私の穢れた血を洗いに

第一部：私と母のこと

1.穢らわしい混血児

　私は農村の山沿いの空き地にある石碑の前に立っていた。夏の眩い日差しを浴びて輝く石碑の表面には、昔起きたある事件の彫り絵が描かれている。絵の中には、畑内に縦三列に並んだ農民たちと、彼らの向かいに整列する兵隊たちの姿がある。兵隊たちの前には機関銃が並べられており、銃口は農民たちに向けられていた。

　絵の下の『ヤケ村虐殺事件』という見出しに続いて、事件の内容を綴った碑文が書かれている。

　――歴一九四〇年、開戦を期に我が共和国に上陸してきた帝国軍は、ヤケ村を含む各農村を占領しました。そして罪なき人々を女子供関係なく虐殺し、家を焼き払い、あらゆるものを盗みました。

　ヤケ村は共和国軍に協力したという嫌疑を帝国軍に掛けられ、約五十名の農民がこの場所に集められ、機関銃で撃たれ、尊い命が奪われました。

　その悲惨な歴史を忘れないために、この石碑を建てます。

　終戦一周年記念

　ヤケ村村長　

　私は石碑の背後に広がる空き地を見つめた。事件から十三年以上も手入れされていないというこの空き地には、背の高いススキが一面に生えている。地面が見えないくらい茫々と茂るススキの群れが、放置された年月の長さを物語っていた。

　十三年前、この場所でかつてヤケ村の農民約五十名が帝国軍に並ばされ、機関銃で虐殺され、畑は血に染まった。そんな忌まわしい場所ゆえか誰も近寄ろうとせず、辺りはいつも静寂に包まれている。

　私は農民学校へ登校する前や下校時に毎度、人々から忌諱されるこの場所へ来ていた。この絵の中に描かれた帝国兵たちに向かって憎しみをぶつけるために。

　いつものように絵の中の帝国兵たちを睨みながら、私は心の中で吐き捨てる――お前たちを決して許さない、と。もう数年近くこの憎しみをぶつける儀式を繰り返している。毎度彼らに対して憎悪を吐き出さなければ、常日頃胸の内に渦巻く怒りが爆発して気が狂ってしまいそうになるからだ。

　私は石碑の絵に描かれた帝国兵たちを見た。彼らの髪は橙色で、目は青く、鼻は高く、彫り深い顔立ちで、肌は白い。そして石碑横に立つカーブミラーを見ると、帝国兵たちと同じ青い目、彫り深い顔立ち、高い鼻、白い肌、橙色の髪、薄汚れた麻布の着物を着た私の姿が見えた。

　帝国兵たちと似た自分の姿を見ていると、胸の焼け付くような嫌悪感を覚える。

　風がごうっと音を立てて吹き、ススキの細長い葉が反射する太陽光をきらめかせてざわめいた。その時、背後からくすくすと笑う子供たちの声が聞こえて、私はぎょっとした。

　まさか後ろの草むらに隠れていたなんてと焦った時にはもう遅かった。

「混血児！　混血児っ！　鬼畜の混血児ーっ！」

　立ち上がろうとした時に子供たちは私を囲い、手を叩きながら皆で囃し立てた。子供たちの顔立ちは私と違って平たく、髪と瞳は黒く、肌は黄色人種特有の黄色味がかった肌色。彼らは農民学校に通う小等生で、私の同級生たちだ。私がここへ来ることを知っていて待ち伏せしていたらしい。

　彼らに前方を塞がれ焦っていると、背後にいた奴に羽交い締めされてしまった。

　このまま同級生たちに連行されれば、畦道脇の田んぼにぼちゃんと投げ入れられてしまう。彼らに囲まれる度よくやられるのだ。やられたら、全身泥だらけのまま帰ることになる。うんざりした私は掴まれた両腕を振り払い、前にいた子を突き飛ばして駆け出した。

　待てこのっ！　という叫び声と共に同級生たちの足音が迫ってきた。全速力で駆けていくも、段々と息切れし足が遅くなっていく。

　肥料の入った桶を運ぶ村人、猫車を押す村人などが畦道を行き交っている。彼らに姿を晒してしまい、私は酷く焦った。自分の姿は村人たちには目の毒であり、私が彼らの前に現れるのは迷惑行為だ。既に何人かが立ち止まり、私を白い目で見てくる。

　早く彼らの視界から消え失せねばと慌てて横道へ逸れようとした時、子どもたちに追いつかれ、背中を思いっきり蹴り飛ばされた。転んだ私は、目の前にいた土を猫車で運ぶおばさんにぶつかってしまう。

　猫車が音を立てて転がり、飛び散った土を被った私は全身が真っ黒になってしまう。

　ああ、またか。これから自分の身に起こる罰を予感して全身を強張らせ、私は頑なに目を瞑る。もう何度もやられているが未だ慣れない。

「このっ⋯⋯」

　おばさんは乱暴に私の腕をぐいと掴んで身体を起こすと、私の頬を力いっぱい平手打ちした。

「土をぶちまけやがって！　ふざけんなっ！」

　おばさんは怒りをぶつけるように、私の左右の頬を何度も引っ叩いた。

「ふざけんなっ！　ふざけんなっ！　ふざけんなぁっ！」

　まるで私に親を殺されたかのような憎しみいっぱい声でおばさんは叫び、本気の平手打ちを何度も食らわせる。ぶつかったのが他の人間だったなら「こらっ！　気をつけろ」と叱られる程度で済むだろうが、鬼畜の子供の私は対象外だ。

