18.僕が鬼畜に堕落するまで【後編】

 共和国兵、義勇隊の民兵を十数名討伐し戦闘が落ち着いた後、各家屋、草むら、雑木林に残敵がいないか皆で探し回った。念入りに探しても見つからなかったので敵は全員掃討したと見なされ、戦闘終了の合図が中隊長から発せられて周囲は安堵に包まれる。


 農村地帯の真ん中に位置する空き地の草原に、味方の負傷兵や遺体が並べられた。負傷兵は十名、死者は五名。四体の遺体の並んだ所に数人の兵隊たちが座り込み、泣いている。彼らは仲のいい戦友、或いは兄弟を失ったのだろう。


 フレイスの死体は損壊が激しいため、空き地まで運ぶことができなかった。


 僕は雑木林前の畦道の土手に腰掛けて、フレイスの死体を見下ろしていた。


 つい一時間前まで呑気に田舎の空気を堪能していたフレイスの顔は、血の気が失せて青ざめていた。ハエたちが彼の腹の抉られた部分や飛び散った臓物に集り、卵を産み付けている。


 フレイスの顔は穏やかで、今にも目を開けて「あ、寝てたわ」とにやつきながら起き上がりそうだった。


 もう二度と彼は目を開けて笑うことはないのだ、と頭の片隅では理解していても実感は湧かなかった。


 遠くから中隊長の集合号令が聞こえてきたが、喪失感で身体が抜け殻のようになってしまった僕は立ち上がることができなかった。


 暫しして、僕の座っている土手の畦道から見知らぬ兵隊が駆け寄ってきて、僕の腕をぐいっと引っ張った。


「おいお前、出発するってよ。⋯⋯って、うわぁ⋯⋯ひでぇなこりゃ⋯⋯」


 兵隊は唖然としたように暫し呆けた後、僕に言った。


「骨、拾っていってやろうよ。飯盒貰うよ」


 彼は僕の雑嚢に引っ掛けてある飯盒を勝手に外し、蓋を開けてフレイスの砕けた骨をいっぱいに詰め込んだ。蓋を閉めると彼はフレイスの銃剣と鉄帽を拾い上げ、僕の雑嚢の紐に結んで引っ掛ける。


「次の休止地点に付いたら、骨を埋めて墓を作ってやろう。ほら、行くぞ」


 兵隊の励ますような声が耳障りな雑音のようにしか聞こえなかった。


 中隊長たちが集まっている空き地から「ネメント二等兵ー!」という怒声が轟く。いつまでも来ないから呼ばれたのだろう。僕は兵隊に支えられながら立ち上がり、土手を上がって皆のいるところへ向かった。


 僕は後ろを振り返り、地に横たわるフレイスの屍を見る。こちらを見る半開きの目が僕に「行かないで」と訴えているようだった。


「フレイス⋯⋯」


 彼が死んでしまったのに、その場に放置するという非情なことをやろうとしているのに、何らの感情も湧いてこない。頭の中も心もの中も空っぽになって、何も考えられないし何も感じなかった。


 四体の死体とフレイスを放置して、僕達は撤退していった共和国軍を追撃するために再び行軍し始めた。 



 ◆ ◆ ◆



 感情が戻ってきたのは二日経ってからだった。


 僕たちは山頂の山道を行列を成して歩いていた。この二日間、今まで背後にいたはずの幼なじみがいなかった。行軍中ずっと聞こえていたあいつの話し声が聞こえてこなくて、背中がずっと虚しかった。


