アンデッド・リリーズ - Beginning of the Eternity -

 目覚めのとき、

 終わりのとき、

 花の咲くとき、

 はじまりの日。


*


 ハルナはシノさんとふたりで綱を持ち、龍恋りゅうれんの鐘を鳴らした。それは人間の頭よりすこしおおきいくらいのサイズで、すぐ下に天女と五頭龍ごつりゅうに関する伝承を書いた金属板が設置されている。

 この鐘よりも、あたりを囲むように設置されている背の低い金網や、近くにあるポールとポールの間に橋渡しされた三本の鎖の方がずっと目立っていた。それらにはびっしりと南京錠がつけられている。そのどれもに、ふたり分の名前が書かれている。龍恋の鐘の設置されている恋人の丘に関する俗っぽい言い伝えに従って。龍恋の鐘を鳴らしたあとに、自分たちの名前をかいた南京錠をつけると永遠の愛が叶う。それでみんな、近くで売ってる南京錠を買い、サインペンで名前を書いてからあたりにぶらさげて帰る。めぼしい場所を探しているカップルがちょこちょこ見えた。

 ふたりは金網の近くに立ち、そこから見える海と空、そして周囲を囲む木々を見た。空は広く見えるが、木のせいで海は狭く感じる。ここは海岸線の方が景色がよさそうだ。

「南京錠、買えんかったな」

「うん」

 死にたいハルナは、死にたくないシノさんの手を握り、オニキスによって見せつけられた未来の記憶を噛みしめていた。

 知っているつもりだった。どんな前世の記憶の中でも自分には女の子の日がない、つまり自分は一般的な女の子とは違うってことを知っているつもりだった。だからこそリンネは自分のことをあんなにも女の子として扱おうとしてくれたのだ。自分自身が男の子の役目を果たすことで、ハルナのことを恋人としての〝彼女〟として成立させるために。

「ま、ええよ。うちとハルナちゃんはやっぱり本気にはなれん。うちはうち、揺籠詩乃なんやもん。リンちゃんにはなれん。それと同じで、うちはハルナちゃんにとってのリンちゃんとちゃう。そういうこっちゃ」

