6.父の名前
私とチャグ、調査員たちとおじさんは家を出て車に乗り込んだ。
おじさんは調査員たちを駅まで送っていった後、私をソゴ山まで連れて行ってくれた。
車窓越しには木造平屋やコンクリート製の建物が立ち並び、たくさんの人々が歩道を行き交う。各建物にはそれぞれ看板が立っていて、服屋、八百屋、魚屋などと書かれている。どうやらここは商店街らしい。露店の屋台に並ぶ品物を通行人たちが見物していて、店員が彼らに向かって呼び込みしている。
街の光景を見るのは生まれてはじめてだった。生後からずっとヤケ村の広々とした田畑と遠くに聳える里山ばかりを見てきた私にとって、建物と人がぎゅっと密集している光景は見ていて息が詰まりそうになる。
これが、街。農民たちが手塩をかけて作った作物はこの商店街に運ばれ、平民たちの食料になっている。私と母の作った作物もどこかで売られ、誰かに食べられているのだろう。
延々と街と人が窓越しを流れていくのに段々と飽きてきて、私は隣に座るチャグに目を向けた。チャグは帳面にびっしりと書かれた網目状の枠内に鉛筆で何かを書き込んでいる。今朝彼の言っていた、休みの日におじさんがするはずだったお仕事を代わりにやっているのかもしれない。
チャグは疲れたように溜め息をついて、筆を帳面の閉じ部の溝に置き、両表紙を閉じた。
彼の溜め息が聞こえたのか、おじさんはバックミラー越しからチャグを見つめて念を押すように言った。
「チャグ、今日中に全部やってもらうからな。わかっているな?」
「はいはい」
「はいは一回だ!」
「はい」
チャグは赤らんだ目を擦り、大あくびして席を倒した。深夜まで戦史の解説を手伝って十分に睡眠が取れず、眠いのだろう。彼を傍目に見つめながらチャグさんありがとう、お疲れ様と私は内心で感謝する。彼が戦争資料を紹介してくれなければ、父のいた分遣隊基地の場所を特定することはできなかった。
「ユミンちゃん」
寝言のようにくぐもった声でそう呼んだ後、チャグは横目で私を一瞥し訊いてきた。
「歴史は得意なの?」
唐突な質問に私はえっ? と声を上げた。その反応を「なぜそう訊くの?」という問いだと受け取ったのかチャグは続けた。
「いや、歴史好きだって言っていたし、あんな難しい本読めるからさ。得意なのかなって思って」
「はい。図書館で毎日のように歴史書を読み漁っています。歴史は得意です」
チャグはいくつか歴史の問題を出してきた。
共和国を建国した人は? 共和国はいつどのように成立した? など。
彼は私にどれだけの歴史知識があるかどうか知りたいようだった。
最初は暇つぶし程度に付き合っていたが、語れば語るほどどんどんはまって気づけば口が止まらなくなっていった。チャグは私が答えるのを嬉しそうに聞いていた。
「凄いね。小学生でここまで知ってるのはびっくりだよ。将来は歴史の博士なれるかもね」
「お金がないから博士になるための学校には進学できないけれど、歴史研究家にはなりたいかなって」
しかし私は農民だから村から逃げ出すことはできないし、ただの夢で終わりそうだけれど。
チャグは感心したように頷いた。
「歴史研究家かぁ⋯⋯かっくいぃ」
将来の自分⋯⋯。
未来の自分を思い描こうとした時、いや、と私は思考停止した。父を殺したら、私は殺人犯になる。鬼畜とはいえ彼も法律的には人間だろうし、殺人を犯せば私は一生刑務所から出られなくなる。そうなったら、皆から認められるどころか私の人生そのものが終わるんじゃないだろうか。
胸の奥に渦巻く父への殺意や人生未来図に、暗い影が落ちて闇中にぼやけていくのを感じていた。
チャグの声で意識が現実に引き戻された。
「僕と話も趣味も合うね。できればもっと話がしたいけれど⋯⋯今日でお別れか。せっかく知り合えたのにちょっと残念だよ」