 フレイスのいない寂しさは段々と胸の中に積もりに積もって、痛みに変わってゆく。


 痛みは空っぽだった心を針のように突き刺してきて、もうフレイスはこの世にいないんだと僕に説得してくる。


 耐え難い感情がせり上がってきて、肩が震えて、涙が頬を伝い落ちる。


「なぁ、フレイス⋯⋯」


 何だい、アト? と後ろから声が飛んでくることはなかった。そうだよな、もういないんだもんなと実感した時、とうとう感情が爆発して僕は声を上げて泣き出してしまった。


 隣の兵隊が苛立たしげに言ってきた。


「おい、泣くなよ⋯⋯」


 叱られると思いきや兵隊は僕の肩を抱き寄せ、言ってきた。


「農村での戦闘で俺は弟を亡くしたんだ。やめてくれ、お前が泣くせいでこっちまで⋯⋯うぅっ⋯⋯」


 僕は兵隊と肩を抱き合いながら、悲しみに翻弄されるがまま共に泣きじゃくった。


「畜生、弟をよくも⋯⋯返せ、返せよぉぉ⋯⋯!」


 兵隊の泣き叫ぶ声がこだまするが、誰もうるせぇと咎めなかった。


 僕も親友を惨殺された悲しみを振り絞りながら泣き続ける。


「フレイス⋯⋯フレイスッ⋯⋯」


 フレイスのためにも、仲間を失った戦友のためにも、絶対に共和国軍を許さない。共和国兵やつらは皆殺しにしてやると僕は憤った。


 農村地帯の奥はユゴ山脈という険しい山岳地帯が広がっており、通れる場所は山間を縫うように伸びる一本道のみ。僕たちは道をひたすら進んでいき、山中に待ち伏せしていた共和国兵たちを見つけては掃討していった。


 フレイスの死から五日後の深夜、僕はユゴ山脈の麓で共和国兵たちを白兵戦を用いて突き殺ししていた。未だ補給が不十分で銃弾の補充ができないため、夜襲して戦うのが効率的だと隊長たちが判断したためだ。


 別の隊が草むらに潜伏する共和国兵たちを引き付けて拘束している間に、僕たちが後方へ周って接近する。

 

 僕は木々を避けながら森を駆け抜け、背後から銃剣で共和国兵たちの内臓を突き刺した。


 敵の身体を貫いた瞬間、殺ってやったという征服感に背中が疼く。


 死んで地に突っ伏した共和国兵の心臓部に銃剣を突き立てた。グェッという呻き声が響く。駐屯地で上官たちから虫けらかゴミのように扱われていた自分が、いとも簡単に相手をねじ伏せられるようになって、『僕はすげぇや』と自惚れ気分だった。初年兵教育で味わった劣等感が敵の殺害によって、全能感に変わっていたのだ。


 僕は共和国兵を自分の好きなようにどうにでもできるのだ。僕は微笑みながら「ざまぁみろ」と言った。


 共和国兵を殺すことには何の躊躇いもなくなったし、自分が奴らを殺すことで仲間に悲しい思いをさせなくて済むという喜びも感じていた。


 フレイスの死が、彼を殺した共和国兵たちへの憎悪が、全能感に変わった劣等感が、僕を格段に使える兵隊へ、人の心を持たぬ鬼畜へ急成長させていた。


 同時に共和国兵を、共和国軍に協力する民間人を家畜か害虫以下の野蛮な存在と軽蔑し、奴らには何をしてもいいと思うようにもなっていた。


 一週間後には僕達と別の歩兵連隊数個が制令線付近までたどり着き、戦闘区域外まで敵を追いやったところでユゴ上陸作戦は終了した。


 大本営から届いた同作戦終了の報告が、中隊長から言い渡された日の深夜。制令線から三キロ離れたところにある農村で宿営することになった。村人たちはどこかへ避難したのか家屋は全て無人で、一等兵以上の兵隊は空っぽの家を寝床にし、温かい布団に包まって眠った。


 二等兵たちは、みんな汚臭漂う家畜小屋で寝泊まりさせられた。家畜の牛や羊は全て兵隊たちにさばかれて肉にされたので、小屋は伽藍堂だ。僕達二等兵は家畜の糞や小便が染み込んだ汚い藁の上で眠り、熱帯夜と激臭に悶ながら一夜を過ごした。


