7.戦犯管理所

 ソゴ山を降りた後、私たちは車に乗ってヤケ村に向かっていた。


 夜空に浮かぶまるい月が、里山の斜面と麓の草原を白銀に染めている。月明かりが車窓から差し込んでいて、車内まで淡白く染まっていた。


 草原の中を走り続けていると、段々と周囲の草むらの背丈が低くなっていき、黄色い花が点々と咲き誇る花畑に変わった。花の形はタンポポのようだけれど、茎の背丈は大人の腰ぐらいある。何の花だろうと思ってチャグに訊くと、彼は窓辺を眺めながら答えた。


「テイコクタンポポ」


 テイコク、という言葉からして帝国から来たタンポポなのだろうかと思い、私はチャグに訊いた。


「外来種のタンポポ?」


 彼は静かに頷いた。


「そう。繁殖力が半端なくて、他の植物を淘汰して花畑にしちゃう有害な植物だよ。刈っても刈っても絶えず生えてくるから、農民たちはかなり困ってる」


 風に揺れるテイコクタンポポの群れを私はじっと見つめた。あのタンポポたちは遠い地からここまで運ばれて、芽を出して、生を得たのだ。


 私もあのタンポポたちと同じ、帝国から来た外来種――。


 花畑の中の道を走り続けること一時間、遠くの道端にぽつんと灯る外灯が見えてきた。外灯の下には三角屋根の小屋がある。


 おじさんは車の速度を緩めて、建物の横にある広場に車を止めた。建物の入口奥には豆電球に照らされる小部屋がある。ここは何なのだろう。私はおじさんに訊いた。


「おじさん、何ですかここ」


「通行人が電話、電報機を使える場所だ。ここで第一遊撃中隊の属している戦友会宛ての電報を送ってやる。親父さんのいる戦犯管理所に行きたいんだろ? 待ってな」


「おじさん、ありがとう」


「いや⋯⋯別に、ただのきまぐれだ」


 背後でチャグがくすくすと笑いながら「またまたぁ、正直に物が言えない親父だこと」と呟くのが聞こえた。


 チャグは車から降りて広場の土手に座り、遠くまで広がるタンポポ畑を眺めた。一人ぽつんと置いていかれて退屈になった私は車から降り、チャグの隣に座る。


 おじさんを待つ間、私とチャグは道端の土手に座って目前のタンポポの花畑を眺めた。一陣の風が花畑を吹き渡るとタンポポが揺れ、一面に小波がいくつも立つ。

 私は土手下のタンポポを見下ろした。太い茎からさらに何本かの花軸が伸びていて、先端にちんまりした可愛い黄色い花が咲いている。畑を侵略する悪い植物という印象とはかけ離れた可愛らしい花だ。


 風の音が静まった後、チャグは片手に持つ一輪のタンポポを私に見せてきた。


「見て、これ」


 チャグの手の中にあるタンポポは、目の前にたくさん生えているのとは形がちょっと違った。他の花より花輪が一回り大きくて、濃い橙色の花弁が所々混じっている。でも茎の形はテイコクタンポポと同じだ。変異種なんだろうか。


「在来種との混種なんだよ、これ」


 私は目を見開いた。


「えっ? 在来種とは種類が違うのに交われるの?」


「うん。住むところは違っても生物学上はお互いタンポポという生き物だから、子孫を残せるんだ」


 私は混種のタンポポを見つめた。まるで私みたいな花だ。


「見た目は違っても、生物学上の分類が同じなら子孫が出来る。人間も同じ。人種は違っても分類は皆同じ人間だから子供は出来る。人類皆兄弟ってやつさ。皮肉なことだね、戦争が起きてどんなに異人種同士が争おうか皆血縁上は親戚なんだ。兄弟喧嘩みたいなもんなんだ」


 私の父と母は人種は異なるけれど生物上の分類は人間だから、交配が出来て結果的に私が生まれた。たとえ虐殺者でも同じ人間なんだという事実を突きつけられたような気がして、少し胸糞悪かった。鬼畜が人間だなんて反吐が出る。

