Le droit d'aimer(愛する権利) 後篇
桜が盛りを過ぎていた。雨が降っており路面が花の色に染まっている。つげの櫛とは何ぞや。傘を持たない側の手でスマフォを操り調べものをしながら歩いていると、
「太郎くん、傘に入れて」
会社の先輩の一条紗理が俺の傘に入ってきた。紗理さんは二つ年上で階の違う部署にいる。
「太郎くん呼びはよそう。一条さん」
「近くに誰もいないから」
俺は紗理さんの側に傘を傾けた。
桜の花びらを浮かべた水たまりを踏まないように紗理さんは慎重に歩いている。仕事中はかけている眼鏡を外しているせいか女の顔が甘くみえた。
「雨続きだね」
「今日も降るなんて天気予報では云ってなかったわ」
紗理さんの羽織った紺色のカーディガンが桜色によく映える。
俺と紗理さんは付き合っている。俺のほうが惚れてしまい、同じ会社なので気を使ったが頑張った。大台手前の女は落としやすい。頂いたつもりでいたものの、それを知る女の方も警戒心ばりばりで、初デートの待ち合わせ場所にためらいがちに紗理さんが来てくれた時には伏して拝みたくなるほど嬉しかった。
ちょうどいいから買い物に付き合ってもらうことにした。桜並木の堀べりから道を折れて平日でも賑わっている百貨店に入ると、後はすいすいと紗理さんが売り場まで連れて行ってくれて無事に催事場の物産展でつげの櫛を購入できた。店員に勧められるままに椿油の小瓶も買った。
「紗理さんも欲しい?」
「欲しい」
俺は紗理さんにも櫛をひとつ買ってあげた。実家に遊びに来た俺の祖母が「あら、このデパートは太郎の会社の近くね。つげの櫛を買ってきてくれないかしら」新聞の折り込み広告をみて、俺に頼んでいたのだ。
「お昼が遅くなってごめん。紗理さんの食べたいものでいいよ」
「
「奢ります」水気を切った傘を傘立てに入れた。
「まさか。後輩くんに奢らせたりなんかできません。それこそ誰かに見られたら怪しまれちゃう」
雨のせいなのか桜餅のような香りがうっすらと街に漂っている。
紗理。
ベッドではじめて呼び捨てした時の充足感は半端なかったな。俺に応える紗理さんも可愛かった。がっつきすぎかと想って云い出せなかったが、ランチを食べ終わる頃に紗理さんの方から「週末わたしの家に来る?」と小さな声で誘われた。俺たちは結婚するだろう。
昼食を終えて会計をすませ、化粧室に立ち寄った女を店の外で待っていると、やがて店から出てきた紗理さんが俺の差し向けた傘の中に入ってきて俺に云った。大好き太郎くん。
いちごちゃん。
振り返ったが、赤い傘をさした女の影はすぐに角を曲がって見えなくなった。人違いだ。地方銀行に就職したいちごちゃんは地元で結婚してもう子どもまでいる。大学生活の最後の半年はぼろぼろで、卒業までほとんど誰とも顔を合わせなかった。
光太郎といちごちゃんは、三か月ほど付き合って別れた。
俺か、いちごちゃんか。どっちか選べ。
決められないのならこの
雷が鳴っていた。初夏のゲリラ豪雨にずぶ濡れになって現れた俺に光太郎は着替えを投げて寄こした。パリコレのジャージは俺が着ることで普通のジャージに早変わりする。こんなことは慣れっこだ。母校の体操服のダサいジャージも光太郎がまとえば国王陛下の近衛隊の隊服みたいに怖ろしく恰好のいいものになっていた。学童の紅白帽すら聖歌隊のベレー帽の趣きを醸していたものだ。
「洗濯して、乾燥までセットしたから」
冷房の入った光太郎の部屋の机にはル・マン特集の雑誌が伏せてあった。階下の洗濯機に雨に濡れた俺の服を入れた後、光太郎はペットボトルの茶を二つ持って部屋に戻ってきた。その光太郎の鼻先に俺は持ってきた賽子を突きつけた。もうよくわからん。自分が何をしようとしているのか。俺かいちごちゃんかを選べ。その設問がすでにおかしい。分かっていた。ただ積もり積もったものが好きな女をきっかけにして今さらのように噴き出したとしか想えない。こいつに真正面から挑むのはおそらくこれが最初で最後だ。
「この二つの賽子を振って、出た目を足して合計の大きい方がいちごちゃんを取る。恨みっこなしだ」
赤ん坊の頃から今までの積年の何か。一度たりとも光太郎のほうは俺に挑んだことはなく、必死になったこともなく、常に「ああ、そう」という態度で他人事のように俺をふくめた全てを眺めていたが、今回ばかりは俺にも引けないものがある。ばか男子に戻ってやる。