 小屋内が臭いのもそうだが、フレイスのバラバラになった死体の映像が何度も脳裏に鮮明に蘇ってきて僕は一睡もできなかった。

 映像の中で、フレイスの死体の虚ろな顔が「置いていかないで」と訴えていた。今更になって彼を放置してきてしまった罪悪感が胸に募り、息が詰まりそうになる。


「ごめん⋯⋯ごめんよ、フレイス⋯⋯」


 夜明け頃、真っ暗だった空が少しずつ水色に変化してきた。激臭に鼻が慣れて眠りに落ちた二等兵たちが寝息を立てる中、僕は上半身を起こす。


「フレイス⋯⋯埋めてやらなきゃな」


 一週間経ってフレイスの死に対する悲しみもだいぶ落ち着いてきて、冷静になった僕は彼の骨を埋葬してやろうと考えていた。


 中隊長の説明では今日から一日かけて休止無しでユゴ市チサ町へ戻るというので、コンクリート造りの街では埋められないから今のうちに埋めてやらなきゃ。そう思い立って、僕は枕代わりに置いていた雑嚢からフレイスの骨が詰まった飯盒を手に取った。


 小屋を出ると、早朝にも関わらず湿気を含んだ生温い風が吹いてきた。共和国の夏は常に蒸し暑い。


 畦道に出て、ここに埋めようと予め決めておいた場所へ向かう。


 農村の南方に聳える里山には、赤や橙色のヒナゲシの花が一面に咲き誇る緩やかな丘がある。ここを見た時、戦場の中に忽然と現れた天国の花畑のように感じられたので、すぐさま埋葬地に決まった。


 僕は里山の緩やかな斜面の頂上まで登り、森と草地の境目辺りの地面をすきで掘って、フレイスの骨を埋めた。土を被せた後、彼の銃剣を突き立てて柄に鉄帽を被せる。帝国軍が古来から作っている簡易墓標だ。昔は剣の柄に甲冑の兜を乗せていたらしい。


 僕は彼の墓の前で手を合わせ、別れの言葉を告げた。


「フレイス。十数年の長い友達付き合い、本当にありがとう。安らかに眠ってくれ。必ずお前の仇は討つから」


 フレイスは自分を殺した相手に一太刀加えられなくて、さそがし悔しい思いをしていることだろう。


 だから自分がフレイスの代わりに憎き敵どもを殺戮してやるのだ。


 共和国軍に協力する者ならば、ガキだろうと女だろうと容赦なく殺してやる。


 決意を新たに、僕は踵を返して斜面を降りていった。



 ◆ ◆ ◆



 僕達はユゴ市立大学に戻った。上陸作戦が終了してユゴ市が帝国占領区になると、海路も安定して帝国から武器や食料などを詰んだ軍艦が港に次々到着した。


 届いた食料は乾燥菜、乾パンなどが入った缶詰と燕麦オートミールのみで、全く腹の足しにならない。農村で取り放題だった美味しい野菜や家畜肉が恋しかった。


 大学に戻った日、連隊長が僕達を中庭に集めて「これから凱旋か次期作戦決定まで休養を取る」と説明した。次の作戦に駆り出されるかもしれないという連隊長の不穏な説明に、不安と恐怖の空気が周囲に走る。


 次期作戦が決定したら今度こそ死ぬかもしれない、家に二度と帰れないかもしれないと皆が死の恐怖に苛まれる中、僕は敵を討ち続けねばフレイスが浮かばれないと全く別の意味で緊張していた。憎悪を胸に抱えたまま凱旋する方がよっほどやり切れない。


 それから僕にとってはひもじくもちょっぴり楽しい、束の間の休養期間が始まった。


 乾燥菜、乾麺麭、燕麦のみの飯ではとても満腹できず、兵隊たちは町中から食料調達しに出かけた。彼らが市内の小麦工場、缶詰工場、青果市場から次々と食料を大学内へ運んでくると仲間たちは大いに喜んだ。


 空腹を満たしきれない僕も大学の敷地を出て、食料を探しに行った。汚物地帯をさまよって食品店を見つけては店内に侵入したが、既に兵隊たちが奪っていったらしくどこも空っぽだった。