私と別れるのが残念という意味だと理解できたが、心が受け入れられず「どうして?」という疑問が湧いた。どうして私なんかと別れるのが残念なの? 疑問に思考を奪われて返事が浮かばず、無表情無反応を貫く私に何か尺に触るようなことを言ったかと危機感を覚えたのだろう、チャグは申し訳無さそうな表情で恐る恐るというふうに訊いた。
「何か、変なこと言ったかな僕?」
「あ、いや⋯⋯」
私の曖昧な返事に、やはり自分が何か嫌なことをしてしまったのかと誤認したのか、チャグは伏し目がちにこちらを一瞥しながら言った。
「なんか、その、ごめん⋯⋯」
さっきまでの楽しい雰囲気が急にぎくしゃくしてしまい、私は気まずくなってチャグから目を逸らした。
静寂が訪れる。
どうしてチャグは自分なんかと別れるのが嫌なのだろう? という疑問に満ちた心の中から一つの答えが顔をもたげた。自分が帝国兵の子だとかそういう差別を抜きにして、彼には純粋に私と気が合うから仲良くしたいという気持ちがあったから別れを惜しんだのではないかと。
思い返してみれば、チャグは私を見ても一切腫れ物を見るような目を向けない。いつもにこにこしていて、私と話すときも気さくに応じてくれていた。
なぜそうするのかはよくわからないけれど悪気は感じられない。優しくしてくれたのに拒否反応をしてしまったことに申し訳なさが込み上げてきて、咄嗟に謝ろうと私はチャグのほうを見た。だがチャグの思い詰めたような固い表情を見るなり、喉に突き上がってきていた謝罪の言葉が落ちていってしまい、私は結局口を閉ざした。
車は町の郊外までやって来た。窓越しに映る建物と人の数が段々と減ってきて、標高低い緑の山と広大な畑が目立ってきた。建物は畑の中に点々と並ぶ民家や牧場の家畜小屋ばかりになり、人もほとんどいない。急にとても静かになって、車の輪が動く音だけが車内に響いた。
いくつかの村を越え、時々車を停めて休憩し、給油場を見つけると燃料油を足してを繰り返しながら、おじさんはひたすら車を走らせ続ける。
時刻は夕時を迎えた。太陽は山の峰に半分沈み、空は橙色から段々とくすんだ赤色に変化していく。空の色が変わるに従って畑の作物の葉は橙色に、遠くの里山は紅葉したような赤に染まる。
車窓を横切っていた畑は段々と減り、連なる山と何もない草地ばかりになってきた。村落地帯から離れた場所まで来たようだ。
ソゴ山の付近にたどり着いたのは午後四時頃だった。街からここまで来るのにおよそ数時間かかった。
ソゴ山麓の草原を貫く畦道の脇に、おじさんは車を止めた。扉を開けて降りると、草むらから夜鳴き虫の合唱がわんわんと響く。
おじさんは数時間分の疲れを吐き出すようにハァーと大きな溜息をついて、背伸びしながら言った。
「よぉーやくついたぁ。疲れたな。じゃあ、完全に日が沈む前に行こうか」
おじさんは私が手渡した分遣隊基地の地図を広げ、小さい虫でも見るかのように眉をひそめて紙面を見つめる。暫し間を置いて、おじさんは畦道右手の草原を挟んで向かい側に連なる里山へ目を向けた。
「あの山か。⋯⋯あ、頂上に建物がある」
私はおじさんが見ている方向へ目を向けた。赤みがかった標高低い山の頂上辺りに、丸い輪郭の草地が広がっている。そこに小さな平屋が一軒建っていた。脳内に戦況報告書の地図に描かれていたソゴ山山頂の分遣隊基地の印が浮かび上がった時、ぞくっとしたものが背筋を駆け上がっていった。
あれが父のいた分遣隊基地に違いない、と。
廃墟のままずっと十三年も残されていたのだ。ならば、母の言っていた「壁に書かれた父の名前」もあそこに残っているに違いない。興奮が噴き上がる炎のように胸から頭を突き抜けて、いてもたってもいられず私は駆け出し、ソゴ山に続く横道へ逸れて近づいていった。
