生と死の万華鏡 - Lives in the Kaleidoscope -
アカシア記録に刻まれたふたりの過去。
妖精の眼が覗く永遠という名の万華鏡。
1
「おじゃまします」
トーカは律儀にあいさつしてから玄関に入り、ブーツを脱ごうとする。立ったままではできないようで、式台に腰をおろす。ゴテゴテとした留め具が多いものだから、履くときよりも苦労している。
ハルナ以外の他人を自分の家に入れるのは実にひさしぶり。もういつだれを入れたのか思い出せない。けど、そういうことをしたことがあるという確信がある。
ブーツから解き放たれ、意外に行儀よく並べ直すトーカの背中を見ていた。
リンネはこれから、この子に自分の過去を教えてみるつもりだ。
空気を操り死を運ぶ風の妖精、シルフィード。
でも、そんな感情を抱くときにまっさきに頭の中に浮かんでくるのはハルナの顔だ。この子じゃない。ヘテロクロミアの青と緑を見つめていると頭の芯が熱くなり、感傷的な自分の心が剥き出しになる。どうせ死ぬならハルナに殺して欲しいなんて甘ったれた考えが引き起こした数々の惨事、ハルナは悪くない。けど、手を汚させた事実は消せない。
「……シャワー、さきに浴びなよ」
「えっ。な、なに言ってんだ。まだ早いだろ」
「いや、帰宅したら即シャワーでしょ。それに
「そういうこと? あ、うん。じゃあお先」
浴室の場所を教える。もし脳が洗えるならいっしょに洗わせたい気分だった。でもそれについては自分も同じだ。脳だけと言わず魂の方も川で洗濯した方がいいと思う。できるだけ強い水流の中に放り込んで、そのまま戻って来なければいい。その先に海があるなら、その巨大な塩水の底に沈み分解されてしまえばいいんだ。
トーカがお風呂からあがってきたらなにを着せてあげればいいんだろう。他人に自分の下着を貸すなんてのはちょっと抵抗がある。いまだにそんな価値観が残ってる自分にすこしは驚いてもいいかもしれない。それが常識の作用なのか羞恥心の副産物なのか、リンネは考えながら仏壇のある部屋に入り、照明のスイッチを入れた。静寂がパチンという音で切り開かれる。
仏壇にはみっつの写真が置かれていた。当たり前の話だと思うけど、リンネには自分を産んでくれた母がいて、その腹の中に種を蒔いた父がいる。そしてもうひとり、自分とよく似たちいさい女の子。つまり、リンネには最低でも三人、同居していた家族がいた。摂理に従ってさかのぼれば、さらに多くの親類たちがいると感覚ではわかっている。けれど、そのひとたちのことをリンネはうまく思い出せなかった。
「ごめんなさい」
家族に言ったつもりでも、自分のための言葉だ。勝手がひどくてため息も出ない。
リビングの机にすこし出るとの書置きを残し、今日買ったコートを羽織ってコンビニに行く。闇属性の気分ってこんな感じなのかな。ハッ。ばかばかしい。寒いだけだ。サニタリーショーツとおおきめのシャツを買って戻ってくる。風は冷たく乾いていた。涙を流すならこんなときにとリンネはぼんやり思いながら階段をのぼる。あたたかなくなる身体は心の温度と反比例。
部屋に戻ってもトーカはまだバスルームの中だった。リンネはいたずら心を起こし、コートも服もベッドに投げ捨てて洗面所に入る。自分の分のバスタオルも出しつつ、その視線はトーカの脱いだ布に向けられていた。あの子、中まで真っ黒だ。
シャワーの音に混じってトーカの声が聞こえる。
「それ、好きなの」
「ぴえっ」
硝子戸を開けると床と肌から跳ねかえる湯がバスマットを濡らした。リンネは戸を閉め、もう一度
「その歌、好きなの?」
トーカの肌は真っ白で、透き通るようなという言葉がよく似合う。でもその眼を見て、心音のリズムが乱れた。普段露出している赤い瞳の反対側は、虹彩さえも含めて色がついていなかった。白色の球体を長くは見つめていられない。首から下を見た。まっさらという言葉が頭の中に浮かんでくる。美しい身体つきだ。起伏の有無は別として、こんなふうに感じる相手はハルナ以外に出会ったことがない。
「べべっ、別にこれは詩乃のやつが聞いてたから覚えてるだけですし」
彼女はリンネの視線を避けるように身体の向きを変える。
「なんだ。そう」
泡なんて見当たらないので、シャワーを奪ってその身にあたたかい雨を降らせた。もし歌の趣味までハルナといっしょならってどこかで期待してた自分がいたのだと思う。そんなふうにしか他人のことを考えられない、自分。
「せっ」
その肌を赤々と染めながらトーカがなにか言おうとする。
「せっ?」
「背中でも流そうか……?」
まあ、そうさせてもいいか。
「じゃあお願い」
バスチェアに座って自身の身体を浴室の鏡を通じて見た。まるで枯れ木のよう。ここから持ち直すには毎日ちゃんとした食事をしないといけない。どうしてこんなになってしまったんだっけ。思い出せない。食欲はあるし、それを満たすための食事をしている。でもきっとそれは、ただその場をしのぐだけのものなんだろう。
トーカがボディタオルにソープをおとして泡立てる。それをリンネの背中に擦りつけた。案外心地がいいものだ。
「あなたたちは、普段こういうことするの?」
「は? しないですが」
「しないんだ。そこまで仲良くない?」
「詩乃は他人に裸を見せたがらないよ。オレだって別に見られたいとは思わない」
「ふうん」
深いところまで突っ込んで聞いてみようかと思ったけどそんな好奇心はあまり愉快なものじゃない。
バトンを回すように渡されたタオルを受け取って、首から順々に擦っていく。
「髪も洗ってやろうか?」
「へえ。お手並み拝見」
髪の毛にたっぷりのお湯をかけて一日分の油脂を洗いおとす。それで身体についていた泡と垢も流れていった。オーガニックなシャンプーの香りが広がる。頭皮マッサージのてつきがいい。
「本当にやってないの?」
「しないですし」
「その割に上手」
「それがオレのテクってやつかな」
こいつを褒めるとろくなことがないや、って思っちゃった。相手がハルナならこのまま肌を重ねるのもいいかなって思うけど、そういう気分にならなかった。
「じゃあ先あがる」
「えっ。早くね」
「おさき」
湯からあがって髪の毛を乾かすのもそこそこに、飾り気のないパジャマを着てリビングに戻った。それから買った下着をトーカに押しつける。
「これはなんでしょう」
「替えだよ。まさか同じの着る気じゃないでしょうね」
「一回くらいは」
「トーカ、本当に恋する乙女をやる気ある?」
「ある。あるある。すぐ着替えるよ」