 畜生、どこにもない。痛みを伴って空腹を訴える胃袋を胸越しに押さえながら、僕は海岸沿いの道路まで来た。道をふらふらと歩いているうちにたどり着いたのが、ロジャーズ珈琲だった。


 この店の一流菓子職人が無償で出してくれた菓子と紅茶を堪能した僕は、もうこの店以外の飯を食いたくないほどにはまってしまった。代金の代わりに補給物資の缶詰や小麦工場から盗んできた小麦粉袋を店に持っていって、美味しい料理に加工してもらった。


 通ううちに菓子職人と彼の娘と打ち解けて、僕は自分のことを話すようになった。

 フレイスがいなくなってからずっと孤独感に苦しめられてきた僕にとって、菓子職人親子は束の間の良き話相手になってくれた。


 店へ仲間を連れていき、皆で茶会をしたこともあった。


 戦争中で僕が一番人間らしく、楽しくいられたのは、この時が最初で最後だった。


 あとは獰猛な野獣のように無様に生きただけ――。


 二ヶ月後、次期作戦が決まった。


 共和国軍の総司令官である共和党代表が、帝国の制令線より向こうで大量の陣地を築いた挙げ句兵力を補充し、「降伏する気は毛頭ない」と宣言した。共和党代表の挑発に乗った大本営は再び派兵を決定したという。


 北部方面軍はユゴ市中部にある各都市へ向かうことになった。僕を含む二百名の兵隊たちは、ユゴ市北部の山岳地帯にある部隊に転属させられた。


 北部の山岳地帯では、険しい山々を自由自在に動き回り、神出鬼没の奇襲攻撃を仕掛けてくる『共和国軍山岳遊撃隊』との激戦が繰り広げられていた。山岳遊撃隊はあちこち移動するため、北部方面軍は戦闘区域各所に分遣隊基地を分配配置して応戦していた。


 いつ奇襲されるかわからない恐怖の山岳戦に加え、補給物資は全て現地調達で賄わなければいけなかった。山岳地帯を流れる各川の幅は狭く軍艦は遡上できず、標高高い山だらけの場所では輜重部隊の移動も困難な上、敵から補給線を絶たれてしまう。そんなわけで輸送はほぼ不可能であり、食料、薬品、銃弾などの物資は鹵獲か農村から掠奪などしなければ得られない。


 ある意味、都市部進軍よりも過酷かもしれないと僕はうんざりしていた。


 陸軍の輸送車に乗って僕達は北部山岳地帯に向かい、指定された各分遣隊基地へ移動した。僕は帝国陸軍混成歩兵第七大隊第四中隊の守備範囲にあるソゴ山のフリードヒ分遣隊に転属した。分遣隊基地に着くと、ヨゼフ・クラウス、ソルラスとシェイド・フィリックス兄弟、分遣隊長のジェス・フリードヒ伍長、他六名に出迎えられた。


 分遣隊員たちの姿を見た時、ぎょっとしたのを今でも覚えている。彼らは全身垢と血と泥に塗れ真っ黒で、軍服はボロ布のようにあちこちが裂けており、獣の体臭のような激臭を漂わせていた。毎日昼夜連戦続きで、風呂に入る暇がないから汚れ達磨になったという。


 その日の夜、僕の歓迎会が開かれた。農村から盗んできたという鶏の丸焼き、野菜類の汁物、酒が振る舞われた。激臭を放つ彼らに囲まれているせいで、僕はえずきながら食うはめになった。


 フリードヒ分隊長が僕に言った。


「今のうちにたらふく食っておけ。後でほとんど何も食えなくなるからな」


 フリードヒ分隊長曰く、現地調達で衣食住を賄わなければならないため、みんなあちこちの村で物資を盗みまくっている。日に日に食料を得るのは困難になってきているという。飢えて落伍者になる者、栄養失調で病気になる者が出たり、部隊間で物資の取り合いが起き、殺し合いに発展した例もある。