 私が不快感に苛まれる傍ら、チャグは続けた。


「人類が繁栄して、色んな国が出来て、戦争が起きて、結果的に国同士が統合されて⋯⋯そうした中で色んな人種が交わり合って今の人々がいる。僕も、いや、皆先祖を辿れば誰かの混血児かもしれない⋯⋯って、なんかごめん。何言ってんだろ、ぼく」


 最初は何をだらだらと語っているんだろうといらついていたものの、もしかして私を遠回しながら励まそうとしてくれているのかもしれないと私は思い直した。また気を使わせてしまった、と申し訳ない気持ちになる。


 風がタンポポ畑を吹き渡ると葉擦れの音がこだまし、徐々に収まって静寂が訪れた。


 チャグが何かを思い出したように「あっ」と声を上げ、懐から小さい帳面を取り出す。彼は鉛筆で何かを書き込み、紙を破ってこちらに寄越してきた。


「僕の家の住所と電話番号教えておくね。お父さんのことで聞きたいことがあったら、いつでも相談に乗ってあげるよ」

 

「ありがとう⋯⋯」


 ここまで至り尽くせりしてもらえることに深い喜びを覚えながらも、なぜ昨日会ったばかりの自分をここまで助けてくれるのかという疑問が湧いて、私はチャグに訊いた。


「ねぇ、チャグさん。どうして私にそんなに優しくしてくれるの? 昨日あったばかりの私にここまで⋯⋯」


「僕たち戦争調査隊は市役所の歴史課に属する研究組織で、戦争資料を集めたり、戦争体験者に聞き取り調査をするのと同時に、戦争被害者を助ける組織でもあるんだ」


「戦争被害者?」


「ヤケ村の人たちみたいに、国から救いの手を差し伸べられてもらえない人たちのことだよ。ユミンちゃんも、戦争被害者の一人さ。帝国が戦後賠償を払ってくれないせいで、戦争被害者は皆困っているんだ」


「戦後賠償?」


「終戦後、共和国は敗戦した帝国に対して復興費と戦争被害を受けた人たちの救済費である戦後賠償の支払いを求めたんだけど、帝国は支払いを嫌がった。自分たちの国も敵に攻められて、ボロボロにされたから大金を払う余裕がなかったんだ。十年経っても未だに帝国は戦後賠償の支払いを渋っていて、共和国と揉めている。そのせいで戦争被害者はほとんど救助されず沈黙を強いられている」


 ヤケ村には虐殺事件で身体障害者になった人、大切な人を失って精神を病んだ人がたくさんいる。彼らが国から何の手当も補償もされずに放置されてきたのは、戦後賠償で揉めていたからだったのか。帝国と共和国は未だに争いをやめられずにいるんだなと私は呆れた。


「だから僕は君を助けたい。できる範囲のことしかできないけれどね」


 君のことを助けたいという、一生誰かに言われるはずなどないであろうと思っていた言葉に思わず胸が震える。目の奥がかっと熱くなり、視界が涙で歪む。


 ずっと心のどこかで求めていた、でも絶対叶うはずなんかないと諦めて、心に思い浮かべることすら無かった言葉だったような気がする。


 チャグがそばにいてくれれば、復讐を成し遂げることができるかもしれない。頬を伝った涙を見られないように私は彼から顔を背け、礼を言った。


「チャグさん⋯⋯ありがとう、チャグさん」


「あともう一つ、忘れてた。君の住所と電話番号も教えて。戦犯管理所の場所を教えるのに必要だからさ」


 電話は持っていないので住所だけを教えた。チャグは教えた住所を帳面に書き込む。


「あとは連絡を楽しみに待っていて」


「うん⋯⋯」


 そこである杞憂が胸を過ぎった。戦犯管理所の人に父と面会したいと言えば、おそらくだが透明な壁越しを挟んで話すことになるだろう。そうなっては殺害できず無駄足になってしまう。だから見学したいと頼んで自由に施設内を動き回れるようにし、父を呼び出して、殺害してやるのだ。殺害計画が台無しにならないよう、私はチャグに頼んだ。


