最強のお父さん

真花

最強のお父さん

 娘が生まれた。

 十八時間に及ぶお産に立ち会った高志たかしの体も頭も汗でベトベトになっていた。母子ともに健康で、今日はもう帰っていいと看護師に言われ、荷物をまとめる。

「じゃあ、また明日。お産お疲れ様」

 妻は出し切った顔で小さく頷く。

美雪みゆき、また明日ね」

 美雪はもぞもぞと動いている。高志は柔らかく微笑む。

 外に出ると太陽がごうごうと照り付けて、蝉が割れそうな合唱を響かせていた。徹夜をしたのは学生のとき以来だな、と高志は思う。疲労している筈だった。だが、高い位置に気持ちが固定されて、底流の疲れに視線が届かないかのように、体が軽かった。脂気に滲んでいた体はすぐに新鮮な汗で洗われた。どこかに遊びに行ってもいい。そう考えてから、高志はいや違う、と訂正する。俺は体を休ませなくてはならない。無理にでもひと眠りしないと今後がもたない。高志はラーメンを食べると、真っ直ぐに自宅に帰った。

 妻がいない部屋はいつもより室温が低かった。今日の太陽のように照り付ける自分の中のものを鎮めるために風呂に入った。長風呂をしようとしたが、心臓が強く拍動して、死ぬんじゃないかとすぐに出た。

 布団に入り、目を瞑る。新しく出会った美雪の姿ばかりを思い出す。

「とうとう父親になるのか」

 独り言を宙に放った。

「そうです。おめでとうございます」

 高志は身を縮こませる。心臓が早鐘を打つ。誰だ。この部屋には誰もいない、筈。声は紳士的な響きがした、だが、何者なんだ? 目を開けられない。声が継がれる。

「驚かせてしまいすいません。でも、誰でも驚きます。私は神とか悪魔とか呼ばれる者です。……目を開けても光の珠が浮いているだけですので、そう恐れずに目を開けて下さい」

 高志は勇気を振り絞って目を開けた。声の言った通りに光の珠が浮いている。高志はその光を浴びた途端に、その声が言っていることが本当であると確信した。それは説得力とか疑念を払拭するとかではなく、高志の心の中の構造を光が直接書き換えたようだった。信じさせる力を照射され、印画紙に結像するように自然に当然に、その書き換えは行われた。だが、光は高志の信仰心がないことまでは触れなかった。

「神様が何の用ですか?」

「娘の父親にだけ、超常的なオプションを付ける権利があります。その説明と付けるかどうかの意向を問いに来ました」

「そんなもの聞いたことないです」

「人には言えない仕組みになっていますので。……そのオプションとは、『最強のお父さん』になれると言うものです」

 高志は頭の中で「最強のお父さん」と繰り返してみる。当然、美雪のためにそうでありたい。声は続ける。

「娘さんを助けるときにだけ、最強になれます。無敵です。飛べます。瞬間移動できます」

「それはいいかも知れない」

「宇宙空間でも大丈夫です」

「娘は宇宙には行かないと思いますけど」

「あと、全ての言語を理解出来ます」

「確かに、外人とトラブルになることはあるかも知れません」

「娘さんがピンチのときにテレパシーで娘さんのSOSをキャッチ出来ます」

「それはすごい大事な機能ですね」

「その代わり、使った分だけご自身の寿命を頂きます」

「……だから、悪魔とも言われるんですね」

 光の珠はちょっとだけ黙る。悪魔の成分の方が多いのかも知れない。

「使わなければもちろん、寿命はそのままです。どうしますか? 十秒で決めて下さい」

「もちろんオプション付けます」

 高志は即答した。

「承りました。必要なときに『最強のお父さん』と念じて下さい。終わるときは『普通のお父さん』と念じて下さい。先ほども言ったように口外は出来ない仕組みです。あと、娘さんを助ける以外では当然使えません」

「了解です」

「では、よい育児ライフを」

 光の珠は朧になって消えた。高志は、使う日が来ないのが一番いい、と思いながら寝ようとして、全然眠れず、キッチンに行って水を飲んだ。体が渇いていた。


 美雪はすくすくと育った。生意気なことも言うが、他の子供に意地悪をしたり、嘘をついたりすることのない、真っ直ぐだけど損を少しするような子だった。反抗期に入っても、人の道を踏み外すことはなかった。

 美雪は高校二年生になっていた。

 高志は仕事を終えて家でテレビを見ていた。

綾子あやこ、美雪は?」

「今日は友達と渋谷に行くって言ってたよ」

 美雪が渋谷に行くこと自体は珍しいことではなかった。その時。

――助けて!

 美雪の声が高志の頭の中に響いた。高志は光の珠のことを瞬時に思い出す。でも綾子を心配させる訳にもいかない。

「ちょっとタバコ買いに行くわ」

「はいはい」

 急いで着替えて家から出る。玄関のドアを閉めたら、念じる。

――最強のお父さん!