 敵だけでなく飢えた味方にも警戒しろということか。僕はフリードヒ分隊長たちが急に怖くなった。飢えた獣のようにしか見えないこいつらこそ、夜中に僕を食ったりしやしないかと。


 歓迎会終了の三時間後、基地に置かれている電子複製機から、第七大隊長より下った出撃命令の書かれた電報が出てきた。


 ナサ村の住民が共和国軍の民兵組織と接触したとの情報を密偵から入手したので、第四中隊属第一小隊はただちに検閲へ向かえ。接触した痕跡があればただちに村人全員を処刑せよ、とのことだった。


 フリードヒ分隊長が命令文を読み上げた時、自然と共和国軍への憎悪がせり上がってきた。常に殺意に燃えている身体は、共和国軍を殺戮することに飢えていたから。


 共和国軍に接触すれば殺されることがわかっているのに、馬鹿な奴らだ。検閲に引っかかて皆殺しにされてしまえ。僕は内心でナサ村の住民たちを嘲笑いながら、殺意を研ぎ澄ませた。


 分遣隊基地から出発してナサ村へ向かう。遊撃隊の奇襲を警戒して標高高い岩山の頂を伸びる交易道を渡り、緑山地帯に降りてナサ村に続く道路を進んでいった。


 頭上を覆う枝々の隙間から月光が降り注いでいる。地に広がる銀色の光溜まりの上を僕らは三列になって歩いた。


 道端の草むらから敵が飛び出して来ないか警戒しながら道をゆくこと数十分。道の向こうの木立の切れ目から、煌々と輝く橙色の火明かりが見えてきた。


 既にナサ村は到着した別部隊が焼き討ちしていたらしい。民兵組織と接触した痕跡が見つかったのだろう。ざまぁみろ、と僕はナサ村の人たちを嘲った。


 夜闇に黒々と聳える緑山に囲まれた盆地内の村の畑には、緑の麦穂が広がっている。村内に点在する泥壁の家屋は全て燃やされ、窓から火が噴き出し藁屋根が炎上していた。


 村人たちは老若男女問わず機関銃で銃殺され、死体は畑の中に山積みされていた。


 分隊長が僕らに命令した。


「まだいるぞ。見つけ次第、女子供関係なく殺せ」


 近くで子供の甲高い泣き叫び声が轟き、僕は即行声のしたほうへ駆け寄ってゆく。畦道を全速力で駆けていく少年の背が遠くに見えた。一匹目の獲物だ。彼に追いつき、銃剣で背を突き刺して即死させる。うつ伏せに倒れた少年の腹から、血の海が広がった。


 それから僕は、分隊長の命令通り村中を逃げ惑う村人たちを女子供年寄り関係なく殺しまくった。


 敵を葬り続けることは、亡きフレイスへの供養になると思っていたから。


 討伐作業を終えると、兵隊たちは畑から野菜を引っこ抜いたり、家屋の米櫃こめびつから米を掬って各々の飯盒に入れた。僕は彼らが楽しそうに現地調達している光景を微笑ましく見ていた。


 よかったね、お腹減っていたでしょう。みんな、腹いっぱい食べな。


 飢えて死ぬ者、奪い合って殺し合う者が出る中、たくさんの物資を獲られるのは喜ばしいことだった。


 殺し、盗みを繰り返すだけの荒んだ戦場生活を送って、三年が過ぎた。


 歴一九四三年一月。この頃、帝国は複数の隣国を相手に戦って戦況が悪化した。北部方面軍から大量の兵隊が引き抜かれ、別の戦闘区域へ移動していった。


 共和国軍山岳遊撃隊は北部方面軍の守備が手薄になったのを好機と見て、同年二月に第一期大規模掃討作戦を開始。最悪なことにこの年、木々が氷柱になるほどの記録的な大寒波が北部山岳地帯を襲い、北部方面軍は拘束されてしまった。


 北の極寒の山々で暮らしてきて土地勘も充分にある山岳遊撃隊は、大寒波を物ともせずに北部方面軍を襲撃してくる。一方で大寒波で身動きが取れない北部方面軍は一気に追い詰められ、次々と各部隊が全滅していった。


