第六話 泉くんは、儚い。

 ――それは去年の春のことだった。


 市が開催するコンテストに美術部に入って描いた最初の作品を提出して。その中から受賞した生徒の作品を、校内にも少しの間、展示することになった日のことだった。


「瑞希、すごいねー。入学して早々に受賞とか、友達としても鼻が高いよ」


「なんか恥ずかしいな…でもありがとう、綾乃」


 わたしの絵は『審査員特別賞』を貰えた。


 一番の賞ではなかったけど、それでも審査員の人たちの特別として選んでもらえたことが嬉しかった。


「瑞希の絵はなんて言うかこう、優しいんだよねえ。早く見てみたいな」


 わたしの絵を見たいと言ってくれた綾乃と、作品が展示してある空き教室まで向かう。途中で何度か、同じように展示を見て来たらしい生徒とすれ違った。


「わたしの絵は、一番窓際にあるんだけど――」


 綾乃を案内するように空き教室に入ったとき、わたしの絵の前に男の子が一人、立っていることに気が付いた。


「…きゃ、」


 その瞬間、今まで緩やかに窓から流れていた風が、一度だけ大きく吹き抜けて。


 ――反射的に閉じた目を開けたとき、まるでわたしの時間は止まったかのようだった。


 風に巻き上げられたカーテンが、きらきらと太陽の光を反射させて。その輝きの中でその男の子は――涙を流していた。


「―――、」


 まるで自分が泣いていることさえ気づいていないような表情で、ただ真っ直ぐにわたしの絵だけを見つめて。その男の子――泉くんは静かに、だけど確かに泣いていた。


 それが、初めてわたしが泉くんに出会った瞬間で。


 それが、わたしが泉くんを好きになった瞬間だった。


 思わず呼吸が止まってしまうほどの綺麗な横顔と、まるで真珠みたいに落ちる涙と、胸が締め付けられるほどの切なさに溢れたその姿に。今にも風と一緒に消え去ってしまいそうな、その儚さに。


 わたしの心は一瞬にして、奪われてしまったのだった。


 ――『瑞希みずき ゆい』。


 わたしの名前が書かれたプレートの上に、額に入れられ飾られていた絵。それは、手を繋いで眠る双子の赤ちゃんの絵だった。


 ――『双子』という泉くんとわたしの描いた絵の共通点は偶然だったのかもしれないし、よく本やテレビで聞く運命というものだったのかもしれない。


 わたしが中学を卒業した日に生まれた、従姉の双子を描いた絵。それは、わたしと泉くんを出会わせてくれた、大切な絵だった。


***


 ――泉くんと出会ってから、三度目の春が来る。


 春休みも変わらず、絵を描きに学校へ来るわたし。いつものようにキャンバスや美術道具をそろえてから、やっぱりいつものように窓際にひとつ、椅子を置いた。


「―――、」


 もう、その席に座る人はずっと来ていない。


 その姿を見ることもない。


 それでもまるで昨日のことのように、その席に座って微笑む泉くんを、わたしは鮮やかに思い出すことができた。


「よし…!」


 目の前には、去年の夏休みからずっと白いままだったキャンバス。


 長い時間がかかってしまったけど、ようやくここに色を乗せることができるような気持ちになっていた。


「―――、」


 わたしが今描きたいものは、たったひとつ。


 強く焼き付いて離れない光景を、そのままキャンバスへとぶつけた。


 ――コンコンコン。


 不意に聞こえてきたノック音に、はっと我に返る。準備室の入り口を見れば、ユニフォーム姿で苦笑した工藤くんが立っていた。


「邪魔してごめん」


「あ、ううん。大丈夫」


「何回かノックしたんだけど、瑞希が全然気づいてくれなくて…すげぇ集中してたんだな」


 そう言われて壁の時計を見上げると、描き始めてから二時間ほどが経っていた。


「俺もちょうど休憩中でさ、練習中に校舎に入る瑞希を見かけたから――」


 これやる、と。工藤くんが差し出してくれたのは。


「――ミルク、ティー」


「瑞希が飲んでるの、けっこう見たことがあったんだけど…違うのがよかった?」


「ううん。わたし、ミルクティーが好きだから。ありがとう、工藤くん」


「ん、ならよかった」


 そう言ってにかっと笑った工藤くんを、太陽みたいだなと思った。


「そろそろ練習に戻るな」


「うん。練習、頑張ってね」


「おう!」


 軽快に走って行く工藤くんの足音を聞きながら、ふと過去の出来事を思い出す。


 泉くんが消えてしまったあの日からわたしを支えてくれたのは、綾乃と工藤くんだった。


 何も言わないわたしを、それでも何かを知っている雰囲気を隠すこともできないわたしを、二人はずっと気にかけてくれた。


 泉くんのいた教室に変わらず通えるのも、こうして美術準備室に来れるのも、全部、あの二人のお陰だ。


 どこにいても泉くんの色が濃い中で、今わたしが笑っていられるのも。


「――泉くん、」


 名前を呼べば、ぎゅうっと胸が締め付けられるような想いがした。


「好き」


 伝えられなかった想いを昇華させるには、まだたくさんの時間が必要なんだろう。


「好きすぎて苦しい…っ」


 もしも好きだと伝えられていたら、この苦しさも少しは和らいでいたんだろうか。


「苦しいよ、泉くん…!」


 滲む視界の向こうで、困ったように儚げに笑う泉くんの姿を見た気がした。


 わたしはまだ、こんなにも。


 こんなにもまだ、泉くんが好きなんだ。


***


 春が来て、例年と同じように市のコンテストで受賞した作品が空き教室に展示される。


 その中で、煌めく光の中で一筋の涙を流す少年の絵があった。


 『金賞』と書かれたその絵のタイトルは――。

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泉くんは、儚い。 秋乃 よなが @yonaga-akino

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