「あとね、チャグさん、戦犯管理所の場所がわかったら、その施設の人には面会じゃなくて見学したいって伝えておいてほしいの」


「どうして?」


 父を上手く殺すためよ、なんてことチャグには言えないので、私は適当に「なんとなく管理所の中を見て回りたいんだ」と言い訳しておいた。



 ◆ ◆ ◆



 車でヤケ村まで送り届けてもらってから二日後、自宅に一通の電報が届いた。封を切ると一枚の紙が入っていて、こう書かれていた。


『戦友会にいる第一遊撃中隊の元兵士の人からアト・ネメントさんの戦犯管理所の場所が聞けたので、今月七日に一緒に見学へ行きましょう。僕が道案内します。待ち合わせ場所はヨト村の駅で午後十二時ぐらいに――チャグ・ホル』


 戦友会からさっそく父の情報を得られたとは話が早い。嬉しさで全身の肌がざわつくのを感じた。いよいよ父に会えるのか。いや出所している可能性もあるが、その後どこへ行ったのかは聞けるかもしれないのでさして問題はない。


 今月の七日は週末で学校は休みだ。ヨト村なら歩いて一時間ほどの所にある近場の村で、唯一駅がある。そこで午後十二時頃にチャグと待ち合わせして、一緒に戦犯管理所へ行く。


 やっと父を殺せる。うずうずするあまり身体が震えた。


 さて次は、もし戦犯管理所に父がいた場合、どうやって彼を殺そうか⋯⋯と、私は殺し方を考えた。小学生が刃物で大人を殺るのはたぶん無理だろうから、毒殺でいこうと決めた。


 私は学校の図書室で父を毒殺するための毒を作る方法を探した。危険な植物を紹介する図鑑を読み、一番即効性があり致死率の高い植物を調べる。


 トリカブトは葉や根に猛毒があり、中毒症状発症後六時間で死亡するが、助かる場合もある。スズランは全体に毒があり、中毒症状発症後一時間で死亡し助かる可能性はかなり低い。さらに、花を少し水に浸しただけで即死級の猛毒液が作れる⋯⋯と書かれていた。スズランなら学校の庭に生えているので、それを取ることにした。


 貸し出し受け付け机からハサミを、空のごみ箱の中から袋を盗み出して図書室を出る。

 理科室から危険な薬品を入れるための特殊材質の小瓶と液漏れ防止の袋を盗み、学校の校庭の花壇に向かう。


 花壇には名前通り鈴のような白い花を付けたスズランが何本か生えていた。こんな可愛らしい花に致死の猛毒があるなんてちょっと想像できない。私は生えているスズランを一本茎からハサミで切り、布に掴んで袋の中に詰め込む。後は水で浸して毒液を作るだけだ。


 運動場の水飲み場へ向かい、ポンプのレバーを動かして小瓶の半分ぐらいまで水を入れる。下手すれば死ぬ作業に、恐怖のあまり両手ががたがたと震えた。手にスズランが触れないよう布越しから恐る恐る花を千切り、瓶の中に落とした。


 花が水面に浮く。目には見えないけれど、花から猛毒の成分が水中に滲み出ていると思うと背筋に悪寒が走った。縁周りに付いた水に決して触れないよう布で蓋を覆って、小瓶の口を閉める。


 それからまた布で小瓶を掴み、液漏れ防止の袋に入れた。毒液の染みた布はすぐそばの雑木林に捨てておいた。これで準備完了だ。死ななくてよかったという安堵感と、うまくできたという達成感で緊張が解けて身体から力が抜け、私はその場にへたり込んだ。


 毒液瓶の入った液漏れ防止袋をかかげ、私は親指を立てて「よし!」と喜びの声を上げた。


 もし戦犯管理所にいたら必ずこの毒液を飲ませて殺してやるわ、父さん。






 戦犯管理所へ行く日の朝、私は着物を纏い、麦わら帽子を被った。鞄に毒液瓶、ヨト村までの道程を描いた自作地図、今月分の給食費になるはずだった金を入れ、自宅を出る。汽車の往復金額を事前に調べていなかったので、ちゃんと運賃を払えるか不安だ。