 四月。雪が溶けて森の木々の枝が葉を伸ばし始めた頃、第一期大規模掃討作戦は終了した。大寒波や掃討作戦で大打撃を受けていた北部方面軍は本格的に活動を開始し、再び山岳遊撃隊との戦闘を開始した。


 第一小隊は第四中隊に組み込まれ、共和国軍との接触があったらしいヤケ村へ検閲に出かけた。一月の大寒波中の作戦で手足に凍傷を負った僕は落伍者になり、分遣隊基地の不寝番を任された。


 冬の間に食料を食べ尽くし、食べるものは何も無かった。僕は凍傷で動かせない両足を引きずり外に出て、泥水、自分の小便、野草を食べた。それだけでは空腹を満たせず、身体に纏わりつく蛆虫やシラミ、腸内から出てきた線虫も食べて飢えを凌いだ。


 何月何日なのかわからない今日も、僕は自分の身体に群がる白い食料を口にした。


 凍傷で皮膚が裂けて出来た傷口にハエが卵を産み付け、孵化した白い蛆虫が発生している。僕は蛆虫を一匹ずつ傷口から引きずり出してすり潰し、団子状にして口にした。血の赤と蛆虫の表皮の白が混じって桃色になった虫団子は、柔らかくて食べやすい。蛆虫たちは僕の血と肉を食っているので味は血まなぐさいが、飢えを凌ぐには我慢するしかない。


 虫団子を食い続けたがそれでも栄養が足りず、日に日に僕は痩せ細ってゆく。時々目眩がして倒れた。倒れる度に、傷口に蛆虫が増えていく度に、僕は命の終わりが近づいていることを予感していた。 


 朝、腹が減って外に出ようと僕は凍傷で欠けた指を床に這わせ、四つん這いで入口まで進んでいくも、途中で力尽きた。


 死にたくない。


 瞬きをすると痛いほど乾いていた目の奥が熱くなって、涙が溢れ出る。


 死にたくないよ。


 意識が呆然とする中で、これまでの地獄のような日々の映像が脳裏を過る。


 いきなり徴兵されて駐屯地で二年間もいじめられ続け、幼なじみの親友は惨殺され、毎日四六時中戦いばかりの日々を送り、飢えに苦しみ、手足は凍傷で一生ろくに動かせなくなり、身体は蛆虫とシラミと線虫に食われる。


 僕が一体何をしたっていうんだ。


 何の罰でこんな惨めな死に方をしなきゃいけないんだ。


 地面にうずくまって僕は泣いた。


 三日後にフリードヒ分隊が基地に戻ってきた。彼らの持ってきた戦利品は、ヤケ村から盗んできた僅かな米と村人が冬の食料として蓄えていた乾燥野菜、そして若くて綺麗な十代後半くらいの少女が一人。


 フリードヒ分隊長曰く、ヤケ村では六十人中五十人の村人が機関銃で掃討された。残り十人は畑に面した森の中へ逃げ、彼らを探し回っていると草むらに少女と二人の幼い子供が隠れているのを見つけた。少女を欲したフリードヒ分隊長は幼い子供たちから彼女を引き離し、基地まで連れてきたという。


 僕たちは少女を小部屋に監禁して両腕を縄で縛り付けた。さぁ皆で楽しむぞと思った矢先、第七大隊より『遊撃隊が現れたのでただちに出撃せよ』という命令が下った。皆帰ってきたばかりで疲れているが、命令には背けないのでフリードヒ分隊は再び出発して、僕と少女は取り残される。


 小部屋に監禁された少女を僕は四六時中釘付けになったように見つめていた。若い少女の顔の雪のような白さは、薄闇の中でも眩しい。全身垢と土と血だらけの穢れた僕とは対象的に少女の白い身は生気に満ち、輝いて見える。