 ハルナの手に力がこもる。弱い。女の子の力。あるべきものがなく、かと言って代わりになるものがあるわけでもない。

 いいや、利点ならある。痛くない。リンネみたいに、子宮なんてなければいいって思うほどの苦しみが自分にはないんだから。

 空いた手で胸を押さえる。

 それなのに、どうしてこんなにも痛いんだろう。

「もう行こう、シノさん」

「ええんか?」

 問いかける彼女は、ひどく悲しそうな顔をしている。造花は地面におち、彼女はそれを拾えない。

「うん。あきらめがついた。これ以上、リンちゃんのことは苦しめられない」

 ハルナは自分の中から出てこようとするふたつの神のことを感じ取ろうとする。

 かすかに異変があった。

「あ、れ……?」

 自分たちの間に入ろうとするものを消そうとするとき。あのときの感覚が、ない。

「シノさん、あの……」

「どしたん?」

「えっ、その、」

 しかし、それはほんのわずかな時間のことだった。すぐに左眼が痛むようになる。

 それと共に、もうひとりの自分が語りかけてきていた。

 リンちゃんが稚児ヶ淵ちごがふちで待っている。

「ううん。なんでもない。またちょっと歩くから、ゆっくり行こう」

「そうしてくれ。うちにはこんなんでも割と来るもんがあるわ」

 シノさんがポケットの中のなにかを握る。ハルナにはわかっていた。

「ねえ、シノさん」

「ん? なんや、ハルナちゃん」

「残り、いくつなの」

 シノさんは答えない。ふたりは稚児ヶ淵へとおりていく道に入った。

「ねえ、シノさん。私、わかってる。あの指環を使ってること」

「ほんの一個や二個や。たいしたことないで」

「嘘はやめてよ」

 足元は整えられているものの、途中から砂利道になり、あたりが樹々で囲まれているために暗かった。

「見せて。それはトーカさんからもらったたいせつな指環ものなんでしょう?」

「しゃあないな、ハルナちゃんは」

 江島えのしま神社じんじゃ、わだつみのみやの鳥居が見えてきた。頭上から陽が照る。

 その手前で立ち止まり、シノさんはしぶしぶと指環を取り出した。

 ハルナはてのひらに乗せられたそれを見た。

 使えるとおぼしき宝石の数は、わずか四つにまで減っていた。

 心当たりがある。

「あのナイフ……」

 シノさんは、あの黒い刃を使うとき、いっしょに指環を握っていた。鎖が表に出ていたから隠しようのない事実だった。

「燃費の悪いやっちゃで。オニキスあいつを二分維持するのに一個、せやから三十分くらい使つこうてたんやろな」

 彼女が空を仰ぐと、金で縁取られた硝子板が真っ白く光を反射した。

「そんな」

「気にすることやないで。うちはまだ死ぬ気はない。これからも生きていく。道具っちゅうのは利用するもんであって、依存するもんやない」

 ハルナの眼をシノさんは見なかった。手を掴むと、足を早めて先を進む。

「ほれ、もうちょいやないか。先に、」

 キン、という音がした。

「ハルナちゃん。さっき妙な間があったんは、なにか感じるもんがあったんやろ?」

「えと、それは」

「ハルナちゃんこそ、隠し事すんのはやめとき。リンちゃんとハルナちゃんには及ばんけどな、うちとトーカもまあまあ通じ合うところがあんねん。っちゅうても、オニキスと雪花風刃ゆきかぜがあってこそなんやけど」

 石畳で舗装された道を彼女たちはくだっていく。

「トーカのアホ、無茶なことしおってからに。まさか先に動いてんのに追い越されるとか思ってへんかったわ。兎がマジになると亀では勝てんっちゅうのがようわかる」

 自らを嘲笑するシノさんの言葉は、すこし弾んで感じられた。

「シノさん、やっぱりトーカさんのこと」

「だいきらいやで?」

 桜みたいに、そのひとは笑っていた。


*


 潮風の中にふたりは立つ。稚児ヶ淵にいくつかある岩場のひとつの上で、リンネはコートの裾を棚引かせながら想い人のことを待っていた。

「トーカ、だいじょうぶ?」

 乗り物酔いから解放されたリンネよりも、真っ白な風の妖精の方が体調が悪そうに見えた。竹刀袋を杖代わりにして、意地でも座らず身体を支えている。

「たぶんだが、片瀬江ノ島・稚児ヶ淵間のワールドレコードはオレが保持している」

「そんなどうでもいいことでごまかすのやめなよ。そんなに血色の悪いトーカ、はじめて見たよ」

「おまえとはそんなに長い仲じゃないだろ。オレのなにがわかるって言うんですか。それにこんだけしゃべる余裕あるからぜんぜん平気だっての」

 しかしそう語るトーカはまるで顔をあげずにぽたりぽたりと汗の雫を垂らしている。彼女の身体がどれだけ丈夫にできていたとしても、この距離を全力疾走するのは相当こたえたはず。

「これでも心配してるんだよ。こんなこと言うと気を悪くするかもしれないけどさ、ハルナみたいでほっとけないんだ」

「純情可憐なところはそっくりだもんね。改めて言われると照れるぜ」

「……うまく言えないけど、たぶんそこではない。抱き心地というか、抱かれ心地というか?」

「うえ」

「無理に立ってない方がいいよ」

「いや、オレはあいつに弱いところを見せるつもりはない」

 彼女は姿勢を立て直すと、表情をきりりと引き締めた。

 トーカ流の強がりを見て、リンネは笑ってしまった。

「あはは。トーカのかっこつけたがりって、シノさんに向けてのアピールなんだね」

「目を開けながら寝言を言うのはあまりおすすめできません」

「そりゃトーカの特技でしょうが。わたしは至って真面目だし、目もしっかりと覚めてますよ」

 ふたりの眼は彼女たちが通ってきた道、龍恋の鐘から降りてくるルート上を凝視ぎょうししていた。

「んなことより、ちゃんと心の準備をしてるんだろうな? オレは好機と見たら一瞬の迷いもなく斬る。ハルナとのお別れの言葉とか、感動のラストに向けての段取りとか、そういうのはちゃんとしておくことをおすすめいたします」