豪雨の音に包まれた午後の部屋は照明をつけていなかった。薄暗くて水底のようだった。窓の外に時折青白い稲光がはしる。そして眼の前には俺よりも深く静かに怒っている奴がいる。俺ごときの感情の噴火の比ではなかった。しばらく俺は事態を呑み込むことが出来なかった。
待て。
俺はなにか悪いことをしたのか。
もしかして俺は何か大きな勘違いでもしてるのか。ひやりとした。何か途方もない間違いをおかしてしまったのか。どうしたんだろう。あり得なかった。俺は震えあがった。眼の前の男の威圧感に。平生は柔和にしているイケメンが怒っている。確かに怒っている。
光太郎は俺を見据えていた。俺を貫く眼光は雷だった。ペットボトルがぼこっと鈍い音を立てた。光太郎が力をこめたのだ。それすら、光太郎は無意識のようだった。光太郎の手にあるペットボトルが俺の脳天を砕く鉄アレイに見えてきた。
俺の手から賽子が落ちた。二つ持っていたうちの一つが床に転がった。慌てて拾い上げようとしたが、そのまま俺は正座のかたちで床に座ってしまった。
いちごちゃんのことを云っているのか。
頭の真上から光太郎の低い声がかぶさってきた。雷鳴が家の屋根を揺らす。
「太郎」
「ばーか冗談だよ。新しい手品を見てもらいに来たんだよ」
防衛本能でそんな冗談でごまかそうという気が起こったが、口先で何とかなるほど、室内に充満している男の逆鱗はひるがえる気配すらない。俺は来た目的も忘れておし黙った。握った賽子が掌に喰い込んでいる。
分からなかった。なんでこいつは怒っているんだ。怒るなら俺のほうだろうが。俺は来た目的を想い起し、無理やりに怒りを再燃させた。
床から顔をあげると、そこには仁王立ちしたイケメンが俺をぎらつく眼で見降ろしていた。俺も睨み返した。立つべきだったが、今立つと、掴みかかってしまいそうだった。そして光太郎は俺を組み伏せるだろう。幼い頃は仔犬のようにじゃれあっていたこともある部屋の中で、俺と光太郎は睨み合った。
ながい付き合いだ。なあ、光太郎、俺がいちごちゃんのことを好きだったことくらいお前は気づいてたよな。なにをいけしゃあしゃあとひとの女を盗ってんだよ。
轟音がした。何処かで雷が落ちたのだ。二つの賽子を握りしめた拳に力をこめた。
お前がモテるかどうかなんてどうでもいい。けどな、それだけはやっちゃいけないんじゃないのか光太郎。
その日の帰り道のことを俺ははっきりと覚えている。心に大きな穴が開いていた。肋骨が折れたようなその痛みを雨上がりの夏風が弱々しくすり抜けた。生まれた瞬間から、産院で母親が俺たちを横に並べた時から、俺は負けていた。せめてもの慰めは俺だけでなくほとんどの男が光太郎には敵わないという悲惨な事実くらいだ。
消えてしまいたい。俺はどうしたらいい。
光太郎に出来なくて、俺に出来ることはなんだろう。頬に流れているのは雨ではなかった。自分の怒りに囚われている俺の怒りすら消し去るほどの怒りに燃えた光太郎は、冷えた声音で俺に云ったのだ。帰れ。
土曜日は雨だった。苦い葉を噛むような想い出を、俺は紗理さんの家で紗理さんにきいてもらった。休日に女とごろごろしているのは最高のはずなのに雨音のせいか、そんなことを想い出してしまった。
「お腹すいたね。トマトスープと軽食ならすぐに出来るけど」
俺はおにぎり専門店の包みを鞄から出して紗理さんに渡した。手土産のつもりで買って来たのに女の家に入るなり脳内から消し飛んでいたのだ。
「その幼馴染の彼は今は何をしているの」
「年収億超えの売れっ子ホスト」
「そう。きっと似合うでしょうね」
いちごちゃん。
見苦しいことこの上ないと重々知りつつも、俺はいちごちゃんを大学構内で掴まえて空いている講義室に押し込んでまくし立てた。
いちごちゃん、あいつは止めたほうがいい。光太郎と付き合ってもすぐに捨てられるだけだ。いちごちゃんだって知っているだろう。
凍り付いたような顔をして、いちごちゃんは俺を見詰めていた。
太郎くん。
光太郎には人を好きになる資格がない。あいつは何の努力をしなくとも女が手に入ってしまうんだ。寄ってくる女なら誰でもいいんだ。当たり前のように享受する、そんな男には人は愛せないよ。それでもいいのか。
いちごちゃんの両腕を掴んで懇願した。必死だった。
なんで光太郎が次々と付き合う女を変えているのか考えてみてくれ。自分からは動かず去る女を追うこともない。あいつが誰も愛していない証拠なんじゃないのか?
