言葉を紡ぐ事などできない。もはや言葉を永久に失ってしまったかのような心地すらする。

 目の前にいる獣が、花霞の愛しい周の成れの果ての姿など信じられない。

 信じたくないけれども、そこにあるのは紛れもなく花霞が愛したあの美しい魂で……。

 だが、茫然としていた花霞の顔が、瞬時に険しくなる。

 感じたからだ、迫りくる悪しきものたちの存在を。

 人の世ならざる悪いものが、今人ならざるものに憎しみから転じて、血に塗れた周を仲間に引きずり込もうと集ってきている。

 到底太刀打ちできぬ程の数に、色を失っていた顔から更に色が失せる。

 このままでは、周は連れ去られてしまう。

 獣の身になった段階で既に周の魂は蝕まれ始めている。完全にその意識が消えてしまうのも時間の問題だ。

 左程時を経たずして、周は人の輪廻に戻る事も出来ず、永劫の闇を這いずり彷徨う悪しきものの一部になってしまう……。

 周である獣は、覚悟を定めたとでもいうように一歩踏み出した。

 否、踏み出そうとした。

 それを止めたのは、彼が愛した桜である。

 何をと問いたげな瞳を見つめ、小さく「愚か者」と呟く。その声音は優しい苦笑いと共に彼女の唇から零れた。

 迫る黒雲のような影は、最早目で捉える事が出来る程になっている。

 それらから獣を守るように立ちはだかった花霞の顔には、笑みがあった。

 不敵なまでに自信に満ちた、少女ではなく愛を識る女の微笑み。

 ゆるりと、枝垂桜の化身は花の唇を開く。


「これは、渡さぬ」


 獣が動揺したように見えた。

 恐らく、花霞が何をしようとしているかを察したのだろう。

 制止しようとでもいうように、唸り声をあげ始めたけれども。


「黙れこの愚か者! わらわのいう事を聞かずにこんな事になって!」


 怒鳴り声を耳にした獣は、打たれたように力を落した。

 まるで母に叱られた幼子のような雰囲気を漂わせる愛しき存在を背に、花霞は改めて集まり迫る悪しきもの達に向き直る。


「これは、わらわのもの。お前らなどに、けして渡さぬ!」


 それは巫女が厳かに告げる託宣のような、侵してはならぬ神々しさすら秘めた言の葉だった。

 声に応えるように、花期が終わりかけていた桜が一斉に花をつける。

 人の世にあり得えざる狂い咲き、舞い散る淡い花弁にて辺りが桜色の霧に包まれた如き情景を描く。

 周囲を焼く焔は最早止める事も叶わぬほどの火勢であるけれど、身を焼く焔すら灯りにかえた、あまりにうつくしい程に美しい花舞台だった。


 花霞は舞う、その全てを賭した捧げの舞い。

 愛しき場所を、愛しき魂を浄める為。彼を守り導くための、祈りの舞いを。

 その光景を目にするものがあったら、我が目が現を映しているかと疑っただろう。

 今自分は浄土にあるのだと思い、目にした光景に涙せずにはいらなかっただろう。


 夢幻の花の繚乱が、天上の花の絢爛が其処にあった。

 それは地上の存在が許された光景ではない。

 天の尊きものへと捧げられるもの、舞によって描かれた浄土。

 楽はない、あるのはささやかな衣擦れの音ばかり。

 しかし見るものの魂を奪う程の、圧倒的な美がそこにあった。

 

 花霞のゆったりとした手の一振りに、足の運びに、集った悪しき影は気圧されるように一つ、また一つと消えて行く。

 踊る少女を害そうとしても、それも叶わず光となって宙へと溶けていく。


 悪しきものが一つ消える度、花霞が少しずつ淡い光を帯びていく。

 それが広がり行くにつれて花の化身の輪郭は徐々に朧気になり、その身体は向こうの景色を透かしていく。

 どんどん身体から力が抜けていく。手足の感覚が消えて行く。

 それでも、花霞は舞い続けた。

 己の持てる全てを捧げるように、その存在を引き換えようとでもいうように。

 少女の姿をした桜が舞う。

 散り行く花弁に、全身全霊の浄めを宿しながら。


 それは愛であり、光であり、祈りであり。

 花霞は舞い切った。彼女の一世一代の、得たこころの全てを。



 何時しか舞台は消え、悪しき者達も一つ残らず消え失せていた。

 炎は未だ燃え盛るものの、何時しかそれも消えていくだろうと花霞は思った。

 花霞はもう立っている事すら出来ずに膝をつく。

 地に倒れ伏しかけたのを止めたのは、周だった。

 その姿は獣ののままではあったけれど、魂を蝕む澱みは消えている。

 倒れかけた桜を支えた獣は、その顔を覗き込むようにして見つめてた。

 何故と責めるような光をその瞳に感じて、消えゆく花霞は微笑み見つめ返す。

 花霞は左程時を置かずしてこの世から消え去るだろう。全ての力を使い切った花の化身は、もはや地上に留まる事は叶わないだろう。

 いきていてほしかったのに、そんな声が聞こえた気がして花霞は苦笑する。


「わらわは、お前の花だ」


 忘れられた庭に咲く桜の化身を、あの日子供は見出した。

 子供は少年となり、青年となり。幾つもの歳月を、数え切れぬ程の想いを共に紡いできた。

 互いが互いの手で、己の形を知り、愛を知った。

 周は花霞ものものであり、花霞は周のものである。

 

「お前の為にしか咲かぬ、お前の在る場所にしか咲かぬ」


 残された力の限りで、花霞は周を抱き締めた。

 時が移ろうとしても、輪廻が巡ろうとしても、決してこの手だけは離したくない、それが最期に残された願い。

 消えゆく存在であるのは、周もまた同じだった。

 人として死を迎えた以上、もう地上に留まり続ける事は出来ない。在るべきところへ行き、在るべき形に還るだけ。

 周が逝くというなら、同じ場所へ自分も逝きたい。

 周は人であり、自分は化生である。もしかしたら同じ場所にはいけないかもしれない。

 けれど、例え一度手が離れたとしても、それでも。


 ――わらわは、きっといつか、お前の在る場所で咲こう。


 少女の姿をした花は呟いた、いや呟こうとした。それは音になったかのだろうか。

 光が集い、散じて舞う。それは狂い咲きした桜の散り行く花弁であり、去り行く魂への手向けである。

 あまりの眩さに視界が揺らぎ、霞む。

 最期の瞬間、桜は自分を抱き締める懐かしくて温かな腕を感じた――。



 名門相神家で起きた大火は、幸いにして周囲へ被害が広がる事はなかった。

 生き残った者は酷く錯乱しており、その切れ切れの話のよると次男が錯乱して火をつけたという話であるが、それも定かではない。

 炎は燃え広がり、敷地内の大部分を焼いた。

 しかし、裏庭にある枯れた桜はその形を留めて残っていたらしい。

 全ての力を使い果たしたかのように枯れてしまったその桜は、その後二度とその地においては花をつける事はなかったという――。

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花舞う庭の恋語り 響 蒼華 @echo_blueflower

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