第5話 情けというもの


「これ、持って帰りな。最後に作った木綿と絹ごし豆腐や。あんたのめっちゃ好きな飛龍頭も入れといたさかい。おかんに大好物のおでんでも作ってもろたらええがな」


 売り切れていたはずなのに、何処から持ってきたのだろうか……。涙もろい人情話は苦手なんだけど、百合子さんの温かさに、いつの間にか涙もこぼれてしまう。思いとはうらはらに、つい口走ってゆく。


「いつもありがとうね。彼にもう一度相談してみる」


 後片付けが終わり、誰も客が居なくなった店先を祖母と一歩出て空を見上げると、三丁目の街にはまだ夕日が射していた。


 永らく「おばあの飛龍頭店」をご利用いただきありがとうございます。誠に勝手ながら、当店は1月9日、「宵戎よいえびす」の日を持ちまして、またお会いできる日まで閉店とさせてください。開店以来七十有余年のご愛顧、誠にありがとうございました。明日からはえべっさんに感謝して、本祭に参拝させてください。


 彼女はこの二階で、ひとり暮らしている。昨夜、筆字で描いたお礼の告知、「閉店のお知らせ」をシャッターに風から飛ばされないようしっかりと貼り付けていた。

 普段は商売気のない祖母が、珍しくあきんどらしい粋なことを言ってくる。


「ほんまに人生は長いのや。慌てんでも、ええがな。これで、豆腐屋の方は一丁あがりやさかい」


 思わず笑ってしまう。長年にわたり気丈夫で張り切っていたとはいえ、祖母はふうとため息をひとつ吐く。ようやく肩の力も抜けたのだろうか……。やりきった想いなのか、その目からは涙がぐっとこみ上げたようで、声を詰まらせていた。



 「十日えびす」は毎年、1月9日の「宵戎」から始まり、10日の「本えびす」、11日の「残り福」と3日間のお祭りが続く。神社への参拝者は、商売繁昌の福笹を授かり、店の中に飾るという。なにわのあきんどにとっては、一年通しての御守りみたいな存在らしい。


 祖母は豆腐屋家業のために、長年、ゆっくりとお祭りにも行けなかったそうで、閉店のスケジュールを見越していたようだ。ひとつ聞きたくなってしまう。


「店にある福笹と熊手はどうするの?」


「あんたと一緒にけがれ落としやろ」


「穢れ落としって?」


「一年もすると欲にまみれて、人の世は疫病神の埃がつくもんや。えべっさんのご恩に感謝して神社に戻すのや。そないして、十日えびすで、また新しいものを授けてもらうやさかい。今年は、縁起のええ恵方は福男を決める西のやしろやろ。本えびすに行って、彼氏を応援したろうな」


「えっ、ありがとう。でも、神さまは取り替えちゃうんか」


「ちゃう、お清めして、またお越しいただくのや」


「へぇー、おもろい。百合子さん、ご主人とどこで知り合ったの」


「なんでやねん」


「彼は、もう、取り替えられないから」


「好きなんか? 男女の出会いはご縁やなあ。うちらの方は、遥か彼方の世界でとっくに忘れてもうたけど……」


 ところが、祖母は、はにかみながらも得意げにひとつずつ思いだすよう、過ぎし日の思い出を話してくれる。いま振り返ってみれば、不便の極まり大変な時代であったかもしれないけれど、不思議なことや楽しいことが沢山あったらしい。

 幼馴染みの男から、「一緒に店をやらんか」と声をかけられ、夕陽が丘へ向かって天にも昇る気持ちになっていたという。


「好きや」


 私も祖母の言葉からつられるように、正直な気持ちをいつとはなしにしみじみと漏らしていた。


「おとんはいつも一生懸命で、一途な男やったさかい。もう少し長生きして欲しかった。あんたも、頑張らなあかん」


「ふうん、羨ましいわ。ええなあ」


「由香も夫婦になるならよう聞いてな。人は十人十色、お互いにあれへんものねだりしたらあかんよ。ふたりで寄り添うて幸せをつかむんやでぇ。えべっさんとお多福さんのようにな」


「…………」


 目の前に末広がりの坂道が続いている。冬の真っ只中というのに、優しい風が感じられ、暫し胸がいっぱいとなり、言葉を返せなくなっていた。


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