 ヤケ村の畦道を進んで村外の一般道に出た。左右を山の斜面に囲まれ、道沿いには小川が流れている。一般道へ出るのは生まれてはじめてだった。真昼の太陽が畦道を照りつけ、道の彼方でゆらゆらと陽炎が揺れている。麦わら帽子が日差しを防いでくれているけれど、かなり蒸し暑くて数分もしないうちに汗だくになってきた。


 猛暑の一般道を歩き続けて一時間後、遠くに広大な盆地が見えてきた。盆地一面が見渡す限りの田畑で埋め尽くされ、その中に瓦葺屋根の民家が所々に立っている。ここがヨト村だ。

 辺りを見渡していると、盆地の隅っこに小さな集落が見えた。家々の屋根よりも背の高い三角屋根付きの塔が聳えている。あの塔がヨト村駅だろう。


 集落へ続く畦道を進み続けると、小さな商店街に出た。八百屋、服屋、茶屋、散髪屋など、町にしかないような店が数件向かい合って並んでいる。店と店の間に挟まって伸びる道の向こうに、遠くから見えた塔があった。塔の下には駅の改札口があり、その前にチャグが立っていた。間に合ったと安心してチャグに手を振ると、彼も手を振り返してくれた。


 階段を上がってチャグのそばへ行くと、彼はにこにこ笑って口を開く。


「また会ったね」


「ここまで迎えに来てくれてありがとうございます。遠かったでしょう」


「なんも問題なしだよ。じゃあ、行こうか」


 数分後、駅に到着した汽車に私たちは乗り込んだ。客車の中央通路の左右に向かい合ったソファがある。客は一人もいなかった。

 チャグと向かい合うようにして椅子に座る。暫くすると甲高い警笛が轟き、がたんと客車が一揺れして動き出して、驚いた私は全身を弾ませた。


 速度を上げるに連れて車窓を横切る景色も速く流れていく。客車の下から突き上げてくる揺れとがたんごとんという音に怯えながら、私は必死に窓辺の縁にしがみついていた。その様子がおかしかったのか、チャグはくすくすと笑った。


「汽車に乗るのははじめて?」


「は、はい」


「二時間後には着くから、それまで我慢して」


 二時間以上もこの揺れに耐えなきゃいけないのかと私はうんざりする。途中で吐きそうになったらどうしよう。心配になっていると、チャグが急に真面目な表情を浮かべて口を開いた。


「そういえば、戦友会の人からちょっとだけお父さんの話を聞けたよ。もし嫌じゃなかったら、聞くかい?」


 緊張感で自然と背筋が伸びた。殺るためには相手の情報が欠かせない。聞きたいと答えると、チャグは重い口を開くように語り出す。


「第一遊撃中隊に属していた、君のお父さんを捕まえた人から聞いた話なんだけど⋯⋯」


 十三年前、ソゴ山へ掃討作戦に来た第一遊撃中隊は登山して、あの分遣隊基地に入った。中には傷だらけでがりがりに痩せ細った一人の帝国兵がいて、両手を上げて共和兵たちを虚ろな眼差しで見ていたという。そいつが私の父らしい。


 共和兵たちは、分遣隊基地のあの小部屋に監禁され血まみれになっていた母と降伏した父を連れていき、近場の共和軍根拠地へ向かった。そこで両親は怪我の手当てをしてもらったのだという。


 父は重傷だった。全身が擦り切れ放題で、傷は手当されなかったのか膿だらけ。身体の所々に肉食寄生虫のウマバエの蛆も湧いて皮膚を食い荒らしており、両手足の指は凍傷でほとんど欠け、脚気も起こしていた。なぜこんな酷い状態になるまで放っておかれたのか、と共和兵たちは敵ながら驚いたという。