 見た目は何も変化しなかったが、今の自分なら何でも出来ることが自覚され、すぐに美雪のところへテレポートする。

 出た先にはチーマー風の男が五人立っていた。後ろを振り返ると美雪と友達らしき女子。廃屋のようなところだから拉致されたのだ。

「パパ!?」

 美雪が驚く声を上げる。

「助けに来た」

「何だお前は? これからお楽しみだったのによぉ」

 言いながらチーマーの中でも腕っぷしの強そうな男がにじり寄って来る。男は拳をパンパンと鳴らす。男が威勢よく言葉を継ぐ。

「邪魔すんなよ? どうなるか分かってるよな!」

 言うと同時に高志の顔を殴る。

 が、高志は微動だにしない。

「全く痛くない」

 高志が漏らした心の声に男が侮辱を塗られた顔になり、何度も高志を殴る。高志はゆっくり頷き、右の拳で男をぶん殴った。

 ご。

 と音がして、男は反対側の壁まで吹っ飛び、貼り付けにされたかのように壁にぶち当たると、床に落ちた。

「舐めんなよ!」

 右と左から別の男が二人、ナイフで刺しに来る。高志にはその動きがスローモーションに見える。両手で二つのナイフの刃を掴み、奪う。ナイフを床に捨て、右の男を蹴り、左の男を殴る。二人とも壁まで行く。残りの二人が今度は鉄パイプとチェーンで迫って来る。後ろにいる美雪に当たらないように二つの武器を奪い取り、遠くに投げる。どちらの男にも一撃で十分だった。

 美雪を襲おうとしていた輩は五人とも壁の虫になった。死んだかも知れないが自業自得だ。

「美雪、無事か?」

「パパ、そんなに強かったの?」

 美雪は目に涙を浮かべている。

「今だけな」

 美雪達を逃して、「俺は後始末をするから」と残る。もちろん後始末などない。十五分程度待って、美雪達が十分に遠くに行ったと考えられたら、テレポーテーションで家の玄関の前に戻った。チーマーの生存は確認しなかった。

――普通のお父さん。

玄関から監視カメラのあるコンビニまで行き、たっぷりと顔を映してからタバコを買って、自宅に帰った。

 しばらくして美雪が帰宅した。

「パパ、今日はありがとう」

「もう危ないところには行かないようにしなさい」

「はーい」

 どれくらいの寿命が取られるのかは聞いてないから分からないけど、一生のトラウマになるような事件を防げたのだからそれくらい、どうぞと差し出そう。高志は風呂に浸かりながらそう考え、一人頬が緩むのを抑え切れなかった。


 渋谷の事件から一年後、朝のニュースに高志の一家は凍りついた。

『NASAの発表によりますと、小惑星が軌道を変え、地球に衝突するとのことです。なおこの小惑星はサタンと名付けられました。衝突の予定は半年後になります。皆さん、落ち着いて行動して下さい。次に、首相の談話です――』

「パパ、私達、あと半年で死ぬの?」

 美雪が定まらない視線で問う。綾子も不安げな顔をしている。高志は、あはは、と笑う。

「半年もあれば何か対策をするよ、人類は。大事なのは日常を捨てないことだよ」

「でも、パパ」

「だから、今日も学校に行きなさい。パパも働く。パパの出来ることをする」

 美雪は、しばらく黙ってから、分かった、投げない、と言って食卓を立った。高志も立ち上がり、出発の準備をする。玄関にいる美雪を呼び止める。

「美雪。俺はお前を愛している。誰よりも」

「知ってる」

「何があってもだ」

「パパ。私もパパのこと愛しているよ。……行ってきます」

 玄関のドアが閉まって、バタンと言う音がする。高志は自分の部屋に行く。持ち物は何もいらない。

――最強のお父さん。

 宇宙も大丈夫だって神様は言っていた。テレポーテーションでサタンの上に行く。小惑星と言うけど、広大だ。

「これを壊せばいい」

 高志は拳を突き立てる。だが何の反応もない。

 何度も突き立てる。サタンは何も言わない。

 それでも、拳で何度もサタンを叩く。影響があるとは思えない。

 だが、高志は諦めない。叩いて、叩いて、息は切れないけど、「最強のお父さん」なら何とか出来ると思っていたことが間違いだったとじわじわと心が侵食されてゆく。

 叩く。

 一回ごとに自信がかげる。

 無意味なことをしているんじゃないかと思えて来る。

 叩く。

 サタンと比べて自分が小さ過ぎる。

 このままでは地球が、いや、地球に生きている娘が助からない。

 全ての寿命を使い切っていい。だから、このサタンを壊してくれ。

 叩く。

 サタンは何も言わない。

 拳の形に少しだけ、へこんだだけだった。

 だめだ。

 俺にはサタンを止められない。

「ちくしょう」

 言いながら叩く。

「ちくしょう」

 宇宙空間だから音にならない、それがサタンに嘲笑われているように感じる。

「ちくしょう」

 涙が出て来た。

 もうどうしようもない。

 涙が氷の結晶になる。

 もうどうしようもない。

 叩く。

 その姿のまま、高志は動くことが出来なくなった。


 ぽん、と肩を叩かれる。振り返ると知らない男が立っている。

――君も、「最強のお父さん」だね? 僕もだ。

 テレパシーで入って来る言葉は知らない言語だったが、理解出来た。男は続ける。

――僕達もだ!

 男の後ろには満天の星のように、男達が群れをなして迫っていた。

――君が一番乗りだった。だけど、皆気持ちは一緒だ!

 男達が、いや、父親達がサタンに群がる。

 高志は父親達を見て、自分の拳を見て、もう一度最強の父親達を見て、頷く。


 テレビからニュースが流れている。

『小惑星サタンは軌道を変え、地球との衝突はまぬがれました。……次のニュースです。世界各国で失踪者が相次いでいます――』

 麦茶のコップの氷がカランと音を立てる。美雪は高志を近くに感じた。


(了)

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