おい待て、とおじさんの制止する声が背後から聞こえるも、壁に書かれた父の名を一刻でも早く目にしたい私は無視して走っていく。畦道の向こうに山の中へ続く登山口が、巨大な口のようにぽっかりと真っ暗闇を湛えて開いていた。
夕刻を過ぎて日光が少なくなってきたせいか、山の中はお化け屋敷みたいな暗さだ。夜の訪れを察しているのか、もう蜩は鳴いていない。風に煽られる葉の擦れる音だけが、静寂の中で不気味に響いている。
登山口の前で立ち止まり、私は向かいに広がる闇を見つめた。木の幹や木々の下の藪の輪郭が辛うじて見えるくらいで、道らしきものは見当たらない。
明かりがないまま進めば迷子になってしまう。これでは進めないとまごついていると、後ろから足音が迫ってきて、同時に登山口の闇の中に光の輪が現れた。
「馬鹿者、明かりがなきゃ進めないだろ」
おじさんの声が右斜後ろから聞こえた。闇を照らしたのは彼とチャグの持っている懐中電灯の明かりだった。おじさんは前へ進み出て私の前を通り過ぎ、登山口へ入っていった。私もチャグもおじさんの後に続いてゆく。
山の中に入ると、湿った冷気が全身に纏わりついて肌寒くなり、私は袖越しから腕を擦った。登山道は長年手入れがされていないせいか草が茫々と生えていて、草履を履いただけの剥き出しの足に葉が擦れて痛い。
おじさんの照らす懐中電灯の光の輪の中に、切り開かれた小道にびっしりと生い茂る雑草が映っている。道幅は二人の大人が横に並んで歩けるほどの広さで、緩やかな斜面が遠くの曲がり角まで続いていた。十三年前、父たちはこの道を通って山頂の基地まで上がっていったのだろう。
登山道を三周し山頂まで行くと、木立の切れ目からあの平屋が現れた。赤黒い夕空を背景に立つ基地は、逆光の影響で暗い影のように見える。まるで幽霊屋敷みたいだった。
私達は最後の坂道を登り、分遣隊基地にたどり着いた。草地の中にぽつんと立つ基地は、四角い石の素材を煉瓦壁みたいに積み重ねくっつけた壁と平たい石屋根で出来ている。壁の表面は所々が剥げていて、欠片が地面に散らばっていた。
角を曲がって平屋の正面に行くと、縦長方形に切り取られた入口があった。おじさんの持つ懐中電灯が真っ暗闇を照らし、室内の様子が
部屋の真ん中に鉢植えみたいな形の火鉢が一つ置かれている。火鉢の周りには空の酒瓶が数本、煙草の吸殻、遊び札が数枚落ちている。まるで、つい先程までここで帝国兵たちが火鉢で暖を取りながら酒を飲みくわし、札遊びに興じていたかのようだった。基地は不寝番の父が捕虜にされ無人になって以来、ずっとそのまま放置されていたのだろう。
私はおじさんの照らす明かりを頼りに基地の中へ入った。火鉢に沿って時計回りに進むと、部屋の隅に縦長方形に縁取られた入口を発見した。もう一つ部屋がある。私はおじさんのところへ戻って彼から懐中電灯を貸してもらうと、隣接する部屋の中に入った。
室内を懐中電灯で照らすと、人が一人ぎりぎり入れるくらいの狭い部屋が現れた。天井からは一本の縄がぶらさがっていて、その真下の床には黒い染みが広がっている。
「なにこれ⋯⋯」
私はしゃがみこみ、床の黒い染みを懐中電灯で照らす。最初は真っ黒い墨汁のように見えたが、よく見てみると赤黒かった。指で染みを擦すると指腹に赤い薄染みが付き、ほんのり鉄の臭いがした。見た目と臭いからして血だろう。
「血⋯⋯」
血溜まりの上で揺れる縄を私は見上げた。
血と、天井からぶらさがる一本の縄。二つの物から連想される出来事が脳裏で形になった時、恐ろしい光景が一瞬脳内を過る。背中に冷水を浴びせられたような悪寒が走って私は震え上がった。
あぁっ、と声を上げて私は血溜まりから飛び退き、壁に背を強打する。戦慄のあまり、背に走る痛みなどじんわりと広がる違和感のようにしか感じられなかった。
「この血⋯⋯」
両手で顔を押さえ、指の隙間から血を見下ろしながら私は声を震わせる。
