春の夜を拾う

ナナシマイ

p.?? 素敵なことが起こるに違いありません

 新芽は月光を遮らず、雪解けから間もない森の土が照らされるのを見つめている。

 ひたりと下草に乗せた素足から、またシャツの袖を捲った腕から染み込む冷気に、夜の魔術師はかすかに息を詰めた。

(……さすがに冷えるな。が、やはり直接触れたほうが多く拾えるか)

 季節が移れば世界の土台も変質する。それは些細なものだが、魔法や魔術を使う者にとっては見逃せない変化だ。特に人間は、人ならざる者と違って自身から要素を切り出せない。季節の変わり目に魔術の要素を拾い集める必要があった。

 今宵の散歩は、新しい季節に己を馴染ませるためのもの。

 これまでの魔術師であれば、それは街中でのみ行っていたことだった。しかし最近なにかと関わるようになった森の魔女の言動を思い出し、彼女に倣って自然の力を取り入れてみてはどうかと考えたのである。

 一歩進むごとに纏わりつく夜は確かに濃密で、煙草の煙とはまた違ったその甘さと鋭さに彼は息を呑む。残忍で享楽的な魔術師であっても、これほどに豊かな夜を紡いだことはなかった。

(試しに……)

 汲み上げたばかりの春の夜を、精緻な魔術でっていく。ふわりと香るのは綻びるように笑む花だろうか。どこか気に入らずさらに強く絞る。

 可憐な花の香が、人を魅せる色を帯びる。

 そうして紡がれた夜空色の糸は即席にもかかわらず耽美的であり、簡単に編まれてストールの形をなした。

 春風を含んでいるのか、魔術師の肩に掛けられたそれがパタパタとはためく。手で押さえても静まらず、もしや厄介なものを取り込んでしまったかと魔術師が眉をひそめたところで、彼はその要因が別にあることに気がついた。

「……またお前か」

 音もなく着地する足。風を従える支配者の瞳はこっくりとした葡萄酒色をしていて、月明かりを破くような鮮やかさで光っている。同色の長い髪が春風になびいた。

「こんばんは、魔術師さん」

「なんの用だ」

「あら、満月の夜は戦いだと言ったではありませんか。魔術師さんを見つけたのはたまたまですよ」

 魔術師の、磨いた黒檀のごとく艷やかな瞳をまっすぐ捉えていた魔女は、そこでふと視線を落とした。

「まあ。素敵なストールです」

「……今夜の要素から紡いだからな」

 自身の目的となりつつある魔女の褒め言葉がもたらす充足感はどこか危うく、魔術師は心奪われてしまわぬよう気を引き締める。

 が、それも無駄だと示すように、森の魔女は首を傾げた。

「もしかすると、要素拾いでしょうか」

「見ての通りだ」

「あの、ご一緒しても?」

「……は?」

 嫌な予感がした魔術師は内心の動揺を隠しながら片眉を持ち上げる。

「わたくしは魔女ですから、要素を取り込むところを見たことがないのです。とても気になりますし、そちらのストールのように、素敵なことが起こるに違いありません!」

 かくして、森の魔女と夜の魔術師は今宵、夜の森を散歩することが決定した。


「雪たちの噂話がなくなったので、一見、静かになったように思いますけれど」

 湿り気のある下草を踏み分けて、二人は歩いていく。

 魔女の穏やかな声が春の夜に染みていく。魔術師がしているからと自ら靴を脱いだ彼女は、スカートの裾を魔法で持ち上げながら辺りを見回した。

「このように声も響きますし、目覚めを迎えた者たちの囁き声がよく聞こえるのですよね」

「雪は喋りだすと止まらないからな。静かに音を吸っていればいいものを」

「あら。賑やかで可愛らしいではありませんか」

 実はその雪たちの噂がきっかけで寝込んだことがあるのだが、魔女はつとめて楽しそうにそう答えた。

 言葉を交わす合間にも、魔術師は春の夜を拾う。

 人や、そうでない者たちの思惑がはびこる街とは異なり、自然が織りなす純粋な夜だ。

「……ふふ」

 汲み上げたもののように喜びの声を溢した魔女へ、魔術師は視線だけを向けた。

「こうして拾った夜が、魔術師さんの、夜の魔術になるのですよね」

「そうだな」

「なんだか、わたくしも一緒に夜を作っているみたいで」

「……際どい言いかたはやめろ」

 渋面になりながら、魔術師はゆるりと考える。

(いつか、俺の命が尽きたあと)

 魔女は恐ろしく長命だ。近い未来に魔術師が老いていくのを見ることとなるだろう。そうして決まった別れのさらに向こうで、彼女は今夜のことを思い出すだろうか。

(……そのために紡いだ物語で、今だ)

 満ちた月が確かな決意を見下ろす夜。

 伸びていく影は、夜よりも深く夜を彩っていた。

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