ふたり、ふたつ - Spirits and Fairies-
いまここにふたりがふたつ。
永遠を結ぶ糸を断ち切る、
星の刃をその手に握れ。
*
朝の十時を過ぎている。急行電車に乗り、ハルナはシノさんと共に江ノ島へと向かっていた。始発駅だから簡単に座れる。藤沢駅で乗り換えのために下車し、片瀬江ノ島駅までは各駅停車で進む。そこからが遠い。最終目的地である
「うちのことは心配せんでええで。うちにはとっておきがあんねん」
そう言ってシノさんは、ハルナに細いチェーンにつながれた銀色の指環を見せる。そのリングの周囲には無数のアメジストがあしらわれており、そのどれもが心を惹く深い紫をしていた。
どくん、と胸が鳴る。
「それって、紫水晶の指環——ううん、ネックレスかな?」
「ネックレスや。指環だと思うとちょっと抵抗がな。これ、石が二十四個もくっついとって、一個で一日は花を吸わんでも耐えられるっちゅうすぐれもんや。っちゅうても、もう三個は
たしかに、他と比べると色の薄い石が三つある。
ハルナは慎重に
「だれにもらったの?」
「刀香のやつから。他のバンシーに見せたら驚かれたわ。ごっつう貴重な品らしいで。
吸い込まれそうな、という形容がよく似合うアクセサリ。見つめていると、こんなものをもらえるなんてうらやましい、と思った。前世ではダイヤモンドのリングをもらったことがある。ダイヤモンドという石は〝変わらぬ愛〟を意味した。
左手の薬指に輝く指環は気分を高揚させる。何度経験しても、やっぱりそれはうれしい。
でも、虚しい気持ちが同居していた。そして左眼が痛む。
はじめて指環をもらったとき。
思い出せない。それはきっと、神様と約束をする前。
ハルナは誤魔化すように右眼をおおいながら言った。
「……トーカさん、最初に会ったときからシノさんのことが好きだったんだよ」
彼女は露骨に嫌そうな顔をして、苦い笑みを浮かべる。
「そんなやつとちゃうで。うちの身体が弱いからって渡してきたんやもん。事実やったし、腹は立ったけど役にも立つから受け取った」
「素直じゃないんだ」
「うちは素直やで」
「そうかなあ」
ふふっ、とハルナは笑ってから、続きを話した。
「トーカさんの方だよ。素直じゃないの」
「そりゃ、あいつは見栄っ張りで、いつもすぐバレる嘘を吐きおるからな。素直ではないやろ」
シノさんもたいがいなところがあると思う。それは指摘しない。
「でも、アメジストの指環だよ?」
「なんか意味でもあるん? うちな、石言葉とかそういうのにはうといで。花言葉にも興味ないくらいやもん。生きるのに必要ないし」
「そっか」
じゃあ黙っておこう、とハルナは思った。
アメジストの石言葉は〝誠実〟〝平和〟、
そして〝真実の愛〟。
まさかね、と思って、ハルナはそれ以上考えることをやめた。
藤沢駅につくと、ふたりはまだ寒いプラットフォームに降り、各停の止まる四番線へと渡った。
*
「どれだけ気分の悪い思いをしても、どうしても思い出せないことがあって」
リンネとトーカのふたりは早歩きで駅へと向かう。
「家族の記憶か」
「いや。それは生きるのに必要なかった」
もちろん人付き合いをする以上はその情報が必要になることもあるので、たとえば住民票を取るなどして名前から生年月日まで情報を揃えることはある。ただ、普段使いしない人生を送ってきたので、生きるのに必要なかった、と言っている。自分の人間性を疑う言葉だ。わかってる。自分がひとでなしだということくらい。
「そうだな。家族のことがわかっていようがいまいが、おまえはおまえだ」
肯定されるとは思ってなかった。そのせいか、すこし目がじんとした。
話しているうちに駅へとつながる階段のひとつが見えてくる。
「思い出せないのは、始まる前の自分のこと」
のぼるのはトーカの方が素早い。ただ、足並みをそろえる努力はしてくれた。
「それって、おまえが最初に死んだときのことで合ってるか?」
「合ってる。それより前のことがどうしてもわからなかった。ただ、名残りみたいなものは感じたことがある。電車に乗ったら思い出してみるよ」
「無理するな。
「記憶って。わたしが寝てる間にそんなことしたの?」
「えっ。いや、おまえがオレの下着をぜんぶ脱がしたのとそう変わらないだろ」
「だいぶ違うし、それ外で言う?」
「ちゃんと音遮断してるからだいじょうぶですぅ」
都合のいいときだけ空気を操るトーカにあきれるけれど、どこでもプライベートな会話ができるのは利点だと思うことにした。もっとも、そんなものがなくても自分はとっくの昔にまともじゃない。高出力の電波を発生させる女だと思われたってどうでもよかった。
改札を抜けて当駅始発という電車を待つ。先頭車両の止まるあたりに陣取った。
「わたし、トーカと違って経験豊富だよ」
「なんの経験がだよ」
「なんでも。たとえばトーカは、何人殺したことがあるの?」
彼女はすこし間をおいてから答えた。
「星から切り離した人数はカウントしてないが、まあ、三桁代は余裕だろ」
「私はそれよりも二桁以上多く殺したはず」
「ひえっ。おまえ、大量殺人鬼でもあるわけ?」
「そうすれば終われると思ってた。罪を犯して人間未満にさえなればね」
でもそれは間違いだった。どれだけおおきなことをしでかしても、この一年は終わらない。みじかくすることはできても、終わりだけは決してやってこない。
「ほかにもいろいろやったよ。自分の執着を消すために修行みたいなことしたりとかさ。中でも最悪だったのが、ハルナのことを忘れようとしたときのこと」
到着した電車はすこしの間、停車したままになる。座りたい放題ではあるけれど、リンネたちは手すりの際に座った。頭が痛い。でも耐えられる。いま苦しいのは自分だけだから。隣に座るトーカの方に身をあずけた。
思い出の続きを話す。
「わたしね、恋愛ってのも結構やってみようとしたんだよ。
「そりゃハルナとカップルだからではなくて?」
「じゃあこれ見てみてよ」
リンネはスマホを差し出す。時刻の下には自分とハルナの写真。ふたりでクリスマスをすごした記念の写真、だと思われる。確信がない。思い出せないからだ。ハルナはすごくうれしそうにしている。でも自分の笑みは不格好だ。下手なのだ、笑うことが。笑顔を造ることが。
「あれ。なんでおまえ、ぜんぜんうれしそうじゃないんだ?」
トーカが見てもそう感じるらしい。
つまりこの写真は、自分が心底から喜んでいるわけではないことを証明している。
「たぶん、違うんだよ。わたし、このときはまだハルナとつきあってない」
「そんなことある?」
「これ見て」
写真のアプリから画像を一覧表示する。画像がぜんぜん残っていない。部誌の画像、精神安定剤の処方箋やリンネ自身をだれか別の人間が写したもの、ぜんぶ合わせても百枚なかった。
「もしいまのわたしがハルナとつきあってるのなら、もっとたくさんの写真を撮ってたはず。この過去だけはどうあがいても変えられないんだよ」
とつぜん、電車が動き出した。トーカがまわりの音から自分たちを隔絶しているせいで、アナウンスが聞こえなかったようだ。リンネは白髪の少女に寄りかかり、その胸の中に自分の顔をうずめた。
「それとね、ハルナってすごく笑顔を造るのがうまいんだ」
リンネは痛む頭と後悔と、そして記憶の残滓とをつなぎあわせて懸命に答えを出そうとする。
「この笑顔、多分だけど造ってくれてる。わたしのために」
「なんで?」
「わたしを元気づけようとしてくれてたんだと思う。ハルナは……ハルナは大事なともだちだから」
そのとき、キンという音が聞こえた。
それは刀香の持つ竹刀袋から響いてきたようだった。
「
なにもせずとも、その刀は目の前に現れた。ひとりでに袋から飛び立ち、空中で鞘から抜け出していく研ぎ澄まされた金属。その刀身から目が離せない。その刃の柄がリンネの手に寄り添ってくる。
気がつくと電車が止まっていた。なのにブレーキをかけたような衝撃がなかった。外の景色も、別の車両の人間も、すべてが静止していた。
「握れ、リンネ」
トーカが眼帯を外す。
白と赤の輝きがリンネを見つめた。
綺麗だ。ううん、これは美しいっていう感覚。まるでハルナに見つめられているような気分になる。それがいやだと思えない。なんでなんだろう。彼女の言葉に従う。それが正しいと信じてしまう。
「
トーカの言葉と共に、網膜にその景色が映し出される。それに呼応するように身体が過去の記憶を読み出していく。自分の身体にあるものではない。それは身体の外にある魂の記憶。いつもの頭痛が起きなかった。だからひどく客観的にそれを感じ取ることができる。
いまならわかるかもしれない。永遠がどうやって始まったのかを。
*
江ノ島駅へ向かう車中、詩乃の周囲の時間が止まった。バッグの中からキンという音が聞こえてくる。
「……オニキス?」
呼んでいる。そう感じた。そんなことはかつて一度もなかった。
無機質なそのナイフを手に取ると、どくん、という鼓動が伝わってくる。生きているかのごとく。
「それは星の刃ですね」
いつの間にか隣にいるのがミトラになっていた。両方の瞳が青い、神の化身。
「せやで。よう知っとるな」
「神ですから」
ミトラがごく当然という態度で答える。傲慢だ。神だからこのくらいでちょうどいいのだろうけど。口には出さないが、詩乃はそんなことを考えた。
余裕があったのかもしれない。オニキスが手の中にあると心強かった。それはいま、自分を守ろうとしている。どうしてかわからないが、彼女は星から与えられた武器に言い知れぬ信頼感を覚えていた。
「シルフィードとアカシックレコーダーが、私たちの始まりに近づこうとしているようですね」
「私たちっちゅうのは、どこまでを指しとるん?」
「アカシックレコーダーと、神」
ミトラはみじかい答えのあとに言葉を続けた。
「これは独り言なのですが、もし彼女たちが先に答えに辿り着いたとしても、それでは足りない」
詩乃はミトラの方を見ず、前を向いた。耳だけで彼女の声を聞く。
「それではまだ、スタートラインにひとりしか立っていないことになる。競技としては成り立たない」
そうだろう、と詩乃はうなずく。だからオニキスと命の指環、ふたつの利器を使ってでもハルナのはじまりに近づくつもりだ。永遠が始まる前。彼女の前世になにがあったのか。もっと正確に言えば、あらゆる前世のひとつ前、生まれてから死ぬまでの間に、なにが彼女と神を契約でつなげたのかというその経緯へと。
「神の契約は絶対で、だからこそ終わらせる方法が必ず用意されている。この世に永遠不滅のものなどない。けれど、それでもなお永遠を求めるものは絶えない。その想いが、神の思惑を超えて不具合を生じせしめる……」
ゆえに、妖精たちは星の手足となり、永遠という存在と戦い続ける。
「お願いします、宿命のバンシー。あなたならハルナの本当の願いを叶えることができるでしょう。契約など所詮は神々のルールに過ぎない。完全なのは働きのみ。それが星に誤りだと判断されたことが、私、私たちにとっての福音なのです」
詩乃は隣をちらと見た。雨が降っている。ひとの頬を冷たく濡らす冬の雨が。
だから言葉をかけた。
「そのためにも、わたしはハルナの想いを知るよ。永遠を始めてしまった、その感情を」
「よろしくお願いします」
電車が動き始める。
すべてはときが停止する前へと戻っていた。詩乃は指先で目をこする。
「もうすぐつくで。せっかくやし、歩こか」
「大変だよ?」
そう答えるハルナは笑っていた。上手な笑み。造られた笑み。わたしと同じ。
「せやなあ。駅から十五分なんて書いとるけど絶対に嘘やで」
ふたりは造花を咲かせながら片瀬江ノ島駅で降りた。開放的な景色だ。背の高い建物が周囲になく、空が広い。改札に向かって歩く。新江ノ島水族館と書かれた、覗き口が青く丸い、おおきな水槽がある。なかにはたくさんの海月がただよっていた。記念撮影かなにかをしようとしている人々の群れがいて、彼女たちはそれを横目に改札口を通り越した。
外に出て振り返ると、そこにはまさに竜宮城という感じの新しい駅舎が堂々とした面構えを見せている。片瀬江ノ島には
ちなみに、詩乃が聞いて解釈した江島縁起の内容は次の通りだ。
鎌倉の深沢というところに、五頭龍という、天災を引き起こし病気を流行らせたという悪いやつがいた。山を崩すわ洪水を起こすわ疫病を流行らせるわ、そのあげくに生贄まで要求する始末。悪い龍のお手本みたいな存在だ。
そんなのが大暴れしているあるとき、黒雲が天を覆って大地震を引き起こした。高波が村を襲い、大地の揺れはなんと十日も続いたという。そしてその後、海底で大爆発が起き、その爆発した場所にちいさな島ができた。これがいまある江ノ島らしい。
そこに雲の上から美しい天女が現れた。五頭龍は、その天女があまりにも美しいので一目惚れする。それで求婚するが、悪いことばっかりしてるのでだめと断られた。当たり前。
で、その龍は悪いことをするのをやめると天女に誓う。口でならなんとでも言えると思うけれど、なんと天女はこれを信じ、まさかのゴールイン。この天女、もうすこし疑うということを知った方がいい。
龍はその後、天女との約束を守る。天災を防ぎ、日照りには雨を与えるなどの善行を積む。そのたびに龍の身体は弱り、最後は山となって村を守るようになった。
これが江島縁起のあらましだ。
この伝説にあやかったのが目的地である恋人の丘、龍恋の鐘。
物思いにふけるように駅舎を見上げていたふたりは、ほぼ同時に互いの顔を見た。
「はは。そろそろ行こか」
「そうだね、シノさん」
ふたりは手をつなぎ、
海が近い。寒風の中には潮の香りが混じっていた。懐かしい、と感じるのはなぜだろう。詩乃は別に海辺で生まれたわけではないのに。
そして歩を進める足取りは軽かった。ハルナと歩く道は、なんだか楽しい。
それは死への一方通行かもしれないのに、詩乃はこの時間を楽しんでいた。
*
窓を叩く雨の音がやけにはっきりと聞こえてくる。でも、寒くはない。むしろ、かすかなぬくもりが愛おしく、なかなか布団から出る気になれなかった。どうしてこんなにあたたかいのだろう。それに生きている。懐かしさを覚えるのは匂いのせいだ。自分の家の匂い。しばらく離れていたからこそ気づける、長く住んできた場所のおちつく匂い。
どうして、と思いながら身体を起こす。その身に触れる。髪の毛がさらさらとして長い。肌にも張りがあった。わたしはそこでようやくまわりのことを見ようとした。
自分の家だ。自宅の、団地の、自分の部屋。綺麗に片づいている。
しかし、どうして?
