漁師とお嬢様

漁師とお嬢様

 潮の香りが、そよ風と共に通り抜ける。


 海からさほど遠くはないらんしょう、省都青蕾せいらい

 日も高い、隅中ぐうちゅう(午前十時ぐらい)の鐘が鳴る頃。十六歳になったばかりのかいは、袖を捲り上げ真っ黒に焼けた肌を晒しながら、肩に荷をぶら下げた天秤棒を担いで都の中心を歩いていた。

 ただ歩いているわけではなく、『魚はいらんか』と手を添えて快活に声を上げる。

 櫂の荷物は全て、その日海で取れた魚だ。出来る限り売り切りたいのもあって声には張りがありよく通る。


 すると、その声で人は集まる。櫂の気立てが良さそうな顔と櫂自身の人柄を知っている者達が、その声で今日は魚の気分になるのだという。

 あっという間に魚は売り切れ、もう都に用事は無くなった筈だが、櫂はそのまま都の中心へと歩を進めた。


 都の中心にある江符こうふ川に、これと言って名前のない橋がある。そう大きな橋ではなく渡る者もちらりほらりと言った具合だ。

 そんな人気のない橋の下に櫂はそっと潜りこんだ。


 薄らと日が翳ったそこには、かいと同じ年頃の少女が膝を抱えていた。

 金貸しを営む家のお嬢様、明凛めいりんは粗雑な麻素材を着る櫂とは違い、浅葱色に染まった上等な綿の衣を身に纏う。

 櫂が知る漁村の快活な女と違う粛々と静かに座る姿が彼女の生活を物語っていた。


 明凛は櫂の存在に気付くと、ポロポロと涙をこぼし始める。


「どうしたんだよ?」


 櫂は焦って寄り添おうとするも、それよりも先に少女が櫂に飛びついた。

 一応漁師として、それなりに逞しくある櫂だが、急に飛びかかられては均衡バランスが崩れるというもので、櫂は尻餅ついてそれ以上を何とか踏みとどまっては少女を抱えていた。


「なあ、明凛」


 櫂の左手はしっかりと明凛を抱えつつも、右手はゆっくりと背を撫でる。腕の中、泣き縋る明凛を前に櫂には嫌な予感が募っていた。

 

 それから、どれくらいそうしていたか。漸く落ち着きを取り戻しても尚、明凛は櫂に抱きついたまま離れようとはしない。

 泣き顔を見られたくないの、といって櫂の肩に泣きじゃくり熱の篭った顔を押し付けていた。


「髪乱れるぞ、怒られるんだろ?」

「うん、そうかも」


 そう言っては、髪を直そうともせず顔を埋めたまま呼吸を繰り返す。

 櫂の首元に生温かい呼吸が当たる。

 いつもは他愛無い話をして別れるだけ。あからさまなまでにいつもと違う明凛の様子に、何となくではあったが、これが最後かもしれないという考えが櫂には浮かんでいた。


「ねえ、櫂」

「ん?」


 何でも無いふりして櫂はいつも通りに装うも出来る限りに明凛の頭に頬寄せて、背中を摩っていた左手を上へと押し上げ艶やかな髪をそっと撫でていた。


「私ね、結婚するの」


 嗚呼、矢張り。櫂は驚きもしなかった。

 そういう年頃だ。いつかは時が来ると覚悟はしていたのだ。

 ただ、すんなり腹に収まるかと言えば、そうでも無かった。

 

「そっか」


 素気ない声とは裏腹に、櫂の手に力が籠る。離れなければと思っても、身体は正直だった。


「……じゃあ、恋人ごっこも終わりだな」


 明凛が腕の中でピクリと反応する。


「そうだね、終わりだね」


 明凛もまた、息をする様にさらりと答えた。

 なのに、明凛も又、離れる素振りも見せない。


「ねえ、最後にさ」

「うん」


 明凛が漸く顔を上げた。さらに身体を密着させて、ゆっくりと顔を近づける。


 潤んだ瞳が愛おしい様で、物悲しい。

 お互いの呼吸が感じられる距離になって、二人はどちらからともなく瞼を閉じた。

 唇にそれが重なって、淡く慣れない感触が押し寄せる。

 

 ほんの、片手で指折り数える程度だっただろうか。

 惜しむ様に二人の唇が離れると、明凛は身を委ねていた櫂から離れた。

 目に浮かぶ涙を拭い立ち上がると、あっさりと背を向けた。


「じゃあね、元気でね」


 そう言って、惜しげもなく逢瀬を重ねた橋の下から立ち去っていったのだった。


「最後か……」


 明凛の温もりが消えて、櫂はそのまま土手にゴロンと転がる。見上げても、橋桁が視界に映るだけで感傷にも浸れない。


 ――わかってた事だろ


 そんな、未練がましい言い訳で何とか自分を納得させようとする。


 ――最初から、身分違いだった


 結婚できない事など最初からわかっていた。ひっそりと人目につかない場所でしか会えなかったのも、明凛の家族に見られたなら二度と会えなくなると分かっていたからだ。

 櫂は漁村の出。都の者……ましてや裕福な家のお嬢様などと結婚できるはずもない。

 駆け落ちなどしようものなら、相手が相手なだけの都で噂は広まり、殆どの村人の収入源である都との繋がりが断絶される可能性だってあるだろう。そう慣れば家族は村八分にされる。

 

 だから、恋人ごっこだったのだと。

 だから、一切引き留めなかったのだと。


 溢れんばかりの想いを抑える為に、これでもかと言い訳を並べ続ける。櫂は熱くなる目頭を腕で隠して、何とか自分を納得させる言い訳ばかりを懇々と考え続けたのだった。



 ◆



 それからも、櫂の日常は変わらない。

 朝は漁に出て、昼前までには都まで魚を売りに行く。


 今日も、快活な青年の声が賑やかしい中でよく通る。


 櫂が名もなき橋へと赴く事は、二度と無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

漁師とお嬢様 @Hi-ragi_000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