Les Amants d'un jour (いつかの二人)後篇


 昭和初期。

 帝都の大学に通っていた青年は郷里から届いたはがきを粉々に破ると紙吹雪にして窓の外からとばし、そのまま下宿先の階段を駈け降りて学生帽と絣の袴、とんびを羽織ったなりで上野駅発夜行列車にとび乗った。

 礫のような小雨を散らして蒸気機関車はひた走る。相席になった老人が風呂敷包みから握り飯を取り出し、みかんを添えて、親切にも青年に差し出してくれた。青年は礼を云って握り飯を貪り喰ったが、肚にとぐろを巻いた怒りのせいで、どんな味だったかも記憶にない。

 問題のはがきは、青年の知らない間に彼の縁談が進み、両家の合意で話が整ったことを告げていた。寝耳に水だった。東京の大学で自由を謳歌していた青年はまず混乱し、そして二度読みした文面の伝えるものを理解すると怒髪天を衝いて眼を剥いた。

 この俺に、五歳も年上の地方の姥桜、しかも脚が悪いという不具ものを押し付けようというのか。

 憤激のあまりに青年は膝においた握りこぶしで今にも機関車の窓をぶち破ってしまいそうだった。もともと実家とは折り合いが悪かったが、将来ある息子の人生をそのようなかたちで再び因襲の臭気に縛り付け、嫁という重石で台無しにしようというのか。

 煙を吐き出して夜汽車は走る。窓を引っ掻く雨の痕跡に青年は血走った眼を向けた。

 上京した青年がまず眼を奪われたのは女たちだ。どの女も洒脱でうつくしく、東京に来たばかりの学生を一瞥もしないで過ぎていく。気位の高い白鷺の群れを見ているような気がした。こんな女は田舎にはいない。

 勝手に決められたこの見合い、仲人の口を通さずにこの俺が直接出向いて、はっきりと一分の見込みもないことを先方に告げてやる。

 線路の響きと震動を激怒に重ねて青年はかたい座席の上で長い夜を耐え忍んだ。

 必ず反故にしてやる。なにしろ見合い相手の本人が現れてそう云うのだ。嫁の貰い手のない年増の疵物を押し付けようとした先方とても二の句が継げまい。


 一夜明け、故郷に到着した青年は駅からまっすぐ徒歩で田舎道を辿った。田舎田舎といっても小京都ほどのものはあるのだが、東京を見慣れた青年の眼には道行く風景はみな粗野だった。

 寝不足よりも怒りのあまりに青年の眼はぎらつき、その拳は爪が喰い込むほどだった。勝手に人生を決められてたまるか。青年は夜の雨に濡れて湿った小道をざくざくと下駄で駈けた。

「ごめんください」

 途中交番で道を尋ね、辿り着いたのは山茶花の垣根を巡らした平屋だった。道場に果たし状でも叩き込むかのような覚悟をつけて門構えから青年は呼ばわった。

 朝早すぎたかも知れない。飛び石に少し踏み入ってなかの様子を伺った。すると、

「はい」

 若い女の声が応えた。その声は近くからした。

 横をみれば、そこには庭木の梅から迷い出てきたかのような手弱女たおやめがいる。

「家を間違えたようです」

 青年は門から外に出た。

 しかし表札をあらためると、やはりここで間違いない。青年は呼吸を整えた上で、もう一度、「あの」と呼ばわった。

 はい。

 先刻と同じ女が同じ場所から彼に応えた。女は着物を着ており、よくよく見れば少し身が傾いていたが、それがかえって艶めかしかった。

 青年は生唾を呑み込んだ。あのこちらは、と声が掠れた。はがきには何と書いてあったか。その女の名は。

「こちらは喜久さんのお宅でしょうか」

 女は不自由な足許の悪さを気にするような控えめな素振りをみせながら、庭の花を切っていた鉄鋏の先を足許の薄影に重ねるように下に向けて頷いた。

「喜久はわたしです。なにかご用でしょうか」

 その瞬間から、曾祖父の、生涯に渡る曾祖母への一途な愛は始まったのだ。

 その話をママからそこまできいた龍とわたしは顔を見合わせた。

「なんだかな」

「夜汽車にとび乗ったその勢いで断固縁談をご破算にするつもりじゃなかったの」


「喜久さんも、あれほどに愛されたら女冥利に尽きるでしょうね」

 ママも伝え聴いたことしか知らないのよと断りながらも、ママは親族の中で語り継がれている伝説的な曾祖父と曾祖母について教えてくれた。両名ともとっくの昔にすでに同じ墓の下だ。

 喜久に一目惚れした青年は大急ぎで婚礼を進めてもらい、五歳年上の喜久を妻にして東京に戻った。

「あなたは何もしなくてもよいのです」

「あなたはただぼくの傍にいて下さればよいのです」

 脚の悪い喜久には何も家事をさせず、掃除洗濯料理買い物、手伝いの手が届かぬところはすべて夫が受け持った。床の間に人形をおいて飾っておくかのように男は妻を溺愛した。それは生涯変わらなかった。

