液が沸騰するような興奮を覚えた。この家に来てから生まれて初めてのことを連続で体験している。


 静寂が訪れると、おばさんが去っていくのを待っていたようにチャグがこちらを肩越しから見て口を開く。


「分遣隊基地に行きたいの?」


 白装束を着た亡霊のような姿のチャグの向かいに膝をついて、私は答える。


「行きたいけど⋯⋯父のいた基地がわからなくて」


 するとチャグは両側に立つ本棚を見上げた。


「なら、今から調べてみようよ」

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