 死に近づく身体が本能的に少女を欲した。性欲ではなく、少女の中に満ちる生気を吸い尽くして再び生き返りたいという生存本能がそうさせた。


 僕は少女のところへ這っていき、残された僅かな力を振り絞って、彼女を⋯⋯。


 フリードヒ分隊が壊滅したことに気づかないまま、三週間が過ぎた。


 死にかけの僕は、少女に名前を教えた。敵の村の女でも、誰でもいいから、僕という人間のことを覚えておいてほしかった。誰も僕を覚えていないのは、僕が生きたことも死んだこともなかったに等しいから。

 少女は三週間で廃人のようになってしまい、ちゃんと名前を覚えてくれたか不安だった。

 少女が僕を覚えていてくれる限り、僕は彼女の中で生き続ける。

 それは、当時の僕にとって何より幸せなことだった。


 四月半ば。この頃、外では共和国軍の第二期掃討作戦が行われていた。ソゴ山にも共和国軍が侵攻してきて、ある日の朝に基地へ共和国兵たちがやって来た。


 基地の入口の前に立った共和国兵たちは、何か喋りながら僕に銃口を向けた。共和国語なので言っていることはわからないが、降参しろと言っているふうだったので僕は手を上げた。


 その場で殺されるかと思いきや、共和国兵たちは銃を下ろして遠くに声をかけた。数分して衛生兵らしき兵隊が数人来て、僕を担架に乗せて下山した。


 ソゴ山から遠く離れた基地に連れて行かれた僕は、共和国兵たちから手厚い治療を受け、ご飯を腹いっぱい食べさせてもらった。


 共和国軍を心の底から憎んでいた僕だったが、凄まじい空腹に苦しめられていたので、構わず出されたご飯にがっついた。温かい炊きたての米と蕩けた野菜の汁物が美味しくて、胃に優しく沁みて、満足感に涙が溢れた。


 なぜ敵であるあなたたちが僕の怪我を治療し、飯もたらふく食べさせてくれるのか。通訳を通じて共和国兵にそう訊いたところ、彼らは「捕虜は人道的に扱うべしと教えられている」と返した。


 敗残兵を皆殺しにしてきた僕にとっては衝撃的な話だったし、隊長からはそんなこと聞いていなかったので驚きだった。


 こうして僕は共和国兵たちに心を許し、己のしてきたことを『罪』と認識するようになったのだ。



 ◆ ◆ ◆



 時々涙声になりながら、声を振り絞るようにして父は戦争体験を語った。


「⋯⋯捕虜収容所で憲兵隊から尋問を受けた僕は、手当してくれた共和国兵たちへの感謝の気持ちもあり、自分のしてきた悪事を全て吐き出しました。戦争犯罪者と認定された僕はユゴ市の戦犯管理所に移され、そこで自分の犯した罪と日々向き合わさせられたのです。


 それは自殺をしたくなるほど非常に苦しいものでした。罪悪感に押し潰された僕は精神を病み、幻聴、幻覚に苛まれる日々を過ごしました。あまりにも頻繁に自殺未遂をやらかし、夜中は悪夢にうなされるので戦犯管理所の皆さんをかなり困らせてしまいました。


 刑期を終えた僕は出所し帰国した後、両親兄妹の死を知って余計に精神を病み、廃人のようになりました。弟から一緒に暮らそうと誘われましたが、彼は祖父母と暮らしていて彼らの世話で手一杯なので、僕の介護までやらせるわけにはいかず同居は拒みました。


 これ以上誰にも迷惑をかけたくないので、僕は一人で生きることにしました。街をさまよい歩いて浮浪者のように過ごし、ゴミを拾って食べる毎日でした。そんな時、浮浪者支援団体の人に助けられてコンフェシオンコルリスの精神障害施設に入ったのです」


