5.運慶、快慶

 天井の中央で虹色にきらめく大きなシャンデリアの存在感といったら、それがあたかも高級クラブの主であるかのようだ。主の下には豪華なソファー席、それぞれに向かい合うように配置されたテーブルが壁に沿ってぐるりと並べられている。絶妙なボリュームに調整されたBGMは会話を邪魔することなく、店内に心地よい雰囲気を醸しだす。


 クラブの華であるホステスたちは、色とりどりの美しいドレスに身を包み、丹念にセットされたヘアスタイルとメイクで魅力を振りまいている。彼女たちは、客たちと楽しげに会話を交わし、あでやかな笑顔を浮かべていた。彼女らは美貌と酒とトークで客を酔わせる。客のクレジットカードからより多くの金を引き出すために。


 私は彼女たちと同種の赤いドレスを着せられ、ホステスまがいに擬態して、入口から最も離れたところにしつらえられた小さなバーカウンターの前にいた。ここが今日の私の作業場所であり、カービング技術を披露するステージだ。


 胸元が大きく開いたドレスは気になるが、ホステスと違ってチャーミングな表情を浮かべる必要はない。私は黙々とカービングナイフを操り、ただひたすらフルーツに芸術品の命を与えていく。緑色が鮮やかなメロン、皮の厚いオレンジ、ハウス栽培の赤く熟したイチゴ、黄色いパイナップル。それらすべてが私の彫刻素材。繊細な模様を刻みこまれて、立体感あふれる花園となる。


 作業は順調に進んでいた。通りすがりの酔客が話しかけてくるまでは。

「ねぇ、キミ知ってる?」

 トイレにでも立ったのだろうか、カウンターに向かう私の背後から酔客が話しかけてきた。

 私はナイフを持つ手を止め、話しかけてきた男を振り返る。仕立ての良いスーツに、きちんと髪をなでつけたアラフォーの男だ。多忙な仕事のせいか、あるいは荒淫がたたっているのか、両目の下に不健康などす黒いクマを浮かべた小柄な男。


 酔客は上機嫌で言う。

「その昔、運慶って彫り師がいてさ。彼が言うには、彫刻とは最初から木の中に埋まっているのをノミと槌の力で掘りだすだけの作業なんだって。それ知ってる?」

 通りすがったついでに、いきなりの薀蓄か。でも、それは夏目漱石が書いた小説の一節、しかも運慶は彫り師ではなく仏師だ。ここ歌舞伎町で彫り師といったらそれはタトゥー職人をさす。うろ覚えの知識ほど愚かで危ういものはない。


「お客様って物知りなんですね、スゴイわぁ」

 ホステストークをまねて、とりあえず持ち上げておいた。

「だろう? オレって物知りだろう? 物知り三年、柿八年ってね」

 物知りというより恥知らずな酔客は、体をグネグネと揺らす。まっすぐ立っていられないのだ、あきらかに飲み過ぎである。


「お客様。トイレでしたら、あちらにございます」

 私はにこやかに部屋の左奥を示し、目の下クマ男に退場を命じる。

「なんだよ、ここで見ててもいいじゃない」

「もちろんご自由にどうぞ。ただ近くはフルーツの果汁が飛びますので一歩離れていただけますでしょうか」

 客から見られることにはもう慣れた。ふたたび私はカービングナイフを手に、カウンターテーブルのフルーツに集中する。


「運慶」

 真後ろから酔客の声がした。それとともに右胸に圧迫感が。ドレスの胸を見下ろすと、背後から腕を差し伸べた男が手のひらをカップ状にして私の右胸をわしづかみにしていた。

「ひゃっ!」私の口から変な悲鳴がもれる。

「快慶」

 続いて左胸がわしづかみにされた。


阿吽あうんの呼吸~」

 おどけながら背後から抱きついてくる目の下クマ男。


 私は見られることには慣れていても、抱きつかれることには慣れていない。頭がしびれるような嫌悪感で全身が総毛だつ。抱きついた男の顔面に向けて反射的にひじ撃ちを繰り出す寸前で、かろうじて思いとどまる。そのかわりに酔客の手を振りはらおうとつかんだ私の右手が果汁ですべった。手からカービングナイフが弧を描いて背後へ飛び、運悪く男の顔に当たった。あわてて振り返ると男のクマの下に赤く細い線が浮かんでいた。傷ついた線に沿って、血の玉がプツプツと浮かんで現れてくる。鋭い魔女の爪が当たったのである、その程度の傷ですんで良かった、眼に刺さらなくて良かった。不幸中の幸いといえるだろう。


 それでも、わずかな浅い傷にクマ男は大げさな声で被害を訴えはじめた。

「痛ぁ! この女、ナイフでオレを刺した!」

 私はどうしたらよいか分からず、おろおろとその場に立ち尽くす。


 ここは繁華街の高級クラブである。このような揉めごとを収めるのは手慣れたものだ。目の下にクマを作った小男は、どこからともなく現れた屈強な黒服たちに両脇を抱えられ、恐怖で声を失ったままバックヤードへと消えていった。


「あなた、今日は帰りなさい。面倒なことになる前に」

 足早に近寄ってきた由美子オーナーが、そっと私の背に手を当てて促した。確かに警察でも呼ばれたら面倒なことになるのは間違いない。

「あの、明日はどちらへ行けば……」

 私はカービングナイフを手早く片付けながら尋ねた。

「そうねぇ……また連絡するわ」

 由美子オーナーは目を細め、艶然とほほ笑んだ。一瞬、金髪のウィッグが燃えさかる憤怒の炎に見えたのは光線の加減だろうか。


 今夜帰ったら春樹に事情を話して、私の代わりにオーナーに謝ってもらおう。私は何も悪くない。けれど、仕事を続けるには正論は通用しないときがある。いまがそうだ。この世は本当の気持ちを嘘のインクで塗りつぶしながら生きていくものだから。

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