「そんなもの、わたしたちには要らない」

 見慣れたシルエットがリンネの瞳に映る。

 胸にてのひらを置いた。厚い布越し。それでも拍動のリズムがわかるのは、胸の中で跳ねる心臓の力が強いから。血流が首やおなか、指先足先まで時間差で届いていく。どくん、どくん、と音が鳴る。自分にしかわからないリズムのせいで、どれだけの準備も意味がなくなることがあると思い知る。

「シノ。あいつ、無理してやがる」

 トーカもまた、自分のパートナーに気づいたようだ。凛々しい眼差しを見せる。うらやましいという気持ちがよぎった。自分こそ、こんなときになにを考えてるんだか。でも、そのときのトーカは過去一番に決まっていた。

 わたしはそうした感情をつぶすように岩場でステップを踏む。ハルナが同じことをした。わたしたちは不安定な足場の上で抱きしめあう。

「ハルナ」

「リンちゃん」

 呼び合って、わたしから彼女の額にキスをおとした。

「心中するなら、わたしとにして」

 考えていたわけではないが、だれにも渡さないという意志を込めてハルナの背中に手を回している。

「ごめんね、リンちゃん。私がどうかしてた」

「それはわたしの方だよ」

「ううん、私」

「いいや、わたしが」

「私だってば」

「わたしなの」

 ごほん、とふたつの咳払いが重なって聞こえた。

「ほんまに仲ええな。そんなんでほんまに執着を消せるんか?」

 シノさんがしらけた顔でこちらをじっとり見ている。

「無理だろ、こいつらだけじゃ。自己解決できるなら妖精は要らねえんだよ」

 リンネとハルナは手をつないで、外野をよそに視線をあわせた。

 自分のものではない鼓動が伝わり、ときに重なり、ときに不協和する。そんな時間を悠久の中で繰り返し過ごしてきた。でも、人間の身体なんてとても弱く、しかも物理法則に引っ張られてしまうもの。長い長い時間を経ても、わたしたちは超越者のように強くなれなかった。

 むしろその逆。思い出は体積するにつれてひとつひとつの価値が低くなり、感動は薄れ、それが怖いから目を背けるようになるから、刹那的な感覚に身を任せることが増えていく。膨大な記憶は自分たちの脳や感覚を壊して狂わせるので、そこから逃避するためにろくでもない思考回路を形成して現実を見ようという努力を放棄し、それが正しいのだと自分自身に言い聞かせて生きてきた。

 それでもなお逃れられない、どうしようもないひとつの欲動。

 ハルナ。

 やはり彼女だけはどうしても離すことができない。

 リンネは深呼吸をして、自分から話した。

「ハルナ。あなたもずっと、永遠の中にいたんだね」

 しかし、その瞬間に時間が飛ぶ。言葉が届かない。リンネにはそれが知覚できた。いままではわからなかった。雪花せっか風刃ふうじんによって客観的に経験したことで、ようやくそれに気づくことができた。

