第54話 マイクロフト・ホームズの回想(付録)
私の母、シャーロット・マクシミリアンは言った。
「人間は、“思ってたのと違う”ってびっくりするために生きてるの。
だから世界は、辛くて厳しくて、楽しくて美しいのよ」
僕が7歳の時、シャーロックが生まれて、母さんは生まれたての赤ん坊につきっきりになり、世界の中心は僕でなくなってしまった。
「シャロなんか嫌いだ」
僕は
僕は、図書室に引き籠るようになった。
そうやってると、心配した母さんが訪ねてきてくれるからだ。
「シャロがやっと寝てくれたの」と言って。
二人で絨毯に寝転がって、本を読んだ。
母さんは大変な記憶力の持ち主で、一度見た事は、写真のように正確に覚えていて、間違ったことがない。それらを元に展開するお話の数々に、僕はいつも圧倒された。
それは僕と母さんだけの素晴らしい時間。
「目を覚ましたシャロが、泣き止まない」と、ばあやがドアの外に立つまでは。
「お夕飯のときまたね」
僕をキュッと抱きしめて、母さんはシャロの泣いてるドアの向こうに消える。
「シャロのバカ、いなくなっちゃえ」
図書室のドアを、何度も、何度も蹴った。
図書室の本を半分以上読み終わった頃、学校に上がる準備に家庭教師をつけられた。父さん譲りで、数学が得意だった僕に、家庭教師は「教える事は何もありません」と言い、問題集を渡して帰っていった。それを解いているのを、母さんについて来たシャロが見て、僕もやりたいと言い出した。
「マイク兄ちゃんすごい!全部解けちゃう」
「当たり前だろ。俺の方が七つも上なんだぞ」
「僕もやるー」
仕方なく、一番簡単な問題集を出して教えると、一発で理解して全て解いてしまった。
「凄いのはお前だよ。俺だって、四歳でこれは解けなかったぞ」
「うふふん」シャロは、ほっぺにエクボを浮かべて得意そうに笑う。
それ以来、シャロは俺にベッタリになった。尊敬の目で見られて、朝から晩までどこに行くにも纏わりつかれたのには参ったが、母さんもついて来るから、まあ、悪くはなかった。
俺が寄宿学校に入った時は、「行ってらっしゃい」って、笑っていたのでちょっと拍子抜けしたが、夕方になると「マイク兄ちゃんがいない」家中探し回って泣いていたと聞いた。寄宿学校に行っても、夕飯には帰ってくると思っていたようだ。ちょっと可哀想だった。
おかげでまめに手紙を書かされた(正直めんどくさい)。
母さんと一緒に読んで返事をかいてくれるのだが、シャロは読めるくせに字は下手だ。シャロは好き嫌いが極端で、興味のない事は全くやろうとしないのだ。
「そんなじゃ、将来苦労するぞ」と手紙で注意したが、一向に直らないようだ。
長期休みで帰ると、「マイクにいちゃん、おかえり」と大喜びで走って来る。だんだん情が移って可愛くなる。慕われて悪い気はしない、うん。
シャロが九つになった時、母さんの実家から、ドミトリーという若いバイオリニストが紹介状を持ってやってきた。母の姪が習っていた先生だったが、結婚を機にやめてしまったのだ。ちゃんとした音楽学校を出ていて、教えるのは上手いと紹介状に書いてあった。
彼は母さんが昔使っていた、子供用のバイオリンを持ってきていた。
十六歳になっていた僕には小さすぎたが、シャロにはピッタリだった。
「面白そう」と言って、シャロはいたずら半分に弾き出した。初めは鋸引きだったが、弦の持ち方と、指の押さえ方をちょっと教えただけで、あっさりドレミファソラシドを引いて見せた。
「さすが、シャーロット・マクシミリアン嬢のご子息。素晴らしい。私、子供の頃に、あなた様の演奏を聴いて以来のファンなんです」
家庭教師のドミトリーは拍手喝采だった。
母さんが結婚前は「シャーロット・マクシミリアン」と言う有名なバイオリニストだったなんて初耳だった。
