第4話 ぬくもり一番星

「ばっちゃん、本当に辞めるの?」


「ああ、しゃあない。スーパーが流行る時代に逆らえん。足腰も弱ってきたし、年貢の納め時や。商売には気の利く女将が必要やし、もうどうにもならんわ」


「百合子さん、聞いてほしい。幼い頃からひとつ大切な夢があるんや。ばっちゃんが元気なうちに豆腐作りを習いたいんや」


 少し緊張しながら、祖母にその思いを伝えた。


「無理してはいかん。あんたにはこれから楽しい人生が待っとる。苦労ばっかりの商売、わざわざ火中の栗を拾う必要はあれへん。スーパーの店員になった方がええ」


 私はまだ若い。これからの人生で苦労が待ち受けているかもしれない。祖母の言うことは間違っていない。個人商店が生き残るのは難しい時代だ。しかし、心の中で抑えきれない思いがある。


「いや、ひとりで勝手に思ってるわけじゃない。昔、店番してた時に遊びに来た男の子覚えてる? 縁結びはここのお豆腐屋さんなんや。エプロン姿とえくぼが可愛いって褒めてくれたのがきっかけや」


「ああ、覚えてる。背が高うて細面で日焼けしたええ男やったな。あんたのとこになんべんも来とったわ」


 確かに自慢できるほどのイケメンではないが、「丸く優しい顔が可愛いね……!」と私を大切にしてくれるスポーツマンで優しい男だ。褒められると嬉しくなる。


「百合子さん、ありがとう。彼を家に誘ったら、ばっちゃんの作った豆腐が大好きだって言ってくれたんや」


「へぇ、珍しい若者やな。正式にお付き合いしてるん?」


「うん、そうや。おかんもすごく気に入ってくれてる」


「そら良かったわ」


「聞いてほしいの。彼、足が速いから、西宮えびすの『開門神事』で走るんや。昨年は福男になれなかったけど、今年一番になったらプロポーズするって約束してくれたんや。面白い男やろ?」


『開門神事』は十日えびすの最大のイベントだ。大勢の夢追い人が一番福を目指して本殿へ走る。宵えびすの深夜に神門が閉ざされ、翌朝の本えびすが行われた後、午前6時に表大門が開くと福男選びが始まる。祖母も私たちの関係に興味を持っている。


「ほんまにおもろい男やな。プロポーズはどないするんや? あんたまだ十八歳にもなってへんやろ」


「ダメかな……。彼は四つ年上で、今は両親の定食屋で修行中やけど、次男やから、私が高校卒業したら結婚してもいいって言ってくれてるんや」


「あんた、本気で言うてるん? 幼な妻で豆腐屋をやるつもりなん?」


「うん、お多福さんの幼な妻の飛龍頭店や。冗談やけど、おかんやばっちゃんも若い頃に嫁いだやろ。ちゃんと知ってるわ」


 以前、母親や祖母の馴れ初めの話を聞いたことがある。


「昔の人はそうやったけど、今は……」


「ちゃうんや。これは、恋のまじないやから。お豆腐のように鮮度が変われへんうちに、早い者勝ちや。彼の気持ちが他の人に行けへんうちにな」


 気持ちが高まり、私までつい大阪弁になってしまう。


「せやけど、豆腐屋は苦労ばっかりで儲かれへんって言うたやろ。天候によっても作り方が変わるんやから」


「それでも、良いものは続けたいんや」


 今夜のおかずに手作りのお豆腐を食べたくなった。美味しいものは、専門店や温もりを感じられる店先で買うのが当たり前の時代があった。スーパーのセルフサービスも悪くはないが、掛け合いで買い物する方が楽しい。


 どんなに時代が変わろうとも、鍋やザルを持ちながら割烹着で豆腐屋に向かって走る、なにわの黄昏れの昭和の原風景のような温かみのある世界が好きだと気づく。


「これ、持って帰りな。最後に作った木綿と絹ごし豆腐や。あんたのめっちゃ好きな飛龍頭も入れといたさかい。おかんに大好物のおでんでも作ってもろたらええがな」


 売り切れていたはずなのに、どこから持ってきたのだろうか……。涙もろい人情話は苦手なんだけど、百合子さんの温かさに、いつの間にか涙がこぼれてしまう。思いとは裏腹に、つい口走ってしまう。


「いつもありがとうね。彼にもう一度相談してみる」


 後片付けが終わり、誰も客が居なくなった店先を祖母と一歩出て空を見上げると、三丁目の街には朝焼けの詩は届かず、まだ夕日が射していた。


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