外側には学校で使っている紺地のジャージを着せた。室内は暖房であたたかい。トーカはファスナーを閉じないまま冷蔵庫を勝手に開ける。
「うわ。なにこれ。朝食作れないじゃん」
牛乳とゼリー飲料くらいしか入っていないからだろうか。というか朝食って。
「もしかして泊まる気でいた?」
「話が長くなるだろうしなと思って」
まあそれはそうか。でも要点だけ言うと本当に一瞬で終わる。
時刻はもう二十一時が近い。早起きをしたリンネはもう眠いと感じていた。
「なんか買ってきてやるよ。明日の朝、ちゃんと食えるように」
「別にいい。食べることに執着とかないから」
本音だった。自分の身分で試せる限界まで美食を極めたつもりだけれど、一番感動したのはハルナの作った手作りのバレンタインのチョコレート。その原材料がたとえ市販品の集合体だとわかっていても、気持ちと状況がリンネを感動させた。いまでは意識してないとその感動だって捕まえていられない。
「もうそろそろ眠いや。泊ってくっていうなら明日にしよ」
あくびといっしょに涙がにじむ。自然な身体の反応に流されていく。
「ぜんぜんやる気ないんだな」
「家にいるといつもこうだよ」
「おまえにはハルナが必要ってことだな。あいつがいないといつの間にか干からびてそう」
「そうでもないよ」
自室に案内する。ベッドにトーカを座らせて、その隣に自分も。
「おなかが空いて死ぬのって苦しいじゃん」
ずきり、と頭痛。その経験はすくないから、これくらいで済む。
「経験者は語る、ってことか」
「わかるの?」
せっかく隣合っているので、遊んでいたトーカの手を握った。あたたかい。昼、指輪の隙間から感じた彼女の肌もあたたかかった。本当は。でもだとすれば、彼女がうそつきになってしまう。心が冷たい。雪と風とが吹き荒れるほどに。
「寝物語にでも話してみろよ。なんでもいい。頭が痛くならないくらい簡単に話せるところから」
手が握り返される。
なんだろ、これ。
心臓がよく働く。
「うん。なら、話してみる。うまくできるとは思えないけど、やってみる」
「安心しろよ。オレは文学少女なので、行間を読み解くなんて造作もない」
どうだか、と半信半疑。
それってつまり、五十パーセントも信頼がある。
だから話してみようと思う。
頭の痛まない昔話の第一話。
ハルナと殺し合いをしたひとつ前の物語。
2
リンちゃんをおかしくしてしまったのは自分のせいだってわかってる。だから望まれたことはなんでもしようって考えてた。でも違う。本当は、なんでもしなければならない。それが誓約だから。
その周は始まりからして狂っていた。朝かかってきたリンちゃんからの電話に出ると、彼女はこう言った。
「ねえ、ハルナ。愛するひとを殺したら、きっと地獄におちるよね」
電話越しにもはっきりわかるほど冷めきった声。ハルナは背筋に走る
「きっと、そうなると思う。ひとごろしはいけないことだから」
小学生に道徳を教えているような答え方だった。その言葉にはなんの重みもない。地獄とはなにか。どこにあり、どうすればいけるのか。どれも知らなかった。
「そうだよね」
安心したような声を聞くと、ハルナは逆に心配になった。
「リンちゃん、だいじょうぶ? 今日のカラオケ、やめとこっか?」
「ん。そうした方がいいかな。でもハルナには会いたいんだ。都合が良すぎるよね」
わがままを言ってるつもりなのかな。私には、そんな遠慮なんて必要ないのに。
「じゃ、おうちに行ってもいい? 私もね、リンちゃんといっしょにいたいんだ。だって、クリスマスだもん」
「もちろん」
返答は早かった。
「もちろんだよ、ハルナ」
弾むような声音に自分の心音が重なる。うれしそうな声を聞くと自分だって同じ気持ちになった。
いつもよりずっと早く家の外に出るとまだ雨が降っている。傘を開く。風が吹き込んでくると頬に冷たい雫が当たった。家にはなにもないだろうと思ってコンビニに寄り、サンドイッチとか野菜ジュースとかゼリーとかを手土産に買っていく。
古びた集合住宅の階段をのぼり呼び鈴を鳴らす。返事を待つ十数秒間、なんだか息苦しくなる幸せなときの流れ。鍵の開くかちゃりという音。
「いらっしゃい」
お線香の香りがわずかに漂ってくる。薄い笑みを浮かべるリンちゃん、それに喜ぶ自分の心。
「朝ごはんだよ。食べてね」
「そんなのいいのに」
長靴を脱ぎながら、続きの言葉を聞く。
「でも、ありがとう」
自分はこのために生きてるんだみたいな、そんな錯覚ですら幸福感を煽る。いま自分の頭の中には、冬だというのにひまわり畑が広がっていると思う。
ちょっとぱさつくサンドイッチをふたりで食べながら、ハルナはその目でリンちゃんが食事するところを見つめている。視線が交わった。ハルナの眉がさがる。微笑みを造るときの動きだった。
今日ずっといっしょにいられるなら、お昼ご飯もつくってあげよう。そのために必要なこと、材料は、と冷蔵庫の方を見る。ハルナの中にいるもうひとりの自分が、前世の記憶がささやく。中身はほとんどからっぽだから買いに行かないとね、って。
「お昼も作ってあげるね」
「いいの? でも、なんにも、」
「うん。だから買い物に行ってくるよ」
形だけ冷蔵庫の中を覗いて、ほとんどなんにもないことを確認したふりをする。キッチンの配置をたしかめ、いつかどこかで使ったことのあるセラミックナイフを見た。右眼が疼く。緑の瞳をてのひらで押さえた。記憶の連鎖はすぐに止まり、ハルナはにっこりと笑う。
「ごめんなさい。リンちゃんっぽくて、笑っちゃった。ほんとになんにもないね」
「根が面倒臭がりだから」
「そんなことないよ」
そう言ってから、ハルナは仏間の方を見た。
「あいさつしていってもいいかな」
「ああ、うん……」
リンちゃんが頭を押さえる。
「ごめん、リンちゃん」
すぐ隣に立って、頭を撫でる。髪の毛が硬く感じた。前の手触りが良すぎたんだ、とすぐ思考を塗りつぶす。
「だいじょうぶだよ、ハルナ。だいじょうぶ」
そんなことを言っているけれど、きっとものすごい頭痛に襲われているはず。もしそうでなかったとしても、
ふたつに折られたお線香は、どちらももう半分近く燃えている。ハルナは同じようにお線香を供え合掌すると、目を閉じてなむあみだぶつと唱えた。
キッチンに戻る。リンちゃんが台所に立っていた。
「リンちゃん?」
彼女は右手にセラミックナイフを持っていた。切るべきものなんてどこにもあるはずがないのに。
止めなくちゃ。
なにを?
