月の女神は妖しく微笑む

月の女神は妖しく微笑む

 ふう 羽燕うえんが禁軍将軍へと上り詰めるに至ったのは、至極当然の事と言えるかもしれない。

 

 ふうと言えば皇帝の次に権威ある家だが、羽燕自身は三男坊という旨みのない立場だった。


 奇しくも、上二人は歳が離れている上に優秀で、家督争いは羽燕に物心がついた頃には既に熾烈を極めていた。

 そこに踏み込めばどうなるかなど、幼い子供でも想像に難くない。という事で、面倒ごとに巻き込まれまいと考えた羽燕は、意思表示をはっきりと示す為に武官の道を目指したのだった。

 

 勉学は最低限に抑え、ひたすらに肉体を鍛え、剣技を磨く。

 成人の儀が執り行われる十六にもなると、羽燕は筋骨隆々の逞しい男へと成り果てていた。身の丈も高く元からの身体つきの良さも相まって、何処からどう見ても武官の出立ちと変わらない程に。

 羽燕から見ればひょろひょろの兄二人にも、しっかりと自分は武官の将軍を目指すと宣言してあった為、成人の儀を終えても尚、羽燕の作戦通り兄二人は、武官一択の弟の事など歯牙にもかけてはいなかった。

 

 相変わらず睨み合い醜い兄弟争いを続ける兄二人の事など羽燕は見向きもせず、あっさりと家を出ると軍に籍を置き、家柄だけは有効に使い皇宮にて禁軍所属となった。


 羽燕の実力は上場で、あれよあれよと手柄を上げていき、気付けは将軍職にまで上り詰めていたのだった。



 その羽燕は今、一人の女を前に酒を呑んでいる。

 春爛漫の桜咲き乱れる中、満月が羽燕の自宅の一角にあるの露台バルコニーを照らしている。薄桃の花弁が風に乗って舞い散る中、女は朱色に塗りたくられた欄干に腰掛けて二胡にこを奏でていた。


 二胡の弓を持つその姿だけで妖しくも艶かしく見える。

 音を奏でる細い指の動き一つ、羽燕は見逃しはしなかった。


 羽燕は、既に酔いが回っている気分だったが、女を肴に酒を飲み続けた。

 そう、羽燕はこの女、こう香月かげつに惚れているのだ。


 まあ、香月に惚れているのは、羽燕うえん一人ではない。香月自体の家柄も尚の事、その美しさも相まって、今最も求婚されている女人にょにんであろう。

 その求婚者の中には、羽燕の兄二人も含まれていた。


 香月は今の所、全ての恋文も無視し、縁談も断り続けている……らしい。

 羽燕は香月が男を誘惑して誑かしては捨てている、なんて噂も耳にしていたが、噂は悪く言われるものだと気にみ留めていなかった。何よりも、目の前にあっさりと現れた香月を前に、欲望はより深まっている。

 この絶世の美麗こそ、確かに男を誘惑してやまないのだろう。


 二胡を奏でる傍らで、香月がちらりと羽燕に視線を向ける時がある。

 艶かしく熱の篭った瞳が羽燕をじっと見つめたかと思えば、つれなくも目を逸らされる。

 これで幾多もの男を落としてきたのかと、羽燕自身もコロリと落とされながらも考えていた。



 将軍という地位と、ふう家という家柄を使うという欲望の為だけに権力を行使する最低な手段で、何とか女を呼び立てる事には成功したのだが、香月は欄干に座ったまま二胡を弾き続けるだけ。


 そして、曲が終わる。

 羽燕の酒も底をつき、引き留めなければここで終わってしまう。

 月に帰る訳ではないが、ここで踏み込まねば香月は手に入らない気がして、羽燕は静かに立ち上がると既に二胡を手放していた香月へと近づいた。


 逞しい見た目とは裏腹に、その緊張たるや尋常ではなかっただろう弾け飛びそうな心臓を押さえつけ、何でもない無心を装うのに必死だったのだ。


 そうして、近いようで遠いその距離を少しづつ詰めていく。


 羽燕は度胸試しでもしている気分だった。ジリジリと間合いを詰めて、何処までならば許されるのかを香月で試しているのだ。

 ああ、焦ったい。これが敵ならば、簡単に懐に潜り込んで斬り捨てているのに。


 なんて、物騒な事を考えつつも、その目はしっかりと香月に釘付けだった。

 その熱量の篭った瞳、香油芳しい黒髪、妖しく息づく唇に。

 更には衣の下にある僅かに覗く肢体に。


 羽燕は、あと一寸で指が触れると言うところで手が止まった。もう後一寸でその黒髪に手が触れると言うところ。羽燕の瞳は情熱を目線で送る。

 

 許しが欲しい。

 触れて良いという許しが。


 手が宙に浮いたままでいると、香月がクスリと小さく笑った。その様が益々妖しい。

 その意味を考える間も無く、香月の手が動く。宙に浮いた羽燕の手に指先を乗せ、そのまま前腕までなぞる。


 止まったかと思えば、今度はしっかりと掌を羽燕の前腕の上で滑らせた。

 何度も、何度も。


 羽燕は思わず固唾を飲む。

 布越しとはいえ、その感触は生々しい。香月に唾を飲み込むその音すら聞こえただろうが、羽燕は理性を抑えるので精一杯だった。


 にも関わらず、香月は着々と手を進めていく。今度は更に上へと向かうと上腕二頭筋と背面にある上腕三頭筋を交互に弄り撫で回した。

 それはもう堪能しているとでも言った方が良いだろうか。


「風将軍、私のことは叱りませんの?」


 と意地悪く呟く。

 勝手に触れているのだけれど?と言って、香月の手は止まらない。

 その目は妖しいままだったが、羽燕はいつの間にか自分が獲物になった気分だった。狩られる側であるなど、いつぶりだろうか。


 羽燕の思考が明後日を向き始めても、香月の手は滑らかに羽燕の身体を這っていた。じっとり、じっくり味わって、三角筋を通って気付けば、大胸筋へと到達しようとしていた。


 ――いや待て。本気で喰われる


 羽燕が慌てて香月の手を掴んだ。


「あら、今更止めますの?」


 名残惜しそうに、唇から零れる吐息に色付きすら見える。

 うっとりと頬を染めながら、香月のまなこの先は羽燕の逞しい身体を舐め回していた。


「それで、風将軍。どうされますか?」


 香月の空いた手が、再び羽燕の上腕二頭筋を撫でていた。

 どう、とは。聞くまでもないだろう。


 さて、この女。女神か、妖か。

 さても、喰うか、喰われるか。



 続編『月の女神は甘く囁く』

https://kakuyomu.jp/works/16817330654390030854/episodes/16817330654390065359

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