思い出せない。自分がさっきまでなにをしていたのか。夢を見ていたときの感覚に似ている。夢を見たという実感だけはあるのに内容が思い出せない。それと同じように、これまで生きてきた自分のことがほとんど思い出せなくなっていた。
わたしは、そうだ、わたしはだれだ?
ベッドサイドには、スマートフォンは見当たらない。ではベッドの中はどうだろう。あった。出てきた。そこには今日の日付、十二月二十五日の土曜日と表示されている。時刻は五時過ぎ。たぶん午前中だろう。そしてロック画面に設定された写真には、ふたりの少女が映っていた。
その片割れを見て、わたしの胸が跳ねる。
ハルナ!
それは間違いなくハルナだった。それも高校生のころの。まだ幼さの残る相貌に、ツインテールなんて子供っぽい髪型。でもこのヘテロクロミアは間違いない。わたしはスマホを抱きしめた。
じゃあ、この隣に映っているのは、もしかすると自分か。枯れ木を思わせる黒髪の少女。下手な笑顔。まぎれもなく自分だと直感した。確認のためバスルームに向かって歩く。間取りを身体が覚えていた。洗面所の鏡に映る自分は、スマホの写真の中にいる少女と一致している。
自分の家だってことも、どのくらいの年代かも覚えているんだ。ここまできて他に思い出せないことがあるなんて、整合性が取れない。わたしの名前。しかしそれがどうしても出てこなかった。
そうだ、家族は。
身体が勝手に仏間へと歩く。仏だって? じゃあ……。
お仏壇には、三人分の写真が置かれていた。だめだ、わからない。このひとたちがだれなのか。でも、自分の家にあるんだ。家族に違いない。死んでしまっているとは思っていなかった。父も、母も、そしてこの幼い子も。わたしは手を合わせて祈った。口に出して言った。
「なむあみだぶつ。なむあみだぶつ」
ここまで常識的な行動が取れるんだ。なにかきっかけがあれば連鎖的に思い出せるのではないか。家族の写真でもだめなのにか。だめで元々という心構えで、スマホのロックを解除しようとする。指がひとりでに動いた。その操作の最中に生体認証が通ってホーム画面に移動する。
なつかしいスマホゲームやSNS、漫画アプリなどが見える。それらは無視して通話ボタンをタップした。履歴の最後はハルナのもの。深呼吸する。すぐには電話をかけず、留守番電話の一覧を見た。巳虎治奈という文字列がずらっと並んでいた。
一番上には十二月十八日を意味する数字が並んでいた。三十秒にも満たない音声だが、再生してみることにする。
「もしもし、リンちゃん? ごめんね、また電話しちゃって。クリスマスもイブも、帰るのが遅くなってもだいじょうぶだって。だからいっしょにいさせて。嫌だったら無視していいから」
すこしの間、彼女の息遣いが聞こえた。
「じゃあね」
そこで通話は終わる。
リンちゃん、か。心地いい響きだ。目元が熱くなって、ぽたぽたと雫が垂れた。この感じだと、自分は電話に対してあまり真摯に応答していないらしい。なんでだ。ハルナなんだぞ。袖で涙をぬぐう。
だけど仕方ないことかもしれない。自分はまだ高校生だ。このころはまだ……。
感覚しか頼りになるものがないのは心細い。こういうとき、無理に思い出そうとすると頭が痛くなるとかテレビで見た覚えがあるけど、そんな感じはしない。空白部分を読み取ろうとするような虚しさで頭が重くなるだけ。
意を決して、その再生画面にある通話ボタンをタップしてみる。午前五時というのは、高校生の起きる時間としてはちょっと早い気がする。だから迷惑かもしれない。でも電話せずにはいられなかった。
ほんの数コールで、音が途切れて向こうからなにか聞こえてきた。
「……リンちゃん?」
ハルナの声だった。
「そうだよ、ハルナ。わたしだよ。リン……」
そこまで言えるのに、肝心の名前が出てこなかった。
「なにかあったの、リンちゃん」
「ねえ、ハルナ」
わたしは精一杯甘えてみる。
「わたしのこと、ちゃんと名前で呼んで」
「……ほんとに、どうしちゃったの」
どう答えたらいいのだろう。自分の名前を忘れちゃったから教えて。これはなかなか来てるセリフだ。でも事実だった。わたしは自分がなにものなのかわからない。
「呼ばれたいんだよ、たまには。リンちゃんじゃなくて。ちゃんと名前で」
「う、うん」
ハルナは戸惑いを隠せずにいたけど、それでも数秒のうちに続きを話してくれた。
「リンネ……ちゃん。うぅん、なんか変な感じ。やっぱり、リンちゃんはリンちゃんだよ」
そこまで言われて、ようやく自分がなにをすべきだったかに思い至った。
「ごめんね、変なこと言って」
話題を変えるため、リンネはさっき聞いた録音の内容から話題を広げる。
「それより、今日なんだけど。カラオケにでも行こうよ」
「え、うん。もちろんだよ。忘れてないよ、リンちゃん」
どうやら自分は、昨日のうちにその約束を取りつけていたらしい。
「ごめん。ちょっと寝ぼけてるみたい。そろそろシャワーを浴びてねむけを覚ましてくる」
「わかった。じゃあまたあとでね、リンちゃん」
通話はそれで終わった。恥ずかしいことをしてしまった、という思いで首筋から背中にかけて汗をかいている。でもそれが生きているということだ。悪くない。
わたしはそれから、シャワーを浴びる前にクローゼットを開いて制服のポケットをあさった。生徒手帳が出てくる。そこにはいまよりもさらに枯れ木感の増した幽霊みたいな少女の顔写真が使われている。うわ、と思う。学校の名前といっしょに、
でもこれで自分が永遠野凛音という人間であり、高校時代に戻っているということがわかった。そしてなによりハルナが生きている。当たり前だ。過去なんだから。
……生きている?
