エピローグ
まだ浅い春の光が、窓から差し込んでいた。
窓の向こうに見える植木は、花の蕾が膨らみはじめている。半島は芽吹きの季節を迎えようとしていた。
冬の間は閑散としていた第一師団の司令部庁舎も、かつてのせわしなさを取り戻しつつある。物々しさは薄れた。警備の人数はもとに戻り、殺気立った伝令や不安げに囁きあう将校たちの姿も見えない。依然として忙しくはあるが、反攻作戦の成功は、司令部内の空気を以前の姿に戻していた。
その庁舎の片隅、独立図書館連隊の連隊長室に、三人はいた。
「除隊願い、受理していただきありがとうございます」
イアンはそう言って頭を下げた。
軍服ではなく、三つ揃いの背広姿だ。部屋のコート掛けには、色を合わせた中折れ帽とトレンチコートがかけてある。
「無理かと思ってましたよ。まだ戦争が終わったわけじゃなし」
「とは言え、状況は変わったからね」
連隊長席のランダ中佐が言った。
「反攻作戦は成功し、帝国軍は我が領土から駆逐された。首相選も現職が続投だ。今後は同盟国の義務としての国外派兵が任務となる。まずは一区切り、といっていいだろう」
視線を上げ、イアンの腕のあたりを見る。
「怪我はもういいのかね」
「ええ。大した傷じゃなかったそうです…恐ろしく痛かったんですがね」
「そんなものだよ」
椅子に背を預け、続ける。
「しかし、君のように優秀な将校を、みすみす退役させるのは損失だと思うね」
「兵隊文庫はもう、俺がいなくても回ります」
イアンの退役に伴い、陸軍新聞の編集部に努めていた大尉が転属され、九〇一中隊の新たな指揮官になっていた。引き継ぎも終わり、中隊はすでに新体制で動きはじめている。
「ヤーヒムさんもいますし、クルハンコヴァ女史やヒネク社長も変わらず協力してくれてます。心配することはありませんよ」
ランダ中佐は満足げにうなずく。
「じつは、私も連隊長の任を離れることになった」
イアンが驚いた顔をする。
「急ですね」
「諜報部に復帰が決まった。欺瞞と謀略の世界に逆戻りさ」
皮肉な笑みを口元に浮かべる。
「自分の業というものからは、そうそう逃げられないということだな。望むところではあるが」
「ご苦労さまです」
「君はどうだね。納得のいく道を見つけたか」
イアンは小さく笑った。
「そのつもりでいますが、まあ、やってみないことにはね」
「君なら上手くやるだろう。まったくもって惜しいと思うよ」
「ひょっとして、俺を諜報部に引き込もうなんて思ってます?」
眉をしかめるイアンを、中佐は面白そうに眺める。
「そう聞こえたかな?」
「いやね、二、三人から言われたんですよ。俺が諜報部に向いてるんじゃないかって」
脇に立つカルラをじろりと見る。そしらぬ顔だ。
中佐が珍しく、くつくつと笑った。
「安心したまえ。そんな、君を侮辱するようなことは言わんよ」
やれやれ、という顔のイアンを眺めて、中佐は笑いを納める。
「…君はあの時言ったな。あんたの戦争、あんたのエゴだと」
わずかに低い声で、中佐はつぶやくように言った。
「君たちは任務に、兵隊文庫に対して真摯だった。その理念を信じていた。君があの時怒ったのは、私が私のエゴに、業に、君たちの信念を巻き込み、利用したからだろう。ただ殺人の道具として」
青い熾火のような目が、イアンを射抜く。
「まだ、私が憎いかね?」
イアンは顎を撫で、考える。やがて、言葉を選びながら口を開いた。
「正直ね、中佐のやったことは、今でも気に入りませんよ。でも軍隊にいる限りは、いくら気に入らないと喚いたところで、なんにもならないでしょう。戦争に勝つことが最優先だ。そりゃ仕方がない。でも誰かが覚えていて、こんな事があったんだぞ、と言う必要はある。戦争の後にでもね。どうも俺は結局、そっち側のほうが性に合いそうだと思ったんですよ」
中佐がゆっくりと頷く。
「それが、君の次の戦争というわけだ」
「戦争なんかするつもりはありません。仕事ですよ」
イアンが肩をすくめた。
中佐が椅子から立ち上がり、イアンに手を差し伸べた。
「イアン・プロヴァズニーク大尉。貴官の陸軍に対する忠誠と献身に、最大限の感謝を表する」
「恐縮であります」
イアンがその手を握る。一つしかない中佐の手が、力強く握り返した。
