4.癒しの声・ベタのドレス

 静寂には音がある、そう言ったのは誰だったか。

 春樹が荒々しく部屋を出ていったあと、私は部屋の隅で膝をかかえ、フローリングの床のささくれを見つめながら、静寂の音を聞いていた。


 ふと気が付くと、どこかで呼び鈴が鳴っている。テーブルの上に置いたスマホが鳴動している。Skypeのコーリング音だ、ひさしぶりに聞く音だったから、すぐにそれとは分からなかった。私は這うようにしてテーブルににじり寄り、スマホを開く。アプリのアイコンを軽くタッチすると、スピーカーから明るい声が飛びだした。


ฮัลโหลハンロー ฉันเป็นแตงโมチャン ペン テンモー(もしもし、テンモーでーす)」

 耳になじんだ声、カタコトのタイ語。電話をかけてきたのは、バンコクで一緒にカービングを習った親友・テンモーだ。彼女のぷにぷにしたフーセンみたいな丸顔が頭に浮かび、一気に懐かしさがこみあげる。


แตงโมテンモー อะไรนะ?アライナ(テンモーちゃん! どうしたの?)」

ฉันเป็นห่วงคุณ;チャン ペン フーン クーン สบายดีหรือเปล่า?サバイ ディー ル プラー(心配してんのよ、元気かなと思ってさ)」

สบายดีมากมากサバイ ディー マークマーク(とても元気よ)って何よ、あんた。日本人なんだから日本語で話せばいいでしょ」


 テンモー(スイカ)というあだ名チューレンの通り、彼女はスイカのようにまん丸い顔をしている。顔だけじゃなくて体もコロコロとした陽気な日本娘だ。本名も聞いたけど、忘れた。私にとってはテンモーはテンモー、それだけ知っていれば充分だ。彼女も私と同様にバンコクへ逃げてきた旅行者。私と似たような境遇だったせいか、とても気があいバンコクではいつも一緒に過ごしていた。私が東京へ来たあとも、彼女はタイが気にいったといって滞在を続け、バンコクのアパートで日本人相手のカービング教室を開いている。


「もうタイ語を忘れたかと思ってさ。まだ少しは覚えているようね」

「忘れるわけないでしょ、東京に来てたったの半年だよ」私は笑った。「それよりね聞いて、いまベタを飼ってるの」

「好きねぇ。あんな魚のどこがいいのよ」テンモーがあきれる。

「いいじゃない。生きがいなんだから。他の人には私の趣味が理解できなくたっていいの」

 ベタの飼育はタイにいたときからのあこがれだった。結局、本場では飼うことができず、日本でようやく飼うことができたのが面映ゆい。


「亜希ぃ、さてはアンタ何か困ってるでしょ」

「そんなことないよ」

 私はカラ元気をだして声のトーンをあげる。

「無理してもわかるよ、声が疲れてるもん」

 鋭いな。テンモーには隠しごとはできない。

「じつはね、悪い男に引っかかっちゃってさ」

 私は春樹のことをテンモーに語った。彼女に隠すようなこともなかったので、すべてを話した。テンモーは私の苦悩を、じっくりと聞いてくれた。ぷにぷにフワフワとなんでも包み込んでくれるテンモーの声は、私の癒しだ。


「バカねぇ、でもカッとなったらダメよ。ただでさえアンタはあぶないもの持っているんだから」

 長い打ち明け話のあと、テンモーは心配そうに言った。スマホの向こうに、眉間にシワを寄せる彼女の丸顔が見えるようだ。私はテーブルの上に置いたカービングナイフに視線を送った。固い果実の皮をえぐるナイフは魔女のツメ。鋭い切っ先をもっている。でも大丈夫、扱いはなれている。カッとさえしなければ何も問題はない。


 私はテンモーの言葉をゆっくりと噛みしめてから返事をする。

「テンモーちゃんの声を聞いたら、帰りたくなっちゃったな」

 ほこりっぽいバンコクの喧騒、頭の真上まうえに炭火を乗せて歩いているような太陽の熱さが懐かしい。タイには行くのではない、のだ。

「おいでおいでー、いつでも待ってるよ」

 明るい彼女の声にすっかり癒され、私は満足してSkypeを切った。


 ◇


「あらまあ、素敵」

 由美子オーナーは驚きの声をもらし、ランジェリー姿になった私の体をなめまわすように観察した。


 翌日、高級クラブに出勤すると、待ちかまえていたオーナーからドレスに着替えるよう命じられた。ベタのような赤いヒラヒラのドレス。前日、黒い名刺で紹介されたマネージャーには任せておけないと思ったのか、わざわざ更衣室に様子を見に来たオーナーに体を見られたというわけだ。「スタイルがいいのは分かっていたけど、びっくりした。スーパーモデル体型とはねぇ。あなた着やせするタイプなのね」と彼女は、ため息まじりの感想をもらす。


 昔から私はスリムな体型であった。しかし今は胸のふくらみと腰のくびれ、ヒップの曲線が控えめに言っても理想の女性的なカーブを描いている。なぜなら、そうなるようにからだ。私がもつ遺伝的素質や自助努力でそうのではない、私を手術した医者がのである。私は顔も体も全身いたるところを美容整形している。

 ここでドレスを着て鏡に映っている私はホンモノの私ではない。ホンモノは眼球ぐらいかも知れない。


 しかし整形を繰り返したにもかかわらず、ドレスを着たくない一番の理由だけが残ってしまった。それは右ひじのケロイド状の傷痕。ひじを露出させれば否応なく目立つ大きな傷。何度手術しても治らない過去の烙印だ。


「ここどうしたの?」オーナーがひじの傷に気づいた。

「数年前、事故に会いまして」もちろんウソだ。

「そう、何かで隠した方がいいわね」

 言いながら、真紅のスカーフでひじを巻いてくれた。とってつけた感はまぬがれないが、お客さまの前に傷をさらすよりはいいだろう。


 そうオーナーも私も思っていた。だけどやはり、ドレスを着るべきじゃなかったのだ、この私は。

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