引っかかった。けど原因がわからない。やはり頭がぼんやりする。もしかすると、未来のハルナになにかあったのかもしれない。自分が過去に戻っているのはそのせいかも。いや、どういう思考回路なんだか。理屈がなにひとつとして通っていないじゃないか。
浴室で熱いシャワーを浴びた。それですべてが思い出せればいいのに、ぜんぜんだめだった。性格や常識などは残っているのに。こういうのは健忘症というんだっけ。
わたしは鏡の中の自分を見つめる。
うれしいよな、リンネ。
だってまた、ハルナといっしょの高校時代を過ごせるんだから。
身体を拭いていると空腹を感じた。食事をしようと思って冷蔵庫を開けると、ほぼ空っぽだった。牛乳のパックがひとつと、切れかけのマーガリンのケースにナイフが突き刺さったままと来ている。混雑しているのもよくないが、なんら備蓄がないというのもよくない。カップ麺のひとつでもあるかと思って探してみたけど、ない。ゴミ袋を確認してみるとインスタントラーメンの残骸がいくつかと多数のゼリー飲料のパック、牛乳の空き箱、フルーツグラノーラの袋が捨てられていた。ちょうど今日で切れてるというわけか。正直に言えば最低だが、高校生の自己管理能力なんてこんなものかもしれないと思い直す。
部屋からシャツとジーンズを発掘し、寒さ対策に厚手の上着を羽織る。ポケットに手を突っ込むと鍵が出てきた。入れっぱなしか、と自分の管理能力の低さを改めて認識する。
コンビニで適当に買い物を済ませる。電子マネーがちゃんとチャージしてあったのでよかった。とりあえず一食分。あとはカラオケの帰りにスーパーにでも寄ってまとめて買おう。
帰り道、そういえば待ち合わせの時間は何時なんだろうということが気になった。それにどこのカラオケに行けばいいかもわからない。駅前じゃん? とは思うけど。
自室に戻ってメッセージを打った。どこに何時くらいに行けばいいんだっけ、みたいなのを。それから買った朝食を食べる。返事があった。場所と時間を丁寧に教えてくれる。ありがたい。でもそれで、待ち時間が相当あることに気づいてしまった。
手持無沙汰なので、自分の部屋を今一度探索してみた。うさぎのぬいぐるみがある。かわいい。思わず抱きしめる。そのあとデスクを開けてみた。嫌なものを見つける。医療機関の領収書だ。メンタルクリニックのもの。他にも精神安定剤の一覧と薬効について書かれた紙も見つける。この記憶喪失っぽい感覚はもしかすると極度のストレスが原因かもしれない。たとえば、あのお仏壇がその原因のひとつだったりするかもしれない。でもそうなると専門的な治療を受ける必要があり、それが現在進行形なのを覚えているはずだ。でもそうじゃないと直感でわかってる。
わたしはどこかの未来からここに戻されてきたのだ。
他のひきだしから青い冊子を見つけた。なにかの花が表紙に書いてある。文芸部の部誌らしい。わたしっぽい名前の作者はいない。でもハルナっぽいのは見つけた。読んでみる。永遠に等しい寿命を持つ吸血鬼と人間の恋愛物語だった。短編だがよくできてておもしろく、あっという間に読み終えてしまった。ハルナ、高校生でこんなに書けるなら普通にプロになれるのでは。そんなことを考えて笑う。とんでもない身内びいきかもしれないから。
まだまだ時間があるので他の部員の作品も読んでみたが、ちょっといまいちだ。だけどまあ、みんな高校生だし。この先も活動を続けるなら変に
ようやく待ち合わせの時間が近づいてきたので身支度を整えてカラオケ屋に向かった。気が急いていたのか、十分くらい早くついてしまった。入り口の近くにある木の下で待つ。
わたしは無意識のうちにある方向を何度もちらちら見ている。そっちにハルナの家があるからだ。五分もしないうちにその道からハルナが向かってくるのを見つけた。今日は涙腺がゆるい。目を伏せ、彼女が来るまでの間に表情を作り直そうとする。
「おはよ、リンちゃん……どうしたの?」
「おはよう、ハルナ」
ぎゅっと抱き締める。自分よりちいさな、ツインテールの、ヘテロクロミアを持った女の子。自然と腕に力がこもった。頬を額に摺り寄せる。どんどんあったかくなってくれてうれしい。それにオーガニックな香り。自分と同じ。
「り、リンちゃん……は、恥ずかしいよぉ」
「そう?」
腕から離すと、そこには真っ赤な顔をしたハルナがいた。青と緑の眼が潤んでる。それがますますわたしの感情を刺激する。まだ若く、それがまぶしい。目を細めてわたしは言う。
「わたしとハルナだもん。これくらいは普通じゃないかな」
「えっ。そ、そうかな……」
うつむくハルナ。
それを見て、わたしの心の中にいやな感覚が走り抜けていく。
アナタハ ワタシノ コイビト ダカラ。
ぞっとして、記憶が飛ぶ。わずかな時間だけど、いま時間と記憶が飛んだ。
妙な確信の正体を掴む時間はない。
彼女が顔をあげる。
「うん、そうかも」
ハルナの笑顔は、綺麗に咲いたひまわりを思わせる。それがちょっとした違和感くらい、簡単に吹き飛ばしてしまう。
ハルナに任せているうちにカラオケが始まる。ドリンクバーで取ってきた烏龍茶を飲みながら、わたしは向かい側の席に座ってハルナが歌うのを見てる。うんうん、上手だし声がかわいい。聞き入ってたらいつの間にか終わってる。みじかい曲だな。
「リンちゃん、入れないの」
「えっ。あ、うん、どんどん歌っていいよ」
「そう? じゃあ、そうしようかな」
手元にあった電子目次本を渡す。やばいな。この調子だと延々とハルナが歌うことになる。しかしなにを歌えばいいのかわからない。そもそも記憶喪失の身、どんな曲が歌えるのかさえわからないありさまだ。ええと、ええと。ハルナが歌っている間に、わたしは歌詞から検索する機能で、雨が夜更けあたりに雪へと変わるような感じのやつを入れた。細かいところは違ったがなんとかなった。
しかしこの曲、昨日歌うやつだったな。しかも失恋ソングじゃないか。まずったと思いながら次の曲を入力しているハルナを見る。どうノればいいのかわかってない感じがすごいする。小道具もないしな。なんかこう、タンバリン的なのとか持ってきてもよかったかもしれない。歌っている最中に自分が入れる番になるので困る。歌い終えてから探し始める。こうなったらランキングから選ぼう。
ハルナの歌を聞くのと曲を選ぶのを両立するのはきつかった。だって、ハルナの声ならずっと聞いていたいから。それがボーカロイドの楽曲でも、この当時最新のポップスでも、昔のアニメソングでも、なんかよくわからないマニアックなやつでも、なんならどっかの国歌でも構わない。
「パス」
「ふえ? わ、わかった」
困ってるハルナに、わたしは追い打ちをかけてしまう。
「ハルナの声、かわいいね」
「もうっ。リンちゃんも歌えばいいのに」
暗い部屋の中では彼女の顔の色まではわからない。そのほっぺたに触れて温度をたしかめたいと思った。きっと熱い。我慢できなくなってわたしは隣に座っていた。
「リンちゃん?」
「もっと近くにいたくて」
本当は歌うのをいったん中断して、その肩を抱き寄せたい。監視カメラに映っててもギリギリセーフな程度でいいから、いちゃいちゃとふたりのときを楽しみたい。
ダッテ アナタハ コイビト ダカラ。
まただ。ハルナへの想いが強くなるとき、自分の時間感覚がおかしくなる。
「仕方ないな、リンちゃんは」
マイクを置いて、ハルナが肩を寄せてくれる。うれしい。抱きしめた。キスしたいほど愛おしい。でもその欲求を剥き出しにはできない。
目の前にいる高校生のハルナは、親友ではあってもそれ以上ではない。ここから先へと進みたい、という感情そのものが不純だという気がした。友人と恋人に差をつけるなんてことは、下心でしか他人とつながれないやつらがやっていればいい。
「ありがと、ハルナ」
でも、こうして肌を触れ合わせることで幸せを感じる自分の心は、そうした他人への嫌悪と矛盾している。どうも自分は
ハルナの声が甘く聞こえる。
「ううん。あのね、うれしいよ」
視線を合わせずにちいさな声で答えるハルナはとても初々しい。だからわたしはかろうじてブレーキが踏めた。
「次、なに歌ったらいいと思う?」
なんとなくで開いたアニソンのランキングを見せる。
「リンちゃん、無理に合わせなくていいよ。いつものでいいんじゃない?」
そのいつものがわかんなくて困ってるんだよね。
「考えてみる」
スマホの音楽アプリを立ちあげてみた。プレイリストの中にお気に入りをまとめたものがある。名前を見ていると頭の中に旋律が再生されるものがいくつかあった。あんまり明るい感じの曲ではないけれど。身体の記憶に従い、わたしはその中でも一番マシなものを選んで歌った。意味のよくわからない、ちょっとアングラ感の漂うロックな曲だった。
*
リンネのはじまりのときは、奇しくも刀香のものとよく似ていた。おのれが何者であるのか一切わからないというのに、身体はなにをすべきかを覚えている。彼女と自分の違いと言えば、名前があったことくらいだろう。それ以外の差など些末だ、と刀香は感じた。
それはおおよそ十六年前。彼女の記憶が始まったとき、その身体には白い布が巻かれていた。かなり上等な品質のそれが、包帯のようにぞんざいに扱われていた。暗いが、部屋を灯す明かりがある。いくつもの蝋燭の火が自分を、自分たちを取り囲んでいる。
彼女の近くにはぼろ布をまとった老婆が座っていた。手に派手な装飾の施された鞘入りのナイフを持っている。そしてなにかを祈っているように見えた。そういう体勢になっていただけで、実際には眠っていたのかもしれない。刀香が起きるまで。
「目覚めましたか、シルフィード」
しわがれた声で呼びかけられる。トーカは反論した。
「オレはそんな名前じゃない。シラユキ……シラユキトーカだ」
「おお。名前を持って生まれるとは。あなたには重いカルマがあるようですね」
「カルマというのは、宿命のことか」
訊き返す刀香に、その老婆は答えた。
「そうです。カルマは、あなたが過去に行った行為、それに対して課される
「妖精とか、シルフィードとか、やけにメルヘンなことを言う」
自身の手は病的に白い。髪のふさを手繰り寄せると、それも透き通った白だった。おそらく自分の全身が白なのだろう。
「ええ。メルヘンです。フェアリーテール、おとぎばなし。この時代の言葉ではフォークロアでもよいですね」
「見えないぜ、話が」
トーカは自分の胸に触れる。あれっ、と思った。ぺたんこだ。
「……それに、オレの身体は不完全だ。あるべきものがない」
「いいえ。あなたに必要なものはすべてそろっています」
「胸のボリュームは?」
「妖精には必要のないものです。その身は男の力強さと女の美しさを併せ持ちながら、それらの持つ
「えっ。いや、胸のおおきさは女の子の美として絶対に必要だと思うんですけど?」
老婆は驚いたような顔をして、それから咳ばらいをした。
「こほん。これほどまでに前世の価値観に囚われている個体というのも珍しい。普通なら、世界というものに接し、後天的に獲得するような考え方ですよ。つまりそこは個人の好みの問題です」
「はあ。まあいいよ。これから膨らんでいくから」
「あなたの身体は完成しているので、一生そのままです」
「うそでしょ」
「あなたの望み通り、話を進めましょう」
老婆がナイフを抜き放つ。
蝋燭の火の揺らめきが止まった。
「あなたはこれから、この
「具体的にどうすんの?」
「その刀が教えてくれます」
目の前に蛍の群れのような光が現れ、具体的な形になっていく。日本刀だ。トーカは無意識のうちにその柄を握った。頭の中に情報が流れ込んでくる。風の妖精、シルフィード。星の意志を代行する端末のような存在だ。先代が死に、自分が当代の役割を果たす。戦いについてはこの刀、
「要するに、地球のつかいっぱしりをしろってことね。摂理に反する現象がこの世にあるというのがなんとも不合理だが」
「ええ。本来の世界にそのようなエラーは存在しない。ここは言うなれば魂の牢獄」
「だからカルマがどうたらという話になるんだな。この世は刑務所ってわけか」
「刑期を終えれば逃れられる。そのときこそ、あなたは涅槃へと至ることができるのです」
「つまらないことになった」
「では、おもしろいものを渡しておきます」
その老婆がナイフを鞘に戻す。再び蝋燭の炎が動き始めた。
老婆はどこからかひとつの指環を取り出す。銀製のわっかに、やけに紫が濃い石がごてごてと取りつけられている。トーカにはあまり美しく見えなかったが、不思議と目が離せない魅力があった。あるいは、実際になんらかの力があるのだろう。トーカは威圧されていたのだ。