 父は共和兵たちからご飯をたくさん食べさせてもらった上、手厚い看護も受けたことに感激したのか、泣いて喜んだ。敵からこんな優しい扱いを受けるのは奇跡だと言っていたという。


 父は回復すると根拠地から捕虜管理所に移動させられた。帝国が敗戦すると、他の捕虜たちと共に今度はユゴ市立戦犯管理所に移された。


 今から私達がいくのがそのユゴ市立戦犯管理所らしい。


 父の話を聞き、私は苛立ちのあまり唇をぎゅっと噛み、着物の裾を握りしめていた。重傷を負ったまま放置され、野草と泥水しか口にできず、共和兵たちからまともな食事と手厚い看護を受けて泣いて喜んだ。その部分が加害者にも辛い事情があったんだよという言い訳のように感じられて、虫酸が走る。


 重傷だった? 野草と泥水しか食べられなかった? だからなんだ、知ったことか。あんたのせいで母は廃人になり、家族はばらばらになり、落し子の私は村人たちからいじめられる毎日を送っているんだ。


 あんたの苦しみなんかどうでもいい。それより私に殺されて死んで地獄に落ちて永久に苦しみもがいてくれ。それくらいの罰は受けて当然でしょう。心の中で恨み言を吐き捨てていると、怒りに拍車をかけるようにチャグが窓辺を見つめながら「可哀想に」と呟いた。


 可哀想、の対象は間違いなく父だろう。チャグの無神経な発言に、怒りが全身の毛穴から熱気と共に噴き出すのを感じた。


 父が可哀想だって? あなた、父のせいで母は狂い、私はいじめられているのを知っているじゃない。なのに何で私の前で「可哀想に」なんて発言ができるわけ? 私を理解する素振りを見せておきながら、結局私の気持ちには無頓着じゃないか。


 タンポポ畑で「君を助けたい」と言ってくれた時は凄く嬉しくて、チャグがいたら私は必ず父に復讐できる、と希望を掴めたような気持ちになれたのに。また私達の間に深い溝が生じるのを感じてしまい、私はチャグから目を背けた。





 二時間が経ち、汽車はユゴ市の駅に付いた。


 ユゴ市は第三村郡やアサ町などの町村を含む、北部では二番目に大きい都市だ。チャグ曰くユゴ市役所に戦争調査隊の本部である歴史課があるという。


 私達は改札口を通り抜け、駅前広場に停まっていたタクシーに乗って戦犯管理所へ向かった。


 コンクリートと木造の建物が入り乱れる街は、大勢の人で賑わっていた。昨日見たアサ町よりずっと人口は多そうだ。道路も田舎と違って舗装された道が多く、都会的だった。

 整備された綺麗なこの都市は、帝共戦争時には帝国軍の上陸作戦の舞台となり、激しい戦火に包まれて廃墟と化したんだ、とチャグは語った。戦時には街中に帝国兵と共和国兵の屍がたくさん横たわり、今でも地中から遺骨が大量に見つかるという。不発弾も数え切れないくらい埋まっているらしい。


 かつての悲劇から復興した都市を車窓越しに眺めること数十分、戦犯管理所最寄りの通りにたどり着いた。


 町の端の住宅街からさらに外れにある森林近くに、背の高いコンクリートの塀が聳えている。あれが目的地のユゴ市立戦犯管理所だ。


 塀周辺には森林、畑、脆い木造民家が数件まばらに並んでいるだけで、道を歩いている人はほとんどいない。管理所の塀に沿って伸びる歩道を進んで塀の門まで行くと、チャグは警備員に「見学を予約していたチャグ・ホルとユミン・ナリメです」と答え、入場許可を得た。


 塀の中に入ると、右手に白い長方形の二階建ての収容施設が、左手に広い運動場が見えた。運動場では作業服みたいな灰色の上下服を着た戦犯たちが、楽しそうな声を上げてボール遊びをしている。彼らの髪は赤茶、橙色、金色、茶色などの温暖色で、身長が高く、肌も雪のように白く、一目で帝国人だとわかった。初めて純血の帝国人を目にし、私は目を見張った。皆、私と姿がよく似ている。


