6.The call of the Labyrinth
マンションまで、どうやってたどり着いたのかほとんど記憶がない。終わりのない暗闇の中をふわふわと漂ってきた感触だけが残っていた。震える手で部屋をカギをとりだす。鍵穴に差し込もうとして、カギ束を取り落とした。ヂャリンと派手な音がマンションの廊下に残響をひく。
苦労しながら玄関のドアを開けると、中に春樹がいた。腰を曲げ背中を丸めて、熱心にベタの水槽をのぞき込んでいる。離れた私のところからも、透明に澄んだ水の中にちぎれた赤いハイビスカスの花弁がただよっているのが見えた。いや違う、私のベタの赤いヒレがちぎれて浮いているのだ。いくつもの赤い破片。その中を悠然と泳ぐ見慣れぬベタ。ロイヤルブルーのトラディショナルベタだ。私が可愛がっていたショーベタよりも小型ではあるが、流線形で泳ぎに適したヒレを持つベタ。
「なにをしたの……」
私は手にもったショルダーバッグを取り落とした。バッグの中身がこぼれ、カービングナイフがバラけて床の上を滑っていく。
「いかがでしょう」
春樹はキツネの顔でニヤニヤしながら一歩脇に移動し、私から水槽がよく見えるようにした。さらに指を広げた両手で水槽を指し示す。あたかも自慢のプレゼントを披露するようなキザなジェスチャーで。「ご覧ください、水槽の中にホストクラブの現実を再現してみました」
尋ねるまでもない。何が起こったのかは一目瞭然だった。春樹が私のベタの水槽に、新たなベタを投入したのだ。縦長の狭い水槽のこと。私が帰ってくるまでの間に、なわばりをめぐって、互いの体といわずヒレといわず、あらゆる箇所に噛みつき合う激しい死闘が繰り広げられたのであろう。
ベタは別名、
青いトラディショナルが、底に沈んで横たわった私のベタをつつき回していた。かつては生き生きと泳ぎ、私の手からエサをついばんだ赤いベタはもう動かない。無残にも、すでに生命の灯は消えていた。
いつかはかならず来る死と別れ。できることなら、それは自然なものであって欲しかった。せめて、紅茶に落とした角砂糖がゆっくりと崩壊し溶け広がってゆくような、心になじむ穏やかな猶予が欲しかった。
だが、私の前につきつけられているのは虐殺の痕跡。愚か者のエゴが引き起こした人為的な殺戮である。なんという不条理。
胸の奥からせりあがる強張りが喉のところでとどまる。そのまま悲鳴にして吐きだしてしまえば、楽になるのだろう。それができなかった。のどのつかえで目の前が黒くなる。
「どうして?」
ざらついた言葉の塊をようやくの思いで口から押し出す。涙は流れなかった。
春樹は私の小さなつぶやきを無視した。のみならず意外な質問を投げつけてくる。
「亜希、おまえ日本人じゃないだろ」
私の瞳孔が開く。その言葉がショックだったから。
「どうしてそう思った?」
反射的に口走ってしまって後悔した。これでは肯定しているのと同義ではないか。
「やっぱり図星か。どこの国の人間なんだよ」
春樹はカマをかけただけであった。少なくとも確認しなければわからない程度に私は日本人の顔をしている証拠だ。
「日本」
「ウソつけ」
まったくのウソではない。二十歳までは日本の国籍も持っていた。タイと日本の二重国籍だ。父が日本人、母がタイ人、私が生まれ、やがて離婚。よくある話だ。十六になったとき、私は母とタイへ帰国した。そして成人すると同時に母親の国籍であるタイを選択したのだ。それが両国のルールだから。
半年前、伝手もなく日本へ渡ってきた私には、何も聞かずに身元を保証してくれる人が必要だった。ややこしいことを詮索せずに仕事をくれる人も必要だった。そのすべてを満たす春樹が私には好都合だった。それだけのことだ。
「春樹、私を女だと思ってなめてるでしょう」
「女だと? けっ、笑わせるぜ、そんなの抱けば一発でわかるだろう。オレは改造人間が珍しいから付き合っていたんだ。仮面ライダーみたいでワクワクするじゃん」