「これは生命の指環。あなたがこの世でもっとも愛しいと感じたひとに渡しなさい」
「おばあちゃん、さてはオレに惚れてるね?」
指環を受け取りながら問う。ごつごつとした手触り。アクセサリとしてはすこし身に着けづらそうだ。
「老いらくの恋というやつですね。あなたは美しい」
「照れるな」
「ただの引継ぎですけど」
余計なこと言うなよ。
「私の時間はもうそれほど残されていない。だからあなたの相棒は別のバンシーが務めることになるでしょう」
一瞬で話題を変えられた。
「バンシーってなに?」
「死を告げる妖精。寿命を視る眼を持ち、ときにあなたを助ける者」
火が揺れる。そのうちのひとつが老婆と重なっている。透けている、と思ったとき、トーカは気づいた。
「……このいまにも消えそうな蝋燭が、おまえの残り時間を示しているのか」
「おお……。シルフィード、燃える右眼に凍れる左眼……どうか、次のバンシーをよく助けたまえ」
火が消えていく。強い風が吹いた。目の前でひとが死ぬ。そのことが自分の心にさざなみを立てる。室内に吹き荒れる風が本物の蝋燭の火を消し飛ばしていった。どうやら自分が風の妖精であることは疑いようのない事実らしい。ナイフが彼女の手からおちる。しかし床にぶつかる音がしなかった。底なしの崖に落下したかのように消えてしまった。
トーカは暗がりの中で老婆を抱きしめる。枯れた身体だ。どこかで抱いたことがあるかもしれない。前世で。そんな昔のことに拘泥していても仕方ないだろう。自分はいまを生きている。そして未来に向かって歩くのだ。たとえ星に奴隷のように扱われたとしても構わない。それが前世の報いであるというのであれば、その文句を言う先は星ではなく死ぬ前の自分ということになる。そいつに会ったら絶対にクレームをつけてやる。そんなこと起こるはずもないが、とトーカは自嘲する。
壁を伝って別の部屋への道を探す。ひとつ隣の部屋に行くと蛍光シールの貼られたスイッチがあった。それをパチンと押すと、そこには昭和って感じの部屋がある。こんな感覚があるのだから、自分はきっと昭和なる時代を知悉していたのだろう。
「妖精ねえ」
年季を感じる姿見があったので自分の容姿を改めて確認した。凛々しいとも可憐とも呼べるあいまいな姿だ。気になるのは左眼が真っ白ということで、すこし不気味に感じた。あのおばあちゃんはこれも含めて美しいと思ったのだろうか。反対側の赤い瞳はたしかにルビーのようにも見えるから、評価してもらえるのはうれしいけど。
彼女は部屋に用意されていたスポーツ用品らしき下着と、黒いジャージ一式を身に着けた。財布も。中身をチラ見。おこづかいってところか……。それから雪花風刃をおあつらえ向きの竹刀袋に入れる。救急箱からはラッキーなことに眼帯を発見。それで左眼を隠す。かっこいいじゃん。
部屋を出る。月が冴え冴えと輝く夜だった。さて、次代のバンシーに合流しよう。できればかわいらしい女の子がいい。フムン。どうやらオレは、前世では女が好きだったらしい。まあ、自然に出てきた一人称がオレというくらいだから、男だったのかもしれん。それならぺたんこなのも納得できる。
いや、できん。絶対にもうすこしあったもん。むすぅ。
過去のことを思い出すとムカついてきた。
だがそれで我に返る。
リンネの記憶の中には、ときどき不自然な時間の飛び方をしている部分がある。その現象は、ミトラといった神々の化身や、雪花風刃などの星の刃が引き起こすものとよく似ていた。永遠なんてものはこの世に存在しない。それを成立させるには現実を変える必要があるのだ。
不思議なのは、それがリンネの感情とリンクしているように感じられたことだ。それに、ハルナの様子もいまとは異なっている。まだ距離が遠い。リンネの言った通り、このときの彼女たちは恋人という関係ではなく、仲のいい同性の友人という程度におさまっている。
刀香は時間を加速させていく。
リンネは失った青春を取り戻すかのごとき勢いでハルナに近寄っていく。
年末年始もいっしょにいるように誘い、なんとか共に初詣に行く約束を取りつける。学校が始まると同じ時間帯に長い通学路を登校し、同じレベルの授業を受けるべく必死に勉強して、放課後は文芸部員として読書をする。執筆の方はてんでだめだった。練習用の
バレンタインデー、ホワイトデー、ゴールデンウィークといっしょに過ごす時間が長くなるほど、彼女たちは親密になっていく。そしてやはり引き起こされる謎の一時停止、飛ぶ時間。
そして不自然なまでに深まるふたりの仲。
いまのハルナには、前世の記憶があるという。
だがこのときのハルナにそれがあるとはとても思えない。
七夕、夏休みとお祭り、シルバーウィーク……。
季節は過ぎ、あの日が近づいてくる。
トーカはそこでなにが起こるのかを待つ。
燃える眼、冷たい眼、ふたつをしかと見開いて。
*
もうすぐクリスマスイブだ。今年は土日だからうれしい。ハルナと家でケーキを食べることになってる。もちろんわたしの
でも、そこまで度を越したことをするつもりはない。まだ手をつないだりハグしたりするくらいの関係だから。ときどき我慢できなくなって、額や頬にくちづけをしてしまう。そのときにばっと体温があがるハルナがまたかわいくて、わたしの中の感情はますます燃えあがるばかりだった。だからできるだけ場を盛り上げて、そして——ムフフ。
そんなことを考えている自分は邪心の塊という感じがした。鏡を見る。もう枯れ木なんて感じない。よく食べてるから。でも、その割には太ってもいない。リバウンドでふっくらしてくるかと思ったけど、そういうことは起こらなかった。
それと、この時代に戻って思い出したことがある。わたしは月に一度くらいの頻度で、死ぬほど体調が悪くなる。尋常じゃない。特にメンタルがきつかった。なんでそうなるのか、最初の一回目はわからなかった。けど、ハルナといっしょにいるときに起こったそれによって、理由がわかった。
ひとつ前の冬、放課後の文芸部室。わたしはおなかを押さえてうずくまっている。
痛いだけじゃない。気持ち悪いし、頭がぐるぐるする。ひどく寂しい。いやだ、いかないで、と身体が言っている。でもだれにそんなことを言っているのかわからない。すぐそばにはハルナがいた。見上げる。青と緑の光を。
「だいじょうぶ、リンちゃん? もしかして、来ちゃった? つらいんだよね……ごめんね、私、わかってあげられないから」
ハルナは——そのとき、頭が痛んだ。一瞬、白い閃光みたいなものが見えて、額から汗が滲み出す。これはいよいよまずいかもって感じがしてくる。体液がごっそり抜けて喉が渇くけど、冷たい水は飲みたくない。この学校はたしか自販機にいつでもホットななにかがあったはずだ。
「うぅ。でも、まあ、自分の身体だし」
「そっか。リンちゃん、強くなったね」
昔の自分は毎月こんなふうになっていたんだっけ。わからない。ハルナといっしょに最寄りの自販機コーナーへ行った。あったかいのもつめたいのも、紙コップで出てくるやつは一律百円。いいね、安くて。おいしいほうじ茶とやらを買った。
ひとくち
「リンちゃん、つらいならおくすり飲んだ方がいいよ。いまも通院してるでしょ?」
いや、してない。わたしはそれを言えなかった。
理由を考える。まともに働かない頭をどうにか動かそうとする。
自分がいま言われていることは、女の子一般の体験することについてなのだろうか。これの症状を緩和する薬はドラッグストアに行けば買えるわけで、わざわざ通院するなんて恥ずかしい。でもなにか重大な病気につながるかもしれないし——
痛む。頭が。明滅する視界。景色の一部が白く欠けた。
なんなんだ、この症状は。げっそりする。頭が重い。
これ、身体じゃない。いや、身体の中でも一番精神に近いところ。脳。脳がダイレクトにやられてる感じ。
つまりメンタル。
そこでわたしはようやく、自分がデスクで見つけた領収書のことを思い出す。わたしはメンタルクリニックに通い、精神安定剤を飲む身だったのだ。
「うん。でも、頼りたくないんだ」
すらすらと出てくる嘘に、わたしは内心で怯えている。それが背筋に冷たい震えとなって感じられた。
「そう……? 私、いっしょに行くよ? 通うのがつらいなら、私がついてるから」
その言葉がつらさを緩和させてくれる。百円のお茶よりもずっと臓腑に沁みた。
わたしはハルナに抱き着いて泣く。ぽろぽろあふれてくる涙の量がやばくて、やっぱり病院行った方がいいかもなと思った。
家まで送ってもらったあと、あらためて領収書の日付など細かいところを調べてみた。どうやらわたしは、去年の十月ごろから病院をサボり始めてる。だからかどうかわからないが、家を探しても薬の残りはほとんど出てこなかった。薬をまとめた白いビニール袋の中には、使い切った睡眠薬の残骸と、効き目の軽い抗不安薬の残りが三錠ほど入っているだけだった。
特に寝つきが悪いなどという症状はないので、だいぶ治っているのだと思うが、ハルナに甘えることにした。予約を取り、診察を受ける。時間が空いてしまったので当日は身体が軽かった。女医さんに、すこし間が空きましたね、みたいなことをのんびりした口調で言われる。まだ死にたいと思うことはありますか、とか、まだ事故のときのことを思い出しますか、とかを確認された。そう、確認って感じで、そんなに深刻そうではない。持ち直してきてたんだろう。
でも、それでだいたいわかった。自分はどうやら事故に巻き込まれ、それによって家族を失った。実感はない。ただわかったというだけ。身体がその後遺症を引きずっていることで痕跡を認めることができる。それにしては頭の痛くなるタイミングが変な気もするけれど、時期が重なっていたんだろう。
「リンちゃん、元気になってきてるみたいでよかった」
ハルナから見てそうなら、それでいいやって思っちゃう。
「お守り代わりに薬はもらっとくことにするよ。あと睡眠薬、本当は急にやめちゃだめなんだってさ。いまは眠れてるからいいけど」
「もう。リンちゃんってば……」
他愛ない会話をしながら、帰りにハンバーガー屋に寄って帰る。銀行口座にはとんでもない大金が入っていたけど、それは未来の自分のために使う軍資金だ。大学にかよい、もしなにかに目覚めたら院にまで進むかもしれない。そうしたら結構な学費がかかる。生活費のことも考えれば無駄遣いはできない。だからわたしたちは、遊びに行くにしてもできるだけ安く済ませる習慣をつけていた。
自宅で身体をチェックした。手首みたいな目立つところじゃなく、別のところに派手な手術の
死にたいと思いますか。ぜんぜんそんなことは思わない。むしろ、死にたくない。わたしは、もう死ぬなんてごめんだ。
頭が痛い。すごく。そのものすごい痛みは内側から襲ってきていた。わたしはすぐもらった薬を飲む。一錠だけ。三十分くらい耐えれば効果が出てくるはず……しかし、その激しい痛みでベッドに倒れ込む。
症状が消えたあとは、なんだかこう〝無〟って感じになった。おちついているが、心地よさがない。やる気がないがだるくもない。冷静だけどぼんやりしてる。それが薬の効果らしいのは、頭痛に対処するために繰り返し服用することで理解した。そしてもうひとつわかったのは、頭痛が起きてから飲んでも遅いということ。
むかしのわたしは、死にたいと思ったことがあるんだろうな。ぼけっとしながらそんなことを思った。事故、死にたい、とかで検索すると最速で電話相談に関する内容が表示される。そうじゃなくて、事故が起きて生き残ったひとが死にたいと思う現象について知りたい。それはサバイバーズ・ギルトと呼ばれる現象だった。生存者罪悪感は、事故で生き残ったひとが当時のことを思い出し、まわりが死んだのに自分だけ生き残っていることに対して抱く感情を指している。
でもあの痛みはそういうものではない気がする。
土曜日、わたしはハルナといっしょにチキンを食べに行き、その帰りに去年と同じところのケーキを買ってもらった。今度こそ、あの写真のやり直しをするんだ。わたしの家でね。ハルナとふたりきりの室内で、わたしはいまの関係をもう一歩先に進めるつもりだ。
そうだよ、だって、
ワタシト ハルナハ コイビト ナンダ。
すっかりわたしは彼女面だ。いつもと違ってなんか赤くなりながら部屋に入ってくるハルナ。なにが起こるかもう察してるんだろうな。だってクリスマスイブだもの。その辺の男と女のペアとかも、ふたりきりの家の中では然るべきことをやるだろう。それと比べたら、わたしはずっとつつましい。ほんの一瞬でいいんだ。触れるだけでいい。