自殺を、に決まってる。
「リンちゃん、だいじょうぶ?」
振り返った少女の顔には、枯れ果てた花が咲いていた。
「うん、だいじょうぶ」
舞い散るその花びらの行方が、ハルナにある予感をもたらす。その刃の本当の行く先は
「こんな顔してちゃ、ぜんぜん説得力がないよね」
「ううん。リンちゃんが私に嘘なんて
その日は何事もなく過ぎる。学校が始まって同じ通学路を歩き、電車の中で人々にもみくちゃにされたり、バスに揺られながらなんでもない話をしたりする。そんなどこのだれでも体験できそうなありふれた日常というものの中で、リンちゃんの瞳の奥には確実に黒が広がっていった。物理的にはハルナのことを映しているのに、でも、自分のことが見られていないと思うことが増えた。
春が来て学年があがる。この高校にはクラスをシャッフルするという他所にはありそうな決まりごとがない。ふたりは同じクラスのまま二年生になった。コースにも変更なし。文系大学への進学を狙ったカリキュラムをこなす。選択授業も含めて、ふたりは常にいっしょだった。
文芸部の活動も同じ。違いはある。ハルナは書き手でもあるけれど、リンちゃんは常に読み手だった。それも
そんなリンちゃんが、春の部誌の読書会で、ハルナの作品にこんなことを言った。
「今回も中二病全開だね、ハルナ」
やっぱりそうだよね、ってハルナは赤くなりながら聞いてる。そういうものが好きだから、自分でもそういうものを書きたくてやってしまう。有名なファンタジー小説を真似して書いた剣と魔法と恋の物語。それらしい理屈をでっちあげて書き上げた、それっぽい呪文を唱えないと魔法が発動しないライトノベル。
「痛々しい。たまには別のものを書いた方がいいね」
ハルナは止まる。あれ、って感じた。胸がきつく締めあげられる。これって否定の言葉? リンちゃんらしくない。まわりを見る。他の子たちも似たような反応だ。リンちゃんがこんなことを言うパターンなんてあったっけ。私の記憶にはない。こんなことは本当に初めてだった。右眼が内側から痛んだけれど、ハルナは平気な顔を取り繕った。
他の子の作品には、リンちゃんはいつも通り好意的な意見を言った。それでも部室の中の温度はあがらない。みんなどこか慎重に感想を述べていく。特にハルナに対しては、いつもは辛口の先輩でさえもまるい言葉を使った。当たり障りのない感想は毒にも薬にもならないから、そこは堂々と批判してくれてもいいのに。なんて、そんなことを考えてもハルナは口にできない。
おちつきを取り戻したあとも、疑問は常に胸中にあった。リンちゃんはどうしてあんなことを言ったんだろうって。なにかを変えようとしているのかな。
「ねえ、リンちゃん」
ハルナは鍵番の役目を果たすため、リンちゃんといっしょに職員室への道を歩く。
「なに、ハルナ」
だれかを突き放すときの口調。これも、過去の体験とはすこし調子が違っている。自分以外の人間を好きになろうと努力しているリンちゃんの言い方は、どこかでハルナを気遣ってしまっているものだから、リンちゃんの出せる低音を極めることができない。だから怖くない。いまみたいに、怖いなんて感じなかった。
「ううん。なんでもない」
「そ」
上履きがリノリウムの床を打つ。ぱたぱたと歩く音が鼓膜に貼りついて離れない。
「ねえ、ハルナ」
帰りのバスの中で、リンちゃんは変わらず低い声でつぶやいた。
「今日から別々になろう」
「うん」
私はその言葉に従う。それしかできない。私はリンちゃんの言うままになると決めたから。彼女を好きに生きさせようと神に誓ったのだから。
「行きも帰りも。部活も顔出す回数減らすよ」
「うん」
「寂しくても我慢しな」
「うん」
「教室でも挨拶しない」
「うん」
「電話もしない」
「うん」
「聞いてる?」
「うん」
「わたしの家の住所は?」
そらんじて答える。
「そっか。聞き分けがいいね、ハルナは」
「うん」
「いやなやつでしょ、わたし」
「ううん」
「ハルナって、バカだよね」
「うん」
「そこは否定しなよ」
「うん」
「ハルナのばか」
「うん」
「ねえ、ハルナ」
「うん」
「…………だいっきらいだ」
「うん」
私は、
「ハルナなんてだいきらい」
「リンちゃん」
私は、
「だいすき」
五月雨の季節が始まり、私はその手の中に塩水を集める。
リンちゃんといっしょにいられない時間は灰色。まばたきをすれば消えてなくなる六月。物書きが手につかずに原稿をおとす七月。うだるような暑さに襲われて、さっさと終わって欲しいと思う夏休みの最中、終わりの予感がひしひしと伝わってくる八月の夜の底。
着信履歴にはハルナのことを心配した先輩からの連絡がいくつか来ている。それくらい、ハルナはいつも素早く入稿していた。書きたいものがはっきりしていたから。リンちゃんを想って書くのだから、言葉なんていくらだってあふれてきた。まるで宇宙の記憶から読みだしてきたかのようにすらすらと書ける。前世の記憶を使ったズルだ。それさえもできなかった。やる気がないからできない。学校の成績もよくなくて、先生に心配されてしまった。これじゃあいけないと思うのに、ハルナにはどうすることもできなかった。助けを求める相手もいない。自分にそれを求めても仕方ないと思った。もっと他に必要なことがあったから。
無為に過ごした数か月の中で、ハルナはある確信を抱いていた。だからお父さんに包丁の研ぎ方を教えてもらった。ギラギラになるまで研ぎ澄ました包丁は、家族に引かれるくらいよく切れた。これはちょっとやりすぎだなと言われたけれど、でも、それくらいの切れ味がないとだめなんだ。
新学期に入っても、教室では無視され、部室では酷評を受ける。
ある休日の夕方、漫画アプリの広告再生が通話画面で遮られる。リンちゃんからの連絡だった。ハルナは深呼吸をしてから応答する。
「部室に来て」
スピーカーによるフィルターごしでも、決意が込められていることがわかる。
だからハルナもそれに応じた。
「うん。わかった。すぐに行くよ」
部室の鍵番はリンちゃん。わかってる。包丁の仕上がりは悪くない。布で包んでスクールバックに入れた。制服に着替えて出ていく。背中から聞こえてくる、お母さんの呼び声は無視した。
