春にさよなら・下

 アキによるハルへの暴行事件の翌日、「four🍀seasons」は解散となった。ハルを中心に売り出そうとしていたマネージャーの怒りを買ったのである。おれ、アキ、フユはハルに対して接触禁止令を出され、事務所への出入りも禁じられた。実質的にアイドル養成所を首になったようなものだ。

 ハルはマネージャーに対して、「ナツは悪くない」と言ってくれたようだが焼け石に水だった。元々「four🍀seasons」はアキの言う通り、ハルを売り込むための手段に過ぎなかったのだ。事件の直後にハルの単独デビューが決まり、「桜田春樹」という芸名でタレント活動を行っていくことが発表された。俺は母が購読していた芸能雑誌を読み、そのことを知った。


 事件の日以来、ハルとは会っていない。

 毎日事務所に行けば会える存在だったから、あえて連絡先も交換していなかったことが仇となった。おれはハルとの一切のかかわりの手段を絶たれてしまったのである。おれをアイドルにしたかった母は他の事務所への入所を勧めてきたが、おれは気が進まなかった。ハルと一緒に活動することに意味があったのだ。ハルがいない場所で、おれひとりで頑張れるとは到底思えない。

 幸い、勉強は嫌いではなかったから事務所脱退後は勉強に打ち込んだ。おかげで成績は学校でも上位の方で、父には海外留学を勧められた。「日本にいるよりレベルの高い勉強ができる」という言葉に嘘はないだろうが、芸能界に対する母の未練を断ち切らせたいという思いが透けて見えている。とっくの昔にアイドルを諦めていたおれとは違い、母はまだ芸能雑誌を買いあさり、オーディションの記事を切り抜いてはおれの机の上に置いていたから。


 渋る母を何とか説得した父は、彼女の気が変わらないうちにと俺に早期留学を勧めてきた。五月という中途半端な時期にはなるが、イギリスでホームステイをしながら語学の勉強をして、九月の入学に備えるのも悪くない。何より、アイドル雑誌を血眼になって読み漁る母の姿が痛々しかった。ハルが活躍している記事を見つけるたびに「この子さえいなければ……」と呪詛のように呟いているのも見ていられなかった。


 イギリスに旅立つ三日前。ふと、あの桜の木はどうなっているのだろうと思い出した。ハルと背比べをした、寂れた公園の端にある桜の木。おれが事務所を退所してからは行くことも無くなっていたけれど、あそこはハルの通り道だ。彼の痕跡を感じられるかもしれない。

 ――ハルに、会いにいこう――

 おれは自分自身がアイドルになれなかったことに対しては未練がないが、ハルに対してはそんなことはない。活躍の場をどんどん広げている彼に接触することはできないけれど、桜の木を見に行くくらいならいいだろう。そう思い立ち家を出た。


 寂れた公園はいまも無人で存在していた。桜の木も端のほうに見える。いつ来ても誰も遊んでいる様子がないのだが、さりとて取り壊される気配もない。おれが来る時間が悪いだけなのだろうか。そんなことを思いながら奥にある桜の木へと近づいていった。すっかり花が散り葉桜になったその幹には、真っすぐ引かれた線がいくつもついている。

 ――やっぱり、ハルは定期的にここに来ていたんだな――

 おれはハルの背が刻まれた跡をなぞる。線はわずかではあるが少しずつ上に伸びて、最後におれがつけた傷よりもほんの数センチだけ下にあった。

 肩に担いでいたリュックサックをおろし、筆箱の中を漁る。中から探り当てた定規を持って、木にもたれかかった。自分の頭の上に定規を強く押し当ててから、振り返る。わずかにできた凹みを広げるように、雑に傷をつけていく。


 なぜ急にそんな行動をとろうとしたのかは、自分でもよくわからない。ただ、このままだとかつてのおれの身長はハルに抜かされてしまうな、と思ったのだ。おれもこの数年でまた背が伸びているので、そんなことはない、と示したかったのかもしれない。

 ハルよりだいぶ乱暴に引かれた線は、ハルの最後の線よりも十センチほど上にあった。その二つの線を見比べて、おれは満足して頷く。

「ぼく、ひとりぼっちにならない?」

 突然ハルの声が聞こえた気がして、おれはハルがつけた線に触れた。寂しがりやなハルは、おれたちがいなくなってまたひとりぼっちになってしまった。きっと辛かっただろう。子犬のような目でおれを見上げてきた日のことを思い出す。

「大丈夫だ。ハルはもうひとりぼっちなんかじゃない。ここに、おれがいた証がある。今つけた傷は、おれがハルの味方である証だ」

 小声でつぶやいてゆっくりと線をなぞる。次にハルがここにきたとき、横にできた新しい傷に気が付くだろうか。目ざとい彼のことだ、きっと気づくに違いない。そして、それが誰の仕業かも。であればもはや、おれに思い残すことはない。

「さようなら、ハル」

 おれは桜に背を向けて、公園の出口へと向かう。桜の葉が生み出す木漏れ日が、おれを見送ってくれているかのように揺れていた。

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春にさよなら 水涸 木犀 @yuno_05

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