3.メスを噛むオス

 タイレストランでの仕事を終えてマンションに戻ると、エントランスの壁に背をもたせて立つ長身の男がいた。浮世ばなれしたルックスは見るからにホスト。


 春樹だ。肩にかかるシルクのようなシルバーアッシュの長髪。180cmを超す身体にフィットしたスーツはテーラード。スリムな身体を際立たせるためだけに仕立てられたダンディなシルエット。彼の自信あふれるたたずまいは、完全に一流のホストのそれだ。


 彼と関わるようになって分かったことだが、春樹にはカリスマホストへの道をはばむマイナスの要素がある。透けて見える不純な性質だ。それは狡猾なキツネを思わせる眼つきに宿る。鋭い眼光がサディスティックすぎるのだ。


 エントランスで私を待つ春樹は、スマホをいじっている。ゲームでもやっているのだろうか、人差し指でしきりに画面をタップしていた。

 そのまま、こちらの顔も見ずに口を開く。

「亜希、玄関のカギ変えただろ」


 確かに先週、自分でカギを交換した。春樹に無断で変えたことは悪かったと思う。でもここ半月、姿を見せなかったから、もう私に飽きたのだとばかり思っていた。私はショルダーバッグの中にそっと手を差し込み、手さぐりでカービングナイフの位置を確認する。使うことがなければ良いが、万一のためだ。


 私は心を決め、無言のまま春樹の前を通り、エレベータへ向かう。春樹も無言で私の後ろをついて来た。顔を見なくてもわかる。キツネの眼に凶悪な色を浮かべているはずだ。後ろを歩く春樹からヒシヒシとただよってくるあつが強い。


 私の気持ちに反して、マンションのエレベータの動きは緩慢だった。普段は快適に感じるなめらかな動作が疎ましい。心理的に長い時間を経たあと、エレベーターケージが一階に到着した。


 エレベーターの扉が開く。明るい照明のケージ内へ一歩足を踏み込んだところで、背後から強い力で後頭部をわしづかみにされた。髪が引っぱられて痛い。春樹はつかんだ私の頭を力にまかせて前方へ突きだす。砲丸投げの勢いだ。私は、とっさに体をひねり腕を上げて顔をかばう。右肩が激しくケージの壁に当たった。ドンと大きな音をたてて鋼板の壁がたわむ。エレベータケージが大きく揺れた。


「何するの!」私は春樹をにらみつける。

「勝手なことするんじゃねぇ」

 春樹は平手で私の頬を張った。パシッと乾いた音がケージの中に響いた。

「お願い、顔は殴らないで!」

「女優気取りか」

 なおも手を振り上げる春樹の興奮をなだめるように私は言った。

「見て、あそこに監視カメラがあるんだよ」


 私は視線で春樹にケージの天井の一角を示した。春樹もつられて天井を見上げる。そこには半球状の監視カメラがあった。濃紫のドームは清潔につやつやと光り、ケージ内で繰り広げられる暴力とは無縁の顔を保っている。どうせカメラの向こうでは誰も監視をしていない。管理をしない管理人。警備をしない警備員。みんなウソつき。


 それでも春樹には効果があった。沈黙が流れ、エレベータは何ごともなかったように、ゴウンゴウンとつぶやきながら上昇を続け、部屋のある五階に到着した。


 部屋のドアを開けると、当然のような顔をして春樹も入ってくる。それでも私は拒むことはしない。なぜなら書類上、ここは春樹の部屋だから。もちろん部屋代は私が払っている。でも春樹の名前で借りてもらったから、ここの所有権は彼にある。


 あらためて部屋を見回すと、我ながら殺風景だと思う。フローリングの床に白い壁。部屋の真ん中に小さなテーブルがあってスマホが乗っている。テレビはない。壁際にはベッド。ベッドにはグレーのストライプのカバー、安売りをしていた、それだけの理由で買ったものだ。私の好きな色じゃない。まるで囚人服みたい。でも、わずかな収入でやりくりしている私には選択の余地がない。


 そんな活気のない部屋に、生命の美しい灯をともした空間がある。

――ベタの水槽。

 私は縦長の水槽の前へ行くとバッグからエサを取り出し、ベタに与えた。さきほど熱帯魚店で買いもとめた高級なエサだ。


「お?」ベタに気づいた春樹が、にじり寄ってきた。「珍しいもの飼ってるじゃん。金魚?」

 また怒鳴られるかと思った私は少し拍子抜けする。でも、春樹は珍しいものが好きなのだ。それを思えば実に彼らしい自然な反応だった。

「金魚じゃなくて、ベタっていうの。勝手に飼ってごめんね」

 私は神妙な顔で謝っておく。


「ほーら、お手。お手してみな」

 私の謝罪を聞き流し、春樹が水槽に向かって指を突きだして、ゆらゆらと振る。

 その挑発に、すかさずベタが反応した。


 水槽いっぱいに赤い花火が炸裂した。いや、赤い扇のように尾びれ、胸びれ、背びれといったすべてのヒレがバッと広がったのだ。その勢いたるや、水中から音が聞こえるぐらい激しいものだった。