ハルナの両眼に青い光が灯る。
だれにも邪魔をすることはできない。
灰色に色褪せた世界をハルナは歩いた。電車とバスを乗り継ぎ、学校へ向かう坂の下で降りる。ハルナはふたつの眼に同じ意志を宿らせ、きつい傾斜の坂をのぼった。
文芸部の部室につくころには、あたりはすっかり暗くなっている。
バッグを置いて包丁を手に持つと、ドアに手をかけた。
鍵は開いている。
中に入るとそこには、もっとも愛しい他人が立っていた。
まるで枯れ木を思わせる風貌をした黒髪、
ハルナはヘテロクロミアを光らせてその姿を見つめた。
凛音の手にセラミックでできたナイフが握られている。
「どうしてわかったの」と
「わかるよ」と
「殺すよ、ハルナ」
本気のリンちゃんの瞳はいつにも増して美しかった。
「うん。わたしも」
この世でもっとも美しいその人をこれから壊すのだ。
リンちゃんの先攻で、ナイフがおなかに突き立った。
彼女はやさしく、それが残酷。刃は浅く痛みは強い。
ハルナは苦痛に怯みながらも自分の役割を果たした。
この痛みはきっと、自分の知らないあれに似ている。
幾度も繰り返される、とても
ハルナは事切れる直前に、刃を横に寝かせてリンちゃんの腹部を刺した。金属はやわらかい腹部の深いところまで入っていく。リンちゃん。その顔を見せて。この意識が消えるそのときまで、あなたの顔を見ていたいから。赤く赤く染まった頬を白く洗い流す涙の軌跡はまるで星。
その一筋の流星がハルナに自分の
私はこんなことがしたかったわけじゃない。
こんなことをしたいと思う人間などいない。
それはきっとリンちゃんも同じに違いない。
じゃあどうして私はそれを止めなかったの?
私は、
ねえ、ハルナ。
愛するひとに殺されるなんて陶酔が、あのひとにどうしようもない罪を犯させる。
そんな自分が
でも、わからない。
私にはわからない。
どうすれば終わらせることができるのか。
おねがい、どうか。
だれか私を、私たちを終わらせて。
これ以上、あのひとを壊さないために。
生と死の万華鏡 - Lives in the Kaleidoscope -
それはたとえば、他に女を作ればいいだなんて勘違いした夏の夜の後悔。
もう顔も名前も思い出せないその子は、リンネの裸を見て綺麗と言った。
綺麗な人間なんてこの世の中にいくらでもあふれている。だからリンネはその子の言ったことを聞いて夢から覚めたような気分になった。そして、とんだ間違いをしたものだと思ってその子の髪の毛を撫でる。多分、そうした。その手つきはいつもハルナにしているのよりずっと適当だったろう。
それでもリンネはその子とすぐに切れることができず、だらだらと季節を過ごした。そうしているうちに恋という酔いから醒めたのは向こうの方で、なんらかの別れの言葉と共にリンネはひとりぼっちになった。まあいい。そういうこともある。男とくっつけ、とリンネは思った。それが自然の摂理だ。
世の中は自分の好きに生きろと言う。じゃあ女の子を好きになって、その子と結婚してもいいんですか。ハッ。そんなわけないでしょう。クリスマスイブを迎えたリンネはケーキを買いに行く。食べきれるはずもないイチゴのホールケーキを買って帰る。その道すがらにあたりを見れば、当たり前のカップルというのは男と女でできている。彼氏彼女がこれから子作りをするのだろう。そうしてできた子供がたとえばひとりだとする。ひとりしかできないと仮定する。そういう計算をしていくと、世界中の人間は一世代ごとに半分になる。孫の代になればさらに半分。
雨が夜更け過ぎに雪へと変わるかどうか、リンネは確認できない。くだらない思考で時間を潰しながら帰った家の前に、だれかが立っていた。
「……ハルナ?」
「おかえり、リンちゃん」
亜麻色髪のツインテールが蛍光灯の下で揺れた。
「来ないでって言ったじゃん」
「ごめんね。約束、破っちゃった」
いいや、違う。ハルナに送ったメッセージはこう。
それを読み解ける他人はハルナしかいない。
だからリンネはひとりじゃとても食べきれないホールケーキなんてものを買った。
「ケーキ、おっきいね」
「買いすぎた」
「明日も食べれるね」
「……うん」
明日なんて来ない。リンネにはわかっている。
「ハルナ、遅くならないうちに帰りなよ」
「今夜は帰りたくない」
「そっか。じゃあ、仕方ないね」
リンネは笑う。意識しない笑顔は、たぶん、造ったものよりずっとマシ。ケーキは甘い。この生の最後に食べるものとしては、どうしようもなく甘かった。
ふたり並んで歯を磨く。意味がない。でもハルナには未来がある。この先もずっと続いていく。すくなくとも死ぬまでは身体を維持していかなくちゃならない。虫歯とかできたらいやだろうし、だから自分も明日があるっていう態度で歯を磨いている。
浴槽に湯を溜めてふたりで入る。バスタブの中でハルナの身体を抱く。それだけ。皮膚と皮膚を熱い液体の中で触れさせる。幸せだった。それ以上を求める気がしなくなるくらいに。
髪の毛を乾かしてからも、取り止めなのない話をした。こういうときのために買っておいたペアルックの高級なパジャマはなかなかの手触り。リンネがブルーでハルナがピンク。もしこれが彼女からのプレゼントなら逆の色になってたと思う。ハルナはいつもリンネのことを女の子に仕立て上げようとしてくれたから。
狭いけれど同じベッドで横になった。手を握りながら目をつむる。寝つけないよ。だってひさしぶりだから。ずっと突き放して生活していたから。最後の最後になってこんな時間を過ごせるなんて、自分の身勝手さに
「ねえ、ハルナ」
呼びかける言葉。もう繰り返すことに抵抗はない。同じ言葉でいい。使う言葉なんていつも同じで構わない。
「ごめんね。だいすきだ」
目をおおった。後悔しかない一年。こんなこともう終わりにしたいのに。
「さみしかった」
ハルナの声が耳をくすぐる。
「だいすきだよ、リンちゃん」
どうしてわたしはこうなんだ。
わたしはずっと、ハルナといっしょに生きていたいよ。
