太陽と水と風はともかく、筋肉の掟

冴吹稔

筋本位の世紀

 そーれ! そーれ! そーれ! そーれ!


 号令に合わせて、キャプスタンが廻る。押し棒に取りついてぐるぐると、円周上の足踏みを続ける、しとど汗に濡れ顔を紅潮させた若くたくましい男女の列(円形)。


 上腕三頭筋がしめやかにパンプアップする。六つに分かれた腹筋シックスパックがピリピリと軋んで震え、ヒラメ筋がぎゅっと硬直して滑り止めシューズに包まれた足を、床にがっしりとグリップさせる――彼らの顔に浮かぶのは、熱意と喜びの微笑。


 日差しを避けるため、押し棒の長さより数段長い半径を与えられた、夏季用キャプスタンの屋根が白く輝く。


「ユウ君ー!」


 押し棒に取りつく人々の中から、サツキねえが僕を見つけて声をかけた。

 誰でも思い立ったらすぐ着衣を預けて加われるように、キャプスタンは表通りの誰もが通る場所に設置されている。通行人からも参加者からも、お互いによく見えるのだ。おかげで僕はいつも、この道を通るときはちょっといたたまれない気持ちになるのだけれど。


「どこ行くのー?」


 キャプスタンの向こう側へ回り込み始めて姿が見えにくくなったサツキ姉から、声だけが飛んでくる。


「病院と塾だよ! 急ぐからまた後でね!」


 ――わかった、気をつけてねー!


 サツキ姉の声だけが聞こえ、僕の頭の中には彼女の、セパレート型労働服姿が目に浮かぶ――冷却性と保温性を両立した、スポーツブラとショートパンツ。盛り上がる筋肉組織とそこを走るぷりっぷりの静脈。小麦色の輝く肌。


 憧れとほんの少しのやましい気持ち。頭をぶるぶると振ってその幻影を追い出し、僕は足を速めた。



        * * *



「筋量維持サプリメントをいつも通りで良かったね? 体重減少を感じたらすぐに連絡してくれたまえよ……君の頭脳には、みんなが期待してるんだ。くれぐれも健康には気をつけて」


「はい、先生」


 病院での診察と投薬は、いつも通りごくスムーズに終わった。


 僕は生まれつきの「病気」で、筋肉組織を必要最低限しか保持することができない。それどころか、放置すれば身動きできないほどに筋量が減少していく危険すらある。

 その一方、大脳の発達が常人の三倍。成人するまでの間、超スピードで高密度の神経ネットワークが構築されていくのだという。世界でも五百万人に一人の確率といわれる希少な特異体質だ。


 医者や教師は目をかけてくれるが、一般世間からはあまり理解してもらえない。外見上はちょっと線の細い男、というだけだから、キャプスタンやエアバイクに一切つかない生活サイクルは、奇異の眼で見られる――まあ、みんな運動(労働)で脳内に快楽物質が充満しているからだいたい上機嫌で、とくに身の危険などはないのだが。



 世界的なエネルギー資源の枯渇で多くの発電方式が廃れだしてから、そろそろ百年経つらしい。その間、人類はまあそれなりに頑張ったし、普段使いできなかったレベルの英知を発揮した。

 石油や石炭といった化石燃料はいまや化学合成製品の材料として採取量と用途が大幅に規制され、太陽電池パネルは環境への負荷の低い、植物由来の反応系を応用したいくらか低効率なものにとって代わられた。水を内部に還流させる緑色のパネルは、僕の家にもちょっと大きめのやつが一枚屋根の上に設置されている。


 葉緑素ってやつはすごいのだ。わずかな金属原子とタンパク質の力で太陽エネルギーを取り込み、生物が利用可能な形に変換するのだから。


 だが実は僕たち人間の体にも、ほぼ同じ構造をもつ物質が含まれている。赤血球に含まれるヘモグロビンだ。太陽光こそ利用できないが、こいつは僕たちの持つ、また別の物質・エネルギー変換機構に、酸素という劇物を日夜供給している。


 人間の筋力こそ現代の「もっとも簡単に手に入るエネルギー源」なのだった。サツキ姉たちのように健康な成人男女は、毎日一定時間をキャプスタン作業やエアバイクでの「空送イマジ・ラン」に従事して、地下の発電施設に繋がった大質量フライホイールを人力で回し、社会を文字通り動かしている。


 一日の作業量にはさほど過大ではないくらいのノルマがあるが、それを超えた分は労働信用通貨「トルク」として首周りに装着したCの字リング状の記録装置トルクに記録され、これはそのまま使ったり旧来の現金通貨に換金したりして、各種の決済に充てることが可能なのだった。なおサツキ姉は一日に余剰トルクを三万は稼げる。


 塾――僕のような子供が特別カリキュラムを受ける教育機関の事なのだが――の帰り道、後ろからサツキ姉が走ってきて追いついた。


「ユウ君、今帰り?」


「うん。姉さんも?」


「そそ。今日はちょっと多めに稼いだんだよね……どっかでお茶でも飲んでく? おごっちゃるよ」


「うん……いいね!」


 サツキ姉は僕にとても優しくしてくれる。五年前に両親が再婚したとき、僕たちはそれぞれの連れ子だった。急にできた筋肉ムキムキの綺麗な姉に、僕は最初気後れしてまともに口もきけなかったが――サツキ姉はすぐにそんな貧弱な垣根をぶち壊して、僕を目いっぱい愛して抱きしめてくれたのだ。思春期になる前だったのは幸いという他はない。


 喫茶店の中にもエアバイクがある。僕たちがドアをくぐったとほぼ同時に、何人かの、サツキ姉と同世代くらいの学生がいきなり上着を脱いでそれを漕ぎ始めた。


「あ、村瀬じゃん。何やってんの?」


 中の一人にサツキ姉が手を振った。


「あ、渡辺サツキ……いや、注文したはいいけど、財布がニアリーからっぽでさ」


「バァカ! 何やってんの……ま、しっかりね」


 サツキ姉は村瀬と呼ばれた男子学生を、笑いながらも励ました。


「悪いけどしばらく、このバイクは俺たちが使うぜ!」


「今日はもう、そんな必要ないから。好きなだけ漕ぎなよ」


「わりぃな」


 ちょっと羨ましくなった。僕には絶対、あんなその場の金策などできはしないから。僕の筋肉は全部頭の中なのだ。


 村瀬たちが飲食代――聞こえてきた会話では三千トルクくらい――を払って店を出た後、僕はちょっとバイクを漕いでみた。サツキ姉は心配して止めたが、ちょっとだけだから、と振り切った。

 といっても、僕の首に記録装置トルクはついていない。換金できるようなトルクは、もとより僕の筋肉では生み出せはしないから。


 ぐいとペダルを踏む。重いギヤが足にずっしりした抵抗感を伝えてくる。十回ほど回すと僕はへとへとになったが――少しだけ、みんなの見ている世界を覗けた気がした。

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太陽と水と風はともかく、筋肉の掟 冴吹稔 @seabuki

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