結語

月震宮で光凜帝が碁を打つこと

 ぱちり、と音がして、光凜帝はみずからの想念が盤を離れていたことに気がついた。

 妹の白く細い指が、象牙の石を三三の目に打っている。

 なにを考えていたのだったか。

 それすらよく思い出せないところ、ただぼんやりしてしまっていただけのようだ。

 気を取り直して、ひたりと盤を見詰め、光凜帝は自分の次の手がなくなっていることに気がついた。

「困ったものよ」

 帝は「参った」と言わねばならぬところを言葉を濁し、投了を告げるために黒瑪瑙の碁石をふたつ、無造作に盤に転がした。

 ふふ、と控えめな笑い声とともに、妹はなにも言わずに自分の碁石を碁笥ごけにしまってゆく。

 光凜帝も自分の石を同じように片付ける。

 十五年前、小花と名告る娘が冥界にやってきたあと、彼はときどき月震宮を訪れて、薬研公主と碁を打つことにしていた。

 光凜帝はこのさとい妹が好きだった。

 遙かな昔、光凜帝は西の最果てにある冥耀君の国を攻めよう、そう思った。

 どうすれば勝てるかと思い詰め、思い余ってこの妹にしか頼めぬと、冥耀君との婚儀のことを相談した。光凜帝にはほかにもたくさんの腹違いの妹や姉がいたのだが、彼女しか分かって呉れぬだろう、そんなふうに思い詰めていた。

 この美しく聡い妹にどのように詫びればよいのか、そもそも何故、自分は冥耀君の国を攻めたのか。

 答えはある。

 いや、あった。

 けれども光凜帝のうちにあったはずの答えは、喪われた。

 戦の始まったすぐあと密かに冥耀君の座所に使いを送り込み、この妹を奪還しようと試みて公主の拒絶にあって取り戻せぬと悟ったとき。

 一番の腹心にして朋友であった常厳将軍が満身創痍となって命の灯が消える間際、なお戦い抜こうと、おのが首をみずからの剣、森羅で切り落とし、その身を木偶でくとして甦らせて黒龍に化身した冥耀君に立ち向かったとき。

 そもそもいかにしても『死』には勝てぬと分かったとき……最初の志は変容し、もはや光凜帝自身にもよく分からなくなってしまっていた。

「そういえば、あの娘は――」

「小花と言うのですよ、兄上」

 薬研公主がふわりと微笑む。

 ――吾はこの妹の聡さに甘えている。

 それを恥ずべきことと思いつつも、素直に詫びることをも恥とする自分が、どこまでも卑小に感ぜられて、光凜帝は目を伏せた。

 だから、死してなお会いにゆけなかった。おなじ冥界なのだ。行こうと思えば月震宮に赴くことなど造作もない。会えばおのれの愚かしさを視てしまう。それが、怖かった。

「小花は三十を過ぎたばかりですよ。人の世界で楽しくやっておりましょうね」

 なにもかもを見透かされているような気がする。

 そして、この聡くて優しい妹は、われを決してゆるしてはくれぬ。光凜帝はそれも分かっていた。

 みずからを政略の道具となしたことを赦さぬのではない。あの戦の過ちを、ともに負うてゆく責務から目を逸らすことを赦してくれぬのだ。

「おお、義兄君あにぎみ、よくぞお越しくださいました」

 闇盈宮あんえいきゅうでの仕事の手が空いたのか、冥耀君が姿を見せた。

 光凜帝はこの美しく、なにごとにつけても折り目正しく、しかし豪胆な義弟が苦手だった。

 彼はあの戦のおりに黒龍に変化へんげして以来、左半身の肩から下が鱗に覆われている。

 また、常厳将軍と森羅の捨て身の一撃によってり飛ばされた左腕は、永遠にそこなわれてしまっていた。

 しかし、ここで碁を打つようになって幾度か彼にも会ってはいたが、そのことで冥耀君が光凜帝を非難したことは一度もない。

「どうです? 私とも一局」

 光凜帝に断る理由などなかった。

 月震宮の時は過ぎて行く。

 聯河れんがの流れのように、ゆるやかに、滔々と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る