春にさよなら

邑楽 じゅん

春にさよなら

 東京から離れたある地方の里。

 急峻な山が周囲を覆い、田畑ばかりが広がる代わり映えの無い景色。


 少女・ナツは中身を満載したスーツケースに足取りをおぼつかせながらも、舗装されていない畦道を歩いていた。

 生まれ育ったこの村を発つためにはあまりにも大きくて重たい荷物。

 その手に掛かる重量は自分が行く先の視界が開けていないという不安も起因していたせいかもしれない。



「ほら、あたしの方がやっぱり背が高いもんね。ハルはいつまでたってもチビだね」

 そう言って、幼少のナツは得意げに鼻を鳴らした。

 それを聞いたハルはいつも決まって頬を膨らませながらこう言う。

「もっと大きくなったらあたしの方がゼッタイに背が大きくなるんだから!」


 幼馴染のハルとは同じ集落で育った同い年の仲良しだった。

 ただしハルは少しばかり大きな家で育った。この地域では有名な豪農の孫娘だ。

 女の子だから汗水たらして天候に左右されるような畑仕事ではなく輝かしい未来を開いて欲しい、と両親や祖父母は彼女にヴァイオリンを習わせていた。

 いつかは芸術の道で花開いて欲しいと願って。



 欲しいものは欲しいままに与えられて、何不自由ない生活を送るハルに対してナツは微かな嫉妬を覚えない訳では無い。しかしそれはハルも同様であった。

 躾と称して全てを両親や祖父母の意のままに行う日々に閉塞感を覚え、自由を謳歌するナツがうらやましくもあった。

 互いの境遇を憂い合ううちに意気投合した彼女達は、わずかな時間を見つけては共に集落のあちこちに出掛けて遊ぶようになった。

 しかし、ナツは決まって背比べをして、ハルを出し抜いては笑う。

 そう。自分にとってハルは本来交わるはずもない家系の相手。

 本当にただひとつ、背比べだけで彼女に勝つことが幼心に留飲を下げていた想いがあった。


 ある日、桜の木登りをし始めたナツを追いかけるようにハルが短い手足を必死に伸ばして枝木をよじ登った際にバランスを崩して地面に落ちてしまった。

 幸いにも手首は捻挫で済んだものの、彼女は痛々しい包帯を巻いていた。


 そして恐ろしい剣幕で彼女の両親や祖父母と共にナツの家にやって来た。

 うちの子に何かあったらどうしてくれるんだ。

 お宅の子のように奔放に育てているなんて恥ずかしい事だ――と。


 そこからナツはハルを避けるようになっていった。

 彼女に悪かったという想いも多少は無い訳ではない。

 でもこの狭い集落の中では、豪農であり地域の顔役であるハルの祖父の意見が全て通ってしまう。

 心から申し訳なさそうにして謝罪する両親の顔を見て自分はそれほどの罪を犯したのかと自問したし、たかが子供同士の遊びの結果ケガをしたことに、オトナが口論して必死にぺこぺこと頭を下げる両親には若干の失望を禁じ得なかった。

 加えてそれ以来、集落で肩身の狭い想いをする両親を慮り、ナツはハルとの距離を徐々に広げていった。

 それは桜の葉も散り、夏も終わろうとする、ある年の秋の出来事だった。

 ハルとナツが終わった後は、間もなくに迫る寒風吹きすさぶ冬の到来であった。



 ほどなくしてナツは、ハルがヴァイオリン留学のために海外に向かう事を知らされた。だがそれは親の海外赴任に伴うといった留学ではない。

 祖父から地元県議の力を借りてアメリカのインデペンデント・スクール、すなわち私立小学校へ留学することとなった。そこで著名なヴァイオリニストに師事して薫陶を受けるという未来を用意されていた。


 ナツは久しぶりにハルに呼び出されて丘の上にある地蔵のそばの桜の木にやってきた。そこにはヴァイオリンケースを抱えたまま、伏し目がちにうつむくハルの姿があった。

「あたし、アメリカなんか行きたくないな……」

「なんで? せっかくなんだから行けばいいのに」

「ホントはヴァイオリンも楽しくない……もっとこの村に居たいのに」


 それを聞いたナツは苦々しく歯をくいしばる。

 これだけ贅沢な状況で、全てをお膳立てされる環境にありながら、何の不満を漏らすというのだろうか。

 自分は何も与えられない、何者でもない、ただ片田舎の普通の家の生まれで、勉強も趣味も暮らし向きも全てハルより劣っていて、ただひとつ勝てるとすれば背比べなのに、それ以上の我儘が許される状況で嫌がるなんて――。