まどろみと共に零時を過ぎ越す。
やけにはっきりと窓を叩く雨音が聞こえてくる。
わかってる。いつものことだ。
スマホを覗けば、十二月二十五日土曜日の午前五時。
リンネはまた、一年前のクリスマスに戻されていた。
*
それはたとえば、ある未来の夏の最中。
汗が滲む暑さを感じさせる夜、浴衣を着て手をつなぎ、リンちゃんと歩いていく。参道のまわりに小規模な出店が並ぶ。彼女が和風の柄がついたがまぐちから小銭をいくらか取り出し、ラムネを買った。プールからあがった直後みたいに水が
「つめたくて、きもちいいね」
「はは。そうだね」
同じ気持ちであることの心地よさはたまらない。
リンちゃんが封を切ってプラスチックを押し込む。甘い炭酸水の詰まった硝子瓶の中ほどに、丸く透明な玉が音を立てて沈んでいく。手元に噴き出したべとつく液体を、黒髪の女の子がタオル地のハンカチでぬぐい取った。ぺろりと指先を舐める仕草にぞくっとする。ラムネの香りの残滓をまとわせて、その指がハルナの目の前に差し出された。ハルナは迷うことなく、その先っぽに舌を這わせる。周囲にはいくらでも目があった。それでもやめられない。酸味の混じった甘さがまだ残ってる。
肩を抱かれ、頬と頬が擦れあう。リンちゃんは熱い。耳元に吐息混じりのささやきが届いてくる。
「このまま行方不明になりたいね」
そんなことを言うリンちゃん。私の両眼はきっと、イミテーションの宝石みたいに下品な光を放っていたと思う。
「そうだね、リンちゃん。いいよ。私はずっとそばにいる。だから、この世からいなくなりたいなら、私もいっしょについていくよ」
今日のために買った浴衣は、まだ袖を通してから一時間も経っていない。リンちゃんもきっと同じだった。でも私はもう外にいようなんて思えない。ソースと青のりが焼ける香ばしい匂いに胃を刺激されても、大吉を引いて恋の成就を祝う男女の声を聞いても、空に出ている月の輝きがなんだか私たちを笑っているように見えたとしても、どれもこれもが気にならなかった。
どきどきしている。
走ってもいないのに勝手に身体は熱を帯びて、つなぐ手に汗を滲ませてしまう。そのことが恥ずかしくて今度は頬にまで熱が
こんな感情を抱くのはおかしいと思ってはいても、もう私はやめられない。
家に誘って欲しい。家族に見られることもなく、だれにも邪魔されることもなく、未来のことさえ考える必要のない密室へとさらわれてしまいたい。
「じゃあとりあえず、うちに来てみる?」
福音だ。リンちゃんの上擦る声が、私の感情の表面を愛おしげに撫でていく。錯覚でも構わない。
無言のうなずきを返事とした。額にキスの雨が降る。まわりが見えなくなった。リンちゃんのことしか考えられない。視野狭窄ってこういうことなんだって感じ。こういうときこそ時間が飛べばいいと思うのに、リンちゃんの心が変わってしまうんじゃないかって怖くなるほど、家までの道のりではときの流れが遅く感じた。
真っ暗な部屋の中、衣擦れの音が聞こえてくる。
「いいの、かな」
不安が音になって口からこぼれる。
「ハルナがいやだって言っても、わたしはもうやめないよ」
ぷつりと金具が外れる。ふたつとも、はずれた。
もつれあうようにベッドに倒れる。
熱い。なにもかもが。順序も加減もわからない。湯浴みするいとまもなかった。手が絡みあう。重ねたいと思ったものすべてを感情のままに触れ合わせる。
夏の夜の底の中で、私たちは比翼の鳥になる。
「いまなら空も飛べるかな」
なにもかも使い果たしたような心地で天井を見上げるハルナの耳に、リンちゃんの熱っぽい声が聞こえてくる。その言葉の意味がわかった。怖くて震える。でも、決意は一瞬で固まった。
「やってみようか、リンちゃん」
両手を広げる彼女の胸に飛び込む。
「ハルナといっしょなら、今度こそ飛べるかな」
「私こそ、失敗しちゃうかもしれない。そのときは、ごめんね、リンちゃん」
「ううん。いいんだよ」
「だいすきだよ、リンちゃん」
「ふふ。だいすきだよ、ハルナ」
ベランダに出ると空に月が微笑んでいる。
ぬるい風では熱された身体を冷ませない。
夏の夜の終わりに向かって羽ばたく。
やがてぱっと花火みたいに赤いしぶきが広がり、その記憶は終わりを迎える。
そんな現実をあのひとと過ごせたら、なんて夢は終わってしまった。
午前五時、窓を叩く雨音。カーテンを開いて冷たい空気に触れる。それで目を覚ますとスマホを抱きしめて愛しいひとからの連絡を待つ。昨日、あれだけはしゃぎまわったのに、もうこんなにリンちゃんに会いたい。
*
それはたとえば、ある未来のクリスマスイブ。恋人を誘拐して逃げる真冬の鈍行。
重たいスーツケースをふたりして引きずり、江ノ島へ向かって電車に揺られている。景色は灰色から枯葉色へと変わっていった。乗客はまばらで、同じ車両にはうらやましいと思うほど年を召した男女が壁打ちみたいな会話をしている。
暖房の効いてあたたかな車内で手を握りしめていると、体温があがり汗が滲んだ。
「恥ずかしくない?」
そう問いかけるリンネのほうこそ恥ずかしかった。こんなときは自分の方がしっかりしなければいけないと思っているのに。造花でもいいから表情を作ろうとして、なんだか目元に変な力が入る。
「ぜんぜん。リンちゃんの方こそ、はずかしいんでしょ。かわいい」
「かわいくなんてないよ。もう」
肩に寄りかかってくるハルナ。その身体を抱き寄せて亜麻色の髪の毛に顔をすりつけた。オーガニックな香りがする。同じシャンプーだ。彼女が買ってくれたお気に入りの洗髪剤の匂いを感じようと目を閉じた。
「ハルナにはかなわない」
「リンちゃんには勝てないよ」
「おあいこだね、ハルナ」
「……リンちゃん」
「ハルナ」
互いに呼び合う。視線が重なる。もっとつながりたくなってしまえば、他のものは目に映らなくなる。
次の駅に停車したとき、ようやくわたしたちは口を離した。
贅沢な部屋に荷物を放り出してお風呂を楽しみ、お互いの肌を磨いた。だれも見ていない。キスをする。繰り返す。瞳の中には想い人しか映らなかった。
でもそれは胡蝶の夢に等しい。