「小児麻痺の影響で片脚が不自由だった喜久さんの着替えも足袋をはかせるのも、風呂で背を流すのも爪を磨くのも、すべてひいおじいちゃんがやったんですって」

「うわー」

 わたしと龍はのけぞった。「そこまでいくと変態」とわたしは云い、龍は「やべえ寒気が」と腕をさする真似をした。

 ひいおじいちゃんにはピグマリオン・コンプレックスでもあったのだろうか。

 やがて夫婦には子どもが産まれたが、その赤子の世話も全て夫がやった。

「こう、ねんねこ半纏を羽織って、夜泣きする赤子を外に連れ出して。親戚の者が心配して様子を観に行ってみたら、喜久さんはお乳だけを与えたらあとは何にもせずに、赤子の襁褓を洗って干している若い夫の背中を縁側からおっとりと眺めていたそうよ」

「谷崎潤一郎みたい」

「やべえ。そのMっ気、ぼくに遺伝してないといいな」

 喜久から先に死んだ。五十代。癌だった。

 かつての青年もすでに壮年になっていたが、その愛情は衰えることを知らず、曾祖父は毎日病院に曾祖母を訪れた。心配いらないのだよ。男は女の手を握った。

「あなたが先に死んでいくのはぼくにとっては倖せだ。あなたがぼくの眼の届くうちに死ぬのは倖せだ。あなたを遺していくのであれば、ぼくは後のことが心配で死にきれなかったことだろう。しかしこうして、ぼくはあなたの一生を見送ることができるのだ。これに勝る最上はない」

 臨終にあたっては子どもたちですら病室から追い出された。眼に入れても痛くないほどに盲愛する夫からの愛の言葉をきいたまま、喜久は夫の腕の中で息を引き取った。



 血族に喜久のような人がいたせいもあり、碧姉みどりねえのような『女』を、わたしたち家族は「まあ、そういうこともあるのだろう」と何となくそのまま受け入れていた。家族の一員というよりは預かっている高級猫のような感じだった。きっと生まれる前の卵を眺めていた神様が、「この子にはフェロモンを多めに入れてみよう」と悪戯でもしたのだ。

「碧、また脱ぎ散らかして」

「龍ちゃんお願い」

「中学生の男の子に下着のことを頼む姉がいますか!」

「だってママ、大雑把な澪と違って龍ちゃんはわたしが教えなくともデリケート洗いをして日蔭に干してくれるんだもん」

 お小遣いはもらうよとぶつくさ云いながら龍が碧姉のランジェリーを拾おうとするのを制止してママは碧姉をわあわあと叱ったが、碧姉はどこ吹く風で、きれいな脚を投げ出して床に寝ころびながら「このレストラン素敵」と恋人に連れて行ってもらう店をタブレットで選んでいた。画面には目ん玉が飛び出そうな金額が並んでいた。

 喜久さんはどうだったかは分からないが、現代に生きる碧姉は自分の美貌と若さの価値を重々承知していた。無敵の存在だった。碧姉は事も無げに云った。男はみんなわたしを欲しがるのよ。

 いつの間にか外の物干しには龍が洗い終えた姉の下着が揺れていた。



「それ、龍のやつはすでに谷崎化してねえか」

「そういう女の末路ってさ、本当に好きな男にはこっぴどくフラれたり、自慢の顔を大火傷するとかだよな」

「『パンを踏んだ娘』的な。確かにざまぁ展開が期待されるところではある」

「あの童話は、著者のアンデルセンが女に逆恨みしているのが透けてみえるから素直にざまぁとは想えないんだよ。だってさ、いくら美貌を鼻にかけた高慢ちきな女であっても、若い美人をあんな目に遭わせるような話はふつうの感覚の男には書けないだろ」

「そういやそうだな」

「非モテをよほど拗らせたんだ。不細工でプライドが高いとマジでそうなる」

「アンデルセンはヤバいな」

「ひとの家の姉を雑談のネタにするのは止めてくれる?」

 世界的な童話作家が腹黒化するのに堪えられずわたしはバスケ部男子の会話に割り込んでいった。

「何も云ってないよ澪ちゃん」

「聴き耳立てていたら同じよ」

 わたしは隅っこで志望校対策の問題集を解いていた恵比寿くんを蹴り飛ばすようにして放課後の教室から追い出した。

 恵比寿くんはわたしと並んで下校しながら、もののついでのように云った。

 澪ちゃん、ぼくと付き合って欲しい。



 雲をお菓子に喩えるなんて陳腐だが、そんな白い雲が流れている夏の午後だった。エクレアが行進している。

「ほれ」

 コンビニで買って来たカップ入りアイスをわたしに差し出し、朋くんはわたしの隣りに腰をおろした。学校帰りの木陰のベンチ。公園には他に誰もいない。

「三股かけるとか、ないわ」

「碧姉がやると説得力があるんだよね」

 結局あの夜のアストンマーティンとはお別れして、碧姉は四人目のニューカマー、手堅そうなフツ面の院卒大手企業の会社員と結婚を前提にお付き合いをしている。え、それでいいの。想わず龍と一緒に失礼な感想を洩らしてしまったほど家に挨拶に来たのは普通の男性だった。嵐のようにいろんな男性を踏んでいった姉だが、最終的にはパパみたいな温和な男性に落ち着いたようだ。