 運動場沿いの草むらの木陰では酒を飲む者、札遊びをする者、読書をする者、昼寝をする者たちがいた。今は昼休憩中らしい。刑務所の中にしては随分まったりしてて平和な光景だ。


 収容施設の建物の入口へ向かい、硝子張りの二枚扉を開けてすぐの所にある受け付け窓口の人に見学に来たと伝える。一分もしないうちに案内人がやって来た。四十代くらいの共和国人女性で眼鏡をかけている。彼女は私達に挨拶した。


「見学の案内をさせて頂きます、ユキメです。よろしくお願いします」


 私達はユキメさんに続いて、管理所内の白壁に囲まれた通路を歩いた。通路両脇には、囚人たちの各部屋の扉が遠くまでずらりと並んでいる。

 ユキメさんは私達にこの管理所の説明をした。


「今ここにいる戦犯たちはおよそ懲役二十年の刑に伏しています。戦犯は各々の決められた刑期を過ぎると出所し、帰国します。その後も生活支援や生活調査などをするために戦犯たちとは定期的に連絡を取り合っています」


 途中、擦れ違った囚人たちが私達に向かって笑顔で「こんにちは」と流暢な共和国語で挨拶し、私は驚いた。十年以上も管理所に閉じ込められているから、共和国語も上達したのだろう。


 皆、年齢は四十代か三十代ぐらいのおじさんばかりだった。戦犯管理所に入った頃はまだ若者だったのだろうか。


 通りすがりに挨拶してくる囚人たちの笑顔は穏やかで、声も優しく、とても犯罪者とは思えない。十年ここに居続けて己の罪を悔い改め、いい人になったからなのだろうか。


 通りがかった一人の戦犯が立ち止まり、「ユキメさん、見学の人?」と共和国語で訊いた。染髪したかのような鮮やかな橙色の短髪と、目もとと口端に小じわのある色白い顔。年齢は三十代後半ぐらいだろうか。

 彼は私達のほうへ目を向け、挨拶した。


「はじめまして、こんにちは⋯⋯ん? 君⋯⋯」


 彼は私のほうを見るや、驚いたように目を丸くして息を呑んだ。珍しいものを目にしたような反応に、私も少しびっくりする。

 彼は私を見つめたまま、よくわからない言葉で何か呟いた。帝国語なのだろう。何と言ったのか気になり、私はチャグに訊いた。


「チャグ、なんて言ったの、今」


 チャグが翻訳する。


「誰かの顔に凄く似ている気がする⋯⋯って言ってた」


 囚人の頭の中では、ぼんやりと父の顔がちらついてるらしかった。やはり親子だから顔が似ているのだろうか。父の名前を言えば、囚人は父のことを思い出すかもしれないと予感した私は言った。


「娘です。アト・ネメントの。彼のことはご存知ですよね?」


 ユキメさんと囚人が驚いたように「娘っ?」と声を上げ、顔を見合わせる。


 囚人が何か閃いたように声を上げて一人帝国語でべらべらと喋りだす。「アヶ」とか「ヤヵ」とか拗音ようおん化するのが難しい言葉がたくさん混じっている不思議な言語だった。チャグはその複雑難解な言葉をすぐさま翻訳して、私に伝えてくれた。