 『ハーフムーン種』のフレアリングである。ベタにはさまざまな改良種があるけれど、ヒレの美しさでいえば、このハーフムーンにまさる種はないと私は思っている。

 なんといっても、その名の由来である半月状に広がる巨大な尾びれが素晴らしい。それはまるで貴婦人が豪華な舞踏会で、自慢の真紅の扇子を披露しているかのようだ。優雅で繊細なヒレの一本一本が密に伸び、欠点のない半月を作りあげている。まさに自然界の匠の造形。


 フレアリングはメスに対する求愛行動であり、自分のテリトリーに入ってきた他のオスを威嚇するための示威行為でもある。


「亜希、見てみ? コイツ、芸してる」

 ベタが反応したことが嬉しいのか、春樹が子どものように喜んだ。

「それがね、ベタの習性」私は生徒に諭すように説明する。「自分のなわばりに入ってきた敵を威嚇しているの」

「なわばり? ここ俺の部屋だぜ」

 違う。私の部屋だ。それに、ベタなら泡巣あわすを作るのはオスの役割でしょう。


「コイツ一人きりの王国で……王様きどりで泳いでやがる」

「ベタに嫉妬してるみたい」

「そりゃな。ホストクラブは壮絶だぜ、ナンバー1を目指して熾烈しれつな争いが」

 そうでしょうね、と私は思う。ホストクラブというきらびやかな水槽の中に縄張り意識の強い魚たちが混泳しているんだもの。


 初めて新宿へ行った私に目をつけ、声をかけてきたのが春樹。なんとなくナンパされて、そのまま寝た。ずいぶん軽い女だと思われているだろう。春樹はホスト。しかも両刀使いだ。バイセクシャルであることに問題はない。恋愛は自由だから。でも、女でも男でもとことん利用しつくして成り上がろうというゲスな魂胆が見え透いて、いやらしい。証拠はないけどレストランの由美子オーナーとも寝ているだろう。そういう男だ。


 ホストクラブのナンバー2だかナンバー3だか知らないけれど、いつまでたってもナンバー1に慣れない男。くすぶっているフラストレーションを私にぶつけてくる。春樹が異常性癖を持っていることはすぐにわかった。行為の最中、私の首を絞めてくるのだ。「こういう愛の形もあるんだぜ」と、つぶやきながら。


 そんな春樹の行動に私が思い浮かべるのは、やはりベタ。

 私は一度動画で見たことがある。個体差はあるものの、特に気性の激しいオスはメスをつつき回し、噛みついて、メスがボロボロになるまで痛めつけてから交尾する。メスが抵抗する気力がなくなったところで、オスは長いヒレをメスの体に巻き付け、動けないように固定して交尾を行う。ヒレで抱きしめられたメスは腹を上に向けて卵を産むのだ。私はメスの表情が忘れられない。行為のあいだ、メスはすべてをあきらめたような顔をして、口を半開きにしたまま産卵する。なんというサディスティックな営みか。これが生命を産む神聖な儀式なのか。死体を凌辱しているような趣すらある。

 やはり春樹はベタ。間違いない


 なぜこの男と切れないのか。理由は簡単だ。東京での生活のすべては、この男に依存して成り立っているから。春樹は私の後ろ盾なのだ。味方ではないが後ろ盾。

 面倒なことを根掘り葉掘り聞くことなく、寝る場所の契約をし、仕事を提供してくれた春樹の存在が都合よかった。春樹は春樹で性欲を発散できる私が都合よかった。このゲスなホストが差し伸べた手を、これ幸いと握りしめてしまった。抱かれなければ良かったと後悔している。まちがっていることは分かる。でも目的もないまま迷路に足を踏み入れてしまった私には、出口の方向が分からない。


 やがてベタをからかうのに飽きた春樹が、私の体に長い腕をからめてきた。身長差があるから、ほぼすっぽりと体が包み込まれてしまう。互いに愛があればどんなに素敵なシチュエーションだろうか。しかし私に愛はない、あるのは春樹の欲望だけ。私はオスの長いヒレにからみ取られたメスを思い、全身に鳥肌が立った。


「明日ね、由美子さんのクラブへ行くの」

 私は関係のない話題で春樹の気をそらそうと、精一杯努力する。

「いいじゃん。やっぱ亜希はきれいなドレスを着たほうが似合うぜ」

 私の長い髪に顔をうずめながら鼻息を荒くした。春樹は私がホステスとして働くものだと勘違いしているようだ。

「それが違うのよ。フルーツカービング」

「どうして」

 突然、春樹が体を離し、鼻白む。

 彼の態度で、私は事情を察した。この私をホステスとして紹介することで、春樹はオーナーからキックバックを受け取る約束でもしていたのだろう。多かれ少なかれそんなところだ。


「カギよこせよ。新しいカギ」

 いやいや差し出したカギを私の手から奪い取るようにつかむと、春樹は帰っていった。


 泡巣も作らず、たまに寄生してくる異常種のベタ。そんな春樹は美しいもの、珍しいものが大好き。だから私を飼うのか。いいやお金は私が出している、私が春樹を飼っているのだ。


 部屋の中にたれ込める不快感だけが残った。

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