桜の樹の神話 👻 

上月くるを

桜の樹の神話 👻





 書店の店先に築いた本の城郭の尖端に黄色い爆弾をのせる『檸檬』で衝撃を与え、31歳で早逝した梶井基次郎さんは、なぜあんな怖い桜の話を書いたのでしょう。



      ****



 ――桜の樹の下には屍体したいが埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。(中略)


 二三日前、俺は、ここのたにへ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。


 しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰くわした。それは溪の水が乾いたかわらへ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあったはねが、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。        (『桜の樹の下には』)



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 無頼派と称される坂口安吾さんは、代表作と言われる短編『桜の森の満開の下』になぜ人間の首の蒐集に執着する、妖しくも美しい女盗賊を登場させたのでしょうか。




      🌸




 一枚の葉もつけず、ゆっさゆさと妖艶な花房をゆらす満開の桜の魔力は、いまなおわたしたちを虜にして放さず、軽い目眩や頭痛、ときに幻視や幻聴も誘い出します。


 この美しい瞬間があるからこそ、列島の住人は長く寒い冬を堪えられるのだとも、一夜の風雨に呆気なく散っても、来年の薄紅色に希望を抱いて一年を送るのだとも。


 来年も見られるとは限らないのにねえ……そんなことを考えながら、残雪の山脈に映える朝桜、夕桜、夜桜、花の雲、花の雨、花明り、花月夜、花吹雪、花筏を……。




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