そわそわしてしまって、ケーキの切り方を失敗するわたし。セラミックナイフにべったりとクリームがつき、スポンジの形がくずれた。等分という言葉を知らないのかと思うほど、その直線は中心をはずしていた。取り返そうと思ってもう一回。だめだこれは。
「あはは」
ハルナがそれを見て笑ってる。こんなのでもわたしはうれしかった。自分の目元が幸せで持ちあがるのがわかる。
わたしはスマホを使って自撮りをする。写真にはにこやかなふたりが写った。造花ではない、本物の花だ。ハルナがひまわりなら、わたしは桜あたりが妥当かな。それともそれは自画自賛がすぎるというものか。でもわたしは、その写真を見て目元が熱くなるのを感じ取っている。だって儚い感じがしたから。こんなふうに笑い合える時間があとどれくらい残っているんだろうって、そんな感傷に
頭が痛いけど、そんなそぶりは見せない。
こっそりとその画像をホーム画面に設定する。
「おいしいね」
ハルナは口のなかに物が入っているときにしゃべらない。いい子。
「うん、あまぁい」
わたし、悪い子。
「あはは。クリームついちゃってるよ」
「えぇ? じゃあ取ってよ」
「もう。あまえんぼなんだから、リンちゃんは」
「いいじゃん、ハルナ。お願い」
「うん。わかったよ、リンちゃん」
わたしたちは向かい合う。ハルナがティッシュを取って、わたしの口をぬぐった。じっと見つめる。その様子を。ハルナの瞳を。こちらを見てって願う。視線が重なってくれるようにと、祈りみたいなものを捧げてた。
現実になる。ハルナのヘテロクロミアがわたしのことを映し出した。
「ハルナ」
わたしは彼女の頬に触れる。顔を近づけていく。
「リン、ちゃ——」
言葉が止まる。瞳の色がまぶたにおおわれていった。わたしはそのまま唇を重ねる。かすかに甘い香り。もう我慢することができなかった。舌先で唇を舐める。
「んうっ」
ハルナの身体が一気に熱くなった。わたしも自分が発汗してるのを自覚してる。
時間というものはどうしてこうもあいまいなのだろう。
わたしが唇を離すころには、ハルナの瞳は
「うぅ、ご、ごめんっ」
わたしは急いでハルナから離れた。
危なかった。わたしはあまりにもやばいことをしようとしていた。
「ふわあ。び、びっくりしちゃった……」
「ごめんね、ハルナ」
今度はわたしの方が恥ずかしさで顔が燃えてる。ハルナの手触りのいい髪の毛を撫で、ツインテールのふさふさを軽くいじくった。
で、その日はそれで解散。だって、それ以上いっしょにいたら、今夜は帰さないとかわけのわからないことを言いそうになったから。頭の中に色んな物質が駆け巡って、そのまま自分が壊れてしまいそうなくらい幸せだった。
歯を磨いてゆっくりとお風呂に入る。まだ消えない。ハルナの感覚。ちょっと湯の中に沈み、一分くらい息を止める。それでも消えない。どうしようもないくらい残ってしまう鮮明ないまという記憶が愛おしい。
パジャマに着替えてベッドに横になっても、なかなか寝つけなかった。もぞもぞして、スマホで気を散らして、クリスマスイブにハルナとキスしたという現実に酔っていた。
………………。
いつの間に眠ったのだろう。やけにはっきりと雨の音が聞こえてくる。窓が叩かれているようだ。わたしはスマホを探す。握って眠ったはずなのになかなか見つからない。けど、やっぱりベッドから出てきた。
十二月二十五日、土曜日。時刻は午前五時だ。
わたしは、すぐには気づかなかった。もうすこし寝ようと思って目をつむる。なかなか眠れない。ぜんぜん眠くなかった。元気だなと思って、今日の分のログボでも受け取ろうと思ってスマホゲームを起動するためにロックを解除する。
ホーム画面に移動したとき、すぐ異変に気づいた。桐の花が書かれた文芸部誌が背景画像になっている。設定ミスだろうか。写真の一覧を見るが、その画像がどこにもない。それどころか、一年間の間に撮ったはずの写真すべてが消え失せていた。最後に撮影した写真の日付は去年の十二月二十四日。
なぜ。
現実逃避でスマホをスリープさせてしまった。もう一度ロックを解除しようとしたとき、わたしの目は日付を再度追っていた。
十二月二十五日、土曜日。
「あ、ああ……」
カレンダーアプリを起動する。
今日は、去年の今日だ。クリスマス。
「うそだ。だって、わたし、いままでのことぜんぶ」
ぜんぶ覚えている。ハルナとキスしたことから逆走して、自分が記憶喪失に陥ったあの日までのことを。
「ハルナ。そうだ、ハルナは」
わたしはすぐハルナへと電話した。午前五時、前の記憶通りなら出てくれる。
でも、そのころのハルナは彼女でもなんでもない。ただのともだちだ。
どう接すればいい。ハルナが出るまでの間には考えがまとまらなかった。
「リンちゃん?」
予想していたよりもふんわりとやわらかいその声音に安心する。
「ご、ごめん」
「どうしたの? リンちゃん、泣いてる?」
「ううん。そんなことないよ」
「でも、声が」
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、ハルナ」
でも、
「でも、しばらく通話をつないでたい」
アナタガ イナイト ワタシハ ダメダカラ。
「うん、わかった。だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、リンちゃん。私はここにいるから」
午前五時の雨の音と、スマホから発せられるホワイトノイズ、そしてときどき、ハルナの吐息。
怖かった。でも、それでも、わたしは堪えられる。
もしもわたしが来年のクリスマスイブから先に進めないのだとしても、そこにハルナがいてくれる限りは絶対に大丈夫。
そんな一方的で身勝手な信頼感しか、わたしを支えてくれるものはなかった。
*
「ねえ、シノさん」
「なんや、ハルナちゃん」
歩いて十五分とか絶対嘘と思いながら、ふたりはようやくふたつ目の橋を渡り切り、運よく開いていたベンチにハンカチを敷いて座った。シノはハルナの左側に腰かけている。
「わたしとリンちゃんのこと、どう見える?」
「そりゃもう、熱々の恋人同士やろ」
「そう、だよね。そう見えるよね」
その引っかかるものの言い方に、詩乃は自然と隣を見ていた。緑色の瞳が見える。
「前世の記憶もそう言ってるの。わたしたちは恋人同士だったって」
その強調された言葉遣いに、詩乃は金縁眼鏡を外してハルナのことを見た。
「なんや元カノみたいな言い方やん。そうは見えんで。ふたりとも信じられんくらい仲がええわ。そんなのにあのリンちゃんっちゅうのは刀香みたいな、」
「シノさん、あのね」
次の呼び声は、さきほどまでより低く強く胸に届いてきた。
「私たちね、まだ……まだ、恋人じゃないはずなの」
こういうとき、べたにやるなら眼鏡をおとすべきだろう。詩乃は視線だけを地面にやった。ぼやけた視界に四角いタイルの規則的な並びがかろうじて見えている。
「一応確認しとくけど、それって告白されとらんだけやろ。じぶんら、第三者から見て立派な恋人やってんで」
「違う」
ミトラとも違う否定の仕方。詩乃は冷える胸を撫でてから、真剣な眼差しを相手に向けた。
「話してみ」
「私とリンちゃんは、親友だけど、恋人じゃない。それにリンちゃん、急に元気になった」
ハルナの姿がちいさく見える。それが等身大の巳虎治奈なんだろう。
わかる。詩乃には見えていた。いまの彼女の寿命は、一般的な人間と変わらなかった。蝋燭の長さは有限で、特筆すべき特徴を持たない。これはつまり、彼女を守っているものがいまは存在していないことを示している。
「でも、頭の中に聞こえてくるもうひとりの私の声は、リンちゃんは前から恋人だったって……リンちゃんがそう思ってるから、私もそれに応えなくちゃいけないって言ってる」
炎がまたたく。治奈がぎゅっとスカートを掴んでいた。
「それは、強制なんか?」
「ううん。それが正しいんだって私もそう思う。だって、私たちはずっといっしょだった。ずっと、ずっとだよ。だれにもわかってもらえない。足元にある石ころはなんにも教えてくれないもん」
冷酷を意識してもう一度言う。
「強制されとるんやろ。そして、それはリンちゃんには言えない」
「そう。だって私は誓ったから」
炎が消えた。なにもない。詩乃は恐怖を
「リンちゃんとずっといっしょにいて、彼女の望みを叶えようって」
ハルナの左眼が強い
「なあ、ハルナちゃん」
慎重に言葉を選ぶ。答えを引き出すには、答えられる質問をしなければならない。手順を間違えればなにかよくないことが起こる。妖精というより、生き物としての本能が詩乃を臆病にしていた。その臆病さこそ、自分がいままで生きてこれた秘訣でもある。
そして、詩乃はそこでブレーキをかけた。
「あんまり深刻に考えんでもええで」
「シノさん……?」
「リンちゃんのこと、好きなんやろ?」
何回か呼吸が挟まってから、治奈の声が聞こえてくる。
「うん」
「ずっといっしょにいてもええって思うとる」
「うん」
「ともだちとして大切なんやな」
「うん」
「そして、それ以上になりたいという気持ちもある」
「……うん」
「ハルナちゃん、本当は男の子に生まれたかったんとちゃうか?」
沈黙。
すぐに答えられるようなことではない。
だから詩乃は眼鏡をかけ直した。
そうして、造花みたいな笑顔を見せる。
「うちの昔話、聞いてくれるか?」
*
「オレたち、欲の
その新しい相棒は、これまでのシルフィードとどこか様子が違った。というか変。いつも眼帯をつけているし、恋愛小説なんてものを好んで読んでいる。そのくせファッションセンスが絶望的でいつもジャージしか着ていない。ショッピングに連れていってやるとほぼ同じデザインのものを何着も買って増やした。
身体が強いくせになんで女の子らしくファッションに気を使わないんだ、と、ひそかに憤りを覚えていた。こっちは着るものに気をつけるような余裕すらないというのに。
「なに言うてんねん。じぶん、欲の塊やろ。あれしたいこれしたいうるさいことこのうえない」
「そういうこっちゃない。たとえばさあ」
と言って、そいつはあろうことか胸に触れてきた。
「あれ?」
「死ね!」
げんこつであごをかちあげてやる。けど、痛いのはこっちの
「なに気安く触れとんねん。うちのことなんやと思っとんのや」
「うそだ。あるじゃないか」
「そりゃあるで。うちは着痩せするタイプやしな」
「だまされた」
「だましとらんで」
「おまえにじゃない」
「わからんやっちゃなあ。なにが言いたいんや、トーカ」
このとんでもないセクハラムーブをかましたシルフィードは、自分のことをシラユキトーカと名乗っている。正式名称はシルフィード
「いやね、オレが生まれたときに立ち会ってくれたおばあちゃんが言ってたの。妖精は
「これは関係ないやろな、それとは」
「ないならなんでないんだ」
「こだわりすぎだからやろ。じぶんに執着っちゅうもんがあるから、そこにないんや」
「なるほど、そうか。だからおまえも寿命がみじかいんだな」
妖精に人間らしい心など期待しても仕方ない。しかし地雷を踏み抜かれると、おとなしくしていられなかった。
「死にたくないっちゅのは知恵あるものの宿命やろが。それのどこが悪い? うちはな、死にたくない。明日も、明後日も。十年後だってな」
「だったら欲望があることそのものが宿命だと思うんだけどなあ。なにが完成してる、だよ。ぜんぜん完成してないんだが」
こいつと欲望の質を同列に並べられることすら不愉快だ。
「じぶんの適当な煩悩と、うちの根源的な悩みとはレベルが違うんや。そんなに気になるなら手術でも受けてこい。うちが費用の面倒みたるさかい、でっかいのつけてもらえや」
「オレは本物にこだわりがあんの」
「贅沢もんの台詞やな。そんなこと言うてると偽物すら手に入らんで」
「でもさ」
彼女は食い下がる。
「おまえも本物が欲しいだろ。その場しのぎみたいなもんじゃなくてさ」
「なんの話や」
「命だよ」
続きを話したそうにしているので、黙ったまま聞いてやる。
「オレが思うに、オレたちには本来あるべきものがないんだよ。それがおまえにとって命なんだ」
イラっとした。
「生き物すべてに平等に寿命があるとでも思うとるんか? んなわけないやろ。うちはな、そういう寝言を吐くやつはきらいやで。だいっきらいや」