「リンちゃん」

 ハルナがなにかを言おうとする。

 でも、飛んでしまう。時間が。それも十数秒に渡って。

 妖精たちの声が聞こえてくる。

「リンネ!」

「ハルナ!」

 キン、とふたつの金属音が重なった。

 抜き放たれる二振ふたふりの星の刃。

 白く長き刀が空間を切り取り、黒く短き刃が時間を分断する。

 その太刀筋が重なり合えば、神さえも切断する運命のはさみとなる。

 すべての他人が消え、そこには四人以外のだれもいない。

雪花風刃ゆきかぜ! ハルナよりふたつの神を分かて!」

「オニキス! 誓約の本文を我らの前へと現せ!」

 彼女たちの言の葉が世界を静止させ、それに呼応してハルナの瞳が輝きを放った。

 刀香の身体が軋む。

 詩乃の手の中で紫の水晶がひとつずつ砕けていく。

 リンネはハルナを抱いていられない。物理的な力で弾き飛ばされた。

 影がみっつに分かれていく。

 両の眼を青く輝かせるミトラ。

 ヘテロクロミアをあおみどりの玉石へと変えるヴァルナ。

 その存在はふたりでひとつ。

 いずれも人間ひとと摂理を結びつける、契約を司る神だった。

 彼女たちは一枚ずつの紙片へと変わっていく。色褪せたそれは高い空へと舞いあがり、そしてゆっくりおちてくる。

 その一片は、リンネの手へと、

 もう一片は、ハルナの手へと。

 そこにははじまりの誓いが克明に記されていた。


 巳虎みとら治奈はるなを純真無垢の日々へと戻す。

 対価としておのれのすべてを捧ぐ。

 そしてそれゆえに、その輪廻はすべて神の望み通りとなる。

 

 永遠野とわの凛音りんねを青春の日々へと帰す。

 対価としておのれの魂を売り渡す。

 そしてそれゆえに、その存在は想い人の望みを叶え続ける。

 

 ただ一周だけで終わるはずだった契約は、人間としてこの世にあるがゆえの根源的な欲求により、無限を生みだす致命的な誤謬ごびゅうとなった。死を望みながら生にしがみつく性根と、愛しき者とずっといっしょにいたいという欲動とが、ハルナという身体にふたつの神の力を宿らせ、永遠を作り出す原因となっていた。

 死にたくない。

 離れたくない。

 そんな単純なものがあるだけで、彼女たちは逃れられなかった。

 

