脳みそと筋肉

清瀬 六朗

第1話 脳みそと筋肉

 カナが振られた。

 「肉とか言われた」

とカナは言う。

 「はあ?」

 カナは携帯電話の画面を見せてくれた。

 いまのスマートフォンとは違う。ぱかっと開いて、あんまり広くない画面に、どことなく解像度の低い文字が出ている、という携帯電話だった。

 「だれが脳みそ筋肉のお前なんかとつきあうか。バーカ」

 うわーっ!

 「女の子にこんなん書くなんて信じられん!」

と。

 わたしはそのとき言ったのだが。

 じつは、とても信じられた。

 ――というのが、困ったところだ。

 あいつなら、やりそうなことだ。

 このカナがつきあっていたのは長野ながの範造はんぞうという男子だった。

 お父さんは地元の有名な病院の病院長で、なんでも心臓外科の「権威」なのだそうだ。

 お父さんには会ったことがないが、この範造というのは、学年の目立つ女子に次から次へと声をかけまくってはナンパしまくっているような男だ。本人はプレイボーイのつもりなんだろうが、ルックスはいまいちだし、ともかく「超」がつく軽薄なやつなのだ。

 わたしは地味な子だったので、最初から声をかけられなかったが。

 声をかけて、強引につきあうことにして、女子を相手にひたすら自慢をする。自分の自慢だったり、自分の親の自慢だったり。それで、たいていの子はそこで引いてしまうのだが、親が親なので、地元社会のしがらみというやつで、自分から別れると言いにくい。この範造君が別の新しい女の子に声をかけて自然につきあわなくなるのを待つ、というパターンになるのだが。

 どうやら、カナは

「え? それってお父さんがすごいって話で、範造君のことじゃないよね?」

とか

「お医者さんの子だからって自分もお医者さんになれるとは限らないんじゃない? ほら、長野君、理科苦手でしょ? もっとがんばらなきゃ」

とか平気で言うものだから、その範造君のほうの、とても切れやすい忍耐の緒が切れて、自分から振ったらしい。

 それで言うことが「脳みそ筋肉」か。

 「じゃあ、振られ記念に、うち、おいで。おでんをごちそうしたげるからさ」

と、わたしはカナをうちに招いた。


 斉藤さいとうカナはオーストラリア育ちで、いわゆる「帰国子女」だった。英語で教育を受けたということで、英語はとてもよくしゃべれる。家では日本語を話していたということで、日本語も普通に話せる。バイリンガルなのだが。

 漢字を勉強していないということで、漢字の読み書きが苦手だ。

 それで「脳みそ」の「みそ」だけ読んだり、「筋肉」を「すじ」と「にく」に分解して「すじ肉」と読んだりしたわけだ。

 で。

 わたしのうちはおでん屋。

 看板に「おでん」とは書いていないし、ほかの料理もあるのだけど、お父さんはおでんの仕上がりにとても気をつかっている。何日も前からていねいに仕込みをして、それぞれのネタごとに最高の状態でお客さんにおでんを出せるようにこまかく気をつかっているのだ。

 お客さんはお酒を飲みに来る人が多いので、女子高校生二人は店のほうでいっしょに、というわけにはいかなかった。店のすぐ裏の部屋で、ちゃぶ台に向かって正座して、二人でおでんを食べた。

 カナがオーストラリアでも正座する文化に親しんでいたのかどうかは知らないけど、わたしよりも長く正座を続けていて平気だった。わたしはすぐに膝を立てたりしてしまうけど、カナは澄まして平気で正座を続けていた。

 カナはこういう「庶民的な外食の和食」は初めてだったようだ。学校に転入してきたときにうちに招いたら気に入ってくれたので、そのあともときどき招いていた。

 でも、すじ肉はこのときが初めてだったかも知れない。

 みそがすじ肉、とかいうものだから、親に頼んだところ、出汁をみそベースにすることは拒否されたが、スジはたくさん出してもらった。

 「これがすじ肉で、スジって言ってさ」

とわたしは説明する。

 「牛肉のいちばん硬いところで、ちょっと煮ただけでは硬くて食べられないくらいだし、中途半端に煮てもあんまりおいしくならないんだけど、じっくり時間をかけて煮たら、出汁がしみてこんなにおいしくなるんだ」

 「ふうん」

と最初はあまり信じていないような言いかただったカナだけど、串を手に持って口に入れると

「うん、これおいしいね」

と、目の色が変わった感じになった。

 そのあと、ネタをいくつかお父さんに言って持ってきてもらうのだが、カナの注文するスジの率がとても上がった。

 「あいつもな」

 何本めか、もしかすると十何本めかのスジを口に入れたとき、カナがふと言った。

 「勉強でもなんでも、もうちょっと時間をかけてじっくり、っていうのをやればいいのに、目立つことを優先したがるから。中途半端で目立ってもしようがないよ」

 へっ?

 「あいつ」って?

 あの長野範造のこと?

 カナはしんみりと続ける。

 「一つのことでも最後までやったらもっと自信にもなるし、自分の実力にもなるのにな。自分のお父さんを超えて世界一の心臓外科医になるっていうんなら、なおさら、がんばらないといけないのに」

 「へっ?」の二回め。

 カナの目もとに、透明な涙の粒が浮いていた。

 涙が、こんな粒になるなんて、見たのは初めてだった。

 カナ……?

 本気で、あの範造君が好きだったのか?

 少なくとも、範造君に声をかけられて、自分も範造君が好きになってしまった、なんて子は、いままで一人もいなかったのだが。


 それから月日は流れ、わたしは大学に進学して生まれ育ったあの街を離れた。そして、さらに遠い街のバイオ関連企業というのに就職した。

 白衣を着てさっそうと廊下を歩く眼鏡の女子。

 自分には似合わないと思うのだが……なぜかそうなってしまった。

 「さっそう」としているかどうかはよくわからないけど。

 カナは、たしか高校卒業までも学校にいなかったと思う。大学受験が本格化して学校のスケジュールが不規則化したどこかの時点でいなくなった。家族といっしょにオーストラリアに戻ったらしい、ということだった。

 この遠い街に住んで十数年が経ったある日、わたしは、会社の同僚に声をかけられた。

 うちの会社と取引のあるオーストラリアの企業が何か画期的な発表をするらしいというので、ネットでいっしょに記者会見を見よう、ということだった。

 ただの社員のたまり場なのになぜか「オペレーションルーム」と呼ばれている部屋の大きいモニターにその映像を投影する。

 わたしがその「オペレーションルーム」に到達したときには、もうインタビュー映像の配信は始まっていた。海の向こうの報道陣の前、壇上に、その発表をする会社のメンバーが入ってくる場面だった。

 みんなわたしと同じくらいの年齢で、男女が混じっている。スーツを着ているひとから「開発現場で着ている服」という感じの服を着ているひとまでがいた。人数は全部で十人弱というところだ。

 記者会見が始まると、そのなかでも歳上の、スーツを着ている女のひとが何かを言ったあと、その十人弱のメンバーがさっと左右に分かれる。

 その後ろから、髪を後ろにまとめた女のひとが出て来た。

 あれ?

 何か日本人っぽい?

 研究員らしいその女のひとが、スマイルを浮かべながら、英語で話し始める。

 「わたしたちは人工心筋細胞の開発に成功したことをここに発表します。これは、幹細胞から分化させた、というものではなく、人工的に開発した筋肉細胞です」

 内容もたしかに驚くような内容だったけど。

 それよりも、その英語の発音にかすかな聞き覚えがあった。

 「筋肉細胞の収縮を自動で同期させることに成功しました。心筋細胞は細胞自体が収縮を同期させることでその機能を果たしています。この新たに開発した人工細胞を人間の心筋細胞と問題なく同期させ、心臓病の治療に応用することができるようになるまでにはまだ労力と時間がかかることと思いますが……」

 まちがいない。

 カナだ。そう確認したところに

「Kana SAITO」

というテロップがかぶる。日本語で「主任」と訳するのかどうか、開発チームを統合する「チーフ」という肩書きがついた。

 わたしもさっそうとしたかも知れないが、カナはわたしよりもずっとさっそうとしていた。前よりもスレンダーになったようだけど、表情には自信があふれていた。このひとにならば難しいプロジェクトを託すことができる。この業界のエリート企業のメンバーにそう思わせるだけのものを、たしかにいまのカナは持っている。

 「世界にはまだ治療の難しい心疾患がたくさんあります。その治療に取り組んでいる医師の力になりたいという思いで……」

 カナのことばは続いている。

 もしかすると、と思った。

 カナは、あの範造が父を超える心臓外科医になり、その範造の役に立ちたいと思って、これを開発したのか?

 だとしたら、その思いは空振りだ。

 残念だけど。

 範造のお父さんはいまも自分の病院で現役で医者を続けているらしい。

 しかし、あの範造は、医師の国家試験に合格して医者になったものの、そのお父さんのところで働いてはいない。いちどはその病院に就職したのだが、患者さんやその家族へのセクハラを繰り返して街にいられなくなってしまった。全国のどこかの病院にはいるらしいけど、それ以来、消息は聞かない。

 でも、と思う。

 海のずっと向こうのカナの声を聞いていると、それを知ってもカナはもう涙を浮かべることもないんじゃないかと思った。

 カナがいま相手にしているのは、じっくり時間をかけてでも、一つのことでも最後までやって、いまの医療のレベルを超えようとしている世界のお医者さんたちなのだ。

 わたしもここでもう少しがんばって、またカナと対等に話せるようになれればいいな、とそのとき思った。


(終)

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