こいつと話していると、話をしている時間そのものが無駄になっていくような感じがする。休息を終えたらすぐに次の標的を見つけて斬らせよう。そして自分の寿命を補充するための駒にするんだ。不幸中の幸いと言うべきか、トーカの持つ雪花風刃は星の刃の中でももっとも高性能なもののひとつらしい。だから、この刀についていけば自分はなんとか生き永らえることができるだろう、という希望がある。
おそらく、そのせいなのだろう。こんなにイライラするのは。トーカがもっとしっかりしてくれていれば、自分は不安から解消される。
「そこで詩乃、おまえのその不完全な身体のためにいいものをやるよ」
「ああ?」
オニキスでぶっ叩いてやろうかと思った。だが、彼女が差し出してきたものを見て思いとどまる。
指環だ。美しい。見た目がではない。宿っている生命がだ。その指環からは
「な、なんやそれ」
心が昂る。心臓がこれまでにないほど強く拍動していた。
「これはね、
「はあ?」
あまりにもそのまんまな名前。
「おまえ、名前あったろ。えぇと」
「シノか? シノユリカゴ。こんなん適当な名前や。なんの意味もない」
違う。それは嘘だ。
自分が生まれ意識を持ったとき、彼女は自分がなにかに揺られていると感じた。
それはひどく冷たい存在。まさしくこれから自分が冥府へと連れていかれるという感覚。
死の揺籠。
その音が頭の中に残っていたから、彼女は自分の名前をシノユリカゴにしようと思った。自分は一度死んだ。そしてまたいつ死ぬかわからない。その恐怖を忘れれば今度こそ消えてなくなってしまうだろう。それがいやだった。
死にたくない。死にたくないんだ。
「シノ。おまえみたいなやつにこそ、この指環はふさわしいよ」
「わっ、なにして——」
トーカの手がシノの左手を取る。
その薬指に、紫に輝く指環をはめた。
なに考えてるんだこいつは。
「やばくなったら使え。それはもうおまえのものだ」
「なに勘違いしとるんじゃこのアホ妖精がああぁ!」
生まれ直してから一番おおきな声と共に、シノは鞘に入ったオニキスでトーカの顔をはたいた。良い音。いまでもよく覚えてる。
悔しいけど、すごくうれしかったんだ。
こんなやつでも、自分のことを気にかけてくれてるってことが。
それからシノは、トーカにちゃんとした名前を与えてやることにした。相棒だから。そして、この世にいるからには、こんな形をしているからには、人間のように生きていくために。
手元のメモ帳にボールペンでそれらしい字を書いていく。
「これなんてどうや。白雪刀香」
「はあ? いいよそんなの。要らない。音があれば判別できるだろ」
「どうしてそんなこと言うの?」
「えっ。いや、その、合理的判断?」
「いいから使え、これを」
「はい」
刀香は強く押せば倒れるということがわかったのもこのときだった。
「じゃ、じゃあ、オレもおまえの名前に漢字つけますぅ」
「要らん。うちにはもうある。死乃揺籠っちゅうのが」
「いやいやいや。そんな字面ありえないでしょ」
刀香がそのとき読んでいたのは、ナントカっていうフランスの作家の詩集だった。
「これにしよう」
その詩が詩乃の詩になった。
「それに詩乃を最初にするものよくない。逆にしよう。ほれ、一気に綺麗な名前になった。よかったな、揺籠詩乃」
刀香はよく笑う。その笑顔はごく自然で、生きるために造ってきた自分の笑みとはぜんぜん違って見えた。もし花にたとえるならひまわりあたりが妥当だ。色はぜんぜん違うが、その
「思いつきでなんでも決めよって。自分勝手すぎるやろ」
彼女はそんな言葉にも笑って受け答えした。
「勝手のなにが悪いんだ? オレたちはちゃんと生きるために戦っているじゃないか。その使命を果たしてる限り、オレたちは好きに生きていい。寿命が尽きて死ぬそのときまで」
「そんな考えしとったら、ほんまに理不尽に死ぬで」
「それで構わない。それが好きなように生きるということだから」
合わない。考え方が。だから理解できない。そう思った。
でも、好きに生きたいし、その結果として自分の言ったように理不尽に死ぬのも、そのときは悪くないと思った。
あらためて自分の指にはまっているリングのことを見る。
……目立つな。
ネックレスにして、普段はしまっておこうと思った。そして本当にいざというときにだけ使うことにした。
このリングを使い切ってしまったときこそ、この真っ白でバカな相棒とのお別れの時間になるだろうから。
「欲の根源な。ほんまにぜんぶ消えとったら楽やったのに」
「まあ、なんか、男は肉欲ってのに振り回されて大変だって聞くし? オレたちはそのあたりの欲求に振り回されてる感じがしないから、楽は楽なんじゃん? 毎週焼肉に行ってたら財布の中身がやばい」
「せやな」
彼女たちには正常な人間が子作りに使うための器官一式が備わっていない。だからそこから生み出される衝動的な欲望はない。でも生存本能は残されていた。
刀香が聞いたという穢れた欲求というのは、つまるところ自分たちの系譜に連なる存在を新たに作り出すために必要な行為、それを想起させる身体の自然な反応のことを指しているのだろう。それはどこか永遠を求める人間の心に似ている。自分自身の一部をコピーして後続に託すことで、ひとは永遠への欲求の一部を満たし、執着をうしなって死んでいく。
彼女たちにそれができない。
だから、彼女たちはその命が尽きるまで星に使役される
「でも、そんなら
「へえ。なんで?」
「だってうち、死にたくない。それこそ永遠にな。もしかしたら子供のひとりでも作れば満足できるかもしれへんけど、子宮がないならそれもできん」
「まあね。じゃあなんでオレたち、こんな感じで生まれてきちゃったんだろ」
刀香はまだ自分の胸部のサイズを気にしている。こいつの前世はきっと色欲にまみれていたに違いない。どちらの性別であったのか、そもそもそんな分類に意味があったのかも関係なく、身体の欲求のままに生きてきたんだろう。
ため息を吐いて、詩乃は言ってやった。
「天罰やろ。じぶんはきっと大罪人やったんや。だから一生コンプレックスを抱いて生きてけ。くふっ。苦しめ苦しめ。その方が見てておもろいわ」
「そんなぁ」
詩乃は笑っていた。造る必要はない。おもしろかった。生きているのが。こいつといるのが。
だからこそ死にたくないという想いがつのる。
彼女は自室に戻ると、無意識に言葉の連なりをつぶやいていた。
死にたくない、死にたくない。
今日も明日も死にたくない。
十年後だって死にたくない。
生きていたい、生きていたい。
明日も明後日も生きていたい。
五十年後も生きていたい。
だからうちは死にたくない
ずっと幸せに生きていたい。
自分の未来は再び死の揺籠の中に抱かれると決まっている。いつか再びそこへ戻る宿命がある。生き物なのだから当然だ。
でもそれでいい。
だからこそなのだ、この衝動は。
死にたくない。生きていたい。この心が疲れ果て、いつか〝もういい〟と思えるその日まで。
*
「うちもな、刀香と同じこと思ったことがあんねん。なんでうちらには欲望がまだ残っとんのかって。だってそうやろ? 道具として生まれてきたなら感情なんて要らんもん」
ハルナはその話を黙って聞いている。もうひとりの自分がなにかを言おうとするが、自らの意志で黙らせた。これはリンちゃんに関するお話じゃないから。さまよわせる視線の先には江ノ島の海が広がっていた。その潮風の香りで寂しくなった。
「きっと、つらいんだろうね」
「せやね。でもな、うちらがもし罪人っちゅうなら、つぐなわなあかんし、それで更生する余地も残っとるっちゅうことかもしれん。それが
そう言ってシノさんは足を地面に叩きつけた。巨大な石ころ、地球を踏みつける。
「ハルナちゃんにもそういうつらいことくらいあるやろ。リンちゃんには無理でも、うちには話してくれてもええねんで」
それはできない。口を開けなかった。リンちゃんとの話は吐き出せた。でも、自身のことに関しては話せない。自分ですら受け入れられなかった事実をどうして口にできるのだろう。長い長い永遠という檻の中で垣間見てしまった未来の事実。それは過去にさかのぼって自分自身のことを指してもいる。
「そろそろ行こう、シノさん」
おなかをさすった。痛くなったことがない。なるわけがないから。リンちゃんとは違う。
「ん。行こか」
ふたたび手をつなぐ。自分から。シノさんは歩くのがゆっくり。それに合わせる。リンちゃんよりも遅いそのリズムが、どうして愛しいあのひとを感じさせるのか。これは裏切りだと理屈で考える。けれどこうしないと自分たちの永遠は終わらない。
これ以上、あのひとのことを壊したくない。
この考え方はエゴだと思う。
神との誓いが遺漏なく執行されているのであれば、自分の身体はリンちゃんの願いごとを叶え続けているはずだから。
だから殺し殺されるあの誤った未来の夢でさえ、きっとリンちゃんの望み通りなんだとしか思えない。
そんなのおかしいよ。だれが愛しいひとをその手で殺したりするんだろう。
でも、やった。私は。殺したんだ。リンちゃんのことを。
一度や二度という数え方ではまったく桁が足りない。共に生きて共に死んだことも、頼まれた通りに殺したことも、あるいは殺されたことだって。
でも、あのときのように凄惨な殺し合いをしたことが、私にいまを変えさせようとしている。
あんなこと、あっちゃいけない。
だって、リンちゃんは泣いていた。私のことを見て。
血を洗い流す真っ白な涙は、流れ星みたいに見えた。
こんなことがしたかったわけじゃない。
じゃあ、本当にしたかったことはなに?
「終わらせたかった」
唐突につぶやいた言葉に、シノさんは返事をした。
「わかってる」
色眼鏡を通じて見るその瞳は落日を終えた空のようだった。
「終わらせよう、ハルナ」
店の立ち並ぶ狭く長い道を通り抜けると、おおきな赤い鳥居が見えてくる。そこを右に曲がると細い道がある。この蛇行した上り坂を進まなければならない。そして、前世の記憶によれば、これでようやく半分。まだ先は長く、ハルナたちはすこし息切れしてる。それでもなお進み続けた。
「きっつ……」
シノさんの言葉はもっともだ。ハルナもけっこうつらかった。
「こんなん、たしかに恋人でもないと行こうと思えん気がするわ」
寒く長く狭い道のりを枯れ木と枯葉が飾っている。舗装されていてもまさに山道。車があるならそれに頼りたいと思ってしまう。
ようやく道が途切れ、狙っておかれた自販機や売店を見る。
「なあ、ハルナちゃん」
シノさんがハルナの眼を見て言う。
「また休憩してもええ?」
「うん。このあともまだ坂だからね……」
飲み物を買って、店の軒下に座る権利を得る。入り口が開けている、いかにもなお土産屋さん。その場の雰囲気に流されない限り買おうとも思えないような和風のグッズが平積みされているのを横目にしながら、ハルナたちは向かい合った。
「鐘を鳴らしたら、
「うん」
このまま行方不明になりたいね。
ハルナは彼女が言ったことを思い出している。
このまま行方不明になりたいね。
そんなふうにリンちゃんもわたしを誘ったことがある。
「ねえ、リンちゃん」
そうとしか見えない、真っ白な枯れ木の少女に私は言う。
「今度こそいっしょに死んでくれる?」
彼女は眼鏡をはずし、折りたたんだ。それを机に置くと、バッグからなにかを取り出す。それはナイフだった。鞘に入った、上等な装飾を施されたみじかい刃。そして生命の指環もとりだされた。彼女はそのふたつを別々の手に握りながら言った。
「覚悟はできてる。そのかわりに見せて。ハルナ、あなたの未来。真実の姿を」
左手の側から鎖が垂れおちる。
彼女の口調はリンちゃんにそっくりだ。
もう私は、シノさんをリンちゃんと思うことに躊躇しない。
彼女こそ自分を終わらせるのにふさわしいひとだから。
やっと彼女が迎えに来てくれたのだから。
「わかったよ。ぜんぶ見せる。リンちゃんだから」
ハルナは両眼を閉じた。
「右眼よ、左眼よ、どうか痛まないで。これは私の決意。そしてきっと、あのひとの本当の願いだから」
キン、という音がする。
目を開くと、そこにはオニキスの黒い刃が抜き放たれている。真っ黒なその刃はあらゆる光を吸い込み、闇そのもののようにそこにあった。
「オニキスよ、
リンちゃんの言葉と共に、私はその心のすべてをあるがままに委ねる。
そして自らのヘテロクロミアが、ひとつの事実を映し出していく。自分の身体にあるものではなく、身体の外にある魂の記憶を。ハルナはきっと堪えられない。だからシノさんの手を握る。生命の指環のある方を震える手で握りしめる。
「だいじょうぶだよ、ハルナ。わたしがいる」
「ありがとう……ありがとう、リンちゃん」