「君たちに出会えてよかった。本心からね。信じてもらえるかはわからないが」
「さて、どうですかね」
軽口で答えて笑う。そのまま、隣のカルラに手を伸ばした。
「君もありがとう、中尉。世話になりっぱなしだったな」
「もったいないお言葉です」
しなやかで優美な手が、イアンの手を握り返した。口元を吊り上げて、一言添える。
「ラティーカと仲良くな」
カルラが目を丸くして固まった。金色の瞳が左右に泳ぐ。
「それは、どういった意味でしょうか」
「べつに、言葉通りさ。じゃあな」
なにか言いたげなカルラを背にして、コートを羽織り、帽子を頭に乗せる。
ふと、なにかを思い出したように振り返り、中佐に向かって口を開いた。
「戦争が終わったら、あなたを告発する記事を書きますよ」
中佐は笑った。今までに見せたことのない、穏やかな、心から安心したような笑顔だった。
「陸軍文書の機密解除は五十年後だ。私は無理だろうが、君には是非やり遂げてほしい」
イアンが苦笑する。帽子を持ち上げて一礼し、二人の兵士に見送られて部屋を出ていった。
「イアンさん!」
階段を降りきったところで、唐突に声をかけられた。
大きな鞄を持ったラティーカが向かってくる。外回りの帰りだろう。
「おう、お疲れさん」
「今日、来てたんですか?言ってくれればよかったのに」
肩にかけた鞄をゆすり上げて言う。
「顔出していってくださいよ」
「いいよ。送別会はもうやったんだし。仕事の邪魔だろ」
ラティーカが苦笑し、変わりませんねえ、と言った。
「どうだ、新しい上官は」
「前ほどこき使われてはいませんから、ご心配なく」
「そりゃ何よりだ」
「…そういえば」
イアンの顔を覗き込んで尋ねる。
「送別会で聞きそびれちゃったんですけど、イアンさん、次の仕事は決まってるんですか?」
「あれ?言ってなかったか」
そう言いながら、スーツの内ポケットをまさぐる。封筒を取り出して、中の書類をラティーカに渡した。
「ほれ」
「なんですこれ…内定書類?え、『共和日報』?」
「これでも新聞記者さまだぜ。新入りだけどな」
「いや、でもこれ」
思わず声が大きくなる。
「ご実家のライバル紙じゃないですか!」
「面白いだろ?」
イアンは笑っている。自分の冗談に絶対の自信があるような笑い方だ。ラティーカは心底呆れかえった。
返された書類を封筒に戻しながら言う。
「お前さんはあと一年だな。まあ、今回みたいな目にはもう遭わないだろうから、ゆっくりやるといいよ」
「あんなことが何度もあったらたまりませんよ」
「教師になるってのは、もう決めたのか」
ラティーカは笑顔で、ええ、と答えた。
「ミルシュカさんから、いろいろ話を聞いたりしてます。まあ何にせよ、まず大学に受からなきゃいけないんですけど…」
「なんとかなるさ。推薦状も出るんだし」
「だといいんですけど」
封筒をポケットに入れて、イアンはさて、とつぶやいた。
「じゃ、俺はそろそろ行くよ」
「…お疲れ様でした、ほんとに」
居住まいを正して、ラティーカはイアンの前に立った。
「いろいろ、とんでもない目に遭いましたけど…それでもこの一年、いろんなことを学んだような気がします」
「別に俺のおかげじゃないさ」
「それでも。一緒にやってきた仲間ですから」
イアンは照れくさそうに眉をしかめた。ラティーカが笑う。
「それじゃ、お気をつけて。また会いましょう」
「ああ。それじゃあな」
コートの裾を翻して、イアンは正門の方に歩いていく。
それを見送って、ラティーカは足早に中隊本部へと向かっていった。
庁舎を出て、早春の街を歩いていく。
街のあちこちには、使われなかった防空壕がそのままになっている。あの帝国軍の捕虜に殴られた場所を通りがかった。子供が数人、遊び場にしていた。
通り過ぎ、歩く。日差しは眩しく、絶好の散歩日和だ。
本屋の前を通りがかって、ふと足を止めた。新刊の発売を知らせる大きなポスターが貼り出されている。
ヴィクトル・ユラーセクの新作だった。
イアンは店に入り、平積みにされた一冊を手に取る。思わず笑みがこぼれた。
そのまま店の奥に入って、声をかける。
「これ、一冊ください」
独立図書館連隊戦塵記 浦河蟋蟀 @Grille
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