「ハルナ」

「リンちゃん」

 名前を呼び合うだけで想起される記憶。

 寒き夜の海に抱かれながら自分勝手な願いを神に向けたことを、その致命的な間違いについて理解する。

「あは、はは……」

 リンネからは自然な笑みがこぼれた。

 それは桜のようにすぐ散って、もっとも美しい一瞬としてハルナの心に残る。

「ふふ、あはは」

 ハルナも笑う。造っていない笑みで。

 それはひまわりのように強く、もっとも愛しい存在としてリンネの心に残る。

 どちらともなくつぶやきが漏れた。

「同じだったんだ」


 詩乃の手の中で最後の宝石が弾ける。生命の指環がその役割を終え崩れていく。

「刀香、いままでありがとね」

 さよならのときはこんな笑顔で。そんなことを感じさせる、出来の悪い桜を詩乃が咲かせた。

「私、もうだめみたいだから」

「なにしんみりしてやがる。死にたくねえんだろ。今日も、明日も」

 刀香は詩乃に寄り添い、自分自身の生命まで彼女に、オニキスへと委ねた。負荷が強くなり、眼帯がちぎれ飛んだ。凍れる瞳に亀裂が入る。

「なにやってんのよ、刀香!」

「へっ。いつもそんくらい剥き出しでいいんだぜ」

 雪花風刃もオニキスも、そんな妖精の生気を喰らいながら稼働を続けている。

「リンネ」

「ハルナ」

 かすれた声が永遠を抱くものたちを呼び止める。

 ふたりがうなずき、自分たちを縛る約束を眼前へと差し出した。

「約定を斬る。生き残るぞ、詩乃」

「死んだら許さないからね、刀香」

 雪花風刃が一刀でリンネの約束を切り裂く。

 オニキスが一閃でハルナの約束を断ち切る。

 硝子の割れるような音がした。

 妖精たちの手から星の刃が離れ、硬い磯の岩肌へと突き刺さる。

 リンネとハルナの手中から光の砂がこぼれおちていった。

 ふたりは空いた手をつなぐ。妖精たちはその役割を果たした。次は自分たちの番だ。だというのに、彼女たちは人間であることをやめられなかった。

 死にたくない。

 あんなにも生きたのに、もはやこの先などないというのに、彼女たちはどうしようもなく死にたくなかった。

「どうしてなんだろうね、ハルナ。もうなにもかもが手遅れなのに」

「リンちゃん、いやだよ。いなくならないで。私、離れたくないの」

 業火のごとく眼を燃やす妖精は、割れた硝子の瞳から出る血を押さえつけることもなく、そばにいるパートナーに肩を貸す。

「だから、オレたちがいる」

 冷たく言い放つ相棒の姿を詩乃は見上げた。その眼からは海の雫があふれている。

「待ってよ刀香」

 その身をふたりの前へと運ばれながらも、彼女は口で抵抗した。

「わたしにはできない」

 しかしそれはバンシーに課せられた使命だ。アトロポスの鋏によって有限の命となったふたりから、残された寿命を奪い取らねばならない。それができなければ死ぬのは自分だ。

「わがままを言うな詩乃。標的への情を捨てろ」

 シルフィードは左眼から赤い血をしたたらせながら、相棒の手を無理やり掴む。

「やめて。ふたりを殺させるつもり?」

「違う。あるべき場所へ戻すんだ」

 リンネがうなずいた。

「そうだよ、シノさん。わたしは帰らなくちゃいけない。あの海へ」

 ハルナもまた、同じようにした。

「ごめんね、シノさん。私たちだけじゃ戻れないの。だからお願い」

 詩乃は涙と刀香を振り払い、ふたりの前に立った。

 重ねあわされた手が自身の眼の前にある。

 そこから伝わる律動がふたりの命。

 手を伸ばして触れると、そこに人間の体温があった。

 詩乃はその鼓動を包んだ。

「さよなら、ふたりとも」

 彼女は奪う。そこにあるすべてを。彼女たちの未来、残りの時間、そのほとんどすべてを奪い尽くした。

 なにかとてもたいせつなものが自分の胸の中へ戻っていく。

 その正体がわからない。詩乃は戸惑いの表情を浮かべる。

「待って」

 彼女の声を無視して、比翼の鳥は海に向かって歩いていた。

 詩乃はそれを見ていることしかできなかった。

 無音の羽ばたき。

 刀香が気を失ったようにその場へと倒れた。前のめりになって。

 詩乃もまた膝をつき、その背中へこぶしを叩きつけた。

 そして叫ぶ。心のままに。

「ハルナのばか。わたしにばっかりこんな役を押しつけて。だからきらいなんだよ。だいっきらいだ!」

 打つほどに広くて硬いのを思い知る。彼女は身をあずけた。その黒いジャージの背中に顔を埋めて、自分の涙のすべてをそこに染み込ませていく。

 泣き終えると詩乃はオニキスのもとへ歩き、拾いあげた。いつものような負荷がかからない。いや、違う。自分の身体が強くなったのだ。本来あるべきもの、命。それが身体に戻った。だから痛むだけで済んでいる。鞘に納めた。それから雪花風刃にも触れてみる。その刀は刀香のことを案じているようだ。

 だいじょうぶ、と彼女は言い聞かせる。

「だいじょうぶやで。あのボケはこんくらいでくたばるほど弱くないわ」

 イントネーションの狂った関西弁で話しかけると、その日本刀は鞘を呼びつけて自らをおおった。


 時間が動き始める。

 ふたりは稚児ヶ淵の先端で手をつないでいた。

 やがて詩乃がささやく。

「寂しいな」

 そんな彼女の言葉に、刀香は、

「いや、別に」

 と答えた。

 その頬を染める赤い赤い血の色を、真っ白な流星が洗いおとしていく。




   アンデッド・リリーズ - Beginning of the Eternity -


 雨の音がやけにはっきりと聞こえてくる。詩乃は身体を起こした。ベッドサイドに置かれたスマホを見てみると、午前五時だ。彼女はふと、自分の頬をなにかが濡らしているのに気づいた。理由はわかっている。でも、それを言葉にする意味はない。

