最終話 縁起の良い豆腐


「ねえ、ばあちゃん。えべっさんはどこにいるの?」


 思い出すように、気を取り直して口にした。


「まだ、神社で眠ってるわぁ。お祭りが終わったら、鯛を抱えた商売繁盛の福の神。そやさかい、店の屋根裏部屋におんねん。そういうわけで、大阪の人々が愛飲するビールのマークにもなってんねん」


 年輪を重ねた祖父は、多くの知識を身につけていた。


「そうなのね。それじゃあ、久しぶりに家族が集まって、お母さんの手料理でパーティをしようよ。福の神ビールがあれば、祭りの前夜にえべっさんも一緒に祝福してくれるでしょう?」


「ほんまに?ええわな。彼も呼ぶのかい?」


 突然の誘いに、ばあちゃんも目を輝かせた。すぐにお母さんに連絡しなくては。少し心配事があるけれど。


「うん。彼の競走の前夜祭も兼ねてね。お母さんも喜ぶし、暗くなる前に早く行こう。私たちは未成年だから、残念ながらお酒は飲めないけど……」


「それもええわな。ほな、弟も呼ぶわ。今夜はお祝いやさかい、あんただけ置いてきぼりはかわいそう。家族だけの宴会、少しくらいお裾分けしてもええやろう」


「さすが、百合子さん。察しの速さが際立ってるわ」


 一時間もすると、家には仲間たちが集まり、豆腐屋の閉店を祝う最後の晩餐会が始まった。幸いにも彼は家業の飲食店を抜け出し、鯛の刺身を手土産にして喜んで駆けつけてくれた。


 いよいよ、ばあちゃんを囲んで、お母さんの作る湯豆腐とおでんがテーブルを賑わせている。堅苦しい席ではないけれど、乾杯の音頭はおっちょこちょいの彼が指名されていた。


「始めが良ければ終わりも良し」と言うけれど、この先、生涯の伴侶となる彼からの言葉だ。失敗したらどうしよう……。ちゃんとできるかしら、と心配になる。


「みんなから愛されるおばあちゃんの過去を振り返りつつ、いつまでも元気でいてほしいと願い、未来に向かって、さあ、乾杯」


 彼の挨拶には拍手がわき起こり、ほっと胸を撫で下ろした。続いて、ばあちゃんが自分のことはさておき、笑顔を浮かべながら、真面目な話を冗談めかして始めた。どんな意図があるのだろうか。彼女が話好きなのは知っているが、そのお茶目な素顔には驚かされる。


「ちゃうちゃう。今夜の主役は若いカップルやろう。ふたりの末永い幸せを祈って乾杯。それと同時に、娘を育てたおかんも大変やったわな。せやけど、こんな素直な娘に育ってよかったわ……。彼も明日の夜明け前にスタートするのやろう? 飲み過ぎへんようにな。こけたらあかんで」


「ばあちゃん、素直だなんて。褒めすぎだよ」


 少し恥ずかしくなる。


「あんたを褒めたのやなしに、おかんのことやで。彼も可愛い由香のために、競走の途中でこけへんように一等賞を取ってな。どうか彼女をよろしゅう」


 まだ春は遠いけれど、窓の外にはおぼろ月が豆腐のようにぼんやりと輝いている。いつも元気で楽しい彼も、ばあちゃんから一本取られたように手を叩き、笑いを堪えきれずに声を出していた。


「そうそう、今の百合子さんの言葉で思い出したよ。忘れるところだった。僕たちは今年結婚するんだ」


「あっ、インチキ。それ、フライングだよ」


 私は恥ずかしくなり、思わず声を上げた。十日えびすの競走の勝敗はまだ決まっていない。彼の自慢げな言葉を途中で遮り、皆で笑い合う。しかし、突然にばあちゃんが膝を正して、風呂敷包みからラッパとともに一枚の織り込まれた紙を取り出し、私に渡してきた。


 その手紙は何度も不思議な折り方をされていた。一瞬、彼女が言おうか言うまいか迷っている表情が見えた。黙っていられず、自分から話を切り出してしまう。


「これって、何……?」


「無口なじいちゃんからの遺言のようなものやで。もう、うちらには必要あれへんから、あんたにあげるわ」


「変わった折り方の手紙だね……」


「こら、主人が大切な手紙を書くときのやり方やで。人生の紆余曲折のように複雑に折るから、つづら折りちゅうねん。彼は見かけによらず努力家やったからな」


 包みを開けると、それは豆腐作りの秘伝書だった。しかし、レシピは一切書かれていなかった。文字はすべて達筆で書かれていた。


 どんなに時代が変わっても、豆腐は赤ん坊の柔肌のような食べ物。まずは、大豆の選び方が重要。次に、豆をきれいな地下水で子供のようにじっくりと膨らませて大きくなるまで、じっと待つこと。料理と同じように、作り手の心を忘れたらいけない。あとは、慌てず、豆腐職人の背中を見ながら、作り方を精進していくこと。以上。


「お多福おばあの飛龍頭店」 頑固一筋の二代目信三より



「ありがとう。大切にするわ」


 驚きに目を見張る。豆腐の詳しい作り方はまだ分からないけれど、これからの人生を暗示しているように感じる。元気をもらった気がする。もう一人じゃない。そばには彼がいる。お母さんやばあちゃんもいてくれる。どんなに茨の道が続いても、彼となら一緒に頑張って、豆腐屋を続けていける。


 そろそろ、楽しかった宴も終わりの時間。もう一度、彼の「商売繁盛、ササ持ってこい」の音頭で、皆で円陣を組み、手を掲げ、手拍子の準備をする。


「打ちまぁーしょ」の掛け声とともに、「パン、パン」と二回手を打つ。次に「もひとつせぇ」で「パン、パン」。最後に「いわおうてさんどぉ」の掛け声で、「パパン、パン」と打ち返す。


 百合子さんはこうべを垂れ、「おおきにな」と言いながら、涙を流している。大阪人は陽気で明るいイメージだけど、こんな時は感情がこみ上げてくる。でも、桜が咲けば、私たちはあの店を皆の力を借りて続けていく。


 目を閉じると、夜明け前の空にえべっさんを乗せた山車や七福神の酔いしれるえびす船が浮かぶ。皆は美味しそうに邪気を払う白い豆腐を食べている。たかが豆腐、されど豆腐。全ての道は豆腐に続いている。


 でも、全てはこれからだ。成功する自信があるのかと問われれば、今は少ししかない。でも、この場で宣言するのはまだ早い。テーブルの下で彼の手を握り、お互いの気持ちを確かめながら、「頑張ろうね」と心で誓い合う。




〈 完 〉


 拙い作品にも拘わらず、最後までお読みいただき、ありがとうこざいます。よろしければ、コメントなど戴けると無上の喜びです。






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あの豆腐屋さんはいずこに『三丁目の夕焼け雲』 神崎 小太郎 @yoshi1449

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