第3話 知らぬ季節を夢に見て

 かじかんだ手に息を吐きかけながら、僕はを閉じました。

 たちまち、辺りを侵食し始めていた冬が消えゆきます。ひとたび当たれば凍えてしまうだろう冷気も、美しい花々を枯らすように這い上がる霜も、街並みを銀世界に塗り替える雪も、すべて。あるのは指先に残る「冷たい」という感覚だけで、それすらまもなくあの海のもとへ帰ってゆくのでしょう。

 いざ時がくれば、僕はなんの感慨もなく役割を果たすことができると確信していました。……いえ、事実、仲のよかったイトコの記憶を操作し〈春をもたらす者〉として冬の世界へ送った時は、髪の毛一本分も表情を動かさなかったと自負しています。冬の世界へ〈春〉を送る――物心ついた頃にはすでに僕のやるべきことは決まっていたのですから、当然といえば当然のことです。

 しかしどうでしょう。僕は、僕が思うよりよほど、未知というものに興味を抱いているらしい……。

 先ほど送り出した〈春〉の中には、異世界からやってきたという男性もいました。彼は拙いながらも、覚えたての、我が国で話されている言葉を使って僕らと交流を図り、未知へ挑む姿勢を崩すことがありませんでした。

 異世界人は、それが仕事だからと言いました。ですが、それだって僕にしてみれば夢のような話なのです。冬の世界に新しい血を送るという趣旨に反するため、〈春をもたらす者〉の家系に生まれた僕が〈春〉として冬の世界へ向かう可能性はかけらもありません。ですから、仕事だと言いながらも楽しそうにこの世界の話を聞いていた異世界人の存在は、とても眩しく感じられました。まるで、僕の心をとかす春のようでした。

 ああ、なんということでしょう! 我々の世界は冬の上に成り立っているというのに、僕は僕自身に冬を見てしまっているなんて……!

 はたして、これは渇望なのでしょうか。あいにく僕は、この気持ちがそうだと確信できる根拠を持ち合わせていません。穏やかで、なんの障害もなくて、ただ自然に身を任せていたとしても生きてゆける世界ですから、求めるという行為はさして必要としないのです。しないと思っていました。

 おそらく今までは、外務大臣として他国の方々と交流し、また〈春〉の送り手として冬の世界を覗くことで満たされていたのでしょう。ぬくもり溢れるこの世界に不満はないのです。冬を閉ざすという偉業を成し遂げたご先祖様の素晴らしさも知っています。

 そしてそれゆえに、僕は自身の奥底に眠る望みに気づくことがなかったのです。


 冬覗きの鏡を起動させます。何度も繰り返してきた動作ですが、これまでとは心境が違うことを自覚しました。

 鏡は揺らぎ、やがて冬の世界(今は春を迎えていますが)を映し出します。以前は雪に覆われていた地表が見えていました。わずかではありますが、新芽も伸びているようです。とける季節を目の当たりにした感慨とともに、こうして見ることしかできないもどかしさを感じます。できることなら、僕自身の身体で実感してみたいものです。凍る世界が春の訪れを知り、季節は移りゆく……――はて、どのような感覚なのでしょう。音は? 匂いは? ……いけませんね、どうにも気になってしまいます。

 プライバシーがありますから、海の中を覗くような真似はいたしません。ただ、そこには春を迎えた喜びがあるとだけ言っておきましょう。かの異世界人も未知を楽しんでいるとよいのですけれど。

 丘の中腹に腰かけ、海を眺めるイトコの姿もありました。僕が送り出した当時はまだあどけなさの残る彼女(便宜上、僕はイトコを女性として扱うことにしています。事実、見た目も性格も女性の色が濃いものですから。イトコも了承済みです)でしたが、今はもうすっかり、母親の顔をしています。冬の世界の次代に〈春〉を教えたのは、まぎれもない、イトコなのです。記憶の曖昧な状態でよくやったと、従兄として誇らしい気持ちになります。

 そういえば、あちらでは〈春をもたらす者〉を古い言葉で呼ぶのでしたね。確か……

母なる海の母リィラ・ォト・リィラ、ですか……。よかったですね、あなたにぴったりの名前ではありませんか」

 おそらくイトコは、こちらの世界へ戻ることはないでしょう。もう少ししたら、僕は〈春〉を呼び戻します。一応イトコ――〈春をもたらす者〉にも意向を確認することになっています。けれど、リィラ・ォト・リィラが冬の世界を離れることなど、想像できません。

 ……ええ、本当に。ふたたび冬を閉ざす時、僕はなにを思うのでしょう。

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春をもたらす者 ナナシマイ @nanashimai

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