「ハルのいくじなし! だったらヴァイオリンも留学もぜんぶイヤだって言えばいいのに、自分じゃなにもできないんだもん! だからチビで臆病なんだよ!」

 悪態をついたナツはハルの姿を振り返りもせず自転車を漕いで、自宅へと戻っていった。

 山合いの集落に晩秋が到来すると、桜の木も集落の森も次第に葉を落としていく。

 日ごとに散り積もる枯葉は届けられた季節からの一葉の便りのようで、冬はすぐそこにあるというのは村の誰もがわかっていた。



 それから時間を経た雪どけ間近の山々。

 遠望には切り立った山脈に冠雪が見えるものの、あちこちに春の息吹を感じられる穏やかな日の午後だった。

 喪服に身を包む幼いナツは、桜の木の下で両膝を抱えて泣いていた。

 幼馴染である友・ハルの葬儀への参列を終えて、両親と別れた後にひとりでここにやってきた。

 もう彼女は居ない。

 ここにやって来ることも無い。

 アメリカ留学もヴァイオリンでの成功も叶わぬまま、短い人生を終えた。

 それは春の訪れと共に咲き誇っては散り去っていく可憐な桜の花弁のごとく。


 そう思う程に過去に自分が吐いた言葉が自身の胸を抉り、どれだけ贖罪を抱いても拭いきれない程にとめどなく落涙する。

 なんとなくぎくしゃくして、すきま風が吹く関係となったままハルとお別れになってしまったことに、ナツは呵責の念に駆られていた。

 本当は背比べなんて関係なかった。

 ずっとハルと一緒にここに居るのが楽しいはずだったのに。

 それはもはや叶わない日々。


 集落の小高い丘の上には地蔵が祀られている。

 そのそばで寄り添うように逞しく生きる樹齢が百年近い桜の木。

 春になれば桜吹雪を舞い散らせ、冬になれば辺りが雪に覆われた白銀の世界の中でも、葉を全て落としたみすぼらしい姿で懸命に屹立している。

 ナツは溢れる涙を拭くことも忘れて、過去に自分達が付けた背比べの傷跡を見ていた。もう比べる相手は居ない。

 この地方の山村には遅い春を告げる桜の満開の木の下で、一緒に樹皮を削っていた友の姿を想い、ナツは山々に木霊するかの声で慟哭した。



 それから十余年。

 早くも鳴き始めた気の早い蝉の声に誘われて、ナツは桜のそばにやってきた。

 ややくたびれた幹を覆うひび割れた樹皮が、その桜の木が重ねてきた幾重もの年輪を物語っていた。

 こうして里の多くの人々を見守り、また桜と共に育って桜よりも前に散っていった人の命の儚さや息遣いまでもが感じられるようであり、今となっては潔く散る桜の姿は立派ではあるが、なんとなく名残惜しさや後ろ髪を引かれる想いが重なる自分を、叱責されているようにも感じる。

 そんな想いを寄せながら、ナツは樹の幹をそっと撫でた。

 そこには水平に樹皮を削ったいくつもの切り傷がある。

 ナツとハル、二人の幼馴染が幼少の頃に背丈を比べあった痕だ。


 自分にはヴァイオリンやピアノのような音楽的な素養はない。

 人生において自分が何者で、自分が何を為せるかも分からないが、せめてこの世に生を得てこうして生かされているうちは、その意味を少しでも知りたい。

 ナツは必死に貯めた資金をもとに、アメリカに語学留学することにした。

 ハルが見られなかった景色を自分がしっかりと受け止めたい、と。


 丘の上に立つ桜の木はもうとっくに花が散り、大きく伸びた枝を覆うように青々とした緑の葉がナツの姿を太陽から隠す。

 時折ふっと流れる山おろしの風は少しだけひんやりと感じて、とても夏がすぐ近くまでやって来ているなんて思えない程であった。


 ナツは愛おしそうに過去の背比べの傷跡を見ると、小石を握って今の自分の頭頂部に沿って印をつけた。

 もうとっくに亡くなったハルの痕からは倍近い距離になっている。

 それを見ているうちにナツの目から幾重もの涙が溢れてくる。



 当たり前だけど、桜もう散っちゃったね。

 そうだよね、春はもうとっくに終わったんだよね。

 ハルとの思い出もホントに桜みたいに、あっという間に終わっちゃったね。

 でもこれからきっと立派な花が咲くと思うよ。

――そう、目を瞑ればいつだって。

 毎年、毎年、決まって必ず咲くんだから。




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