おおきなベッドに腰かけてうとうとする。ハルナの頭が膝に乗っていて、その髪の毛をすいていると気持ちいい。もうすぐ零時だ。
「よふかしだね、ハルナ」
このまま時間が正常に過ぎてくれればいいのに。もし自分の寿命がこのあとわずかにしか残っていないのだとしてもそれでいい。ごめんね、と心の中でつぶやく。わたしはきっとあなたを置いて行ってしまう。けれど、もうすっかり疲れてしまった。
こんな旅行に来たのも、もう一度や二度じゃないから。目先の肉体感覚以外、自分を動かしてくれるものがなかった。
「おやすみなさい、リンちゃん」
もうすこし。あともうすこしだけ起きていたい。
部屋に置かれたデジタル時計が午前零時に近づいていく。
「ハルナ。ねえ、ハルナ」
「なあに、リンちゃん」
「だいすきだよ」
「うん。だいすき」
ハルナが目を閉じる。我慢できなかった。リンネも目を閉じてしまう。彼女の前では意地を張れない。同じとき、同じ気持ち、同じ終わりを共有したいとこいねがう。
身体ががくりとかたむく。
支えてくれる大地が消え去ったかのように、わたしは闇の中へとおちていく。
怖かった。
無になることが、
すべてなかったことになってしまうことが、
わたしというものがなくなることが、
ハルナと二度と会えなくなることが。
白い暗闇にくるまれ、恐怖によって目を覚ます。
膝の上にはだれもいない。
「ハルナ!」
叫んでも、そこは自分の部屋だ。
はっきりと聞こえるのは午前五時の雨の音だけ。
すぐスマホを取り上げた。ロックさえうまく解除できない。履歴からすぐハルナに電話した。
コールが一回、二回、三回。
出て。お願い。
出てよ、ハルナ。
そこにいるって教えてくれ。
その声を聞かせてくれ。
「おはよ、リンちゃん」
ああ、とわたしはスマホをおとす。
「……ちゃん? リンちゃん?」
うれしくて涙腺から雨垂れがしぼりだされる。
「どうしたの、リンちゃん」
拾いあげたスマホに、リンネは泣きながら話しかける。
「ううん」
いくじなし、と自嘲した。
「声が聞きたかっただけだよ、ハルナ」
*
それはたとえば、あるゴールデンウィークの最終日。それはたとえば、はじまりのクリスマス。それはたとえば、なんでもない日。それはたとえば、終業式をなまけた夕方。それはたとえば、それはたとえば、それは、それは、毎日、毎日、あらゆる日々の中に自分たちの生きてきた欠片が混ざっている。
手首を水に沈めて動脈を縦に切り裂くリンちゃん、スマホゲームのガチャで神引きを連打するリンちゃん、ネクタイでドアノブを使った首吊りをしているリンちゃん、眠っているリンちゃん、高い建物から飛び降りをしてしまうリンちゃん、私とキスをしてくれるリンちゃん、高い橋から浅い川に飛び込んだリンちゃん、宝くじを当てていっしょに豪遊するリンちゃん、この手で
私には確信があった。
たとえどんな結末を迎えたとしても、どんな前世の記憶があろうとも、私はリンちゃんに愛されているという確信が。
それはとんだ
リンちゃんがわたし以外の女の子と結ばれたことなんて知っている。
そんなことなんて無数にある。
……なんて、そんな夢を見て私はクリスマスの朝に目を覚ましている。
そしてどうやら、それをずっと繰り返しているらしい。
もうひとりの私が言う。
それが神との誓いであると。
わかっている。
それこそ私の犯した罪だと。
右眼が疼くとき、私はどうしようもなくリンちゃんのことを独り占めしたい。
左眼が痛むとき、私たちはリンちゃんのことを狂わせたという罪に苛まれる。
ミトラハルナには、わかっていた。
どれだけ多くの前世の記憶を持っていても、それを使って現実を変えられるわけではないということが。
*
わたしは逃れられない。
午前五時。雨の音。
午前五時。雨の音。
それはいつまでも繰り返される。
午前五時。雨の音。
午前五時。雨の音。
それはいつまでだって繰り返される。
午前五時。雨の音。
午前五時。雨の音。
どうすれば逃れられるのかわからない。
午前五時の雨の音がやけにはっきりと聞こえる。
午前五時の雨の音がやけにはっきりと聞こえる。
午前五時の雨の音がやけにはっきりと聞こえる。
午前五時の雨の音が、
午前五時、
雨、
雨、
雨、
雨。
3
ひとつの物語を話し終えたリンネは、電源が切れたようにぷつりと眠りにおちた。
それからまだそれほど時間が経っていないのに、刀香の頭は割れそうなほどに痛んでいた。でも割れてないのでセーフ。
彼女は
痛みはなかなか鎮まらない。詩乃にこの情報を伝えるべく、スマホを使おうとして四苦八苦する。
無理。普段でさえどう操作すればいいのかよくわからないのに、体調不良でやれるわけがない。
刀香は諦めてリンネのいるベッドにもぐりこんだ。
ほう。なかなかあったかい。こりゃいいや。
すこし休むことにする。今日は色々あって疲れたから。次に目覚めたとき、改めて詩乃に連絡しよう。
では、おやすみなさい。
………………。
…………。
……。
チュン、チュン、とスズメの鳴く声が聞こえた。
さわやかな目覚め。コーヒーの香りが漂ってくる。そこにわずかながらお線香の匂いが混じっている。
「おはよ、刀香」
サイドテーブルに湯気を立てるコーヒーカップが置かれた。
「ふわ」
あくびをしながらのびをする。布団がめくれると、そこにまっさらな肌が曝け出された。冬の冷気によって頭がだんだんと冴えてくる。刀香は置かれたカップを手に取ってひとくち。苦っ。リンネに自分の好みを伝えそびれていたせいだろう。やれやれ、と思いながら、刀香は生まれたままの姿でベッドから出ようとした。
……なんですと?
「わあああああっ」
「どうかしたの?」
刀香とは対照的に、リンネはおちつき払っていた。
「ちょっ、待って。なにこれ」
「なにって。やっぱりぜんぜん覚えてないの?」
枯れ木みたいな少女の四肢が眼前にある。その身を隠しているのはバスタオルだけだ。リンネはシャワーを浴びたあとのようで、まだ髪の毛が湿っている。
どうしよう。
オレ、なにかとんでもないことをしちゃったかもしれない。
ちらっ……。
ほらやっぱり! はいてないもん!