 端末の隣に置いてあるオニキスに触れる。まだ次の指示は届いていなかった。彼女はベッドから這い出ると、金縁の色つき眼鏡をかけ、パーカーを羽織ってダイニングに向かった。

 早起きの相棒がソファで本を読んでいる。どうせいつもの恋愛小説だろう。視力の低い詩乃でも、そのパステルカラーで対象年齢の低さが読み取れる。でも、いつかのようにそれをからかうようなことはしない。

「おはような、刀香」

「おはよう、詩乃」

 刀香は本をたたむとキッチンに立った。

「飲み物はコーヒーでいいか?」

「ええで。砂糖はこっちで入れるわ」

「目玉はいくつにする?」

「ひとつ」

「オーケイ」

 ケトルに湯を入れ、火にかける。トースターに食パンをセット。油をひいたフライパンにベーコンを乗せ、割った卵の中身を垂らす。すこしして白身の焼ける音が聞こえてきた。蓋をする。刀香は素早い手つきでインスタントコーヒーの粉末に湯を注いでミルクを足し、ベーコンエッグを皿に乗っけた。甲高い金属のベルが鳴り、パンが焼きあがった。冷蔵庫の中からキャベツミックスの袋が取り出され、ちいさなガラスボウルに盛りつけられていく。

 そうしている間に、詩乃は洗面所で顔を洗っていた。相棒は自分の涙のあとに気づいただろうか。鏡に向かって笑って見せる。それなりに綺麗な造花。だいじょうぶやろ、あいつ鈍いし。

 戻った詩乃は、できあがった朝食を見おろしながらつぶやいた。

「ありがとうな」

「いつものことじゃん」

「別にええやろ。そういう気分なんやから」

 食事を終えて砂糖漬けのコーヒーを楽しみながら、詩乃は言った。

「今日は散歩にでも出ようや」

「どこに?」

「海。なんかむしょうに海が見たい」

 彼女たちは冬とさして変わらぬ服装で外に出た。違いはインナーだけ。じっくりと時間をかけ、ある淵に向かう。片瀬江ノ島駅を最寄りとする有名な磯釣りスポット、稚児ヶ淵へ。

 龍恋の鐘でひとつ四百円の金属を買って置き去りにしてから、海と空と富士山の見える岩場に立った。雲を割って天から光が満ちて、詩乃の身体にはすこし刺激が強かった。彼女は陽射しを避けるためにすみれ色の雨傘を開いた。

 春の陽気を吹き飛ばすように強い潮風が通り抜ける。刀香の手が傘の柄を支えた。海岸線をなぞる視線、それが隣に立つ相棒の、赤く輝く瞳へと向けられる。

「なあ、刀香。じぶん、いつからうちらの因縁に気づいとったん?」

 その質問に、相手はけろっとした顔で答えた。

「いや。なんにも気づいてなかったよ」

「うそやろ。じゃあなんでうちにあの指環をくれたん?」

 生命の指環。それに使われていた石はアメジスト。その石言葉は〝誠実〟〝平和〟そして〝真実の愛〟。知識豊富なシルフィードが、そんなものを適当なペアでしかないバンシーへ持たすものだろうか。そんな疑問が胸中にあった。