そして私たちは、始まりという名の現実へとおちていく。
*
ハルナとリンネは、同じ都立大学の人文社会学部に進学した。興味の方向性は違っていたので学科は別だったが、それなりに狭き門を潜り抜けられたのは幸運と言ってよかった。ただし、浪人を一年挟んでいる。ふたりとも努力はしていたけれど、ハルナもリンネもメンタルに重篤な不具合を負っていたので、ひとつ前の年は全敗だったし、今年も滑り止めの私大に入れるかどうかさえ微妙な線だった。
特に重傷なのはハルナの方。日々重症化の一途を辿っていた。
そんなハルナをリンネはメンタルクリニック通いの先輩としてアシストしてくれた。通院に付き添い、言葉ではげます。
「だいじょうぶ。ハルナはずっとハルナだから。なにも変わらないよ」
意味はわかる。いままで生きてきた自分が、あの診断によって変わったというわけではない。
リンちゃんが周期的に苦しめられている症状が自分にはぜんぜん起きない。なんか遅いねえ、みたいな感じでお母さんとよく話していた。
高校三年を目前にしたバレンタインデー。そのときハルナは思い切ってもらった友チョコをぜんぶ一気に食べるという行為を試してみた。それがきっかけになるという小説を読んだことがあるからだ。
結論としてそれは起きなかった。彼女はただ鼻血を出しただけで終わった。
幻想にすがっていられたのはそのときまでだ。彼女は強い羞恥心を感じながらも、もっとも身近な女性、お母さんに相談した。
「まだ来ない」
母は強い。それじゃあ婦人科へ、ということになった。
恥ずかしさは待合室にいる間にも増幅され、実際の診察で頂点に達した。もっとも親しい友人であるリンちゃんにさえそんな姿は見せたことがないし、触らせない。色々塗られてエコー検査もした。相手が女医さんとは言え、そのときなにか武器になるものを持っていたら使っていたかもしれないほどにいやだった。その嫌悪感を剝き出しにして怒るなんてことをお医者さんにすることができるはずもなく、彼女は言い知れぬ感情で震えることしかできなかった。泣きそうだ。いまにも。でも泣けたら楽なのに涙が出てこなかった。
そのあと診察室にお母さんが呼ばれ、入れ違いにハルナが外に出された。ハルナはすぐお手洗いに駆け込み、ハンカチで顔をおおう。声が出せない。大声で泣き叫びたい。それすらできない。泣きたい。泣きたい。そう繰り返す自分。それでも水分は滲み出してこない。
外に出てくると、自分を呼ぶ声がしていた。ふらふらした足取りで彼女は再び診察室に入る。
エコー写真と共に結果を伝えられたとき、ハルナは自分がいままで生きてきた世界のすべてが壊れていくのを感じた。
ハルナのおなかの中には、女の子ならあるはずのものが入っていなかった。
ふたり、ふたつ - Spirits and Fairies -
自分がなにか重大な遺伝子疾患を抱えていることを、ハルナはなんとなく察していた。あの辛かった初診の日以降、よりおおきな病院に通い、血液検査はともかく、他人には言いたくないような中身の検査を受けさせられた。そしてお父さんとお母さんが言い争いをするところに遭遇した。とても激しい口論。それに着地点などない。そんなことはやめて欲しかった。私のことで争わないで。そんな言葉を実際に口に出す場面が自分に巡ってくる。それはだれが悪いというわけではない。悪かったのは運。それも、私の。お母さんの問題でもなければお父さんの問題でもない。生まれてきてしまった私が悪かった。ほとんど初めてと言ってもいい、荒れ狂って暴れるハルナを見たふたりは、それきり喧嘩をしなくなり、以前にも増してハルナのことを甘やかすようになった。
浪人が確定したころ、手術を受けた。傷跡の残るような内容ではなかったけど、なにかを摘出したらしい。それがなんなのかハルナにはわかっていた。男の子になれなかったものの名残だ。
手術が終わったあと、彼女は言った。
「私、男の子にもなれないんですね」
鏡を叩き割った経験もある。ヘテロクロミアも遺伝子疾患のひとつだ。親族にこんな眼をしたひとはいない。どこからこれがやってきたんだ。ハルナはお風呂場にあったブラシを鏡面に叩きつけた。硝子の破片が自分の腕を傷つけて、真っ赤な血があふれだす。そんなところから流れてきたってなんの意味もないんだよ。彼女は黙ってその場に座っていた。お母さんがそれを見つけて悲鳴を上げる。救急車を呼ばれた。たいした傷ではなかったようだけど、女の子の見た目だからかやけに丁重に扱われた。たぶん傷跡は目立たなくなると思いますが。その言葉通り目立つことはなかった。ちょっと白い線が入ってるかな。そんな程度で。
人生を投げ捨ててしまおうかと思った。
これまでずっと女の子として生きてきたのに、そのすべてを否定されたのだから。
それでもハルナは踏みとどまった。
それはリンネがいてくれたからだ。
例の異常が発覚して塞ぎ込んだハルナを家まで迎えに来てくれたのはリンネ。いっしょにメンタルクリニックまで行けたのも、その提案が両親からではなくリンネから出たからだった。
最近家から出られないみたいだけど、もしかして眠れてなかったりする? ショックなことがあったときはさっさと病院行った方がいいよ。薬ってすごいんだ。余計なことを考える力を奪ってくれるから。夜もちゃんと眠れるよ。だいじょうぶ、危ないことなんてなにもないから。
イケナイ話をしてるような、そんな怪しい言い回しだったけれど、行く先は裏路地ではなく病院だったし、それがリンネの言葉だからこそ安心できた。
彼女は甲斐甲斐しさすら感じるほど自分に世話を焼いてくれる。それも、なにがあったのか自分からは聞いてこない。ハルナが話すのを待っていた。きっと気づいていたのだと思う。その問題は非常に重いということを。それはもしかすると、家族をうしなってしまうのと同じくらいの重さがあるということを。
ふたりの立場はすぐに逆転する。ハルナは甘えた。甘え続けた。いっしょにいる時間を増やし、抱き着いて、その温度に浸る。頭を撫ででもらい、なにも考えないようにする時間を味わう。それでもなおきついとき、ふたりでぼんやりする薬を飲む。最低な日々。浪人という泥沼の中に引き込んでしまったのは、あきらかにハルナのせいだった。
それでもリンネは、下手な笑みを造って付き添ってくれる。
「やっちゃったね」
そんな一言で済むような問題ではない。浪人は一年を棒に振るのと同じだ。それに自力で学習できるはずもない彼女たちは、予備校の費用も捻出しなければならない。ハルナには家族がいるからよかったが、リンネは遺産からそれを支払うしかないはずだ。それでも彼女は笑った。下手な笑い方で。つらさを押し隠して。
自力で立つことすらできないふたりは、互いに寄り添いながらしか歩いて行けなかった。比翼の鳥、という美しい言葉がある。それを使いたかった。でもハルナたちのそれは共依存に過ぎない。
ふたりが倒錯した関係を結んだのは、浪人中の夏期講習の帰り道。誘ったのはハルナ。彼女の家に行っていいかと
「いいよ」
そう答えるリンネに、
「ホテルがわりにするつもり」
とハルナは言いきった。
静寂の支配する部屋にふたりきり。リンネに家族はいないから。みんな死んでしまったから。そんな彼女とずっといっしょにいた自分だからこそ、リンネを自分のものにする権利がある。そんなふうに、思い返せば歪んでいる、そのときとしては至極当然な考え方をしていた。
ふたりはシャワーを浴びてから身体を拭き、タオルを巻いたままベッドに座った。
「私、本当は男の子に生まれるべきだったよ」
ハルナの世迷言を、リンネははっきりと否定した。
「そんなことないよ。ハルナはだれよりもかわいい女の子。ほら、おいで」
見た目は女でも、その中身を透かして見れば正体が知れる。
男であるべきなんだ、私は。だからリンネとはもう友人ではいられない。
「リンちゃん。私、加減の仕方なんて知らないよ」
「わたしもさ。試していこうよ」
知識はない。ただ相手の身体に触れる。診察のことを思い出して気分が悪くなる。それを打ち消すみたいにして、今度は自分がリンネの身体を調べた。綺麗な身体だ。美しいとさえ思う。黒い髪はさらさらとしているし、自分と同じシャンプーのオーガニックな香りが、もう過ぎたはずの春のことを感じさせた。
なによりここには、自分とは違い命を生みだす
リンネのおなかに頭を乗せ、ハルナは泣いた。あのときに流せなかった涙のすべてが流れるようだった。隣の家にまで届くくらいの大声でハルナは泣き叫び、リンネの腕の中に抱かれながら夜を越した。彼女はそのときようやく、自分のおなかの中には子宮が無いということを告白できた。
翌日から彼女たちはお互いに恋人という名前のレッテルを貼り、その役割を演じ始めた。彼女たちは弱かった。先人たちの作り上げた恋愛関係という花瓶の中で、その切り花は市販の栄養剤を吸い上げてかろうじて生きている。
大学に入ってから、ハルナは改めて自分とはなにかを考え始めていた。自分と同じ症状を持ったひとのインタビュー記事をウェブで見て、自分はそれより遥かに恵まれていると感じた。ハルナの家族は、以前と同じように自分を女の子として扱うことに腐心している。ハルナがそう振る舞うように仕向けているから。世間で言うところの性自認というやつは女だったし、女の子らしい恰好が好きだった。それなのに自分は仮面をかぶって生活をしている気持ちになる。オレは本当は男の子なんですけど、手違いでこんな身体で生まれちゃいましてね。てへぺろ。そんなことが言えたらどれだけ楽に生きていけたろうか。
そんな仮面を脱ぎ捨てられるのはリンネの前でだけだ。
むかしからあこがれていた、ちょっと闇の入ってるファッションを好み始めたのはこのころ。家に置くと不審がられるかもしれないので、ぜんぶリンネの家の空いたクローゼットにしまい込む。本来であればリンネの妹が使っているはずだった部屋がハルナのものになり、そのお礼としてお線香をあげるのを欠かさない。
男の子になりたい。リンネとつがいになるのにふさわしい身体に。
ハルナはどうしようもなく女の子の心をしているけれど、ひたすらにそう願った。
薬とファッションと恋人に依存しながら、どうにかこうにか最低限の単位を取って留年を回避する。その中で小説を書いた。文芸部だったころみたいに無邪気なものはもう書けなくなっていた。自分はまともな女の子じゃないんだ、というその感覚が文章から滲み出した。その文章の連なりはほとんど怨念の域で、だれかに見せようとはとても思えないしろものだった。だからだれにも読ませることなくパソコンのデータの奥深くに放り込み、ときどき読み返しては自分の境遇を嘆く。とんでもないエコーチェンバーだ。自分しかいない部屋で独り言をつぶやき、反響を聞いて自らの境遇に陶酔していく。
そんな闇の世界の中で、リンネだけが光だった。
「まだ書いてるの?」
「ううん」
嘘を吐くハルナに、品質の向上した造花が差し出される。それはだんだんと電飾の輝きをまとうようになる。
「そっか。もう私たちもすっかり大人だしね。卒業ってやつか」
コンセントが近くにないと光るための電源が取れない。そんな感じで、リンネからアプローチしてくることが増えた。それはもしかすると、ハルナのことをもっと女の子にするため、かもしれなかった。
季節がいくつも過ぎていく。
触れ合う時間が長くなるほどリンネへの愛しさが増す。そして思い知る。自分は男の子になれない。でも、女の子にもなれないんだ。彼女にはリンネの抱えている苦しみがわからなかった。それゆえにどちらでもない自分自身の身体に憎しみをつのらせていく。
大学生活が終わりに近づき、彼女たちは身の振り方について考えるようになった。
その決定的な破滅は、そんな青春の終わり近くにやってきた。
リンネの女の子の日は、昔からとてつもなく重い。ときに歩けなくなるほどのひどさで、ハルナは病院に連れていこうと何度も考えた。でも、自分が味わったあの感覚をリンネにも、なんてことは考えられない。だいたい、リンネの裸を見ていいのは自分だけだ。そんなエゴイズムが、リンネという人間の身体を放置していた。
そしてあるとき、ハルナは勝手にリンネの家に入った。昔から合鍵を持っていたけど、チャイムも押さずに入るなんてことをし始めたのは恋仲になったからだ。家族と同等か、それ以上に気安く接することができる関係。
「おはよう、リンちゃん」
もう昼過ぎだというのに、呑気な口調でハルナが入っていく。
返事がない。
リビングに行くと、彼女がてのひらを赤く染めて倒れていた。
まさか、自殺?