「こ⋯⋯この血って⋯⋯まさか⋯⋯まさかっ⋯⋯」
昨日の夕方、母の言っていた言葉が蘇る。
――アッちゃん、あたしに痛いことしかしてくれなかった。私のお股、裂いたの。刃物で、すぱって。まだ痛いの。すんごく痛いこと、三週間くらい。血だらだらなのに、傷がぱっくり裂けてるのに、アッちゃんは痛いこと全然やめてくんなかった。声枯れるくらい叫んでも、やめてくんなかった。痛すぎて、気絶して、記憶あんまりない。
かつてこの場で起きた阿鼻叫喚の一部始終を私は想像してしまった。脂身の塊を呑んだように胃が重く気持ち悪くなって、内容物がせり上がってくるのを感じる。
私は口を片手で押さえて、込み上げてくるものを堪えようとするが、耐えられず吐いてしまった。吐瀉物の臭いを吸い込んでさらにえずき、空嘔吐しながら咳き込んだ。
心臓が激しく高鳴り、呼吸も息がまともにできないくらい乱れる。恐慌状態に陥った私はその場に膝をついて両手を床に付き、息を荒らげた。
落とした目線の先には、鉄臭さを放つ血溜まりが。
「こ⋯⋯これ、⋯⋯お母さんの⋯⋯血⋯⋯?」
縄の真下に広がっていることからして、十三年前、母が父に虐げれた際に流した血であることは想像するに容易かった。
間違いない。母の証言通り、ここで彼女は父に虐げられたのだ。縄に縛られて監禁されながら、三週間も⋯⋯。
今まで母の証言のみで過去を知りぼんやりと想像するのみだったが、こうしてかつて彼女のいた場所に来てみて、はじめて過去が鮮明に蘇ってくるのだった。
怒り、哀れみ、悲しみといった感情が荒波のようになって私の身を食い潰し、涙が止めどなく溢れ出す。
監禁されて、切り裂かれた傷の激痛と流血に耐え続けた三週間、母はどれだけ辛かったことだろう。どれだけ苦しかったことだろう。計り知れない彼女の苦しみに思い馳せると、しゃくり上げてしまうほど泣いてしまう。
私は天を仰いでわあわあ泣いた。
「母さん⋯⋯可哀想に。可哀想に」
母が廃人になるほど虐げられ、恐ろしい苦痛を味わったのと引き換えに私が生まれたのだ。
さらに私は家族をも引き裂き、村人たちに姿を晒すことで彼らを苦しめ続けている。
自分が愚かしいまでに罪深い存在に思えてきた。
心の奥深くで、お前は生まれながらの悪魔だと囁く声がする。
私は何度も空嘔吐しながら、嗚咽を上げながら狂ったように嘆いた。
「母さん⋯⋯母さん⋯⋯ごめんなさい」
血溜まりに両手をついて、土下座するような態勢になって私は謝る。罪悪感、憎しみ、絶望の類の真っ黒な感情がぐちゃぐちゃに混じって胸が張り裂けそうになりながら、私は「ごめんなさい」と繰り返す。
涙と汗でぐっしょり濡れた顔を歪ませて、私は自分自身を押しつぶすように泣き喚き続けた。
「母さん⋯⋯私は⋯⋯」
私は誰かを苦しめるために生まれてきたのだろうか。
私の泣き声を聞いて心配したのか、背後からチャグたちの足音が迫ってきた。
「ガキ、おいどうした?」
おじさんの声と共に懐中電灯の明かりが瞼越しに差し込む。私は咄嗟に涙でぐちゃぐちゃになった顔を両腕で隠した。
「ユミンちゃん、どうしたの?」
チャグがそばに寄ってきてしゃがみ込んだ。
「どうして泣いているの?」
私は涙を拭うと、足元に広がる血溜まりを指差した。おじさんがチャグから懐中電灯を引ったくり、私の指差すほうにあるものを探るように明かりを向けると、二人は息を呑んだ。
「これは、血?」
私は頷いて答える。
「⋯⋯母の血です」
「え⋯⋯っ? 血?」
「母はヤケ村からここに連れて来られて監禁されて⋯⋯後は察してください。そういうことです」
意味を理解したらしい二人は固唾を呑み、黙り込む。張り詰めた空気が暗闇の中に広がっていくのを肌で感じながら、私は続けた。
「私はここで生を受けたんです。母が廃人になってしまうほどの恐ろしい苦痛を受けたのと引き換えに、私はこの世に生まれてきたんです」
