夜道にて、酔い覚めは寒く

冴吹稔

酒を食らって、夜歩く

 長年住み慣れたアパートを引き払って、郷里に帰ることにした。


 夢は破れて仕事もなし、おまけに少々体を壊してもいた。

 頼れる親があるうちに、戻ってやって少しばかり、親孝行のまねごとをするのも悪くはない――と。

 先の見通しなど立たぬままに、私は十日ほどかけて部屋を片付け、不用品を処分して身軽になろうと蠢いていたのだった。

 気が付くと窓の外はもう暗く、私は電気をつけて、いったん作業の手を止めた。


 下宿から目と鼻の先にあるコンビニで安い弁当を買って来て、わびしく食事を済ませた。まだ荷造りしていないパソコンを立ち上げてお気に入りの動画を巡回し、それにも飽きると、あらためて寒々しい眺めになった自分の部屋を見廻した。


(なぁんにも、なくなっちまったな……)


 寝具と洗面用具、最低限の着替えに掃除道具。パソコン機材の他はもうそれくらい。それらの間にまだ拾い切れていない細かなゴミが散らばっていた――劣化した輪ゴムとか、食パンの袋を閉じてあるあれバッグクロージャ―とか。

 それらを見ていると何かひどくやりきれない、みじめで寂しい気持ちになって、我知らず口からため息が漏れた。


(……うん。少しだけ、酒が欲しい)


 不摂生で壊した体には、本来ならば酒は禁物。だが今はただ、腹の底に響く熱と少しばかりの酩酊感がどうしようもなく恋しい。それを幸福感にすり替えることなど、無理だと分かってはいても。

 晩飯を買ったコンビニまでもう一度歩く。早春の夜の空気はしん、と冷えて、オーバーの下が薄着なのを後悔した。


 少し迷った後、私は栄養ドリンクの瓶ほどの、小さな缶に入った吟醸酒を選んだ。ペットボトル入りの安いワインならさほど変わらない値段だが、流石にそれを夜道で飲み捨てるほど豪快にはなれない。

 引っ越しを控えた身では、部屋にゴミを増やすわけにもいかないし、その辺の空き缶入れにそっと捨てられるサイズがベストなのだ。


 どこでこれを飲むか。考えながら四辻に立って辺りを見回すと、コンビニの北側にある二車線の道路を渡った先に、白いものが見えた――そこには公園があるはずだ。


「ああ……もう桜の季節だったか」


 ちょうどいい。都の名残に桜花、としゃれこもう――吟醸酒のボトル缶二つを入れたコンビニ袋をぶら下げて、私はその公園に向かった。


 夜桜というのはいいものだ。

 特に、薄っすらと曇った空の下、ぼんやりと月が出ていたりすると最高だ。暗い銀色に滲む空に溶け込むように、煙るように咲く白い花で飾られた高みの枝が、わずかな風に揺れ動くさま。


 ナトリウムランプの色を真似た、LED街灯に照らされた花もいい。明かりに映えた枝の間で、背後の空はより暗く穏やかに沈み込んで、小さな花びらのあるかあらぬかの薄桃色をより鮮やかに際立たせるのだ。


 桜は――私にとって、別れの季節を彩る花だった。東京に出てきたのもこんな桜の季節。最初の就職先だった関西の病院を辞めて、衝動的に、逃れるように出てきた。

 何人かの友人のつてを頼って仕事を探し、そのうちに本来目指した仕事に少しだけ近い職を得て、一息ついたその安堵のままに十年が過ぎ去り。


 そうして志よりは随分と無為に過ごすうち、友人たちもある者はいち早く郷里へ帰り、ある者は病を得て福祉のお世話になって、と顔を合わせる機会もなくなり。その友人はといえば、最近黄泉路へ旅立った。


「なぁんにも、手に入らなかったなぁ……」


 酒を一口胃の腑に収めたあとの、吐いた息がそのまま嘆きに重なる。


 ――そうだね。


 直ぐ近くで、そんな声が聞こえた気がした。どうやら、思ったよりも深く酔ったらしい。あるいはこの花霞に酔ったものか。


「何にも、見つからなかった……」


 ――そうだね。


 ああ、そうだ。何にも見つからなかった。追いかけていたつもりの夢もいつしか見失っていた気がする。力が足りなかった――そうとしか、言いようがない。


 ぶるっと体が震えた。酒で血管が開いたせいかひどく寒くなったように感じる。


 ――少し、歩いたら?


 ささやくその声は優しく、どこか懐かしかった。私が東京に旅立った時、頭の片隅にあった――機会があれば会いたい、と思っていた人の声を思わせた。


 これはいよいよ酒にやられたか、と自嘲した。ならばこの声――彼女の言う通り、少し散歩をして酒を抜き、体を温めた方がいいだろう。

 朧月と桜の下、コンクリート柱と錬鉄でできた、古めかしい柵に沿って歩き出す。

 二日ほど前の夜、収集日でもないのにゴミ捨て場に出した体重計が、まだそのままになっているのが見えた。

 予約した飛行機の切符の日付まであと五日。帰ったらあとは、なんの当てもなく実家で過ごして厄介者扱いされながら、死ぬまでくすぶるだけだろう。


「まあ、それもいいか……」


 ――いいなんて、思ってないでしょ。


 ぽつりと吐いた言葉に、まだいらえがあった――驚いたことに。


 もちろん、いい理由わけなどないのだ。私自身の人生が、青春が、夢が。何もかも無駄だった、空しく潰えたと認めることなど。できるものか。だが、このままでは死ぬしかなくなる。

 まだ命は惜しいのだ。だが、なぜ惜しいのかといえば――


 くそ。せっかくのいい酒を買ったのに酔い心地が台無しだ。私は歩調を速めて公園の柵沿いに北へ歩き、その端で西へ曲がってまた歩き続けた。


 ――まだ、諦めてないよね。


「ああ」


 やりたいことは見つかる、叶えられる――そう思っているし、その手掛かりもあった。だからこそ、帰郷が受け入れがたく残念で仕方がないのだが。


 ――うん。頑張ればきっとできるよ。生きてれば、見つかる。


 いつしか、声は私に相槌を打つのではなく、向こうから話かけてきていた。おかしな話だったが、嫌ではなかった。

 いつか――ずっと昔、愚かにも自分の夢とあの人とを天秤にかけて、妥協しそうになった時。こっぴどく私をしかりつけて去って行ったあの人が今、隣にいるような気がしていた。


「そうだな」


 オレンジ色のLEDランプが滲んで視界がぼやける。私は袖口で目元を擦り、さらに歩調を速めて歩き出した。不摂生で弱った心臓がバクバクと暴れ悲鳴を上げる。それでも、私は必死で歩き、先ほど北上した道とはちょうど反対側、公園の西側の道を曲がった。

 ここを渡れば、あとは部屋に戻るだけ――最後に公園の桜を振り返ると、急に突風が吹いて白い花びらがはらはらと宵闇に舞った。


 気付けば声はもう、何処からも聞こえなかった。

 


 その後、私が小説を書いて本を一冊出すまでに八年かかった。やはりまだ何も手に入れていないに等しいが、道は見つかったのだ。その小説の女主人公には、あの人の面影をいくらか重ねた。


 桜の季節になるといまも、夜の曇り空の下、酒を食らって歩きたくなる。またあの声に遭えるはずなど、どう考えてもないのだが。





 

 





 

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夜道にて、酔い覚めは寒く 冴吹稔 @seabuki

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