そんな。自分がいるんだから、ありえない。
すぐ近づく。リンネから、どこかで嗅いだことのある、すこし鼻につくきつい匂いがした。ただの血ではないとわかった。
「リンちゃん!」
どこにも傷などはない。出血箇所はただひとつだった。
リンネはうわごとをつぶやいている。
「要らない……」
ハルナに気づいていないのか、自身のおなかを濡れた手で握りしめている。
「要らないよ……こんなに、痛いの……」
世界がまたひとつ壊れていく。
翌日、ハルナはリンネのことを病院に連れていくことにした。そこで徹底的に調査してもらう。なにか悪いものがないかどうかを。
そしてもうひとつ、こうも言った。
「要らないなら、取ってもらいたいよね」
言うべきではないことだった。
その言葉がなにを示しているものか、リンネはすぐに気づいてしまう。
「はは。あはははは!」
彼女は笑った。桜みたいに、すぐ散ってしまう笑顔を見せた。
「そうだね。こんなの要らない。なくたって生きていける。ハルナといっしょにいるなら、こんなもの必要ないから」
そのときハルナは、痛切に死にたいと思った。
こんなことを恋人に言わせてしまった自分が、
そんなことをハルナに言ってしまうリンネが、
そのどちらもが決定的に許せなくなったから。
だからふたりとも、この世界から消えてなくなってしまえばいいと本気で思った。
その願いは歪んだ形で現実のものとなる。
年齢にしては症状が重すぎるという理由で追加された検査によって、リンネからは
「バチが当たったんだね」
造花は茎ごと床におち、持ち主は二度と拾いあげなかった。
最後のクリスマスに、ふたりは龍恋の鐘を鳴らし終えた。それから、稚児ヶ淵という、磯釣りスポットとして有名な岩場を見に行く。
ハルナの左手の薬指には、金剛石が取りつけられた指環があった。空に手をかざす。プリンセスカットのエンゲージリング。五十を超える鋭利なトライアングルによって構成される宝石は、自分を永遠の愛の対象となる姫へと飾り立てている。
富士山まで見渡せる、海と空の広がる絶景を前にして、ふたりは互いの手を強く握りしめた。
「……このまま、行方不明になりたいね」
頭を毛糸の帽子で隠し、かつて枯れ木だったころを思わせる風貌へと戻ってしまったリンネは、ハルナのことを抱き寄せながら蠱惑的な言葉をささやく。
自分たちはまだ生きている。
かろうじてだが、生きていられる。
でも、どうして生きている必要があるんだろう。
潮騒の音を聞き、有限のパノラマを見上げながら、無限にはなりえない生のなかで、これ以上なにを求めればいいのかわからなくなった。
「そうだね」
ハルナはその誘惑に抗えなかった。
ふたりは夜を待つ。ひとの気配がなくなり、風が冷たくなり、それでもなお自分たちの決意が折れないことを祈った。
ハルナはリンネに手を引かれ、スマホのライトを頼りに岩場へと出ていく。歩くのも大変だった。だから、これからすることはもっと大変だろう。なんなら途中で心が折れて半端なことをしでかしてしまうかもしれない。
それでもリンネが先を行ってくれた。自分を連れて行ってくれると信じた。
かつてそこは崖だったという。身投げをして死ねるくらい上等な崖だった。
いまではそんなふうには見えない。ちょっとごつごつしているだけの岩場。
ふたりはコートを着たまま、海に足をつける。ブーツの中に海水が入り込み、冷たさが貼りついてきた。それはすぐ痛みへと変わり、リンネのうめき声も聞こえてくる。それでも彼女は自分の手を引いてくれた。進む。そして沈んだ。
リンネは泳ごうとする。先へと。でも痺れるような冷たさで、ハルナにはとても無理だった。服は重たく、全身がますます痛くなる。ともすれば呼吸が突然止まるのではないかと、いまさらになって怖くなった。
だから抱きしめる。リンネのことを。
それに気づいたリンネも、ハルナのことを腕の中にしまった。
ふいの高波がふたりをさらう。
海水を飲んでしまい、上下がわからなくなった。呼吸ができない。
いやだ、リンちゃん、離さないで。
その願いを、リンネは叶えてくれた。
ふたりで沈んでいく。冬の夜の海の中へ。
流され、苦しく、意識が遠のいていきながらも、ハルナはリンネのことを想う。
ああ、なんて間違いをしてしまったんだろう。
こんなにやさしくしてくれるひとに、自分を殺させるなんて大罪を犯すなんて。
だからハルナは、最期の一瞬まで願い続けた。
死なせたくない。
死なせたくないんだ。
だから生きていたい。
このひとと、永遠に。
そのためならなにを引き換えにしてもいい。
この魂さえ売り渡す。
だから神様、リンちゃんをあの日へと帰してください。
そうしてくれたら、私はただあのひとの願いを叶えるだけの存在に成り果てたって構わないから。
*
雪と花とに彩られた刃の風が、リンネとトーカの前を吹き抜けていく。
その先を見るふたりの目に、もうひとりのハルナの姿が映った。
だれも乗っていない各駅停車の先頭車両、運転席へ通じる扉の前にその少女は立っている。
彼女のヘテロクロミアは鮮やかな
「ハルナ」
そうリンネが問いかけると、彼女は否定のために首を振るった。
「我はハルナであってハルナでないもの。永遠という名の罪を作りし、ミトラ=ヴァルナの片翼を担うもの」
トーカは刀を両手に握り込み、刃を天に向けて上段の構えを取る。相手を無意識に警戒していた。
「おまえは水神、ヴァルナだな。ハルナの中にいるという。なぜここにいる」
沈黙する神と、それに対峙する妖精との間にリンネが歩みを進めていく。
「聞き覚えがある。その声。思い出せないけれど、たしかにどこかで聞いたことがある。そう、それはおそらく、白い暗闇の中で」
「我はおまえの願いをアナーヒターを通じて聞き取った。おまえの願いには、あの龍の面影があったからな。だからこそ、その戯れはただ一度だけという約定で執行されるはずだったのだ」
「トーカ、わたしに
赤い眼を閉じて真っ白に変わった妖精は構えを解き、得物をリンネに差し出す。
「死ぬぞ」
「構わない」
枯れ木の少女は刀を握り込む。刀が自分に命じる。切っ先を向けろ。いつか見た剣道の基本姿勢で神へと正対した。
「わたしにはその願いの記憶が残っていない」
「おまえは自分のすべてを差し出した。だからこそ戻したのだ。しかし、それこそが我の誤りだった」
想い人の姿をした神の
リンネはこれまで読むことのできなかった、自分自身について記述されたアカシックレコードの先端、一瞬の願いを
白い暗闇、揺れる死の
そこは暗い海のその中の、底でもなければ表層でもない、そんな
冷たく、寒く、それで痛い。それゆえに心細く、死への恐怖が心を支配する。
けれど腕の中にはハルナがいる。自分が彼女を引き込んでしまった。もはや生きて帰れぬ海中へと。
自分はその責任を取らなければならない。
リンネは想った。
自分の気の迷いが生んだ死の誘惑へ応えざるを得なかった恋人のことを。
そして願う。
彼女をどうか、美しく輝いていたあの日々の中へ戻して欲しいと。
身体の事実を知らず、ただ純真に少女でいられた日々へ帰らせてくれ。
そのためならば自分という存在のあらゆるものを捧げる。
自らの名の中にある、輪廻の先にある生さえも要らない。
そう、ぜんぶだ。わたしのすべてをくれてやる。
だから神よ。わたしのもっとも愛しきひと、
その願いの終着点、アカシックレコードの逆の端、いままさに伸びていくいまという時間の中で、リンネはいまも続く因果応報の理由を知覚する。そして、たったひとつの、もっともおおきな失敗について思い知る。
わたしがハルナのことを永遠の中に閉じ込めてしまっていたんだ。
「そしていま、その罪を償うため、星よりふたつの刃が遣わされた」
ハルナが離れ、リンネとトーカに語りかける。
「
「稚児ヶ淵」
リンネのつぶやきに、神はうなずく。
「おまえたちの永遠をつなぐ糸は、未来を司る運命の女神、アトロポスの振るう星の
神の姿が
トーカが叫んだ。
「待て、ヴァルナ!」
止まっていた時間が動き出す。電車は片瀬江ノ島駅のホームへと到着していた。
リンネは床にうずくまり、頭を押さえている。全身に
トーカが手を差し伸べる。
「よく無事だったな」
「どこが……。痛い、痛い、めっちゃ……死ぬ」
「いや、死んでないじゃん。オレがやってたら死んでましたよ」
リンネの身体をひょいと引き起こして、トーカは笑みを見せた。
一呼吸おいてからリンネは疑問に思っていたことを訊いてみる。
「ところで、アナーヒターとかアトロポスってなに? なんかの神様?」
「アナーヒターはサラスヴァティと起源が同じって言われてる川の女神で、日本だと弁財天と同じってことになってる。アトロポスは運命の三女神のひとり。未来を司るやつ」
「詳しいね。じゃあ、ハサミのこともわかる?」
「現実になにを指してるのかは知らんな」
すぐそばに答えがある。リンネはそう直感していた。
「そうか。じゃあ、わたしの考えを言ってもいい?」
「どうぞ」
「それってたぶん、
「へえ。なんで」
てのひらを見せ、親指、薬指、小指を握り込む。これをじゃんけんにおけるチョキの型と呼ぶ。
「ほら、刃がふたつでハサミになる」
「オニキスは短いから親指を使った方が妥当だな」
「どうでもいいでしょ、それは」
ホームに歩み出る。晴天だった。しかし吹く風は冷たい。冬の風だ。ずっと車内にいたリンネは寒さを感じた。
「目的地を変えよう、トーカ」
「え。どうすんの?」
「稚児ヶ淵に直行するの」
彼女たちは話をしながら急ぎ足で改札口を抜けていく。
「と言っても、水上を走らない限り向こうと同じ道になっちゃうと思うけど」
彼女たちの歩く速度は、ハルナたちよりかはマシとは言え、リンネがボトルネックとなってそれほど速いとは言えなかった。もし水の上を走れると仮定したとしても、時間短縮にそれほど効果的というわけではない。
「順路はわかってる?」
トーカが訊いてくる。駅舎を振り返ることもなくリンネは答えた。
「そりゃね。遠くに行くのもいいけど、綺麗にデートを済ませたいときは、自分たちの身の丈に合うようにまとめた方がよかったりするのよ。疲れてくると、せっかくいいところに行ってもなんかもういいやってなるから。で、ここはそうならないギリギリのラインの上に位置してる。観光案内ができるかも。魂レベルでここのことが好きなんだろうね」
「よし。じゃあ風で運んでやる」
「おっ。ノイズキャンセル以外にも妖精らしい技があるんだね」
実のところ、リンネはけっこう期待している。
「ああ。リンネ、オレの首につかまってろ」
「はい?」
見た目からは想像もできない
お姫様抱っこだった。
「ま、まさか、この体勢で走る気じゃないでしょうね」
胸がどくんどくん言ってる。トーカの赤い眼を見上げながら、リンネは腕を回して彼女につかまった。
「そのまさかだ。オレはこれから最速で駆け抜ける一陣の風となる。曲がる方向とか教えてね」
「…………了解」
トーカの眼に負けないくらい、自分の顔に紅が差している自信がある。
まるでハルナに抱き締められてるみたいに胸が躍った。
いつかシノが抱っこされていたときの感覚は、案外こんなふうに悪くないものだったのかもしれない。
「よっしゃ、行くぞぉぉぉ!」
音もなく走り出すトーカの速度は、本当に風のようだった。台風の日の風。風速二十メートルの荒々しさ、時速にして七十二キロの暴風が人々の間をすり抜けていった。あっという間に橋を渡りきり右折。そのままの勢いで江ノ島弁天橋を突っ走る。風の壁と雪花風刃の力が、駆け抜けるふたりを風圧と人々の視線からかろうじて守っている。トーカはリンネを絶対に落とさぬよう強く抱き締めていた。彼女は
「うぐ……おっきい、あかい、とりい……よこに……うぅ……ちいさい、みち……」
なお、速度と引き換えに乗り心地は最悪でした。
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