「ひゃわわわわっ、もうお嫁にいけないよぉ……」
「お嫁に行く気あったんだね」
ぽいぽいっ、という感じで昨日着てたもの一式を投げ渡される。
「ぜんぜん起きないからさ、どこまでやれるか試してみたんだ」
ちょっと理解が追いついてない。なにひとつとして覚えていなかった。他人の記憶の覗き見をし過ぎて自分の頭が一時的にオーバーヒートしていたのだと思う。だからだ。こんなことになったのは。
「刀香がなにしても起きないからさ。わたしが起きても、スマホが鳴ってても。これはよっぽどだなと思ったから、服を一枚ずつ脱がしていったわけ」
「なに? じゃあおまえ、オレの了解も取らずに……」
なるほど、と頭の中に残った冷静な部分が判断する。オレに記憶がないのも無理はない。リンネが勝手にやりやがったんだから。
「割と脱がすの大変だったけど、それでもすやすや寝ててさ。こりゃもう、わたしの方もぜんぶやるしかあるまいって思ったわけ」
「あわわわわ」
刀香はもう一度自分の身体を点検してみた。どこも赤くはない。いや、この状況に取り乱してるから血色はいいけど、シーツに汚れた形跡はなかった。
「どこまでやったんだ」
「最後まで」
「そうですか」
刀香は腹をくくった。
「リンネよ」
「どうしたの、トーカ」
「責任を取れ」
「ん?」
「だから、最後までやっちゃった責任を取れ。オレ、諦めてお嫁に行きます」
「なんか重大な勘違いしてない?」
改めて下着からつけなおしながら、刀香は頭の上に疑問符を浮かべていた。
「だって、最後までやっちゃったんだろ」
「うん。まさか下着までいけるとは思わなかった」
「なにが下着だよ。ぜんぶ奪ったくせに。その割には痛くないんだよなぁ」
「トーカって致命的なバカでしょ?」
「バカじゃないですし。純情可憐なシルフィードに手を出した魔性の女に言われたくない」
「はあ。脱がしただけなのに」
「はじめてって、もっとドキドキしながらできるって思ってた。今日からオレも永遠野姓か……ん、なんだって?」
リンネが窓辺に立てかけられた雪花風刃の袋を眺めている。
「脱がしただけ」
「それだけ?」
首をかしげる刀香に、リンネは至って平静な顔で言った。
「それだけ。トーカが思ってるようなことはなにもしてません」
「オレが思ってることってなんだよ」
「えっちでしょ」
「ひえっ」
口に出して言いやがったこいつ。しかもぜんぜん恥じらいというものがない。
「女の子同士でなにをどうするんだか。文学少女の刀香にはわかってそうだけどね」
「このっ、下着どろぼうっ!」
「ははっ。おもしろ」
リンネの笑顔がちょっとまぶしいのが腹立つ。
「乙女だって言ってんだろうが! オレは身体も含めて純粋無垢なんだよ!」
「思考回路はよごれてるのにね」
許されるならこんなやつさっさと斬り伏せてるのに。
むすぅ。
空腹を感じながらも、刀香は昨日やり残していた作業の続きをすることにした。端末を手に取る。その画面には詩乃からのメッセージが表示されていた。着信履歴もいくつかある。スマホが鳴っていたというのはこれが原因だろう。
メッセージには〈ハルナちゃんと心中旅行に出る〉と書いてあった。
うそだろ。
「り、リンネ! たいへんだ!」
「今度はなに?」
「ハルナが寝取りされてる!
「はあ?」
刀香はスマホの画面を見せた。
「ふうん。意外と手が早いんだね、シノさん」
リンネはやけにおちついていた。お昼のニュースを見ながらおせんべいでも食べてるみたいに。
「悠長なこと言ってる場合かよ」
「留守番電話入ってる。ロック解除して」
「
「ひどい」
リンネがすいすいとスマホを操作し、音を再生した。
「なんでぜんぜん出えへんのや。ほんまに最低のパートナーやな。だからオールタイムワーストごく潰しやっちゅうねん」
なんだよその罵声は。
「ったく。……うちな、これからハルナちゃんと心中旅行っちゅうのに出てくる。もう帰らんからじぶんとはお別れや。思えば長いつきあいやったな、刀香」
「うわあああっ、詩乃のやつがしんみりしてる」
「黙ってて」
「…………を使わせてもらうで。せやから……」
リンネが一旦、再生を停止する。
「聞こえなかったから戻すよ」
「うん」
「刀香。それと、今回はオニキスを使わせてもらうで。せやからこっちのことは心配せんでええ」
再び停止。
「オニキスってなに?」
「短刀というか、ナイフかな。鞘入りの」
「銃刀法違反じゃない?」
「
「なんでそんなにふわふわしてるの?」
「実際に抜いたところを見たことがないんだよ。あいつには負荷が強すぎるんだ」
刀香は勝手に再生っぽい三角形をタップした。
「ハルナちゃんのことはうちが決着をつけといたるさかい、リンちゃんと幸せにな」
数秒のホワイトノイズのあと、詩乃のちいさな声が続いた。
「さよなら、刀香」
再生終了。
それ以外に音声記録は残されていなかった。
「詩乃のやつ、いつもオレに思いつきで行動するなとか言うくせに」
うろたえる刀香の横で、リンネがタンスから服を取り出し始める。
「刀香、詩乃さんにめちゃくちゃやきもち焼かれてるじゃん」
「はい?」
「いや、わかんない。実はわたしの方にもハルナから連絡が来てた」
さくっといつもの格好になると、リンネはその内容を喋った。
「わたしがトーカと遊ぶなら、自分もシノさんと遊んでくるってさ」
「おまえこそ、それ」
「違う。ハルナは本気になれるか試しに行ったんだよ」
昨日持って帰ってきた荷物の中から、刀香のジャージ一式が投げ飛ばされてきた。
「わたしとハルナは特別なの。わたしたちがどれくらいの時間をいっしょに過ごしてきたと思ってるの?」
オーバーフロー。トーカは思い出す。
「さっさと着替えて。こういうときは追わないとだめ。わかるよね、刀香」
わからないが、うなずきながら着替える。
「あてはあるのか」
「こっちが聞きたい。でも、もし主導してるのがハルナなら選択肢はひとつ」
「それは?」
「江ノ島、恋人の丘」
最寄り駅まで電車でいける場所だった。
「なんか手軽な感じだな」
「さっさと出るよ」
リンネは冷蔵庫からいくつかのゼリー飲料を取り出すと、ぜんぶ飲み干していった。刀香がそれを追い、追い越す。十秒で一個、六個で一分だ。
「いつでも行ける」
「じゃ、わたしたちも心中旅行と行きますか」
リンネがそう言って手を伸ばしてくる。
え、えぇ……。
どうしよう。
「嘘だよ」
彼女は手を引っ込めると、玄関の扉を開いた。冬の風が吹き込んでくる。
「まずはデートから。ひとつずつこなしていこうよ、トーカ」
ブーツとスニーカー。どっちにするか迷い、刀香は普段使っている方を選んだ。
「わかったよ。オレのこと、ドキドキさせてみろ、リンネ」
「了解」
抱き寄せられ、額にキスされる。
「ふええぇ」
めっちゃドキドキした。
マジでもうなんなの。
オレ、なんでこいつのことぜんぜん拒めないんですかね?
