Soirée

「何故そんなバカなことをしたんだ!」

 夕方、透先輩のお見舞いに来て、教えられた病室のドアをノックしようとした寸前、中から大人の男の人の大きな声が響いた。

 手を止めて、扉に耳をあててみる。

 男の人の怒鳴り声のあとに聞こえてきたのは、女の人のすすり泣く声だ。

「私は、ただ透ちゃんにバレエを諦めてもらえればそれで良かったの!」

「だからって舞台裏に細工して怪我をさせようとするなんて……あと少し間違っていたら取り返しがつかなくなるところだったんだぞ!」

 ドキン、と胸が鳴って血の気が引いた。あの事故……先輩のお母さんが仕組んだの!?

「取り返しがつかなくなるのは受験だって一緒よ! バレエなんかに現を抜かしてる場合じゃないのッ! 何よ、普段は仕事ばかりで忙しくて家にいないくせにこんな時だけ偉そうにしてッ!」

「やめてよ、母さん」

 ため息混じりに透先輩がなだめる声が聞こえた。

「ちゃんと話し合わなかった俺も悪いから……とにかく二人とも落ち着いて」

 その後の会話は途切れ途切れにしか聞こえなかったけれど、どうやら、透先輩のお母さんはそもそも透先輩がバレエをやることに反対していて、透先輩は、もう少し、あと少しと言ってなかなかバレエをやめずにいたらしい。来年は受験の年だというのに……来年なんだからまだ早すぎるような気がするけど……やめないものだから、痺れを切らして、人を雇って舞台裏の荷物を透先輩に向かって落ちるように仕向けたのだと。

 タツヤは関係なかったんだ。

 わたし、馬鹿だ。怒りに任せてバケモノなんて言っちゃった。

「そんな、もうタツヤに合わせる顔がないよ……」のこのこタツヤに謝りになんかいけないし、かと言って透先輩に合わせる顔もない。先輩の病室の前にいるのも耐えられず、私は病院を出た。……そのとたん、スマホがブルブルと振動した。着信画面を見ると、姫野先輩だ。

 え? なんで姫野先輩から?

「はい、もしもし……え、今は美風大学病院にいますけど……え? 今から30分でバレエスタジオにですか!? いや、今日は……すみません! わかりましたすぐ行きます!!」

 姫野先輩が、今からバレエスタジオに来いと言う。うちのバレエ団では先輩の命令は絶対だ。タツヤに会わないことを祈りながら、私は急いだ。

「よし、30分以内ね」

 息を切らしてスタジオに着くと姫野先輩が仁王立ちになって待ち構えていた。

 姫野舞子先輩。うちのバレエ団の本物のプリマ・ドンナ。すらりと背が高い先輩が仁王立ちするだけで妙な迫力がある。

「……あの、姫野先輩、一体どうして」

 寒いし日は沈んでるし気分はただでさえ落ち込んでるしで最悪だ。早く用件を聞いて帰りたい。

「はいこれ、スタジオの鍵よ」

 私が理由を尋ねる間もなく、姫野先輩が私の手に鍵を握らせてきた。

「先輩、わたし今日はもう練習は……」

「とぼけなくて良いわ。タツヤくんに早く会いに行きなさい」

 姫野先輩の口から飛び出したタツヤの名前に耳を疑った。

「えっ!? 先輩、どうしてタツヤを……!?」

「明日から全体練習に参加する前に、ひとりでストレッチでもしようと思って来たら、鏡の中であなたを待ってる彼を見つけたのよ。彼、いい子じゃないのよ。大事にしなさい」

「でも……わたし、タツヤに酷いことをたくさん言ってしまって……」

「だから謝りに行くんでしょ」

 姫野先輩がぽんと肩を叩いてくれた。……先輩の言うとおりだ。謝らないで逃げようなんて、そんなの駄目なんだ。

「……すみません、姫野先輩」

「ノンノン。そこはありがとう《メルシー》と言うところよ」

「……ありがとうございます!!」

 私はスタジオの中へと駆け出した。

 建物の中は、姫野先輩が気を使って電気をつけっぱなしにしておいてくれたらしい。けれど、タツヤがいる大鏡のスタジオだけが異様に暗くて寒い。

「タツヤ……、タツヤ!!」

 真っ暗なスタジオの鏡に、白い影が薄っすらと写っている。タツヤは膝を抱えてうずくまっていたけれど、私の声を聞いて顔をあげた。……わたし、こんな寂しげな人を一週間も放っておいたの……?

「ちせ? 来てくれたの?」

 タツヤが左目を丸くする。その体は、一週間前に比べてかなり薄く、透明になってしまっている。私はタツヤの映る鏡に手をついたけど、固い鏡面が冷たいばかりで、公演の時みたいに鏡の中に入れない。

「ごめんなさい、タツヤは何も悪くなかったのに、わたし酷いことばかり言っちゃった。本当にごめん……!」

「……良いんだ、先に君を追い出したのは僕の方だったから。城山が妬ましかったのも事実だから。容姿にも体格にも恵まれて、明るくて人気者で、君から慕われていて……なんでも持ってる彼がうらやましかったんだ」

「うん……私もそう思ってた。でも実は透先輩も大変だったみたい」

「……そうみたいだね。姫野さんから聞いたよ。親にバレエを反対されて悩んでいるって。僕と同じだったんだね」

 タツヤの目に、透先輩への怒りは見えなかった。

「……昔もね、男がバレエをやろうとすると、色々大変だったんだ。女みたいだ、気持ちが悪い、ってね。僕はそんな時代に生まれて、死んだ亡霊だ……けれど、もうすぐお迎えが来そうなんだ」

