悩ましけ 〜伊奴の煩悩〜

加須 千花

綺麗な人妻だなあ。

 なやましけ  人妻ひとづまかもよ


 ぐ舟の  忘れはせなな


 いやおもすに




 奈夜麻思家なやましけ  比登都麻可母与ひとつまかもよ

 許具布弥能こぐふねの  和須礼波勢奈那わすれはせなな

 伊夜母比麻須尓いやおもひますに



 悩ましい人妻だなあ。

 漕ぎ去って行く舟のように忘れ去る事ができないおみな

 いやいや、思いが増す一方だ。





    万葉集  作者不詳




   *   *   *




 奈良時代。

 上野国かみつけののくに


 オレは伊奴いぬ。十六歳だ。

 おっと、伊奴いぬって言ってもな。動物の名前をつけるのなんて、ありふれてるからな。普通。

 母刀自ははとじ(母親)に、


「あんたは犬顔いぬがお。もう赤ちゃんの頃から、こうなるとは分かってた。」


 と冷たく言われたけど、母刀自よ。

 そりゃないぜ! たしかに親父も犬顔だけどよ。

 まあ、それはどうだって良い。


 オレは今年の春から、上毛野衛士卯団かみつけののえじうのだんの、見習い衛士えじとなる事ができた!


 まだろくは出ないが、衣食住に困る事はないし、一年経って、正式な衛士えじになれたら、ろくもでる。豊作、凶作、関係なくだ!

 まさしく人生安泰。


 朝の、群馬群くるまのこほりの見回り、午前中、午後の上毛野君かみつけののきみの屋敷の警邏けいら、馬の世話、見習いとしての下働き、みっちりとした武芸の稽古もある毎日だが、オレの人生は希望に満ちている。


 衛士になれただけで。


 そう思っていた。

 出会ってしまうまでは。


 衛士の午前中の稽古の時間に、ひょっこりそのおみなは現れ、衛士の剣の稽古に参加した。

 衛士の濃藍衣こきあいころも。ただし、そばで見ると、細かな紫の花の刺繍がしてある。

 そんな衣を着たヤツは他にいない。


 しかも美女。佳人かほよきおみな

 目が大きくて、キラキラ輝いてるようだった。すっと通った鼻梁。小作りで赤い、可愛いらしい唇。


 化粧はしてない、髪型も後頭部で一本に結っただけ。なのに、すごく色っぽいんだよ。目立つ。


 で、おみななのに、きちんと強かった。


(え、手合わせになるかな?)


 オレはまだ真剣は持たせてもらえない。

 木の棒を持ちながら、ちらっ、ちらっ、とそのおみなの方を見ていると、ズドーン! と脳天に衛士の薩人さつひとの木の棒が落ちた。


「いってぇぇぇ!」


 たんこぶできるわ! と涙目で頭をおさえると、


伊奴いぬ。よそ見。」


 と薩人さつひとに怖い目で睨まれた。

 あれ? この人、いつも笑ってて、けっこう気安い印象だったんだけど、と思いつつ、好奇心に負けて、


「誰ですか、あの人。」


 とキレの良い動きで真剣をふるうおみなを顎でしゃくった。

 薩人さつひとはますます怖い顔になり、


「顎をしゃくるな。あんま見るな。あれは、今は奈良にいる我らが卯団長うのだんちょう三虎みとらいも。妻だよ。」


 と冷たい口調で言った。

 ワーホーイ! なんと卯団長うのだんちょうの妻かよ。

 ───あ、ちなみにだな。いもは運命のおみなという意味。血のつながった同母妹いもうととは違うぜ───。

 オレは薩人さつひとの射るような目線に背筋が伸びた。


 その後、卯団大志うのだんのたいし荒弓あらゆみが、きちんとその人妻、古志加こじかを新入りの皆に紹介してくれた。


「よろしくね。」


 人妻、古志加こじかはそうにっこり笑って、オレを見た。

 笑うと印象が明るくなり、ますます、可愛くなった。

 うっ。人妻に可愛く、なんて、マズイ。

 マズイぞお。そう思いつつ、しげしげと観察をしてしまう。よく日焼けしている。でも、肌自体は綺麗だ。艶がある肌。

 歳はいくつなんだろうなあ。十九歳?


「いや、二十歳か?」

「二十三歳。」

「うおっ!」


 小声でぽそっと呟いた独り言に、すぐ隣りから低い声で返事があったからビックリして、声が出てしまった。

 隣りにいたのは花麻呂はなまろだ。


伊奴いぬ。おまえの考えてる事なんざお見通しなんだよ。

 古志加こじかは二十三歳。そんで、変な事は考えるな。ちりほども、今後一切、生涯にわたって考えるな。」


 いつも爽やかな印象の花麻呂はなまろが、睨みをきかせて不機嫌そうに言った。

 怖え!


「あっはっは、何それ花麻呂はなまろ。」


 助け舟を出したのは、なんと古志加こじかだった。おみなにしては低い声で、明るく笑って、トン、と花麻呂の腕を押した。


 あ、いいな。腕触ったぞぉ。

 オレにもあんな風に触ってくれないかな。


 瞬間的に鼻の下が伸びたので、また花麻呂に睨まれた。



   *   *   *



 何日かして、古志加こじかと木の棒で、稽古をする機会が巡ってきた。

 佳きかな。


「よろしくね。」


 と目の前でニッコリ笑う古志加は、連戦で、頬に朱がさしている。

 可愛さが増してる。そう冷静に……、そう、冷静にいえば、そそられる度合いが増している。

 あれ? 冷静じゃねぇ?

 だってほら、少し棒を打ち合っただけで、オレ、足がつまづいちゃったよ?

 わざとじゃないよー。

 オレは古志加の身体めがけてよろめいた。

 だから、わざとじゃないよー。


「えっ?」


 古志加が驚いた声をだした。

 さあ、倒れ込むオレは、この左腕をっ、どうしようかなー?!

 そう短い時間で考えていると、視界が吹っ飛んだ。


(えっ?)


 オレは背面回し蹴りをくらい、怒涛の勢いで古志加の正面から横っ飛びに吹っ飛ばされたのだった。

 オレは左耳から土の地面に着地し、


「へばっ!」


 と変な声をだした。

 蹴ったのは荒弓あらゆみ


「な、何するんですか……。」


 と息も絶え絶えに訊くと、


伊奴いぬ。ははは。まあ気をつけろ。ははは。オレも気をつける。ああ、気をつけてるんだよ。」


 と乾いた笑いで、目が笑ってない荒弓が助け起こしてくれた。

 なんなんだよ、もう!


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