家には、バイオリンどころか、楽譜一枚置いてあるのを見たことがない。
結婚する時、全部実家に置いてきたのだと母さんは言った。
何か曰くがありそうだったが、母さんは教えてくれなかった。
シャロが、「バイオリンやりたい」と言ったので、彼は雇われることになった。
次の日からシャロのレッスンが始まった。初日だったので、僕と母さんも見ることにした。
バイオリン操作の基礎を二十分ほどやった後のち、ドミトリーは言った。
「基礎ばかり、やってても退屈ですね。そうだ、私の演奏を聴いてもらいましょう。一生懸命練習すれば、このくらい弾けるようになると言う見本です。
“ヴィバルディの四季”という曲です。それぞれ三つの楽章から成り立っていて、
チラリと母さんを見てそう言うと、彼は弾き出した。
この曲が、母さんのお気に入りだったのを僕は後で知った。
“春がやってきた。小鳥は喜び、さえずりながら祝っている。
小川がせせらぎ、風が優しく撫でる。
春を告げる雷が轟音を立て、黒い雲が空を覆う。
やがて嵐は去り、小鳥は高らかに天に向かって歌う“
先生の演奏はすごかった。鳥の声をバイオリンが高らかに、華やかに歌い上げる。
その素早い弓の動きは、正確に譜面を追っている。素人の僕にだってわかる上手さだ。シャロは、ポカンと口を開けて弓の動きに見入っていた。
春、夏、秋……なのに黙って聴いていた母さんは、だんだんとイライラし始めた。
そうして、冬のはじめで、突然立ち上がった。
「ああ、そうじゃない! バイオリンを貸して」
そう言って、先生のバイオリンを取り上げて、いきなり冬の第一楽章のアレグロ・ノン・モルトを弾き出した。
凄い! 弓の動きの速さは、先生を越えている。機械の様に正確な弦を抑える指捌き。添えられた
叩きつける雪の激しさと、凍てつく冬がそこにあった。
“寒さで震える雪の中、厳しく忌まわしい冬の風。
しっかりと踏みしめながら走る。厳しい寒さで歯がカチカチとなる“
そしてその次の第二楽章ラルゴ。
“暖炉の前で過ごす安らかな日々
外では大雪が降っている”
ゆっくりしたテンポの、暖かく安らかなメロディ。
……信じられなかった。穏やかな、子守歌みたいだった。
同じ人がこれほど違う音色を奏でられるものなんだ。
そして再び冬の情景、第三楽章アレグロ。
“氷の上をゆっくり慎重に歩く。つまずいて倒れないように
突然滑って倒れ込んだ。
すぐに立ち上がり、氷が割れないかと先を急いだ。
家の中を寒い北風が通り抜ける。扉はしっかりとしまっているのに。
これが冬だ。それでもなお、冬ならではの楽しみがある“
演奏が終わると同時に先生の拍手が鳴り響いた。
「素晴らしい、さすがシャーロット・マクシミリアン! 貴方は昔と変わらない。
いや、むしろ情感表現はもっとよくなっている。
なぜ、演奏をやめてしまわれたんですか。ああ貴方が、この曲をストラディバリウスで弾いたらどんなに……」
「母さんすごい。ねえ、もっと弾いて」
シャロも母の袖を引っ張ってはしゃいでいた。
母さんは我に帰ると、慌てて先生にバイオリンを返した。
「マイク、シャロ、母さんがバイオリンを弾いたのはお父様に言ってはダメよ。先生も他言無用でお願いします」
見たことのない怖い顔で、そう言うと逃げる様に部屋からでていった。
戸惑いながら、再び始まった先生のレッスン。
シャロは「僕も母さんみたいに弾ける様になる」と言って一生懸命だ。
ね
でも、さっきうまいと思って聞いた先生の出す音は、母さんの音を聞いた後では、間が抜けて聞こえた。僕は母さんを探して部屋を出た。
母さんは花の終わった大きな
「母さん、なんで泣いてるの? 何がそんなに悲しいの」
母さんは僕に泣きながら縋りついた。
「ああマイクロフト・ホームズ。貴方はその名前がある。でも、私はシャーロット・マクシミリアンには、なれなかった。これから先も決してなれないのよ」