　バチで叩かれるような激痛が頬に走り、痛みのあまり泣きそうになる。でも泣けば被害者面をしていると思われて、余計におばさんを怒らせてしまう。

　泣くな、泣くな、おばさんだって私の姿を見て辛い思いをしているんだから我慢しなきゃ。私はそう自分に言い聞かせて歯を食いしばり、泣き声が漏れそうになるのを必死に堪える。

　おばさんは疲れたように息を切らして手を止めると、「さっさと行きなっ！」と怒声を上げて私のみぞおち辺りを思いっきり蹴り飛ばす。鈍器で腹を打たれたような衝撃の後、胃がひしゃげるような激痛が走って私は空嘔吐する。

　野次馬の子供たちと村人たちは、誰もがやりすぎだよとおばさんに注意しなかった。当然だ。私が村人に殴られ蹴られようが殺されようが、加害者は誰一人として罪にはならないだろう。私は帝国兵たちの同胞たる『鬼畜の子供』ゆえ、彼らにとっては憎き敵であり、何をされてもよいからだ。

　私は両手を地面について俯き、頭上から降り注ぐ皆のごみでも見るかのような眼差しを一身に受ける。惨めさで胸が潰れそうだった。

　おばさんははぁはぁと荒く息を吐いた後、私の脇を通って遠くへ去っていく。遠ざかっていくおばさんの姿を、私は被った土で濁った視界の中に捉えた。おばさんの泥の付いた赤茶色の着物が見えた。左側の袂から手が出ていない。おばさんには左腕がないのだ。

　風が吹いておばさんの肩まである髪が靡くと、薄茶色の頬骨が見えた。背後からだと見えないはずの頬骨が丸見えなのは、両耳がないからだ。まるで刃物でスパッと切り落とされたみたいに綺麗に無い。

　おばさんは十三年前にあの畑に並ばされ、機関銃で撃たれて両耳と左腕、両親までもを失ったという。私を殴り蹴ったのは、機関銃を放った帝国兵たちの姿を私に重ねて憎悪に駆られるからなのかもしれない。私が帝国兵たちの姿を自分と重ねて憎悪するように。

　私のせいで辛い出来事を思い出させちゃったね、ごめんねおばさん、と私は心の中で謝る。

　静寂が訪れ、周囲から浴びせられる突き刺すような眼差しを肌で感じた。彼らの『謝れ』と訴えてくるような目に気圧され、私は立ち上るや咄嗟にごめんなさい、みんな、不快な思いをさせてごめんなさいと小声で謝る。

　野次馬と目を合わせないよう、足元に視線を落としながら早足で歩き出す。彼らの輪から抜け出した時、通り過ぎ際にひそひそと話す女達の声が聞こえてきた。

「ほんと、いつまで私たちはあの子に心の傷をえぐられ続けなきゃなんないのかしら」

「あの子を見るたびに十三年前を思い出すわ。うちのお母さん、あの子を見ただけでフラッシュバックが起きてその場で泣き崩れるの。本当に辛いわ」

　私を見ると突然怒り出す人、泣き出す人は多い。私の姿を見て、十三年前の虐殺事件を思い出すかららしい。

　私は虐殺事件の直接の加害者ではないけれど、村人たちの心傷をえぐる疫病神なのだ。

　私が皆の傷に塩を塗っているのはわかっている。

　でも悔しい。

　私は唇を強く噛んで、悔し涙が溢れ出そうになるのを必死に堪えた。

　静寂の中にわんわんと響く蝉の鳴き声が、人の嘲笑い声のように聞こえた。

　村人たちから離れ、彼らの視線から解放されたせいか、罪悪感に駆られる自分に対する嫌悪感のほうが勝ってきた。やりきれなさと惨めさに涙が滲んできて、私は鞄の背負紐を握る手を震わせる。

　何やってんだよ、そうやっていつまでも村人たちに頭を下げていたら帝国兵（かれら）の思う壺だろうに。いつも村人たちの心を十三年前の悲劇に繋げてしまう罪悪感に駆られ、でもふとすると自分が謝っていることに違和感を感じて苛立つ。

　苛立ちが爆発寸前に達し、私は掌に爪が食い込むほど強く拳を握り、憎悪を込めた声で吐き捨てる。

「何もかも、あんたのせいよ」

　私は前を向いて、目の前に立つ一人の帝国兵の姿を思い浮かべる。

　どんぶり鉢を逆さにしたような鉄帽、上下に纏った軍服、両手に携えた銃剣付きの歩兵銃。鉄帽からは橙色の髪がはみ出ていている。

　だらりと垂れた前髪越しに、二つの火の玉のような青い点が横に並んで輝いている。

　私と同じ、青い瞳だ。

　淡白く光る青い瞳の点は、意思疎通が効かないような獰猛さを感じさせる。

　妄想の中の帝国兵を見つめながら、私は彼に言った。

「ねぇ、父さん」

　かつてこの村へ来て、村人たちを虐殺した帝国兵の一人が私の父だ。

　父に対する怒りと悔しさと憎しみが混じった真っ黒な気持ちが胸に満ちて、涙が溢れ、頬を伝い落ちていく。私はわなわなと拳を震わせた。

「私はいつまであなたの血に苦しめられなきゃいけないんだろう」

　妄想の中に立つ亡霊のような父を睨みながら、私は彼に憎しみをぶつける。

「私、あなたを許さないから。村の人たちを虐殺して、母を犯して私を産ませた帝国兵のあなたを」

　だが、顔も居場所もわからぬ父にこの憎悪を直接ぶつけることはできない。父との血縁関係を断つこともできない。小さくて無力な小娘ごときの私には、何も成す術がない。

　私はこのまま父との血の繋がりを断てずに、死ぬまで村人たちの心を傷つける疫病神を演じなければならないのだろうか。終わりのない地獄に思い馳せて、私は声を上げて泣いた。