「や、やだよっ!」

 鏡にすがりついて叫ぶ。

「わたしをプリマ・ドンナにする約束はどうしたの! わたしタツヤが消えてから踊りが全然うまく行かないの! 姫野先輩が病気じゃなくても私がプリマになるまで一緒にいてよ!」

「ちせ……?」

「……自分でもワガママすぎると思う。消えて、バケモノとまで言っておいて勝手すぎるよね。でもお願い、離れないで……」

 タツヤは黙っている。沈黙が怖くて、私はひたすら、ごめんなさい、ゆるして、と小さく繰り返していた。……やがて、タツヤの穏やかな声が聞こえた。

「……そうだね、じゃあ、いっしょにジゼルの第二幕のパ・ド・ドゥを踊ってほしい。一番好きな演目なんだ」

 ふとスタジオの隅を見ると、一体いつの間に現れたのか、ジゼル第二幕の衣装がトルソーにかかっていた。

「わかった」 

 二つ返事で引き受けて、更衣室で衣装に着替える。ジゼルの第二幕の死に装束は、丈の長い真っ白な衣装で。一見すればウェディングドレスのようにも見える。

 ジゼルのグラン・パ・ド・ドゥ。難しいけれど憧れの踊りだ。

 どこから聞こえてくるのかわからないけれど、音楽が流れ始める。タツヤの身体はほとんど白く透明になりかけていたけれど、それでも確かに彼の気配を感じる。リフトは、彼の腕力ではなくて霊的な力で持ち上げられている感じだ。

「ジゼルにしては、ちょっと生命力が有りすぎかなぁ……男だけど、僕の動き参考にしていいよ?」

 タツヤが踊りの最中に珍しくくすくすと笑った。

「何よ、珍しく楽しそうにしちゃって」

「……今日はちせの指導じゃないからね。僕の好きな踊りを好きなようにやっているだけだから」

 幽霊なんだから、それはそうなんだろうけど、タツヤの動きはとても軽やかだ。タツヤのほうが精霊のように見える。……そこまで考えて、私は凍りついた。

 「ジゼル」は、踊りが大好きな少女ジゼルが、恋に破れて死んだあと、夜な夜な男を死ぬまで踊らせる森の精霊ウィリになる。ジゼルの想い人もウィリに殺されかけるけれど、ジゼルが彼を朝まで守り通し、ジゼルは彼に最後の別れを告げて、光とともに消えてしまう、という話だ。私が今身にまとっているジゼルの衣装は、主人公には珍しい死に装束なのだ。

 タツヤもウィリのような存在で、死ぬまで私を踊らせるのだろうか? それとも私にも、亡霊になれってことだろうか。本当に自分と一緒にいたいと思うのなら、謝るだけじゃゆるさないってこと……?

 そうこうしているうちに、音楽が鳴り止んだ。

 わたしは、家に帰してもらえるんだろうか。

「ちせ」

 不意に耳元で囁かれて、ドキンと心臓が鳴る。恐怖で心臓が飛び出そうになっているのか、タツヤに接近されてドキドキしているのか区別がつかない。

「……僕は、ちせが好きだったよ」

 微かに震えるタツヤの声には、幽霊なのに、熱がこもっていた。

「これからも、僕のために踊ってほしいんだ」

 タツヤの声は優しかったけど、死刑宣告に聞こえた。

 ああ、わたし、死ぬまで踊り続けるんだ。

 ジゼルが最期の踊りになるなんて、思わなかったな……お父さん、お母さん、元気でね……。

 ああ、でも。死ぬ前にタツヤに伝えなくちゃ。私はくるりと振り向いて、以前に比べて随分と透けてしまったタツヤの頬を撫でる。

「……タツヤ。わたしも、タツヤが好き。ひどいことたくさん言ってごめんね」

 一週間前と同じように、彼の黒マスクを顎の下まで下ろして、思い切って口づけた。人生で最初で最後のキス。相手がタツヤで、良かったと思う。

 驚いて固まったタツヤの手を、私は取って言う。

「わたし、ずっと踊るよ。タツヤから離れない。ずっと一緒に踊るよ」

 命が燃え尽きるまで、彼のそばで踊る覚悟を決めた。もうタツヤに、あんな寂しそうな顔はさせない。

「ううん、僕の舞台はもうおしまいだ。ちせ、これから踊るときも、少しでいいから僕を思い出して。……さようなら、元気でね」

 タツヤの姿が、靄のようになって消えていく。

「えっ、タツヤ……!」

 彼に向かって手を伸ばしたけれど、私の手は空を掴むばかり。やがて、靄も何もかもなくなり、タツヤはジゼルのように消えてしまった。

「あ、嫌だ……ああぁぁあ……!!」

 心配した姫野先輩が駆けつけてくれるまで、私はスタジオの床に突っ伏して泣いていた。

 

 

 それから二年。美風町少年少女バレエ団の年に一度の公演。

 舞台を無事に踊り終えた私は、カーテンコールで名前を呼ばれ、舞台上に躍り出た。

「ジゼル、長谷川ちせ!」

 惜しみない拍手と喝采を浴びて、私は深々と頭を下げる。

 タツヤ。今の私を一番見てほしい、あなただけがいない。振り向いても、未来を見ても、もうあなたに会えない。さみしくて切なくて熱くなって苦しいけど、それでも生きていかなきゃならない。彼と見たかった景色を、これからもっともっと、見るために。

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君とパ・ド・ドゥ 藤ともみ @fuji_T0m0m1

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