陸丹の嬢子、小花のこと

 小花は筆を動かしていた。

 臨京の大通り、延天北路えんてんほくろからふたつ通りを隔てた道にある中の下といった格の宿屋に部屋を取って、ちいさな机に紙と硯を置いて正座し、一心不乱に書き物をしていた。

 書に向き合う姿勢は光凜帝の冥界の書聖仕込みである。

 名を李塔りとうといい、三百年ほどまえの時代に生きた官僚だった。光凜帝の差配で小花に読み書きを教えることとなった彼は、

「どのくらい書けますか?」

 と最初に問うた。

「生まれてこのかた、文字を書いたことはないんだ」

 と答える小花に猛禽の如き笑みを浮かべ

「それは大慶たいけい、おかしな癖が手に付いていなくてたいへんよろしい」

 と言い放ち、らんと目を輝かせて小花をしごきはじめた。

 以来、十五年……小花はそれなりに文章が読み書きできるようになった。名筆とは言いがたいが、几帳面な文字を書き、書に向かう姿勢はさまになっている。だいたいの書巻を読みこなせるようにもなった。

 虞御史は念願叶って光凜帝の冥界に居を移し、いまは帝の御史を務めている。

 冥界で彼の蔵書を読みあさるのは、小花の楽しみのひとつだ。

 燈国、英州宝徳県陸丹の里、圭芳雪、字を小花――そして、彼女の生業なりわいは物語売り。

 日頃から男の姿をし、もとより女の匂いに乏しい体つきをし、眠ることのない聯星がつねにそばにいることもあって衝立ついたて一枚で仕切られているような雑魚寝の部屋でも不便は感じないのだが、月のもののときは狭くてもきちんと壁で仕切られた部屋を取ることにしている。

 

 彼女の故郷、陸丹はもうない。

 十年前に波蝕はしょくの乱が起き、皇帝が長春を離れて臨京に都を移した。あのとき以来、枇岳びがくからは都の軍が退いてしまった。

 そしていまでも戻っていない。皇帝は長春に戻った。けれど、英州は放棄されたままだ。

 枇岳のあたりはもう、実質的に北狄の領土なのだ。

 そして五年前の秋、陸丹に北狄の騎馬兵がやってきた。毎年やってくる用……貢納とは別に「枇岳のむこう、北狄の平原に移住しないか」と言ってきた。

「命じるとおりに土地を開墾するなら、六年、貢納と労役を免除する」と。

 彼らもまた、農耕が富を蓄えるのに有用なことを知っているのだ。けれど自分たちはその技術を持たず、牧畜の生活をやめるつもりもなかった。

 それで農民を囲い込んで自分たちのために農業をさせようという。

 穏便に『提案』されただけましだった。枇岳の里のなかには手枷をされ首に縄を巻かれて引き立てられていった里人も多かったという。

 陸丹の里人は、遠い北の地に去ってしまった。

 兄夫婦も、洪々も、みんな。

 小花は北狄兵がやってきたとき、冥界で読み書きを学んでいた。還ってきて、事の次第を里社爺から聞いた。だれもいなくなった陸丹の里でひとしきり泣いたあと、小花は旅に出た。

 自分の物語を語るために。

 ことん、と音がして、聯星が部屋に入ってきたのだと知れる。彼は物音を立てないが、自分がそこにいる、ということを知らせるために小花の近くにいるときは、わざわざ物音を立てることが多かった。

 聯星は薬研公主から丹薬を貰っていた。だから陽の気が足らなくなって倒れたり、人の血を吸おうとすることはないが、小花が月のもののときは血の臭いで心が騒ぐらしく、公主に報告がてら、冥界に帰っていることがおおい。

 そもそも彼がなぜ小花の旅に付き合っているのか、謎である。

 公主に「そろそろ自分を見極めに行きなさいな」と言われたらしいのだが。

 むろん、小花にとってはこれほど心強い旅の道連れはない。

「光凜帝が公主と碁を打っていた」

 小花とはすこし離れた場所に剣を置き、端座して聯星が言う。

 小花は頷く。

――意地っ張りで見栄っ張りの我が兄を、動かす物語を語ってくれて、感謝しています。

 十五年前、ことの次第を報告するため、聯星に連れられて月震宮を訪れた小花に、薬研公主はそう言った。

――あなたに内緒で術をかけていたこともお詫びします。

 聴けば、小花の手を取ったとき、小花の手が自分の耳代わりになるような術を施したのだという。そして彼女を光凜帝の冥界に向かわせた。

 ていよく内偵に使われたわけだが、腹を立てる気持ちは小花にはなかった。

「天寿を全うした年寄りを除けば、陸丹の里の者はまだ冥界に下ってはいない。そう伝えて欲しいと冥耀君と光凜帝、双方から言付かっている」

 まだみんな生きているのだ。

 北狄の地で、土を耕しているのだ。

 なら、いい。みんな元気なら。

 小花は言葉もなく頷く。口を開けば涙が零れそうだった。

「あと、これを薬研公主から預かっている」

 ぱさぱさ、ことことと、床になにかが置かれた音がする。

 いつもの紙と筆と墨だろう。公主は旅芸人の小花にはなかなか手の届かないそういったものを、心付けとして贈ってくれる。

 小花のまえの机にはずいぶん長くなった『物語』が載っていた。

 旅の途中で聞き知った物語、読ませてもらった物語、かかわった怪異の話、聯星自身の物語、そして小花自身の物語――

「明日はどうする?」

 と、聯星が尋ねる。

 彼はどんなときでも声音に感情が乗らない。でももう彼とは十五年の付き合いだった。彼なりに小花の悲しい気持ちを気遣って、なにか世間話をしようとしている……そのくらいの察しはつく。

 小花は袖で目尻に滲む涙を拭い、軽く深呼吸して息を整えた。

「さあ、どうしようかね。この臨京は実入りもいいけど、ちょっと長居しすぎたから」

 どこにでもいける。

 小花はちいさく呟いた。

「あたしは、どこにだって行ける」

 この二本の足で行けるところならどこへでも。

 英州宝徳県陸丹の里、圭芳雪、字を小花、いつかあたしの物語が終わるまで。

 そしてそれを薬研公主に語って聴かせるその日まで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冥源譚 ー陸丹の嬢子、小花が冥界にくだり里人を扶けること― 宮田秩早 @takoyakiitigo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