肩に指が食い込むほどの強い力。僕の頬に押し付けられた母さんの頬を伝う涙。こんな悲しい母さんの姿は初めて見た。母さんの震えはしばらく止まらなかった。
「マイクロフト・ホームズ。貴方は大人になればこの家を継いで、社会で一人前の人間と認められ、何かを成し遂げれば、その名は歴史にとどめられる。
でも、女はダメなの。女は一人前とは決して認められない。もし、女が何かな成し遂げた時の名前は、“誰かの娘”、“誰かの夫人”、“誰かの母”。女は一生一人前の人間には扱われない。大人になったら、結婚して、子供を産んで育てて、一生男の背後について歩く。他には何もしてはいけない。させてもらえない。どんなに才能があっても!」
それは、一度も聞いたことのなかった、母さんの心が搾り出す悲鳴だった。
「母さん、結婚なんかしたくなかった。一生バイオリンを弾いてパガニーニみたいに演奏しながら、世界中を飛び回るのが夢だった。もっともっと上手くなりたい。だからバイオリンの名器ストラディバリウスが欲しかった。あれさえあればもっと素晴らしい演奏ができる。でも数が少ない上に、カントリーハウス一軒ほどの値段。とても私に手に入れられる楽器ではなかった。
だから、お母さんに言い寄る求婚者に全てにこう言ったの。「結婚祝いにストラディバリウスを私に買ってくださるなら、お受けします」ってね。そういえば、大抵の男は諦めてくれたし、もし買ってくれると言う男なら、どんな嫌な結婚でも我慢しようと思ってたから。
数学好きで、大学を卒業して、地方に引っ込んでも、ロンドンの数学学会に所属していた父さんが、たまたま誘われたサロンで演奏していた母さんに一目惚れした。だから結婚を申し込まれたときも、「ストラディヴァリウスをプレゼントしてくださるなら、お受けしますわ」といつものように答えたの。
そうしたら、お父さんったら「わかりました、待っていてください」って言って走っていって、一番近くの雑貨屋に入って、「ストラディバリウスをくれ」って言ったんですって。
ストラディバリウスがなんなのかも知らなかったのよ。
でも、それからもずっと探し続けていたの。それを見て、母さんを早く結婚させたかった両親が勝手に結婚話を進めてしまって、ストラディヴァリウスが手に入らないまま結婚させられてしまった。
それで母さんの夢はおしまい。夢の翼だったバイオリンを捨てるしかなかった。
後の私の残りの時間は冬。家という名の冬に閉じ込められ、ただ妻としての義務を果たすだけの人生……凍ったままで死んでゆく運命なんだって思った」
庭の
「昔、『人間は“思ってたのと違う”ってびっくりするために生きているんだ』って言った人がいたの。『だから世界は、辛くて厳しくて、楽しくて美しい』んですって。
母さんにも思いがけないことが起こった。ソネットの中にあったでしょう?『冬の中にも楽しみはある』あの言葉は本当だった。それに気づかせてくれたのは、マイク、貴方なの。
貴方って、本当にお父さんにそっくり。貴方を見てたらお父さんって人がだんだんわかって来た。無口で、自分の好きな事以外には、無関心のめんどくさがり屋さん。でも、情が深くて、子煩悩で、浮気なんか絶対しない人。“夫として理想的じゃないの”ってね。そうやってお母さんお父さんのこと、だんだん好きになっていった。
お母さんは今、“暖炉の冬”を生きている。マイクとシャロは、お母さんの暖炉。家族を守るのが、新しいお母さんの生きがい。
だからね、バイオリンはダメなの。また昔の夢を追いかけて、何もかも捨てて自由に飛ぼうとする自分が、バイオリンを弾く私の中にいた。怖かった。お前たちを捨ててしまうかもしれないのほどの力だった。だから、母さんは二度とバイオリンを弾きません、決して!