改造人間? そこは性転換と言ってほしい。国籍はだませても、肌と肌を合わせてしまえば性別をだますことはできない。見た目をどれほど整形しようと、ホルモン注射を打とうと、肌の触感はごまかせないから。男と女の肌は柔らかさが根本からして違うのだ。
最初の出会いから私たちは問題を直視せずにやってきた。それはひとえに春樹の異常性癖と保証人が必要な私のニーズが一分の隙もなくピタリと合致したからだ。問題を覆い隠していた薄いベール一枚をはいでしまえば、互いに無傷では終わらない。狭い水槽の中でにらみ合う二匹のベタのように。
「教えてあげる。タイじゃ、私たちのことをレディボーイっていうのよ」
タイには昔から男女の他に、カトゥーイという第三の性がある。女性の心をもった男性のことだ。世界的にLGBTなどいう動きがもてはやされているが、タイでは数世紀前から認識されていた性別だ。カトゥーイはお金をためて性転換し、レディボーイへ変身を遂げる。それこそ出世魚のように。
「そうかタイ人ってわけか。なら、ワーキングビザ見せてみろよ」
そんなものはない。私が持っているのは観光ビザだ。私は無言で床の上に転がっているカービングナイフを見つめた。私の視線に気づいた春樹が素早くナイフを拾い上げ、ギラリと輝く切っ先を私に向ける。
「おっと、コイツは渡せねぇな」
私の意図も知らず、勝ち誇った春樹はニヤリとする。
これで正当防衛の条件は成立した。
部屋の中にいるのは二匹のオス。狭い水槽で泳ぐオスたちはどういう
機先を制し、私は素早い足さばきで間合いを詰めた。こちらの動きに対応できない春樹にミドルキックを一閃する。私のつま先は狙いたがわずカービングナイフを握った手を蹴り上げ、衝撃で手を離れたナイフが空を舞った。
「お前なにもの?」
キックでしびれたのか手を反対の手で押さえ、春樹はおびえた眼を見開く。
「私はカービングアーティスト」がら空きの脇腹にミドルキックを一つ入れる。春樹が長身を二つに折り、苦痛にうめいた。「でも昔はムエタイの戦士」ガードが下がったアゴに、腰の回転を使ってひじ撃ちを叩き込む。
「ぐふっ」
春樹が口から血のまじったツバを吐いた。
十六でタイへ渡った私はムエタイを覚え、がむしゃらに闘った。離婚した母の女手ひとつで育てられた貧しい者がのし上がるには、その方法しかなかったのだ。私には得意のひじ撃ちがあったから、試合にでては勝って勝って勝ちまくった。私の連戦連勝は、神速のひじ撃ちが対戦相手の
それは不幸な事故であった。が、私の人生が変わるきっかけでもあった。それまでに得た賞金をはたいて、かねてからの念願だった
私は半ば過去の追憶にひたりつつ、半ば無意識に体が覚えている限りの蹴りを、ひじ撃ちを、春樹のボディに炸裂させる。素人相手の闘いだ、鋭い蹴りがパンチが、すべて狙いどおりの場所に決まった。そのたびに春樹はうめき声をあげる。
「お願いです、顔だけは殴らないでください」
顔を涙と鼻水でぐしょぐしょにした春樹は、いつかどこかで聞いたような懇願をする。それは整形済の顔を殴られたくなかった昨日の私のセリフだ。
「|เป็นนักแสดงหญิงหรือไม่?《ペン ナック サデーン イン ルー マイ?》(女優気取り?)」
「わかりませんごめんなさいごめんなさい」
口の中を切って前歯を真っ赤に染めながら春樹が泣きわめく。
「
生き苦しい私の中で何かが育つ。
殺していい。何かが言った。
苦しい怒りが頭の中の赤黒い器官を育てる。それは頭の後ろにある。後頭部のこれここにあると指でさし示せるほどに熱い痛みで膨れ上がっている。ラビリンス。私の中で新しい器官が産声をあげた。
なわばりを侵す者に鉄槌を。
回し蹴りが男の顔面中央にヒットし、ホストの春樹が誇りにしていた高い鼻骨がグジャリと音を立ててつぶれた。
いまこの瞬間、
私は人間の顔をした別の何かだ。
完
ラビリンス 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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