彼の顔の気配を額のすぐそばに感じた。チャグの異常な接近に内心気味悪さを覚える。何? チャグ? と訊こうとした時、チャグの身体がゆっくりと私を覆った。
いきなり身体を抱き締められて驚いた私は、びくっと肩を震わせてチャグの腕から飛び退いてしまう。
チャグは優しい声で囁いた。
「そうか。そういうことだったんだね。鬼畜の子供と呼ばれていたこととか、分遣隊の兵隊が君のお父さんって⋯⋯理由はわかったよ⋯⋯」
チャグは私の頭をそっと撫でた。彼のわけのわからない行動に戸惑い、焦り、私は訊く。
「チャ⋯⋯チャグ? 何? 何でこんなこと⋯⋯」
彼の一連の行動の意味を理解できず、私は呆然とする。今まで穢らわしいと罵られ、触ったら汚れると言われたこの身体に触れようとする人間など今までいなかったし、チャグがなぜ私を抱きしめ、撫でるのか理解するのは無理なこと。
でもなぜか、私の頭を撫でるチャグの手触りが妙に心地よく感じられた。
後ろで私達を見ていたおじさんが突然、「ん?」と何かに気づいたように小さな声を発した。
おじさんは懐中電灯を私達から逸して、壁の下のほうへ向けた。
「おい、これ見ろ」
私はおじさんの光差す方へ目を向けた。朽ち果てた灰色の壁に、蝋石で書かれたような白い文字らしきものがあった。ぐにゃぐにゃに絡み合った糸のようにしか見えないそれは、帝国語だろうか。
チャグは光の輪の中に映るその言葉を見つめながら、呟いた。
「帝国語だ。⋯⋯『アト・ネメント』って書かれてる。帝国人の名前っぽいね」
アト・ネメント。
母の言っていた、父が『俺のこと忘れるなよ』と言って壁に書いたという彼の名前だろう。
母は父のことをいつも『アッちゃん』と呼んでいる。
「アト⋯⋯これが父さんの名前?」
全身の血が騒ぐような喜びが突き上げてきて、先程の悲しみがあっさり吹き飛んでいく。父の名前がわかれば、いよいよ奴の居場所の特定に手が届く。
私は立ち上がっておじさんに訊いた。
「おじさん、捕虜になった帝国兵たちはどこに行ったの?」
「全員、戦犯管理所に収容された」
「戦犯管理所?」
「憲兵の取り調べを受けて、民間人の虐殺など戦争犯罪を犯したと判明した捕虜たちが収容された場所さ」
そこにいけば父と会えるのだろうか。緊張感を伴った爽快感を覚えて背筋が疼くのを感じた。
「だが戦犯はこの地域だけでも十万人近くいて、あちこちの町に管理所が作られたから、お前の親父さんがどこの戦犯管理所にいるか、或いはいたかはわからんぞ」
知らんと門前払いを食らわすおじさんの答えに不安を覚え、私は彼に詰め寄って訊いた。
「いたって⋯⋯何で過去形なんですか? それって、父が出所した可能性もあるってことですか?」
「死刑判決を受けた指揮官将校以外の下士官、兵卒たちは各々刑期を終えると帰国した」
兵隊たちも指揮官に命令されてやむを得ず人々を大量虐殺したのだろうが、それでも彼らが帰国して家族のもとへ帰り、のうのうと生きているのだと思うと嫌悪感を覚えた。
父も帰国して、今頃故郷の家族と幸せに暮らしているのだろうか。私達母子が日々いじめられていることなど露程も知らないで。
「私の父を捕虜にした第一遊撃中隊の人に聞けば、彼のいる戦犯管理所の場所はわかりますかね?」
「第一遊撃中隊⋯⋯あー、戦友会に連絡すれば元兵士の人に話を聞けるかもな。聞いておいてやるよ」
昨日は面倒くさそうに私を突っぱねていたおじさんが、今はやけに優しかった。
「あ、ありがとうございます⋯⋯」
おじさんは出入口の向こうに広がる夜闇に懐中電灯の明かりを向けた。
「じゃあ、そろそろ山を降りよう」
私達は基地から出た。外はいつの間にか真っ暗闇に包まれていた。頭上から降り注ぐ月光が、基地周辺の森の輪郭を浮かび上がらせている。