母さんいまは、ストラディバリウスを手に入れられなくて、本当に良かったと思ってる。あれは魔性の楽器なの、持つものを虜にしてしまう。あれがあったら母さんは絶対にバイオリンを捨てなかった。そうしたら、マイクにもシャロにも会えなかった。今のお母さんの幸せの全てがなかったの」
少し風が出てきた。さやさやと鳴る葉擦れの音。
木漏れ日の光が、母さんの顔の上で怪しく揺らめいた。
「でもね、今日母さん、新しい夢を見つけたの。シャロをバイオリニストにする事。
あの子は私に似てる。今からやれば、私なんか簡単に超えるようなバイオリニストになれる。男の子だから、母さんみたいに結婚してあきらめる必要もないわ。母さん、そのためならなんでもする」
その目が――いつもは優しいハシバミ色の目が半眼に開かれ、木漏れ日のように金色に揺らめ居ていた。あの時のバイオリンを弾いていた時の目だ。
神経が針のように尖り、狙ったものを手に入れようと決して諦めない目。
問題を解いている時のシャロの目と同じ。
また……シャロに、母さんを取られたと思った。
「僕は?僕は何になったら、母さんは嬉しい?」
「マイクは、お父さんの夢を叶えてあげて。貴方の数学の才能は、間違いなくお父さん譲りよ。素晴らしいわ。それを生かせる貴方の場所がきっとある。
人にはそれぞれ、神様が用意してくれたその人の場所があると、母さん思ってるの。辛くても、望んだ事でなくても、そこで諦めずに頑張っていれば、そこがその人の場所になる。マイクに相応しい、貴方だけの場所がきっとあるわ」
――それは慰めだよね、母さん。
僕の負けは初めから決まっていた。
シャロと母さんはそっくり同じ素材でできてる。
父さん似の僕なんかが争ったって勝てるわけないのだから。
しかし母の言葉は、後年現実となった。大学卒業後就職し、ロンドンのホワイトホールにある役所の会計検査員になった。年俸450£(ポンド)の下級官吏。私はどんな野心も持たず、名前も肩書も望んでいなかった。だがそこで、思いがけないことが起こった。
各省で決定した書類は全て私のところに回されてくる。それらの書類と数字の動きで、今イギリスで何が起こっているのか、私には全てが見通せたのだ。
母譲りの、、事実を正確に記憶する力が、私の頭脳の中で問題を整然と分類し、すぐ取りだし、即座に問題点と各々との関連を指摘する。そんな事ができるのは、イギリス中で私一人だった。私の一言で、国家の政策が決定したことが幾度も続いた。
ここが私の居場所。その後私は、愛する国家の安全を守る仕事命を打ち込むことになる。
シャロが十歳になった時、今のバイオリンは小さくて弾きづらくなったから、クリスマスプレゼントに新しいバイオリンが欲しいと言いだした。
それも、言うに事欠いて「ストラディバリウスが欲しい」と言って、みんなを仰天させたのだ。
父は珍しく怒って「私の前で、二度とストラディヴァリウスのことを言うな」とどなった。
母が先生に頼んで、すぐにサイズの合う大人用のバイオリンを調達してくれたが、シャロは「僕、一生ストラディヴァリウスは弾けないんだね」とため息をついた。
ストラディバリウスは、今度はシャロの挫折になってしまったのだ。
母さんはそんなシャロを悲しそうに見ていた。
シャロが十一歳。寄宿学校に入る直前で、僕が大学に入って初めての夏の休暇で帰った時。シャロが「凧の浮力と空気抵抗」の本を読んで、その実験のため二人で凧揚げをしていた時だった。
バイオリン教師のドミトリーに母さんが抱きついていた。満面の笑みを浮かべて。
あの
母さんに声をかけようとしたシャロの目と口を塞ぎ、僕が言った。
「口を開くな。お前は、なにも見なかった、いいな?」
よりにもよって
あそこは僕と母さんの秘密の場所なのに。
それもまだ小さいシャロの前で!
僕たちを守るのが生き甲斐だといってたのは嘘だったのか?
僕は母さんの裏切りが許せなかった、心が寒い。
ああこれが“冬“なんだ――。
僕の歯は、カチカチとなっていた。
“家の中を寒い北風が通り抜ける。扉はしっかり閉まっているのに”
やがて母さんが嫁入り道具を全て売り払い、借金までしていたのが発覚した。
夏の終わりに、父はシャロの目の前で母を銃で撃ち殺し、同じ銃で自分を撃って死んだ。バイオリン教師のドミトリーは逃げてしまった。
僕等は二人きり取り残された。
私は大学を休学し、相続の事後処理に当たらねばならなかった。シャロは寄宿学校に入った。それきりシャロは、バイオリンを弾くのをやめたのだ。
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(*注)マクベス夫人。シェイクスピア四大悲劇の一つ「マクベス」の妻。マクベスは森で会った三人の魔女の予言に惑わされ、王になるため妻と結託、現国王をナイフで刺し殺す。ナイフについた王の血で、夫人の両手は血まみれになる。良心の呵責から、夫人は手についた血の幻に怯え、洗っても落ちない血の染みに遂に発狂してしまう。
魔法の国のシャーロック・ホームズ・修正版 源公子 @kim-heki13
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