「じぶん、神話とか花言葉とかに詳しいやろ。当然、宝石関係もばっちり押さえとったはずや。なんの気なしに寄越したなんてことあるわけない」

 顔をあげてみると、相棒は眼以外のパーツも赤くしていた。

「だって、おばあちゃんが言ってたんだもん。この世でもっとも愛しいと感じたひとに渡しなさいって」

「はあ?」

「オレは自分の心に素直に従っただけ。だからなんにも知らなかったよ」

「…………あっ、そう」

 詩乃もたぶん、似た色になってうつむいた。

 刀香に肩を抱かれる。頬を寄せられると額に触れた。あたたかい。春よりも。

「オレたち、星が導かなくても、最終的にはこうなってたと思う」

「調子に乗んな、アホ」

「だめかな」

「……いや、かまへん」

 まだ慣れてない。身を寄せあって生きること、その体温を共有する幸せな感覚に、まだ自分の心は馴染んでいない。だから照れ隠しに語気を強めてごまかそうとしてしまう。

 でも無理だ。この相棒のことは拒めない。

 ふたりの結びつきは前世から続いている。

 永遠野凛音と巳虎治奈。

 白い暗闇に抱かれたリンネは、自らのすべてを星に捧げることでハルナに永遠を与えた。その代償は死の影に怯えて生きるひとりのバンシーと成り果てることだった。だから、これからも星に隷属して生きていかねばならない。死を告げる白金の妖精、バンシーフォーとして。

 ハルナに与えられた罰も同じだった。境遇を嘆き自身を否定するばかりであった彼女には、本当に欲しかったもの、女の子らしさは与えられなかった。だが偽りの願いであったはずのもの、男のごとき力強い身体だけは授かった。それが死を運ぶ風の妖精、シルフィードスリーという存在を形作っている。

 あのふたりの少女がいたという事実は、すくなくともこの世界の中には残されていない。ウェブの検索エンジンでその名を調べても、彼女たちの名前を見つけることはできなかった。そもそもそんなふたりなどこの世の中に存在しなかったのだ、とでも言うように。それに聞き慣れない名前の疫病がこの世界に流行していた。それも随分前から蔓延はびこっていたことになっている。永遠という誤りが修正されるのと同時に、妖精たちはあの世界から弾き飛ばされ、別の世界の中へと放り込まれたらしい。

 気にすることはない。転勤みたいなものだ。場所が変わってもやることは変わらないのだから。

 それに、アカシックレコードにはいまでも凛音と治奈の生きた軌跡が刻み込まれている。なにもかもがなかったことになるなんて都合のいいことはない。その記録と直接つながっている自分たちは、贖罪しょくざいのために生涯を使うことになる。

 要するに、これからも死の影に怯えて生きろ、ということだ。

「あのさ、詩乃」

 もごもごしながらしゃべる相棒に、自分もちょっとまごまごしている。

「なんや、刀香」

「その、次の土日にさ、買い物に行かないか」

「なんで?」

「で、デートだよ」

 それと、前の世界から変わっていないことがもうひとつある。

「刀香。おまえにそんな金あるんか?」

「ください」

「このヒモシルフィードが。自分できっちり稼げるようになってから誘えや」

「はい」

 しゅんとしてうつむく横顔に、詩乃は普通なら聞こえないような小声を使う。

「……待っとるで」

 でもシルフィードは耳がいい。

「ああ。ちゃんと新しい指環を贈るよ。今度は変わらぬ愛を示すためにね」

 詩乃は相手の視界をさえぎるようにてのひらをかざし、その左手の薬指に、いつかどこかではめてもらった指環のごとくエンゲージリングが輝く日を夢見た。

 きっとそのせいだ。

 いまの自分は、死にたくないと思っていない。

 生きていたい。

 この妖精と、ずっといっしょに。




 死にたくないと思うときには、いつも手遅れ。

 でも、生きていたいと想うのに、手遅れなんてときはない。

 だからわたしたちは生きていく。

 生という牢獄に咲く、死に損ないの百合となろう。

 それこそが愛という永遠とわのはじまり。

 ふたりの花、アンデッド・リリーズ。

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