女の顔には怒りが浮かんでいた。哀しみも。いちごちゃんは俺から眼を逸らした。
光太郎くんのことを何も分かっていないのね、太郎くん。
いちごちゃんはそう云い残し、俺の手を振りほどくと、まっすぐ光太郎のところに行ってしまった。
トマトスープは熱々だった。俺は紗理さんの作ってくれたクロックムッシュと土産のおにぎりを交互に口にしながら、ローテーブルの上で簡単な手品を紗理さんに見せた。あれ以来封印して一度もやっていなかったが身体が覚えていた。紗理さんは「もう一度やって」と大歓びした。
今なら何が悪かったか分かる。
あの時いちごちゃんには云えなかったことを、俺は沙理さんには云えたのだ。もう一回くらい云っておくか。かえって軽々しくなるだけか。でもな。
食器やゴミを片付けながら俺が迷っていると、狭い部屋の中で紗理さんとぶつかった。俺は紗理さんを抱きとめた。
大好きです、紗理さん。
外に降り続く雨の音。女のくちびるは桜の花のようにやわらかい。
桜の木が水堀を取り巻いていた。
「彼は気づいた? いちごちゃん」
女は傘を畳んで首をふる。畳まれた赤い傘の色が老舗五つ星ホテルの硝子扉に映っていた。
「本当にいい香り、光太郎くん」
「あ、ごめん。仕事柄なんだ」
「移っても平気。香水は苦手だけどこれは厭な匂いじゃないもの」
「お母さん」
「やめて。そうなんだけど」
女は笑い声をあげると、光太郎の蔭から少し顔を出して来た道を見詰めた。男物の傘に二人で入り仲良く去って行った男女。
「太郎くんはあの女の人と付き合ってるわ。結婚すると想うわ」
「そうだね」
光太郎は女の肩を抱くとホテルのティールームに連れて行った。
「シェイク」「あんな高カロリーのものはもう呑めない」
光太郎と女は笑みを交わしてメニューから紅茶を注文した。
「同じ街にいるのに、光太郎くんは太郎くんと逢ったりしないの」
「彼は堅気の昼職だからね」
大好き太郎くん。
光太郎くん、わたしは太郎くんのことが好き。
「今日はありがとう」
雨はやんでいた。学生時代と変わらない薄化粧の顔で女は空を仰いだ。
「急な降りで、こんな高級な傘まで買ってもらっちゃって」
大切にするね。女は畳んだ赤い傘を抱くように持ち上げた。
「いちごちゃん」
「太郎くんがどうしているのか無性に知りたくなったの。もう行くね。保育園のお迎えの時刻までに地元に帰らないと」
「いちごちゃん。大好きだよ」
「わたしがもっとおばさんになってからもう一度云って」
光太郎のホストクラブでの源氏名を口にして女は微笑んだ。
「夫にも子どもにも誰からも云ってもらえなくなってから、おじいちゃんになったあなたから、もう一度そう云って欲しい。どの女の子も同じ気持ちでそう想ってる」
死ぬ間際に想い出す沢山のこと。その中に入っているであろう若い頃の恋のこと。失恋と、素敵な恋人。
「車で送るのに」
「人妻ですから」
赤い傘を手に、やって来たバスに女は笑顔で乗り込んだ。
「逢えて嬉しかった。カリスマホストが元カレだなんて主人が知ったら愕くわ。夫は松本零士の漫画のトチローさんみたいな人で、優しいの」
いちごちゃん、本当にいいの。
いいの。
大好きだよ、いちごちゃん。
太郎くんから聴きたかったな。ついに聴くことができなかった。忘れたいな。
好きな人のことをまだこんなにも好きな君のことが好きだよ。
老いて、何もかもを失っても、それでも失いたくないと想えるひと。それは君たちのこと。出逢う人々すべて。忘れることはない。一度きりでも触れ合った特別な人たち。
今日は太客の一人の誕生日だった。男にふられて悪酔いしたままホストクラブに転がり込んできた女で店内で吐いた。女の体調が落ち着くまでずっと膝枕をして抱いていた。汚れたスーツの弁償を恐縮しながら申し出る女へ、
「心配しないで」
そのまま返して色恋営業もしなかったが、それから女は足繁く店に通ってくるようになった。他の女たちと同じように。
賽子で女の子を賭けるようなことはしない。
白、深紅、黄色、ピンク。
どの花みてもきれいだな。そんな童謡が花には似合う。人にも似合う。幼馴染の結婚式にはサプライズをするべきだろう。日取りはまだ先だろうが。
「大人の女性に似合う、いつものきれいな花を」
光太郎は生花店に薔薇の花束を届けてもらうように頼んだ。
[了]
Le droit d'aimer(愛する権利) 朝吹 @asabuki
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