「完全にどちらが優位か分かるよな。中卒の碧姉にあんなに尽くしてさ」

「古風に『柳行李ひとつでお嫁に来て下さい』なんて云ってたね」

 真似はとてもできないけれど、同じ女でも人生が数倍濃い感じがして碧姉には少し憧れる。

 そんな話を朋くんにもきいてもらった。朋くんは興味がなさそうだった。

「澪は進路決まったか」

 夏休み前に志望校を幾つか学校に提出するのだ。

「あとは併願をどこにするかくらい。朋くんは男子校志望だよね」

 何しろ姉が中卒なものだから「澪と龍は勉強してね」とパパとママから懇願されている。いまの成績をキープしたまま確実に受かる中の上くらいの高校を受けて、わたしの受験は終わりだろう。

「幼稚園から一緒だったお前ともついに学校が離れるな」

「そうだね」

「恵比寿とはどうすんの」

 わたしが喋ったわけではない。恵比寿くんはわたしに告白する前に朋くんを掴まえて「澪ちゃんに告白するよ」と断りを入れたから、朋くんも知っているのだ。 

「ほっといて」 

「付き合うんだ」

 ほっといてって云ってるのに。朋くんのスニーカーをわざと踏みつけてゴミ箱に食べ終わったアイスのカップを捨てに行った。 

「澪がなんでチーズを食べないか、俺は知っている」

「え」

「それにはお前の姉の碧が関係している。小五の時だ。給食の時間に栄養士から雑学の放送が流れてくる曜日があったろ。『チーズのない食事は片目のない美女のようなものだ』 19世紀の食通サヴァランの言葉を紹介したあとで、その日の放送は云ったんだ。『髪や肌がきれいになります。女の子は可愛くなりたかったらチーズを食べましょう』。あの時からだろ」

「それがなんでチーズを食べないことになるの」

「お前の姉が原因だ。そうだろ」

 わたしも憶えている。あの放送を聴いた瞬間に沸き上がってきた混乱と葛藤の正体は、どれほどわたしがチーズを食べたところで、碧姉のようにはなれっこないという絶望感だった。

 だったら最初から口にしなければいい。なにも期待しないほうがいい。チーズを食べて可愛い子になれますようにといくら願をかけたところで、わたしは碧姉のようにはなれないのだ。そんな惨めで虚しいことはやりたくない。チーズを食べていたらきっと周囲からこう想われる。『澪ちゃんも碧ちゃんみたいに美人になりたいんだね』。無駄なのに。

 親戚にもご近所の人からも云われた。澪ちゃんは碧ちゃんには似てないね。澪ちゃんはそれでいいのよ。お姉ちゃんみたいにならなくても充分かわいいよ。澪ちゃんくらいがちょうどいい。

 チーズの有無で何かが劇的に変わることはないと今ならもちろん知っているが、その頃からだ、わたしが龍の服を借りて着るようになったのは。そういう時期だったのだろう。

「身近にあんな姉がいる小五の女子が拗らせても無理はないと想うの」

「澪はもう小学生じゃないだろうが」

 そう。だから今のわたしは別の目的でわざとチーズを食べないのだ。

 わたしは朋くんの横顔をちらりと見た。恵比寿くんは性格がいいから、わたしにこっそり教えてくれたわよ?

 朋くんは恵比寿くんにこう云ったのだ。

「あいつのチーズ問題は俺が引き受けてるから」

 わがままをきいてくれる男の子を女の子は好きになる。そして男の子は好きな女の子のわがままならきいてくれるのだ。喜久さんでも碧姉でもないけれど、わたしにも男心を試す幾つかの切り札はある。わたしは何気なさを装って明るく云った。

「恵比寿くんいい人だよね」

「あ、いけね」朋くんが蒸しパンの欠片を下に落とした。日差しに温まった足許の地面に蟻がはっている。明日もわたしは朋くんにチーズを食べてもらうだろう。

 飼育小屋でキャベツを差し出してきた時から、朋くんがわたしのことを好きなことは知っていた。

 朋くんはがつがつとパンを食べ終わると、何かを云いかけたが、口を閉ざしてしまった。

 わたしも同じ。もう少し今のままがいい。

 梢の先を仰いだ。青空に流れる白い夏雲に手が届きそう。

 今日の日記には何を書こうかな。



[了]

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Les Amants d'un jour (いつかの二人) 朝吹 @asabuki

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