 以上です、と言って父は隣りにいる職員にマイクを手渡した。


 あまりに凄惨で狂った話に、会場には凍てついた空気が流れているようだった。


 黒板の左手隅にいる大佐が重い口を開くように傍聴者たちに訊いた。


「質疑応答に入ります、質問はありますか?」


 誰も手を上げなかった。


 静寂の中、今が父と話せる最後の好機だろうと焦った私は、ゆっくりと手を上げた。


「はい、そこの方どうぞ」


 大佐がこちらへ来てマイクを私に手渡した。私は立ち上がり、緊張で震える唇に力を込めて開いた。


「ネメントさん⋯⋯私の顔が誰かに似ていると思いませんか?」


 他人にとってはふざけたようにしか聞こえない質問に会場がざわつく。


 父の前髪の隙間越しから覗く青い瞳が、訝しげに細められる。


 私は鞄から鉄製の箱を取り出して片手に持ち、父の前へ歩み寄る。


「ロト・ネメントさんが私に言ってました。あなたは自分の姉によく似ているって」


 父の脇に立つ一人の職員が、不審の色を瞳に滲ませながら私に言った。


「何なんですか、あなたは!」


 私は父を睨みながら職員の問いに答えた。


「私は⋯⋯ヤケ村から連れて行かれ監禁された少女がアト・ネメントに犯されて妊娠し、産まれた娘です。だから彼は私の実の父親です」


 私は母がアト・ネメントに犯されて産まれた娘だという告白に、会場のざわめきが一際激しくなる。

 衝撃の事実を受け入れられないというように職員二人は後ずさり、「な、なんですって?」と声を震わせる。


 大佐も理解し難いというように声を上げた。


「な⋯⋯な、何を言っているだね君は!」


 その時、父が静かにしてくれというように片手を上げて周囲を制した。会場が静まり返る。父は私を見上げて、呟いた。


「ジュリア⋯⋯」


 いきなり知らぬ名前で呼ばれ、私は眉をひそめる。


「あなたは僕の亡くなった妹のジュリアとそっくりだ。弟のロトの言うとおりですね」


 父は俯いて苦笑いする。


「そして、僕が虐げたヤケ村のあの娘にもなんだか似ている気がします。毎日のようにあの娘が夢にも幻覚にも出てくるので、彼女の顔はよく覚えています」


 ざまぁないですねとでも皮肉るような彼の微笑に、感情を抑圧していた蓋が吹き飛ぶ。


「父さん⋯⋯あんたのせいで私の母は精神を病んで廃人になり、家族はバラバラになり、私と母はヤケ村で十六年も差別と迫害に遭ってきたの。私は鬼畜の子供と罵られて、学校では毎日いじめられた。⋯⋯全部、あんたのせいよ。あんたのせいで、私の人生はめちゃくちゃになったわ!」


 父がゆっくりと顔を上げた。前髪の隙間が開け、涙に潤んだ青い瞳が私を見つめる。濁っていた目は生気が宿ったように明るさを取り戻し、優しい眼差しになっていた。


「そうか⋯⋯僕は彼女を孕ませてしまっていたのか」


 悲しそうに細められた父の目から、一筋の涙が伝い落ちる。


「あの娘と、子供のあなたにまで、僕は⋯⋯」


 父は片手を目に当てて肩を震わせ、声を押し殺しながら静かに泣き出した。職員二人が慌てたように声を上げる。


「ネメントさん!」


 自分の罪業を悔いるように泣く父の姿を見て、私は確信する。


 彼は鬼畜から普通の人間に戻り、己の罪を悔いるあまり精神を病んでいたのだ。


 今まで心の奥底にまで深く根を張っていた父への憎悪が、意識の水面へ急上昇してきて、理性が吹き飛びそうになるほどの激しい殺意が全身を駆け巡る。

 

「何よ⋯⋯」


 こんなはずじゃなかった。


「善人を気取っているの?」


 父のことをずっと鬼畜だと思っていた。

 母のことなどすっかり忘れていたと思っていた。

 会った時、お前は俺の子じゃないと突っぱねられると思っていた。


 それなのに、それなのに⋯⋯。


「⋯⋯ふざけんなっ!」


 私は鉄箱を開けて中から拳銃を取り出し、握って銃口を父の額に向ける。


 会場のざわめきが、戦慄の悲鳴に変わった。

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