月光で草地が淡白く染まっていて、森との境目まで続く地面がはっきりと見えた。黒い影のような森と淡白い草地の境界線に、草でも木でもない異物を発見し私は眉をひそめた。
森との境界線辺りに何かある。気になっておじさんから懐中電灯を借りて、遠くにあるそれに光を当ててみる。光の中に、先端に黒く丸い物体の付いた鉄の棒のようなものが映り込んだ。
「なにあれ」
私はゆっくりと前へ進み、謎の物体まで近づいてゆく。チャグたちも後ろから付いてきた。
謎の物体の正体は、地面に突き刺さった銃剣だった。柄には鶯色の所々塗装の剥げた
背後からおじさんの声がした。
「帝国兵の墓碑だな。こういうのが戦場だった場所によく立っていることがあるんだ」
父たちはここに亡くなった仲間の死体を埋めて、銃剣を墓碑にして弔ったのだろう。
鉄帽の表面のあちこちに帝国語が小さな文字で掘られているのに私は気づいた。
「鉄帽に何か書かれてる。おじさん、何て書いてるの?」
明かりに照らされる各文字をおじさんは目を凝らしながら読み上げた。
「十年間、僕の親友でいてくれてありがとう。たまには僕の枕元に現れてくれ。そうすればもう夜な夜なお前の死が寂しくて泣くこともないからね⋯⋯幼なじみのヨゼフ・クラウス。あの世でお前に会えたらまた酒を飲み交わしたい。兵務ご苦労様⋯⋯分遣隊長ジェス・フリードヒ。ソルラス・フィリックス、我が弟よ、安らかに眠れ。今まで恥ずかしくて言えなかったが、お前が俺の弟で本当によかったよ⋯⋯兄のシェイド・フィリックス」
おじさんの読み上げる寄せ書きの言葉に、全身の神経を逆なされるするような不快感を覚えた。怒りとも焦りとも似つかぬ苛立ちが込み上げてきて私は顔を歪め、耳を手で押さえておじさんの声を遮断する。
鉄帽のあちこちに書かれていたのは、この墓の下に眠る帝国兵への別れを惜しむような寄せ書きだった。
鬼畜という印象とはかけ離れた人間的で優しい言葉が、私の苛立ちを加速させて胃をきりきりと締め付けていく。吐き気が込み上げて私は思わず駆け出し、草むらに空嘔吐する。
苛立ちのあまり吐いた私を意に介さず、おじさんが「おっ」と小さく声を上げてまた一つ弔いの言葉を読み上げた。
「俺を独りにしないで。皆早く帰ってきて⋯⋯アト・ネメント」
父の名と共に読まれた言葉に心臓を射抜かれるような衝撃を受け、私は硬直する。
心身が麻痺したように動けなくなる中、私はおじさんの読み上げた父の言葉を反芻した。
――俺を独りにしないで。皆早く帰ってきて。
母が監禁された後に仲間達は皆出撃していなくなり、二人が取り残されて三週間後、父は捕虜として一人捕まった。父のその言葉は、三週間も仲間の帰りを待ち続けた時の⋯⋯。
その続きに想像が及びそうになって拒絶反応に思考を遮断され、私は硬直から開放される。
もうここにいたくなかった。ここにずっといたら、苛立ちのあまり頭がおかしくなってしまいそうになる。私はおじさんを催促した。
「おじさん、もう帰ろ⋯⋯」
彼らの方を振り返って視界に飛び込んできたのは、墓碑に向かって合掌する二人の姿だった。死者を弔う二人の行為に戸惑い、私は口をぽかんと開ける。
「何、やって⋯⋯」
おじさんたちは手を下ろし、思い馳せるように呆然と遠くを見つめる。その横顔には憂いのような、哀れむような表情が浮かんでいた。その表情を見て私は二人の気持ちを察して憂鬱になり、重い溜め息をつく。
ああ、そうか。二人は家族を帝国兵たちに殺されたことがないから、墓の主をあくまで過去の戦争の死者として見ているんだ。だから平然と手を合わせることができるんだ。
悔しさが込み上げて、私は着物の裾をきゅっと握った。
チャグたちは⋯⋯幸せなんだね。
二人と私の間に深い溝が生じるのを感じた。
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