4
詩乃は冬の夜のベッドの上で、バッグの底に眠っていたオニキスの
初めてそのナイフを使ったのは生まれて間もない頃。しかしその身体はすでに十歳くらいの年齢になっていた。正確な肉体年齢をはかろうとすることに意味はない。自分は老い先みじかい、というその実感だけで十分だった。
オニキスを使おうとしたのは、死にたくなかったからだ。永遠というエラーを吐く存在を星から切り離してしまわなければ、他人の寿命を奪い取ることができない。焦っていたのだろう。詩乃の余命は一ヶ月を切っていた。そのときの標的はほとんどなんの能力もない
だがオニキスの力に詩乃の身体は耐えられなかった。一秒もしないうちに気絶してしまい、その身体を当時の相棒に回収された。いわく、三日間目覚めなかったという。いかにもな話だが、詩乃にとってそれは現実で、しかも運がいいと思えるような出来事だった。
詩乃はそのとき、自分が死というものに触れた気がした。それは白い暗闇として記憶に残っている。既知の感覚だ。ああ、また死ぬんだ、と思った。
そのときの収支はマイナス。だから自分は、二度とオニキスは使うまいと思っていた。使わなければと思ったことは何度もある。それでも使わずに済んでいた。
「だいじょうぶ、詩乃さん?」
ハルナが呼びかけてくる。彼女は今日、リンネの家に泊まっているということになっている。実際には刀香といっしょに使っている家に連れ込んだ。彼女の言う永遠の真実をたしかめるために。
「私にはね、詩乃さん。前世の記憶があるんだ」
上等な木のスツールに座っている彼女は、青と緑の瞳で語る。
「でも変なの。だって、それは未来の記憶だから」
「前世っちゅうたら、普通は前に生きてた時代のことを覚えとるもんやしな」
「うん。でも間違いないと思う。その記憶によるとね、私は神様と約束したみたいなの。リンちゃんとずっといっしょにいる。リンちゃんが死ぬときが私の死ぬとき。その代わり、私とリンちゃんの間に挟まる障害は消すって」
消すと言われたときの恐怖が喚起された。ぞっとするほど冷たいなにかがそこにいる。ミトラの気配とは違っていた。それに、彼女の両眼はいま正常な状態のままだ。
「怖い話やな。で、その神様はなんて名前なん?」
「……わからない。私にはそれが、もうひとりの私だとしか感じられなくて」
「ヴァルナとは違うん?」
ミトラ=ヴァルナというキーワードの片方。すでに内容は調査済みだ。
「ヴァルナ……インド神話の神様だよね? 水の神様。たしか、ミトラって神様といっしょに契約を司ってる。ミトラ=ヴァルナって並べて使われることが多いって。——あ、うん。前世で調べたことがある」
彼女はときどき、自分自身と会話しているかのように間を開けて話すことがある。それがおそらく、前世の記憶を読み出している瞬間なのだろう。
「よう似とるな。音が。ハルナちゃんと」
「うん。私、ミトラハルナ、だもんね」
偶然にしてはよくできているものの、ミトラという姓の親が自分の子供に水神を思わせるヴァルナ、転じてハルナという名前を与えたと考えれば別に不自然なものではない。だから、名前だけですぐにヴァルナの力が働いている、と判断することはできなかった。そもそも、それがわかったところで意味がない。必要なのは問題の根本を見つけることだ。
「脱線してもうたな。終わらせたいっちゅうのは、その前世の記憶がらみなん?」
ハルナは縦に首を振った。ツインテールが揺れる。亜麻色の髪が月光を吸い込んできらめいた。
「もうひとりの私が言ってる。私たちはどれだけ長くても一年しかいっしょにいられない。繰り返すたびにリンちゃんがおかしくなってくって。私のことを頼ってくれてるけど、好きでいてくれてるけど、私から離れようとしたり、死のうとしたりを永遠に繰り返してる」
「数えることもできんくらいに?」
「もうひとりの私が教えてくれることが正しいなら、この地球が生まれてから経過した時間に等しく」
詩乃は黙り込み、オニキスを握りしめた。
「そんなん、人間性を保っとる方がおかしいわな」
「もしかしたら、リンちゃんはずっとひとりでその永遠の中に閉じ込められてるのかもしれない」
ハルナが右眼を押さえる。涙があふれだしてきた。両方から。だから彼女は左眼もおおい隠した。
詩乃はだれかを想って泣く少女に、なにひとつとして言えることがなかった。
終わりたい。
その感情の理由はわからない。
でも、終わらせたいという気持ちはわかった。
そして苛立った。嫉妬した。
やはりその感情の理由がわからないまま、ハルナの泣く姿を黙して見つめる。
この子はなんて美しいのだろう。
理解できない感情を前にして、詩乃は窓辺に立った。
月の光をさえぎって、ハルナが影の中へと消えていく。
詩乃は眼鏡を外し、少女に言い放った。
「終わらせたいのなら手はある。でもそのためには、あなたのはじまりを知らなければならない」
ハルナの影が動いた。
「リンちゃん……?」
なにが彼女にそう感じさせるのだろう。理解不能だ。詩乃の中に冷え切った怒りが生じる。わたしはわたし。
でも、いまはその名を使わない。
「いいえ。わたしはバンシー
偽りの自分を取り払い、彼女は続けた。
「はじまりの記憶を
詩乃はずっと怖かった。死ぬことが。だから生きている。
死にたくない。
明日も、明後日も、十年後だって。
では、どれだけの長さを生きれば自分は満足するのだろう?
涙にぬれる緑の眼をこちらに見せながら、ハルナがつぶやく。
「私にそれができるのかな」
詩乃はうなずいた。
「できる。連れて行くよ。わたしが。わたしはきっと、そのために生まれてきた」
月を見上げる自分はいま、死を恐れていない。
「……このまま行方不明になりたいね」
その言葉に反応するハルナの瞳。
やはり自分ではないだれかを見ている気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます