迷子の左大胸筋、拾いました

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

迷子の左大胸筋、拾いました

 その日は冷たい雨が降っていて、街灯と信号機を反射するアスファルトが、靴の横で夜景のようにきらめいていた。

 私はアルバイトを終えて、アパートまで帰る途中だった。

 そんないつもの道の、表通りから裏路地へと入るところの物陰。

 一匹の左大胸筋が、雨に濡れてプルプルとふるえていた。




「どうしよう……」


 アパートに帰りついて、私は腕に大胸筋をかかえたまま、途方に暮れた。


 つい、放っておけなくて、連れて帰ってきてしまった。

 アパートが筋肉禁止でなくてよかった。

 それとも悪かったんだろうか。うちでは飼えないからって言い訳が、できないから。


 ひとまずタオルで、濡れた筋繊維を拭いてあげる。

 警戒しているのか、触れるとびくりとする。

 けれど大丈夫だよと声をかけて、優しくなでてあげると、だんだん筋肉の収縮をゆるめて、身をゆだねてくれた。


 人慣れしている気がする。多分、野良の大胸筋ではないんだろう。

 それなら首輪でもついていて、名前でも書いてあればいいんだけれど、見たところ乳首にもどこにも、そういったものは見当たらなかった。


「筋肉が冷えてるから、お風呂に入ろうか」


 お風呂を沸かして、一緒に入る。

 まず間違いなく男の人の大胸筋だけど、大胸筋だし、一緒に入ってもいいだろうと思う。

 私のボディソープでいいのか迷ったけれど、他にないし、それで洗ってあげる。


 大胸筋は、とても大きくて、筋繊維の一本一本がしっかりと肥大していて、でこぼこに指をはわせられるほどしっかりしていた。

 とても立派な、よく育てられた大胸筋だと思う。

 大胸筋は育てたことないから、分からないけれど。

 上腕二頭筋や大臀筋だいでんきんも、ないけれど。


 上がって、水分をきれいに拭いて、帰る途中にコンビニで買ってきた、プロテインを準備する。

 作り方を、熟読。計量スプーンで測って、深皿に入れる。それを、水か牛乳で溶かして……え、どっちがいいだろう?


 私は大胸筋を振り返った。

 大胸筋はキッチンの横で、ちょこんと礼儀正しく筋収縮して、こちらに乳首を向けていた。


 ど、どうしよう。本筋ほんにんに聞いても答えられないよね。

 というかそもそも、ホエイプロテインを買ったけどこれでよかった? カゼインプロテインの方がよかったりする? まさかソイプロテインじゃないとは思うけれど。

 変なプロテインを飲ませて、筋肉のコンディションが崩れたらどうしよう。私のせいで筋繊維がやせちゃったら、申し訳なさすぎる。


 迷う私に、大胸筋はずっと乳首を向けている。

 期待しているみたいに。

 迷ってても仕方ない。栄養不足にさせるよりは、あげた方がいいに決まってる。


 私はプロテインを牛乳で溶いて、大胸筋の前に差し出した。

 大胸筋はにじり寄ってきて、深皿を確かめるようにつんつんと触れてから、乳首を水面につけた。


 よかった。大丈夫みたい。

 私は安心して、カップにもう一杯作ったプロテインを飲んでみた。

 初めて飲んだプロテインはココア味で、昔よく友達の家で作ってもらったココアのような、懐かしい味がした。


――あのころは、仲のいい友達も、いたんだけどな。


 つい、思い返してしまった。

 一緒にココアを飲んだりして、友達と笑い合っていたころ。

 いつからか、噛み合わなくなって、疎遠になってしまった今。

 大学に通って、一緒に講義を受けたりランチをする友人はいるけれど、どこかうわっつらな気がしている。

 筋肉のアクチン繊維とミオシン繊維のように、がっちりと噛み合ってひとつの筋繊維として連動するような、そんな確かな関係性は、人間関係ではありえないんだろうか。


 ふと、足に何かが触れる感触があった。

 目を向けると、大胸筋が、すりすりと私の足に身を寄せていた。

 筋繊維のでこぼこした感触が、足に伝わる。


「なぐさめてくれるの?」


 私はしゃがんで、大胸筋をなでた。

 大胸筋は喜ぶように、筋繊維を伸ばした。

 つい、私の口から、ふふっと笑い声が漏れた。

 私の心が、ストレッチをしたインナーマッスルのように、温まったような気がした。




 翌朝、私は大胸筋をかかえて、この子を拾った通りに来た。

 一晩一緒にいて、なついてくれたような感じがあるけれど、もともとの飼い主を見つけなくちゃいけない。

 これだけ作り込まれた筋肉なのだから、きっと大事にかわいがられていたはずだ。

 今ごろ飼い主は、大胸筋がいなくなって、胸にぽっかりと穴が空いたようになっているかもしれない。


 通りを、見渡す。

 日曜日で、空は昨日の雨がうそのように晴れていて、けれどアスファルトはまだ少し湿っていて、その上をさまざまな人が歩いていく。


 その中で、一人、目についた。

 なんらかの目的地に向けて歩いていく人波とは明らかに違う、きょろきょろと必死で何かを探すような男性。

 背が高くて、筋肉質で、タンクトップで、そして左胸が、べっこりとへこんでいた。


 その人は私に目を向けて、気づいて、声を上げて走り寄ってきた。


「ああ! 僕の大胸筋! よかった、ありがとうございます!」


 その人がこちらに来るより早く、私の腕から、大胸筋が飛び出した。

 アスファルトを跳ねて、男性に飛びついて、男性の左胸に、すっぽりと収まった。

 男性は感極まったように涙ぐんで、大胸筋をいとおしそうになでて、それから私の手を握ってぶんぶんと振ってきた。


「ありがとうございますありがとうございます! あなたが保護してくれたんですね、本当によかった!

 昨日大胸筋とはぐれてしまって、心配で心配で眠れない夜を過ごしていたんです!

 いやぁ、本当によかったなぁ……!」


 泣きながらニコニコと白い歯を見せて、それからはたと気づいたように、手を離した。


「ああっすみません! 初対面の人間なのに失礼なことを!」


「いえ、そんな。同じ大胸筋を育てた縁ですから」


 ペコペコと頭を下げる男性は、筋肉質で大柄なのになんだか小動物みたいで、微笑ましく見えてしまった。

 男性の胸で、左の大胸筋がピクピクと動いて、タンクトップの横から、しきりに乳首をのぞかせていた。

 それがなんだか、私のことを気にしているみたいで、私はつい手を伸ばして、大胸筋をなでてしまった。


「あっ」


 男性がびくりとしたのを見て、私ははたと気づいてあせった。


「あっごっ、ごめんなさいごめんなさい! あのっ、私、大胸筋をなでようとしただけで!

 だめですよねこんな、今はもうあなたの胸で、私初対面の男性の胸をなでる女になっちゃいますね!」


「いやいやそんなそんな! これはあれですよ、僕の胸ですけど僕の胸じゃないっていうか、一晩お世話してくれたんですからあなたの大胸筋でもあるわけで!

 むしろ九割あなたの大胸筋まであるんじゃないかっていうか、一晩いただけで香りが完全にあなたのものになってるっていうか、あ」


「え?」


 私がきょとんと顔を向けた先で、男性は口をつぐんで、顔を真っ赤にしていた。


 あ、そうか。

 私のボディソープで洗ったから、私と同じにおいになってるんだ。大胸筋が。

 つまりこの人は今、自分の左胸だけ、私と同じにおいをさせているわけで、え、ちょっと待って、なんか恥ずかしくなってきた。


「あのっ、すみません私っ、ご迷惑ですよねこんな、知らない女のにおいが筋肉からしてるとか!」


「いえいえ迷惑だなんてそんな! むしろ変なこと言ってごめんなさいですし彼女とかもいないんで誤解する相手がいるとかでもないですし!」


 お互いに謝り倒す。

 この人の顔も真っ赤だけど、私も相当な気がする。顔がめちゃくちゃ火照ほてってる。

 頭を下げ合う私たちの間で、左の大胸筋だけがはしゃぐように、ずっとピクピク動き続けていた。


 通りを行きかう人の視線が、ときどきこちらに向いているような気がする。

 落ち着かなく感じながら、何を言ったらいいか分からなくて、ちらりと男性の顔をうかがった。

 男性は顔を赤くしたまま、何を言うか考えているのか、ぎゅっと目を閉じて空に顔を向けている。

 その顔がだんだん降りてきて、ふーっと息を吐いて、覚悟を決めたみたいに口を開いた。


「あの……全然、変な意味じゃなくて。大胸筋のお世話をしてくれたお礼と、こいつがあなたになついてるみたいなんで、もうちょっと一緒にいさせてやりたいというか。

 ここからちょっと歩くんですけど、おいしいココアプロテインを出す隠れ家カフェがあるんです。

 お時間あったら、これからそこに行って、プロテインしませんか」


――筋肉のアクチン繊維と、ミオシン繊維のように。


「あっすみません、自己紹介もしてないのにこんな提案してしまって!」


――がっちりと噛み合って、ひとつの筋繊維として連動するような。


「僕は宗房そうぼうあくたっていいます!」


――そんな確かな関係性は。


「私の名前は、比等芽ひらめみお、です」




 この日は昨日の雨がうそのように晴れていて、太陽光を反射する左大胸筋が、タンクトップの下で夜景のようにきらめいていた。

 大胸筋はピクピクと、動き続けていた。

 喜ぶように。

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