昭和バレヱ少年

 大隈おおくま香代子かよこは戦後としてはハイカラな、外国の芸術に造詣が深い女性だった。歌劇団や演劇の舞台公演に度々息子を連れて行っては、帰りに喫茶店でケーキと紅茶を嗜むのを、密かな楽しみとしていた。

「ほら、ロシアのバレエ団の公演よ達也たつや

 母に連れられて生まれて初めて見たバレエの美しい世界に、達也は一瞬で惹き込まれた。バレエ団には男の踊り手もいた。あの現実離れした甘美な世界で自分も踊りたいと思った。

「香代子! 貴様、西洋かぶれの趣味なんぞに現を抜かしおって!」

 ある時、バレエの公演にでかけていたことが父にバレた。女は家にいるべき、という考えの父は、香代子の趣味に難色を示した。

「お金は実家からの仕送りから使っています。旦那様の稼ぎには手を付けておりません」

「黙れ!金の問題じゃない!女が芝居や踊りに現を抜かすなんぞ、ふしだらだ!」

 そう言って父は母の頬をしたたかに打った。

「お前も母さんを止めろ! 男のくせに劇に夢中になんぞなってないだろうな!?」

 父は達也の頬も打った。母がすがりついて止めてくれたがそれでも顔の形が変わってしまいそうなほど、叩かれ、蹴り飛ばされた。達也は父が嫌いだった。

 それから、母は外出することができなくなった。心労がたたったのだろうか、それから数年後に母は亡くなってしまった。

 達也の通学路の途中には、美風町少女バレエ団の教室があった。学校が終わるとこっそり草むらの影から、良家の子女である生徒たちがバレエを習っているのを目を凝らして見つめていた。

 また、達也は、母が買ってくれたバレエ団のパンフレットやバレリーナのブロマイドを、家で飲んだくれている父に見つからないようにランドセルの中に隠し、学校の休み時間に、ひとりでこっそり見るのが密かな楽しみとなった。

「こいつ男のくせに、バレエ? の本なんか見てやってよ〜オカマだオカマ!」

「気持ちわりい〜!」

「あっち行けよオカマちゃん!」

「……大隈、こんなものを学校に持ってくるのはやめなさい。男のくせに気持ちが悪い」

 学校から呼び出された父は、タツヤに言った。

「……達也。バレエなんかやめろ。男なら空手を習え。今度おどったらお前をこの家から追い出す」

 それでも達哉はバレエを諦められなかった。父に見つからないように、深夜に家を飛び出して、川原で一人、密かに踊った。

 暗い川原で足元が見えていなかった達也は、足を滑らせ、そのまま川の中に落ちた。あまりに静かに落ちたのと、周囲に誰もいなかったことで発見が遅れ、大隈達也の遺体は数日後、川の生き物たちに顔や体の大部分を食い散らかされた状態で発見された……。


 踊りに未練を残して死んだタツヤの霊は、自分の家でも死に場所の河原でもなく、バレエ団に取り憑いた。世界コンクールに出場する実力者や、プロのバレエダンサーを多く排出するこの少年少女バレエ団で、彼はバレエの知識を吸収し、自分の代わりに踊ってくれるプリマ・ドンナを、探し続けていたのだ。

 数多の少女達の中で、なぜ長谷川ちせが特別になったのかは、タツヤ本人にもわからない。彼女より才能がある少女や、美しい少女はいくらでもいた。理由もわからず、どうしようもなく惹かれている。嫌われても罵倒されても、突き放せないそばにいたい。他の男に触れさせたくない。

 ……現実の恋は、バレエの物語のように美しく甘美ではなかった。彼女がいると息が詰まりそうなほどに苦しく切なくなる。が、同時に胸が熱くなる。彼女がいなければ、もうこの世に未練は無いように思われた。

 

 

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