「あぁ、あいつか、男の俺でもびっくりするぐらいの超美男子だったから覚えてる。どうりでこの子がネメントに似て超美少女なわけだ⋯⋯だってさ」


「あの、チャグさん、一部誤訳があります。超美少女って何ですか。勝手に盛らないでください」


 丁寧に訂正するとチャグは困惑したように返す。


「いや、だって、本当にそう言ってたから⋯⋯」


 皆から醜いと言われている私が? ありえないでしょとチャグに視線で訴えていると、また囚人が帝国語で戸惑ったように呟いた。チャグがすぐさま翻訳する。


「で、でも! あいつに子供がいたなんて聞いてないぞ! 独身で彼女いない歴と年齢は一緒だって言ってたくせに、いつの間に子供を設けてたんだよ!⋯⋯だって」


 ユキメさんも初耳だと言わんばかりに目を丸くして固まっていた。


 言わなかったのではなく、知らなかったのだ。母の妊娠が発覚したのは、共和国軍に助けられて数カ月後のことだったから。

 囚人は共和国語で私に訊いた。


「お母さんは現地の人? 顔がちょっとだけ共和国人っぽく見えるし」


 純血の帝国人からすると私は混血に見えるらしい。父だけでなくちゃんと母の血も引き継がれていたのだと安堵しつつ私は「はい⋯⋯」と答える。


 囚人はたまげたと言わんばかりに片手を額に当てて独りごちる。


「そうかぁ。なんてこった、あいつ現地人といちゃついて隠し子を作ってたなんて。いつも無口で何考えてるかわからん影薄い奴だったのに、そんなちゃらいことを⋯⋯」


 父が戦争中に女を作って隠し子をもうけていたという妄想を勝手にする囚人を見ながら、私は苦笑した。本当のことを言ったら気まずい空気になるからやめておこう。


 そこで私は、とても肝心な父の在所の有無を訊くことを思い出した。緊張に心臓を高鳴らせながら、私はユキメさんに訊いた。


「あの、ユキメさん⋯⋯ところで、私の父の⋯⋯ネメントさんはここにいますか?」


 囚人は首を横に振った。


「あいつは六年前に出所して帰国したよ」


「そうですか⋯⋯」


 いたら今日にでも殺せたのにとがっかりしたが、出所していても父が帰国後どこで暮らしているのかを聞き出せば問題ない。帝共の国交は終戦から十年の内に回復したし、高額になるが金を貯めて海外旅行申請を出せば帝国には行ける。次なる復讐の機会を手に入れられることを期待して胸を弾ませながら、私は囚人に訊いた。


「父は帰国して今どこで暮らしているんですか?」


「さぁ、それは知らん」


「⋯⋯えっ」


 突き放され、私は硬直する。


 ユキメさんも続いて答える。


「ごめんね、お父さんの居る場所はわからないの」


 二人から予想外の発言が返ってきて、私は狼狽えた。


「そ、そんな⋯⋯ユキメさん、戦犯とは帰国後も連絡取り合っているって言ってたじゃですか。なのに、わからないんですかっ!」


 焦るあまり語気が荒くなってしまう。ユキメさんが申し訳なさそうに眉尻を下げて私に言った。


「お父さんの住んでいた故郷の街は戦争中の空襲で焼け野原になって、自宅が全壊して、出征していた弟さんを除いてご両親と他の兄妹はみんな亡くなったんですって。お父さんは帰国後、街はまだ全然復興していないし、帰る家も頼る身内もいないから、戦火の及ばなかったどこか遠くの街まで行ってそこで生活すると言ったきり私達と連絡を断ち、それから音沙汰無しなんです。だから私達も今どこにお父さんがいるかわからないの。ごめんね」


 私は愕然としてその場に膝をつき、呆然と床を見下ろす。希望を全て絶たれてお先真っ暗になったような絶望感に目眩がし、頭の中がふわつくような感覚に囚われた。


 チャグが私のそばに座り、肩を抱きながら心配そうに訊いた。


「ユ⋯⋯ユミンちゃん? どうしたの?」


 目眩は徐々に激しくなり、周囲の全ての音が頭の中でわんわんと反響するように聞こえ出す。


 なんということだ。帰国後行方不明になったのでは、父を探すことなんて到底無理だ。帝国は広大な大陸の四分の一を占める国家で、その巨大な面積の中から行方不明の一人を探し出すなんてできるわけない。


 私は顔を両手で覆い、声を上げて嘆いた。


「嘘よ⋯⋯こんな⋯⋯こんなはずじゃ⋯⋯な⋯⋯」


 これでは、復讐が完全に終わったも同然ではないか――。

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