人妻ってそそる響きだよな。

 五月。

 晴れ渡った気持ち良い空に、ちゅんちゅん、すずめが飛ぶ。

 卯団うのだん広庭ひろにわからは、少し遠くの原っぱにの花が白い可憐な花を咲かせているのが見えた。

 風がそよ、と甘く香る

 今日は、十日に一回の休みの日だ。


「んんっ、ん〜!」


 オレは、気持ち良く伸びをした。

 自分の衣を洗濯し、衛士舎えじしゃの近くに干し終えたところだ。


 今はたつこく。(朝7〜9時。)


 さてと。休みのヤツがやる事がある。卯団が所有を許されている、小さな畑の世話だ。

 まあ、昼餉ひるげ夕餉ゆうげ炊屋かしきやから運ばれてくるんだから、それのいろどり用だ。

 なので、小さい。そう、すぐ終わるさ。


 オレはそう言い聞かせ、衛士舎えじしゃの裏手、少し離れた畑にむかう。


 そして知った。

 良き行いに勤勉に励む若者には天の恵みがある事を。


古志加こじかじゃねぇか!)


 卯団の畑の、くわの木の根本に上半身を寄りかからせ、地面に腰をおろした卯団長うのだんちょうの妻が、一人で寝てる。

 いつもの濃藍こきあい衣じゃない。

 躑躅つつじ色の衣を着ている。

 髪型は変わり美豆良みずら───左上に一つ、大きく牡丹ぼたんの花のように美豆良みずらをふっくら膨らませて作り、赤く透けた細工の良いかんざしを挿している。

 残りの髪は複雜に編みながら一本の紐のようにたばね、右肩から胸下までらしている。

 穏やかな顔で、すやすやと寝ている。

 薄く紅の化粧も施しているようだ。

 耳には紅い貴石が光る。

 つまりすごく色っぽい。

 大人のおみなってやつだ。


(こんな処で何してるんだよ。)


 しかもそんな、隙だらけでさ。

 いいい、良いのかああ?


 オレは足音を消して、いそいそと近づく。


 なあ、オレは見た事ない、あんたのつま

 オレの上司だけどさ。

 あんたを妻として、そう時間のたたないうちに、奈良に行っちまったんだろ?

 三月からずっと奈良で、帰ってくるの、おそらく十二月なんだろ?

 つまり、今は、結婚したばかりのにこくさ(やわらかい若草)の妻で、しかも。

 ずっとおのこに抱かれてないんだろ。

 寂しくねぇ?


 オレなら、ここにいるよ。

 奈良にいるあんたのつまより、あんたを、満足させてやれるよ。

 別に恋してほしいとか、あんたの心が欲しいとか、そこまで言わない。

 あんたのつまがいない間だけの、慰めでかまわない。

 オレ、あんたの為なら、すごく、頑張っちゃうよ。


 どうしよう。普通は、さは夜、月が出てからだ。

 今は相応ふさわしい時間じゃない。

 でも、この隙だらけの天の恵みの時間。

 オレはどうしよう。


 と息をひそめつつ、古志加に近づいていると、ガザザザザ! と後ろから物凄い勢いで足音がせまり、あっ、と振り向こうとしたら、首に前腕の猛撃をうけ、オレは横っ飛びに吹っ飛んだ。


「ぎゃっふ!」


 オレは右耳から柔らかい土に着地した。


伊奴いぬ。………。」


 青筋立てながら無言で睨むのは止めてもらえますか! 阿古麻呂あこまろ


「ひでぇっすよ。」


 オレは泣き言を言う。そうだ、阿古麻呂も今日は休みだった。


「あ、ん?」


 眠りの佳人かほよきおみなは可愛い声をだして目を覚ました。目をこしこしこする。手には土がついている。


「ん? どうしたの?」


 とオレと阿古麻呂あこまろに訊く。


「どうしたのじゃないですよ。こんな処で。お付きの福益売ふくますめはどうしたんです。」


 垂れ目で優しい顔立ちの阿古麻呂あこまろが、若干厳しい声で問い返す。


福益売ふくますめはおつかいを頼んでるよ。

 今日はさ、良い天気だし、なんだか、卯団の畑の土がいじりたくなっちゃってさ。気持ち良くいじってたら、ちょっと一眠りしたくなっちゃって。

 あるじゃん? そういう事、誰でもあるじゃん?」


「ないです。」


 オレと阿古麻呂あこまろの声がかぶった。

 古志加こじかは、う、と肩をすくめた。

 阿古麻呂が進みでて、古志加が立ち上がるのに手を貸す。

 差し出された手をとった古志加は、


「ありがとう。」


 と阿古麻呂に花のような微笑みをむけて立ちあがった。

 オレは地面にあぐらをかき、思う。

 ずるくね?


「古志加!」


 古志加のはたらである福益売ふくますめが、手に葛籠つづらを持ってやってきた。


「ほら、持ってきましたよ、古志加。」

「わあい! ありがとう! 中身はなあに?」


 古志加が嬉しそうに尋ねる。


うりと、塩にぎり飯です。なんと、粉酒こなさけも用意してきましたよ!」

「きゃはあ! やったあ!」


 古志加がぴょんと飛び跳ねた。

 阿古麻呂の視線に気がついて、頬を赤らめて、


「お腹へってさ。昼餉ひるげの時間じゃないけど、屋敷から何か持ってきて、ここで食べたい、って福益売にお願いしちゃったの。」


 とモジモジ恥ずかしそうに言った。

 この人妻。この歳のくせに、可愛いすぎないか。


「ねえ! 時間があるなら、皆で一緒に食べようよ! 福益売、大丈夫?」

「ええ、握り飯は四つ作ってきましたし、瓜は大きいのを持ってきました。つきは二つですけど。」


 おみな二人は和やかに笑いあいながら、ご馳走を提案してくれる。


つきなら持ってくる。伊奴いぬが。」


 じろっと阿古麻呂がオレを見る。

 はいはい、わかりましたよ。


 衛士舎に引き返すオレは、背中で会話を聞く。

 福益売が、


「阿古麻呂と、あの衛士はどうしてここにいたんです?」


 と尋ね、


「なんでもないよ。」


 と古志加が明るく答えている。


 そう、なんでもない。

 なんでもなくて、良かったです。


 もしさっき、出来心のままに動いていたら、オレはあとから駆けつけた阿古麻呂あこまろに見つかり、身の破滅だったろう。そんなの御免だ。


 ではスッパリ、古志加の事は考えないか、というと、この人妻。躑躅つつじ色に色づいて美しすぎるんだよな。

 夜は寂しいはずだ。もう、本人が何も言わなくたって、状況がそうだろう。

 良いお誘いがあったりしないものか。

 オレの身の破滅は避けつつ、甘い夜を過ごしてみたい。

 そしたらオレは頑張って……。

 おあああ。悩ましい。

 

 



 そして、オレはそんな考えは口にできるはずもなく。

 有り難く、この天の恵みたるご馳走を、うららかな五月の日差しのもと、畑の切り株に腰掛け、四人で頂戴した、というわけさ。




   *   *   *




 あの頃はまだ、十二月に上野国かみつけののくにに帰国した怖ーいつまに会った古志加の、恋するおみなの顔を見て、


 ───ああ、こりゃあ、駄目だぁ。


 と変な妄想はガックリ諦める事になるとは、露ほども思ってなかったな。





   ───完───







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悩ましけ 〜伊奴の煩悩〜 加須 千花 @moonpost18

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