4.癒しの声・ベタのドレス
静寂には音がある、そう言ったのは誰だったか。
春樹が荒々しく部屋を出ていったあと、私は部屋の隅で膝をかかえ、フローリングの床のささくれを見つめながら、静寂の音を聞いていた。
ふと気が付くと、どこかで呼び鈴が鳴っている。テーブルの上に置いたスマホが鳴動している。Skypeのコーリング音だ、ひさしぶりに聞く音だったから、すぐにそれとは分からなかった。私は這うようにしてテーブルににじり寄り、スマホを開く。アプリのアイコンを軽くタッチすると、スピーカーから明るい声が飛びだした。
「
耳になじんだ声、カタコトのタイ語。電話をかけてきたのは、バンコクで一緒にカービングを習った親友・テンモーだ。彼女のぷにぷにしたフーセンみたいな丸顔が頭に浮かび、一気に懐かしさがこみあげる。
「
「
「
テンモー(スイカ)という
「もうタイ語を忘れたかと思ってさ。まだ少しは覚えているようね」
「忘れるわけないでしょ、東京に来てたったの半年だよ」私は笑った。「それよりね聞いて、いまベタを飼ってるの」
「好きねぇ。あんな魚のどこがいいのよ」テンモーがあきれる。
「いいじゃない。生きがいなんだから。他の人には私の趣味が理解できなくたっていいの」
ベタの飼育はタイにいたときからのあこがれだった。結局、本場では飼うことができず、日本でようやく飼うことができたのが面映ゆい。
「亜希ぃ、さてはアンタ何か困ってるでしょ」
「そんなことないよ」
私はカラ元気をだして声のトーンをあげる。
「無理してもわかるよ、声が疲れてるもん」
鋭いな。テンモーには隠しごとはできない。
「じつはね、悪い男に引っかかっちゃってさ」
私は春樹のことをテンモーに語った。彼女に隠すようなこともなかったので、すべてを話した。テンモーは私の苦悩を、じっくりと聞いてくれた。ぷにぷにフワフワとなんでも包み込んでくれるテンモーの声は、私の癒しだ。
「バカねぇ、でもカッとなったらダメよ。ただでさえアンタはあぶないもの持っているんだから」
長い打ち明け話のあと、テンモーは心配そうに言った。スマホの向こうに、眉間にシワを寄せる彼女の丸顔が見えるようだ。私はテーブルの上に置いたカービングナイフに視線を送った。固い果実の皮をえぐるナイフは魔女のツメ。鋭い切っ先をもっている。でも大丈夫、扱いはなれている。カッとさえしなければ何も問題はない。
私はテンモーの言葉をゆっくりと噛みしめてから返事をする。
「テンモーちゃんの声を聞いたら、帰りたくなっちゃったな」
ほこりっぽいバンコクの喧騒、頭の
「おいでおいでー、いつでも待ってるよ」
明るい彼女の声にすっかり癒され、私は満足してSkypeを切った。
◇
「あらまあ、素敵」
由美子オーナーは驚きの声をもらし、ランジェリー姿になった私の体をなめまわすように観察した。
翌日、高級クラブに出勤すると、待ちかまえていたオーナーからドレスに着替えるよう命じられた。ベタのような赤いヒラヒラのドレス。前日、黒い名刺で紹介されたマネージャーには任せておけないと思ったのか、わざわざ更衣室に様子を見に来たオーナーに体を見られたというわけだ。「スタイルがいいのは分かっていたけど、びっくりした。スーパーモデル体型とはねぇ。あなた着やせするタイプなのね」と彼女は、ため息まじりの感想をもらす。
昔から私はスリムな体型であった。しかし今は胸のふくらみと腰のくびれ、ヒップの曲線が控えめに言っても理想の女性的なカーブを描いている。なぜなら、そうなるようにしたからだ。私がもつ遺伝的素質や自助努力でそうしたのではない、私を手術した医者がしたのである。私は顔も体も全身いたるところを美容整形している。
ここでドレスを着て鏡に映っている私はホンモノの私ではない。ホンモノは眼球ぐらいかも知れない。
しかし整形を繰り返したにもかかわらず、ドレスを着たくない一番の理由だけが残ってしまった。それは右ひじのケロイド状の傷痕。ひじを露出させれば否応なく目立つ大きな傷。何度手術しても治らない過去の烙印だ。
「ここどうしたの?」オーナーがひじの傷に気づいた。
「数年前、事故に会いまして」もちろんウソだ。
「そう、何かで隠した方がいいわね」
言いながら、真紅のスカーフでひじを巻いてくれた。とってつけた感はまぬがれないが、お客さまの前に傷をさらすよりはいいだろう。
そうオーナーも私も思っていた。だけどやはり、ドレスを着るべきじゃなかったのだ、この私は。
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